第6話

 着任してから二ヶ月くらい経つと、鈴木さんよりも圧倒的に頼みやすいからであろう、わたしへ仕事は集中するようになり、業務が溢れかえりてんてこ舞いになっているわたしを、陰で鈴木さんがフォローするという形ができあがってきた。

「本当に助かる」、「働き始めてから二ヶ月だとは思えない」、「鈴木さんの百倍使える」など、そういうことを言われるたびに、実際には鈴木さんが陰で支えてくれていることを伝えるようにはしていたが、営業担当者には伝わっていないようにも思えた。

 夕方ぐらいまで、営業担当者は外回りに出ており、課長も不在であることが多かったため、オフィスに二人きりの日が殆どだった。鈴木さんはお昼ご飯に誘ってくれないから、わたしは自然とお弁当を作ってくるようになった。仕事上の話は毎日するし、しかも丁寧にフォローをしてくれるのだが、プライベートな話は一切ないと言ってよかった。

 あの日、なぜあそこに立ち続けていたのか、どうしてあんなに悲しそうな目をしていたのか、それを聞くチャンスはやってこなかった。冷静に考えてみると、五時間も同じ場所で立っているとは、どうしても考えられない。一昔前ならわからないでもないが、いまは携帯電話がある時代だ。

 やはり、歓迎会前に見たのは、見間違いか。

 もしくは、帰り際に見た姿は、遅れてくる人を迎えにきていたのかもしれない。

 ――、しかし、そうなると、あの悲しげな表情はなんだったのだろう。

 謎は一向に解けるきざしはなかったが、とはいえ、日常業務を通じてすこしは鈴木さんのことがわかるようになってきた。

 まず鈴木さんは、煙草とコーヒーが好きだ。お昼休みには、必ずマグカップにコーヒーをいれて、新聞を読んでいた。煙草は、一時間に一回くらいのペースで、このオフィスビルの最上階にある喫煙所で吸っている。

 わたしはお弁当を食べ終え、鈴木さんが喫煙所に行くのを見計らい、化粧室に向かった。そして、その鏡に映る自分の姿を見た。

 緊張しているのが、はっきりとわかった。映し出された自分自身と目が合う。

 わたしは、その足で最上階の喫煙所に向かった。


 幸い、喫煙所には鈴木さんしかいなかった。わたしは会釈をすると、鈴木さんは会釈を返してくれ、そして「煙草、吸うなんて知らなかったよ」と言った。

 身体が高揚した。成功だ。

 鈴木さんから話しかけてきたのは久し振りだった。わたしは小さく笑みを浮かべた。

 このあいだ会った大学時代の同級生に、どうしたら鈴木さんとお近づきになれるのかを、ふと相談したのだ。すると彼は、その鈴木さんとやらは煙草は吸うのか、と聞いてきた。

 最初はなぜそんなことを聞いてくるのかわからなかったのだが、彼の質問の意図はこうだった。

 つまり、煙草を吸う人はいま、人種差別のような迫害を受けており、まるでゴキブリをみるような目で見られ忌み嫌われていると。そんな逆境の中、煙草を吸う人を見つけると、間違いなく仲間意識が芽生え、それだけで仲良くなれると、そんな内容だった。

 続けて鈴木さんは、「喫煙所で会ったことはなかったよね」と言った。

「最近、また吸いたいなと思って」とわたしは答えた。

「大学生の頃は吸っていたの?」

「いや、吸っていないです」

「どういうこと?」

「高校生の頃、吸っていたんですよ」と、わたしが答えると、鈴木さんはふーんと言い、白い息をゆっくりと吐き出した後、「そんな風には見えないけどね」と言った。

「家では、必要以上に、いい子だったんで」とわたしは答えた。

 鈴木さんは、すこし視線を落としながらも、微笑んだ。「なるほどね」と、二回頷く。

 なんだか、初めてちゃんと会話ができているような気がした。

「ということで、ちょっと今日は持っていないんですが、一本だけもらえませんか?」

 これはいけるかもしれない。次はおねだり作戦、これも、同級生の提案の一つだった。

 しかし、鈴木さんは顔をあげて、困った表情を浮かべながら、

「ということは、ライターを持っていないよね?」と言った。

 何を言っているのかすぐには理解できずにいると、鈴木さんは「煙草はあげてもいいんだけどね、」と言い、もう時間だと、喫煙所から出ていった。

 まだ午後の業務開始まで、十五分も残されていた。

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