後編

「内蔵助、どうした、難しい顔をして」光秀は何気なく振り返り、後ろにいる内蔵助を見て尋ねた。

 丹波亀山城を出陣した軍団は順調に歩みを進めていた。空は薄く曇ってはいるが、雨が降るほどでもない。光秀は出陣するなら、なるべく雨天を避ける。武器に水がかかれば遅かれ早かれ錆が出て切れ味が鈍るからだ。光秀にとって今回の出陣はそれなりの天気で気に病むこともそれほどはない。それ故に他人の顔色に敏感でもあった。

「お館様」内蔵助は馬を進め、光秀に並んだ。

「何だ?」

「此度の毛利攻め、我らが出張るほどのことなのでしょうか」

「またその話か」光秀は訝しげに眉をひそめる。

「気になるのです。羽柴様の動きがどうにも…」

「羽柴殿が?何故に」

「これは浅知恵と言われても仕方ない話になりますが…」内蔵助は困惑した顔を向けた。

「構わぬ」そこまで言われるとさすがの光秀も気になった。光秀の活躍もこの斎藤内蔵助をはじめ、三宅弥平次、藤田伝五、伊勢貞興などがいてこそだった。それだけに光秀も内蔵助の言葉に耳を傾ける。

「前にも申し上げた通りですが、羽柴様が城を一つ攻め落とすのに援軍を頼むほどのお方ではないと思うのです」

「うむ、しかし毛利側にも援軍がかなり入ったとの話ではないか。城攻めでは動けぬ故に、援軍となればさすがの羽柴殿も…」

「しかし…お館様、間もなく老の坂に到着いたします。私と弥平次殿から申し上げたき事がございます」

「よかろう。老の坂でしばし休憩をとる」光秀は忠臣の言葉に耳を傾けることにした。


 老の坂、光秀は内蔵助と弥平次の顔を交互に見て口を開いた。

「内蔵助、弥平次、儂に話とはなんだ?」

「はっ、まずはこの書状を」弥平次は一通の書状を光秀に渡した。

 光秀はざっと書状を開き、黙って目を通すが、その表情は次第に険しくなっていった。

「これをどこで?」

「我が妹の婿、長宗我部元親殿の間者が手に入れたものにございます」内蔵助は静かに言った。

「元親殿だと!」光秀は内蔵助を睨み付けた。

 この時点で信長は四国平定を目指し、長宗我部元親を討つべく三男・信孝と丹羽長秀が軍勢を整えている最中だった。

 しかし、元親と信長の間を取り次いでいたのは光秀自身で、元親は既に恭順の意を表していた。それにも関わらず、秀吉の甥孫を養子にした三好康長の阿波侵攻に伴って、信長と元親の約束は破られることになった。康長は秀吉に領地の安全を求めていたのが原因であり、信長からすれば四国で勢力を拡大する元親を討つ口実ができたのだ。それだけに光秀にとって元親は親しい存在でありながらも、信長の天下統一の為に敵となってしまったのだ。

 正直なところ、光秀にとっては信長が秀吉の意見をくみ取ったことを苦々しく思っていた。

「秀吉殿はどうしても儂が邪魔らしいな」光秀は落胆の色を隠せない。秀吉の奸計がどこまで及んでいるかは分からなかったが、光秀にとってそれは心変わりをさせるには十分過ぎるほど理由だった。

「内蔵助、どうすればいい?」

「前には手癖の悪い猿、後ろには魔王、打つ手は多くありませぬ」

「弥平次はどうだ?」

「内蔵助殿と同じく」弥平次はまっすぐに光秀を見た。

「左様か」光秀は腕組みをして目を閉じた。

「お館様、羽柴様は既にこちらへ向かっているに相違ありませぬ。そうなれば陣を敷いている側に勝算があるのは当然のこと。さらに後ろから挟まれてはどうにもしようがありませぬ。ご決断を」

「…伝五と貞興をここへ」

「はっ!」


「真にございますか!」伝五と貞興は驚きを隠せない。

「読むがいい。羽柴様から信孝様に送られる筈だった密書だ」内蔵助は書状を伝五に渡した。

「この限りでは、羽柴様は我らを陥れ、上様と共に挟み撃ちにするつもりのようだ」弥平次の言葉は重々しく響き渡る。

「し、しかし」伝五は動揺して声を詰まらせた。

「我らが元親殿への征伐に不満を持ち、いずれ謀反を起こすとある。此度の援軍も布石に過ぎぬ。京と近江から我が軍がいなくなったことを見計らって、信忠様が動く算段のようだ。それまで上様はお館様に怪しまれぬよう、余裕を持って動いてもらうとな。もし羽柴様の奸計に嵌れば、背後には上様、前には羽柴様、動く隙もなければとどまれる場所もなくなる。それを打開するには我らが先に動くしかない」

「毛利方は?」と貞興。

「既に水に沈んだ城、和解する形で進めておるだろう。それを見越しての計略、さすがと言うべきか…されど所詮は猿知恵であろう」内蔵助は苦々しく言い放った。

「お館様、ご決断を」弥平次が促した。

「…儂は上様を信じていた。気性の激しさ故に不条理な事も突き付けられもしたが、理にかなった事が多かったのも事実。だからこそ、今まで仕えてきた。しかし、此度の事が上様の理にかなえば、確実に討たれる」光秀は大きく息を吸い込んだ。

「皆の者、この事、兵には隠しておけ」

「何を申されます!」と弥平次。

「然るべき時まで待て。ここで知られて抜け出されては困る。上様のことだ、兵に間者の一人や二人紛れこませておろう。良いか、事は我らが胸の内に秘めておけ。羽柴殿の裏をかかねばならぬ」光秀は寂しげに笑った。


「内蔵助殿、お館様は如何なさるおつもりであろう」不安げな表情を浮かべて貞興が言った。

「さてな…しかし、どのようなご決断をされようとも我らはついていくのみ、違うか?」

「そうだ、貞興、我らは黙ってついていけばよい」伝五が言う。

「わかっております。しかし、羽柴様は何故にこのような卑劣な手を…」

「面白くないのだろう。羽柴様はお館様よりも長きに渡って上様にお仕えしておる。ところがお館様は他の方々と違い、言うなればトントン拍子の出世。お主とてそのようなものが周りにおれば嫉妬もするだろう、違うか?」内蔵助はそう言いながら、改めて光秀の凄さを噛みしめていた。光秀がいたからこそ、自分たちも何不自由なく過ごしていける。もし光秀がいなければ、今頃、野に果てていただろう。

「良いか、何があっても私はお館様についていき、お守りする」

「それは我らとて同じ心」弥平次をはじめとして、皆が頷いた。


 六月一日、夜半過ぎ。

 沓掛くつかけにたどり着いた光秀の軍からはささやき声が漏れた。動きが止まったことに兵達が少し拍子抜けしたと言ったところだろう。

「運命の別れ道よ」光秀は独り言を呟いた。

 道はちょうど二つに分かれていた。

 右へ向かえば山崎、即ち秀吉の援軍として向かうことになる。兵達は当然ながらこちらの道へ向かうと思っている。

 左へ向かえば京…信長と嫡男・信忠がいる。

「お館様」内蔵助と弥平次がやってきた。

「…良く聞け」光秀は静かに口を開く。

「はっ」

「我が明智家は源氏の流れ。一方、上様は平氏…のう、これは運命かも知れぬ。出自で運命が決まるなどと…こじつけに過ぎぬが、そう考えでもしなければ意を決することなど出来ぬ」光秀は馬の手綱を握りしめ、夜空を見上げた。満天に広がる星々はいつもと変わらない形で輝きを放っている。

「号令を出せ、京に参る!」

「はっ」二人は馬を軍の後方に走らせた。


「我らはこれより京に進む!皆の者、遅れるでないぞ!」馬を走らせながら内蔵助と弥平次が叫んだ。

「おおっ!」兵の志気が上がり、軍は動き出した。

「京とは…徳川様を討つのだろうか」兵の一人が呟く。

「そうだろう。徳川様は近頃では随分と勢いがあるからなぁ。今のうちに潰しておこうってこったろうな…信長様は真に恐ろしいお方だ」


 桂川を渡る頃、光秀の胸の鼓動は早鐘のように打ち鳴らされた。今なら引き返せる、今なら止まれる。いいのか、このままでいいのか…信長様は命を賭けて儂を救ってくれたこともあったではないか。いや、佐久間殿や林殿は過ぎ去った事で突然追放されたではないか。

 何度も何度も信長の悪行とおぼしき事を思い出しては、口の中で繰り返した。よりによっって秀吉の言い分を聞くとは…元親殿のことにしてもそうだ。秀吉、そうだ、あの男に勝たねばならぬ。思い通りにはさせん。

 思いを巡らす間に行軍はゆっくりと歩みを止めた。

「お館様、本能寺は目の前にて…」内蔵助が伝えた。弥平次も並ぶ。

栗田口あわたぐち、今道の他、出口は塞いだな?」

「既に手筈通りに。妙覚寺の信忠様は如何なさいますか」弥平次が言った。

「構わぬ。上様同様、手勢はおらぬはず。今は先に上様の御首をあげよ。弥平次、北門より討ち入れ。人選は任せる。内蔵助は先方の部隊と共に南門へ」

 二人は頷いて走り去った。

 

 六月二日、明け方。

「弥平次、甚平を連れて参れ!上様の周りはそれほど多くはない」内蔵助は息子の甚平を呼び寄せた。甚平は父親の言葉に大きく頷くと小姓二人、そして弥平次と共に馬を走らせた。兵達が刀や槍を手に南門へと向かう横をすり抜けていく。


 一方、本能寺では信長が外の気配に目を覚ました。

 さては家臣が喧嘩でもしているのか…。

「成利!」信長は怒鳴った。しかし、反応がない。やがて叫び声があがり、信長は立ち上がった。そこへ成利が駆け込んでくる。

「上様!」

「乱丸、何事だ、騒々しい!」信長は苛立ちを隠さずに怒鳴りつけた。

「はっ、夜討ちにございます!」

「何?誰だ!」

「紋は桔梗…明智様の軍かと」

「何だと光秀か、あの光秀が…」信長は絶句した。血迷ったか、光秀め。

 信長は舌打ちをした。

「武具を持て、女子供は逃がせ。光秀の事だ、我ら以外には目もくれぬはず」

「はっ!」


 南門では、門前に住む村井貞勝が何事かと飛び出していた。貞勝は今は所司代として京都の警護を任されている。

「これは桔梗紋…明智殿か」貞勝は門前の光景を見て言葉を失いながら、全てを察し、気が付けば走りだしていた。戦いの声を上げる兵達を押しのけ、ひた走る。兵達から見れば戦いに驚いた近くの者が逃げているようにしか見えなかっただろう。

 貞勝の行く先は信忠のいる妙覚寺に他ならない。 


 信長は三度弓を引く。しかし、三度目で弦が真ん中から弾け切れた。

「成利、槍を!」信長の眼前には兵が何人も雪崩れるかのように突き進んでくる。

 信長は槍を突き出し、一人刺したものの、脇腹に鋭い痛みを感じてよろめいた。

「上様!」成利は刀で敵の槍を払いながら、信長を支えた。信長は成利の屈強な体を脇に押しのけ、廊下にあがってくる兵を斬りつけて蹴倒した。

「…多勢に無勢とはこのことよ」信長は唇を噛みしめた。境内に広がる桔梗紋の旗印。光秀はこの様を見ているのか。

「上様…成利めがここを支えます」成利は背に信長を匿いながら戦うが、既にいくつもの刀傷を負って着物は血に染まっていた。

「成利、儂は死なぬぞ」

「御意!」成利は槍を振り上げ、雑兵達を押しのけ、蹴り飛ばし、殴りつけた。

 信長は満足そうに頷くと本能寺の奥へ、悠然と向かっていった。


 光秀は南門から少し離れて戦いぶりを見ていた。抵抗は少なく、一気に押し込めば信長の首を取れる、そう確信していた。

 いや、その筈だった。鼻を突くその臭いが煙りだと気が付くまでは…。

「火が放たれたぞ!」誰かが叫ぶ。

 光秀は目を見開いた。このままでは…このままでは…。

「首は!首はあがったのか!」光秀は怒鳴った。冷静さを失った。大将の首を取らなければ、この戦いはただの謀反でしかない。

「お館様!火の勢いが強く…」内蔵助が走り寄ったが、光秀はそれを押しのけ門内に飛び込んだ。

 しかし、紅蓮の如き炎は、明け来る空に大きく燃えあがり、光秀はただ呆然とそれを見上げ、立ち尽していた。


<了>

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異聞録・本能寺の変 イトー @syosei

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