第8話

 オフィスに戻ると鈴木さんの姿はなかった。わたしはその日も変わらず、営業担当者の依頼をせっせとこなした。

 就業時間中は、わたしに降ってくる仕事を、うまく鈴木さんがフォローしてくれるため、自立した仕事振りとは言えない状態だった。定時後は、鈴木さんはいない。わたしにとっては、定時を過ぎた後からが本当の仕事という感覚があった。

 遅くまで仕事をしていると、隣の課の若手営業担当が笑顔で近寄ってきた。

 たまに奢るからランチを食べようと、誘ってくる人だ。わたしは断るのが苦手なので、仕方なく付き合うことになってしまう。

「今日も頑張っているね」

「はあ」

「鈴木さんは、ひどい奴だよね!」

「え?」

「だって、こんな可愛い後輩が頑張っているのに、さっさと定時で帰っちゃうんだぜ? 俺だったら、絶対に、最後まで残って面倒をみるね。それが愛情っていうもんでしょう。いい先輩っていうのはね、やっぱり後輩の気持ちをわかってあげられる人だよね。弱い立場になって物事を考える。これは、鉄則だよね」

「何か、ご用ですか?」

「あ、そうか。仕事中申し訳なかったね。で、突然なんだけど、来週の金曜日って空いてる?」

「来週、ですか……」

 わたしはこういうとき、すぐに断ることができなかった。

 困った表情を作り、察してもらおうとするが、彼には伝わりそうにもない。

「そう! 来週! 実は、合コンを企画していてさ。一人、これなくなっちゃって。だから、代わりに来てほしいんだよね。大丈夫。安心して。結構イケメンくるし、三対三で、ほら、俺もいるからさ。男は、俺の大学時代の友人なんだ。女性陣はね、うん、他の二人もいい子なんだ。ほら、オフィスの二階で新しくオープンしたバルがあったでしょ? あのオープンイベントで知り合って、今度改めて飲みましょうってなったんだよ。あ、お金が問題かい? 大丈夫。任せてよ。お金の心配なんて、全くいらないよ!」

 この人は何を言っているのか。

「いやちょっと、わたしがいくと邪魔なんじゃないですかね……」

「遠慮なんていらないって! 同じ会社の仲間じゃないか!」

 彼は結局、いいたいことだけ言って、自分の仕事場へと戻っていった。

 わたしはパソコンの画面を見るが、手を動かす気持ちがわいてこなかった。肘をつき、ひとさし指で髪をくるりと巻いた。目頭が熱くなる。仕事を再開しようとタイピングをすると、自然と強くなった。

 しばらくしてパソコンを閉じ、わたしはいつもより早めに退社した。オフィスを出ると、蒸し暑さが襲ってきた。

 わたしは大きく溜息をついた。

 どうして断れないんだろう。

 ――すこしだけでいい。鈴木さんのような心が欲しい。

 他人の目ばかり気にせずに、神経質にならずに、自分の素を出すことができる心を――。

 わたしは、思わず自嘲気味に笑った。

 鈴木さんと仲良くなることにも、わたしは神経を使っているじゃないか。

 こんな気分が悪いとき、みんなはどうやってストレスを発散させているのだろう。すぐに地下鉄には乗らず、何か美味しいものでも食べて帰ろうと思っていたのに、どうしても食欲がわいてこない。

 わたしは足をとめ、空に浮かぶ月を眺めた後、小さく息を吐いた。

 仕方なく地下鉄へ続く階段を下りる。地下鉄のホームに立つと、いつもよりも薄暗く感じる。

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