第20話
定時になり、鈴木さんはいつものように帰っていった。
家族一緒に夕飯を食べることになったため、わたしもなるべく早く帰らなくてはいけない。
机を片付けていたら、付箋を付けたファックスが一枚出てきた。
しまった。
保留にしたままだったのだ。
五反田さんはまだ帰ってきていない。スケジュールが書かれているホワイトボードを見ると、今日は直帰になっていた。つまり、今日はオフィスに寄らずに帰るということだ。
結局、午後も五反田さんから電話はこなかった。忘れてしまっているのかもしれない。
忙しい営業担当者にしつこく連絡してあげるのも、営業事務の仕事の一つになっている。
どうしよう。大きなため息をつくと、隣の若手営業担当者が、覗き込んできた。
「何? どうしたの?」
「保留にしておいたオーダーがあって」
見せてと言い、そのファックスを見る。
「担当者には、確認したんでしょ? これ、五反田さんの案件かな?」
「あ、そうです。確認したんですが、ただ最終回答を貰ってなくて」
「お客さんには、直接確認した?」
「あ、それはしていないです。五反田さん、わたしがお客さんに直接連絡取ることを嫌うので……」
「うーん、でもどっちにしろ、今日できることはもうないよね。五反田さんは、いま会食中だから電話に出れないだろうし。明日の朝でいいんじゃないかな」
「まあ、そうですよね」
何も解決したわけではないのに、心がなんだか軽くなる。
わたしはありがとうございますとお礼を言い、パソコンを片付けて会社を後にした。
電車を乗り継いで、実家の最寄駅に着く。
徒歩五分の好立地にある、広めの一軒家だ。三人家族にはすこし広過ぎるくらいの家。父はわたしが高校生の頃からずっと海外転勤のため、ここ最近では、年に二回程度しか会えていない。今回も、すぐに帰ってしまうのだろうか。
部屋は、きっとホコリだらけなのだろう。ちゃんと、掃除機はかけているのだろうか。トイレ掃除は、ちゃんとできているのか。換気扇は、定期的に掃除をしないと詰まってしまうのだが、ああ、換気扇は使っていないか。
そんなことを考えていると、あっという間に家についた。
玄関の前に立つ。
オカマバーのママの言葉を思い出す。
確かに、わたしの悩んでいることは小さいことなのかもしれない。気にしない。気にしない。
そういい聞かせて扉を開けると、男女の言い争いと、犬の遠吠えが聞こえてきた。
わんわんわんと吠えながら、くるくると玄関先で回った後、まめ柴はまたリビングへと戻っていった。
犬? いつから?
わたしは驚きながらリビングに顔を出すと、眉毛の吊り上った父の姿があった。
「ちょうどお父さんもいま帰ってきたところなのよ」と母が言った。
「いつから、犬なんて飼いだしたの?」
「だよなあ。俺が犬を苦手だと知ってて、こんなことをするんだぞ」
「そんなわけないでしょ。まさかお父さんが日本に帰ってくるなんて思っていなかったのよ」
「え? お父さん、日本に帰ってくるの?」
「ああ」と言い、父は憮然な顔で席に着いた。
「また、喧嘩してたの?」とわたしが言うと、母がすぐに「わたしのせいじゃないのよ」と言った。
このまめ柴は、タロウというらしい。もうすこし、他の名前はなかったのだろうかと思うが、タロウと呼びかけると、しっぽを振りながら抱き付いてきた。
可愛い。お前は、この家の救世主になってくれるのかな。
そう心の中で問いかけると、タロウはわたしの手をなめてくる。
「ちゃんと、手を洗ってから食事にしてくれよ」と父は、強めな声で言った。
久しぶりの、三人そろっての食事だ。
配達ピザに、出前のお寿司、そしてシャンパンとワイン。ピザはすこし冷めてしまっていたので、わたしは電子レンジでチンをした。いつもの癖でお酌をする。父は、自分でやるからいいよと、すこし照れていた。
「でも、お父さんが日本に住むのは、久しぶりだよね」とわたしは静かな食卓に声を響かす。
「四月からなんだって」
「その、嫌そうな感じを出すのはやめてくれないか」
「嫌そうな感じなんて、出してないでしょ。ただ、タロウをどうしようかと思って。ねえタロウ?」
檻の中にいるタロウは、わんわんと吠えた。
「まめ柴って、部屋の中で飼う犬だったっけ? ちゃんと、散歩にはいってるの?」
「まあ、そこらへんは、ちゃんとやってるわよ」と母は、面倒くさそうに答えた。
静かになる。父は耐えられなくなったのか、テレビをつけた。
これでも、一時期よりは、大分まともになったと思う。それぞれが自立をして、それぞれが生きている。ほどよい距離間が、わたしたちには合っているのだと思う。
――それでも、わたしは、悲しみをこらえることができなくなりそうだ。
「今日は、泊まっていくんでしょ?」と母は言った。
「いや、終電で戻るよ。明日、ちょっと心配な仕事があって、早めに行きたくて」
「なんだよ、泊まっていけばいいのに」
そう父にも言われたが、わたしは二十二時過ぎに、実家を後にした。
最寄駅まで歩いているあいだ、わたしは、涙がこぼれた。
明日は、わたしの二十三歳の誕生日だ。
確かに、明日だ。
後で、お祝いのメールがくるのかもしれない。それでも、会うのは今日だけ。
お祝いしたいから、泊まっていけと言ってほしかった。
わたしは髪を握りしめた。
笑いながら、ちょっと忘れないでよと、ふざけて話すことができたらよかったのに。
わたしは、来るときよりも重たくなった身体で、誰もいない静かなマンションを目指す。
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