月柳

石崎

月柳



 時は江戸、場所もまた江戸。将軍様のおひざ元を夜闇に紛れ歩く男がいた。

 男の名を佐助という。大川屋という小さな古着屋の手代である。


 月が綺麗だ、と佐助はちらと夜空を仰ぎ見た。見事な満月が濃紺色の空に美しく、されどどこか寂しく浮かんでいた。

 佐助は灯りを持っておらず、代わりという訳ではないが、長い紅い紐を握りしめるようにして持っていた。

 今宵が満月なのは有り難かった、でなくば当に迷っていたことだろう。


 間もなく目的の日本橋が見えてきた。夜中の橋は静寂そのもので、しんとした空気を壊さぬよう佐助はそっと橋の欄干に腰を下ろした。


 彼は一人の娘を待っていた。娘の名をお風という。

 佐助は小店の手代にすぎぬ。一方でお風は武家の娘であった。そして彼らは――あろうことか、恋に落ちてしまったのである。

 無論この時世ではそれは許されぬ。だから今夜、二人は心中する。

 現世で報われぬなら、せめて来世を願って、二人で川に入りそのまま黄泉の国へと流れていく。


 佐助は夜風に吹かれ、ただお風を待っていた。

 と、そこへ一つ、生ぬるい風が吹いた。


「お風は来ないよ」


 佐助の真後ろでやけにくぐもった声がした。

 お風ではない。一度も聞いたことのない声だった。


 ヒヤリとしたものが背筋に走り、佐助は慌てて振り返り、そして固まった。

 長い黒髪を結わずに風の好きにさせている娘だった。彼女の死人のような白い着物は不吉さを感じさせ、その顔が一層それを引き立てていた。


 娘は般若の面を被っていた。


 佐助が唖然としていると、娘は嘲るように笑った――ように佐助には感じられた。

「お風は来ないよ、来られないんだ。さっき心中することが親に知れてしまってさ。今頃部屋に閉じ込められているよ」

「そんな事――」

「有るさ。実際有ったんだよ。だからこうしてあたしがお前さんに会いに来てやったのさ」

 般若の娘の言葉に、佐助は胸に杭を打たれたかのような気分になった。

 しかし、その一方で心のどこかで安堵を覚えたのも事実だった。


「さっ、悪いことは言わないよ。心中なんてやめておきなよ。第一、相手が来ないんじゃあ、心中なんてできっこない」

「お風は来る。来られないのなら――助けに行くまでだ」

 佐助は逃げるようにして般若の娘に背を向けた。

 佐助には分かっていた。この娘は人ならざる妖である、と。

 江戸の町には妖が多い、人を惑わし時に喰らう存在。それが妖だった。今ここで惑わされて娘の空気に飲まれれば――佐助の命はない。


「おいおい、お武家さんの所に何もなしで乗り込むのかい? そいつは無茶さぁ」


 佐助はギョッとして足を止めた。

 後方にいたはずの般若の娘が、気が付けば佐助の真正面から覗き込んでいた。

 般若の娘はそんな佐助の様子には気づかず、ただまくしたてた。


「お風はこれからきっと遠くへ嫁に行って幸せになる。お前さんだって商人の娘さんを貰えば幸せになれる。そいつはあんたたちの望む幸せじゃあないかもしれないけど、少なくとも互いに生きていられる。何も一時の思いのせいで、命を投げ出す必要はないじゃないか」

「……お前に何が分かる、一時の思いなんかじゃない。どうせ妖のお前には一生分からない――消えてくれ」

 その瞬間、どういう訳か佐助は般若の娘が一瞬泣いた、ように感じた。

 彼女は相変わらず面をつけていて、表情をうかがい知ることなどできないというのに。


「確かにあたしは妖だ、人間じゃない。でも、妖だから分かるのさ。お前さんたちは後で絶対に後悔するよ」

「するものか。これはお風とも話し合って決めた道だ。それに、そもそも俺たちにはもうこの道しか残っていない」

 般若の娘に佐助は乱暴にそう言った。だが、同時に心のどこかで納得のいかない感情を覚えていた。


 はたして本当に自分達にはこの道しかなかったのだろうか。

 本当に心中をせねばならないのか。

 本当に自分はここで死んでもいいのだろうか。

 一度しっかり自分の中で整理をしたはずの思いが、佐助の中で浮き上がってくる。

 

 本当にこれで良いのか?


「……ちいとお節介をかけてしまったね。あたしはもう行くよ」

 後はお前さんの好きにしな、般若の娘はそう言うと、全てを諦めたかのように佐助に背を向けて歩き始めた。

 ただ佐助だけが茫然とその場に残った。


「おい」

 整理がつかない感情の中、佐助は思わずその後ろ姿を呼び止めていた。

「お風は本当に来ないのか」

 般若の娘はゆっくりと振り返ると、ただ黙って頷いた。


「なら頼みがある。お風にどうかこれを渡してくれないか」

 それは紅い紐だった。元々川に飛び込む際に二人が決して離れぬために、二人の腕を繋ぐために用意したものであった。

 佐助はそれを力任せに二つにした。

「どうかお風に伝えてくれ。……あの世で待っている、と」

 般若の娘はそれで良いのか、とは聞かなかった。ただ彼女は黙って佐助を見つめていた。


 心中。きっとこの他にも道は有った。

 ひょっとしたら他のどの道も、この自分の進もうとしている道よりも幸せだったかもしれぬ。しかし、今さら心中をやめようとは佐助には思えなかった。


 般若の娘は黙ったまま、先のほつれた紅い紐を受け取った。佐助は彼女の見ている前で己の左手に紐を結ぶと、苦笑めいた気持ちで橋の欄干に立ち――飛び降りた。

 想像していた心中とは全く別の思いで佐助は水へ消えていった。

 般若の娘はしばし水面を眺めていたが、やがて渡された紅い紐を見、闇へと消えていった。





 後日、川から紅い紐を左手に結んだ男の水死体が見つかった。

 武家屋敷からは右手に紅い紐を結んだ娘の死体が見つかった。

 その顔は二人とも泣いているような、笑っているような、どこか悲しい顔だったという。


 そして、二人の死体を見つけたものは口をそろえてこう言った。

 般若の面をつけていた娘がいた、と。

 その奇妙な娘は死体を見ながら、彼らに問いかけたという。

「こいつらは本当にこれで良かったのかねぇ。お前さんはどう思う? こいつはこれで幸せだと思うかい? それとも人間ってのはこういう生き物なのかい?」

 彼らが驚いて黙っていると、その娘は一瞬ゆらいだかと思うと、消えてしまったのだそうな。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月柳 石崎 @1192296

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ