第12話

 一人しか通れない幅の階段を上り、扉を開けるとかららんと高い鈴の音が響いた。

 先ほどと同じくらいの薄暗さだが、精錬された空気と、ジャズの音楽が心地よく流れる。

 店内はさらに狭い。カウンター席のみであり、十席にも満たない。

「つれがいるなんて、珍しいね」とマスターは鈴木さんに声を掛けた。鈴木さんはその声にこたえず、席に座った。わたしはその左側に、ちょこんと座る。

「鈴木さん、どうかしたの?」とマスターは心配そうに言った。鈴木さんは、あの悲しい瞳をしていた。

「ヒロコがいたと思ったんだけどね、慌てて追いかけたんだけど、見失っちゃって」と言った。

 マスターはタオルを用意し、そして一口サイズのチーズを出した。

「まだ、忘れられないのかい」とマスターは言った。

 鈴木さんは煙草を取り出し、銀色のライターで火を付けた。

「そう簡単に、言われてもね」と鈴木さんは、溜息混じりに煙を吐いた。

「この子は、いったい誰なんだい?」

 マスターと目が合う。

「あ、鈴木さんの同僚で、鈴木さんにいろいろ教えてもらってます」

「ああ、会社の人なんだね」とマスターは優しく答えた。

 そして、メニューを渡してくれた。さっぱりわからない。

「じゃあ、これください」と、ひとさし指で可愛らしい名前のお酒に触れる。

「そんなに、強いお酒を飲むの?」

「あ、これ、強いんですね……」

「何か、こういうのが飲みたいって要望があれば、言ってみてくれる?」

 それを元にカクテルを作ってくれるようだった。

「わからないことをわからないって言うのが、相変わらず苦手だね」と鈴木さんは言った。

 鈴木さんは、いつもの鈴木さんに戻っていた。わたしは恥ずかしくて顔が赤くなる。

「鈴木さんは、嫌だと思うことをはっきり言い過ぎですよ。会社でなんて言われているのか、わかっているんですか」

 会社の外にいるせいか、強く言うことができて、自分自身でも驚いた。

 マスターは嬉しそうだ。

「なんだ、鈴木さんにも会社に信頼できる人がいるんだね」

「そんなんじゃ、ないですよ」と鈴木さんは言った。

 お酒が到着し、乾杯をした。わたしは、どきどきしていた。

 無理に言葉を紡ぐことをしない、ゆったりとした空間だった。

 ヒロコさんとは、鈴木さんの彼女のことだろうか。同棲していたのではないのか。別れてしまったのか。では、待っていたのは、ヒロコさんのこと? 聞きたいことは山ほどあるが、静かな雰囲気の中、その質問を投げかけることはなかなかできない。マスターも、そのことについて深く聞こうとせず、たわいもないことばかり話をしていた。

 鈴木さんはライターで煙草に火を付ける。その姿をわたしがじっと見ていると、マスターが「ひょっとして、灰皿が必要だった?」と聞いてきた。

「いや、大丈夫です」と答えると、鈴木さんが「こないだのあれは、なんだったの?」と言った。

 鈴木さんのことをもっと知りたかったから、とは言うことができない。ただ、これはライターのことを聞くチャンスだ。

「それは、こっちの台詞ですよ。マスター聞いてくださいよ、鈴木さんはわたしにライターを貸してくれなかったんですよ。ケチですよね」

 マスターは、すこし心配そうな表情をして、まだ信じているのかいと言った。

 信じる?

「なんのことですか?」と聞くと、マスターは鈴木さんを見た。

「話しても、いいかい?」

 鈴木さんは、何も言わなかった。

「あのライターはね、幸せを運んでくるライターなんだって」と、マスターは言った。

 意味を理解できないわたしに、マスターは話を続けた。

「あのライターを持っていると、ずっと探していた待ち人に会えるんだ。そして、その待ち人に火を灯してあげれば、その人を幸せにしてあげることができる」

 鈴木さんはその話を聞きながら、ロックグラスを揺らした。

 だから、駅前でヒロコさんを待っているのか? それを信じて? わたしは、身体の熱が遠ざかっていくのを感じた。そんなことを信じるなんて、精神状態が正常とは、到底思えなかった。

「どこで、手に入れたんですか?」とわたしは鈴木さんに聞いた。

 鈴木さんは答えなかったが、マスターが「駅前で、立っていたら譲り受けたって言ってたね」と言った。

「僕はすごい感謝をしている。あのライターをくれた人にね」と鈴木さんは言った。

「信じて、いるんですか」と、わたしは恐る恐る聞いた。

「ああ」と鈴木さんは、短く答えた。そして、言葉を重ねた。

「ただ、このライターの効果は一年間なんだ。有効期限があるなんて、逆にリアリティがあるよね」


 わたしは一足先に、お店を出ることにした。わたしがいるせいで、二人が自由に話をできていないことが、とても感じられたから。

 一人で駅に向かっているあいだ、わたしは、鈴木さんへの興味が薄れてきていることを自覚していた。ヒロコさんが、どんな人なのかはわからない。二人の間柄も何も知らない。

 それでも、振られた相手をずっと探し回るのは、恐怖すら感じた。怪しいライターの迷信を信じ、一人ぽつんと立ち続けているのか。それは、まともな大人のすることなのだろうか。

 ――今日の自分の行動と重なり、心がきゅっとする。

 駆け足になりながら、わたしは歩くスピードを早める。

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