第5話
結局、隣の課の人たちがわたしを誘ってくれて、オフィスから近い洋食屋で昼食を食べることになった。わたしはいち早くお店に入り、席を確保し、メニューを渡し、おしぼりを配り、そしてみんなのメニューが決まるとまっすぐに手を挙げた。
「鈴木さんが指導担当なんて、気の毒ねえ!」と、事務員の女性が、嬉しそうにそう言った。そして、わたしをおいてけぼりにして、鈴木さんの噂話が次々と展開された。
「営業事務になったのは、今年の四月からなのよ。前代未聞の人事よね」
「そりゃあ、あんな感じじゃ営業担当は務まらないよな」
「でも、真面目だからお客様には結構評判がよかったらしいわよ」
「いやー、俺がお客だったら嫌ですけどね」
「四十代で独身、出世どころか邪魔者扱い、これからどうするおつもりかしら」
「なんか、長年同棲している相手がいるんじゃなかったっけ」
「あーそれ、聞いたことあります」
「結婚できない理由がきっとあるのよ!」
「そういえば、昨日は課で歓迎会をしたんでしょ? どうだったの?」
突然わたしに話が振られ、驚いて「あ、はい!」と返事をした。視線が集まる。
先ほど処理した領収書が頭をよぎるだけでうまく答えられずにいると、「昨日も欠席だったらしいよ」と誰かが代わりに答えた。
それ以降、わたしの発言するチャンスは一度も訪れなかった。
わたしは年の近い先輩社員からおごってもらうことになり、すみませんと反省するように何度も頭を下げた。
オフィスに戻ると、鈴木さんはコーヒーをすすりながら新聞を読んでいた。暖かい湯気が立ち上る。わたしはその、ゆらゆらと動き消えていく湯気を眺めていた。
十三時になった。鈴木さんの指導が再び始まり、わたしの身体は強張る。
「午後は、電話がそんなに鳴らないから、取らなくていいよ」
「え?」
「僕が取るからさ」
そういうと、ぷるるるるるるると鳴った電話を、鈴木さんはワンコールで取った。
涙が出そうだった。
いくらなんでも、見捨てられるのが早過ぎではないか。
電話を切ると、鈴木さんはやってきて、そのメモ帳を見せてきた。
「この食品会社はね、スピーディーな対応を求められるから、結構優先順位が高いよ。でも、高度な対応を求められるだけあって、期限をきっちり守ってくれるから、やりやすい相手だね」
また、ぷるるるるるるると鳴る。鈴木さんがわたしの机の受話器を取り、電話が終わるとメモをまた見せてくる。
「ここはね、子会社がたくさんあって、どこの支社から電話がきたのかをメモしておかないと、営業が困っちゃうから注意して。去年から取引きを始めたところなんだけど、いまいちだから来年は契約打ち切りかも」
そういえば、と鈴木さんは言葉を続け、自分の机の下をごそごそと漁り、取引先のパンフレットをたくさん取り出した。
「まずはこれを見た方が、相手の様子がイメージできるから、名前を覚えやすいかもね」
いったい、鈴木さんの中で何が変化したのか。
わたしはその疑問を口にすることはできず、午前中と同じように「はい!」と答えた。
午後は自分のペースで仕事ができるようになり、言うほど悪い人ではないのかもしれないと思い始めた頃、ちょうど終業時間となった。
「じゃあ、今日はここまでね」
と鈴木さんは言うと、パソコンを閉じた。
鈴木さんは、もう帰ってしまうのか。わたしは忙しそうにしている営業担当者たちを眺めた。
「やっぱり、何か手伝えることはないか、聞いたほうがいいですよね?」
わたしはそう言いながらも、頭には、今日も誰かと待ち合わせなのか、とその疑問が浮かびあがっていた。そうしていると、
「おい! ちょっと手伝ってくれないか」という声が聞こえた。この課で最もベテランである、五反田さんだ。
振り向くと、わたしを手招きしていることがわかり、「はい!」と大きく声を出した。
「いい子でいるとさ、」と鈴木さんはぼそりと言った。
わたしは鈴木さんと目が合う。
「え?」
「いい子でいると、疲れちゃうよ?」
そう言うと、鈴木さんは今日初めて微笑んだ。
瞬きをしていると、「おい!」という声がまた響き、わたしは慌てて五反田さんの方へと駆け寄った。
――結局、帰宅は二十二時になった。一人暮らしのために新調したベッドに倒れ込み、大きく息を吐いた。鈴木さんがいなくなってからの業務は、気分のいいものではなかった。
カリカリしている営業担当者に言われたことを、スピーディーに処理する。描いていた、仕事のイメージそのものだった。振り返ってみると、午前中の鈴木さんだって、十分優しかったようにも思えてくる。
天井を見上げ、わたしはめいっぱい身体を伸ばした。
いい子でいると、疲れちゃうか――。
明日は、わからないことがあったら、ちゃんとわからないと言おう。
わたしは鈴木さんのあの時の笑顔を、もう一度ゆっくりと噛みしめた。
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