最終話 結編「智の一歩」part2

 結編「智の一歩」part2


 春華さんが幽霊となって僕の前に姿を現し、一緒に学校へ通うようになり、三週間ほどの時間が経った。

 三月の三週目にもなると冬が置いていった寒さはすっかり鳴りを潜め、春らしく暖かくも寒くもない過ごしやすい気候が、毎日通学をする体にも馴染みだしていた。

 この三週間は取り立てて何かが起こることもなく、ひたすらに平穏な日々だけが繰り返されている。

 今、春華さんが生きていた頃を思い出すと、平穏な日々こそが何よりも大切なものだと確信してしまう。

 春華さんと出会って、たった一ヶ月と三週間ほど。

 僕が今まで過ごしてきた十七年間という月日を振り返っても、短い時間の出来事だ。

 それなのに、春華さんと過ごした時間は遥か昔の出来事でもあるかのように、深く記憶に刻み込まれていた。

 春華さんと僕の間に起こった出来事と言えば、出会い、毎日を過ごし、別れ、再会し、また毎日を過ごしている。

 春華さんの死という大きな出来事があったけれど、言ってしまえば短い期間を一緒に過ごしていただけ。

 なのに、春華さんと一緒に居た時間は、人生の中で特に印象強く残っている時間になっていた。

 そう思うからこそ、記憶に残る平穏な日々は大切なものだったと思える。

 これからも、僕と春華さんはそうやって毎日を過ごしていけるのだろうか。

 もしそうなら嬉しいことだけど、まだ心に突き刺さっている出来事もあった。

 あの夜の出来事。

 月明かりが白く綺麗な深夜、月光に照らされていた春華さんが吐露した言葉がずっと、傷でも残したかのように心に引っかかっている。

 彼女が言っていた言葉は、おそらく僕に向けての謝罪だった。

 謝られる覚えなんてないのに、彼女は謝っていて。

 僕はそれを見ながらも、動けなかった。

 そこで声をかけてしまうと春華さんが消えてしまう……そんな漠然とした、ありもしないような予感に支配されてしまったからだ。

 あのとき、怖気づいたりせずに声を掛けていれば、何か変わっていたのだろうか?

 でも僕に言うのでもなく、ひとりで呟いていたということは、自分の中で気持ちを整理していて、誰にも聞かれたくなかったということだろう。

 日数が経っても春華さんがあのときのことを会話の端々にも出さないということは、僕に話したくないとか、はたまた自分で解決したのかもしれない。

 それなら僕が悩んでいても無駄な事なのかな……。

 こうやって悩んでいると、春華さんに思い切って話しかけたときのことを思い出す。

 あのとき、春華さんに後悔しないようにと話しかけて一歩を踏み出した僕は、どこに行ってしまったのだろう。


「ねぇ、智くん聞いてる?」

「あ、ああ、なに?」


 しまった。考え事をしてたから何も聞いていなかった。

 春華さん、怒ってるかな……。

 気になって春華さんを見ると、不機嫌そうなジトッとした目で僕を見ていた。


「上の空だったみたいだし、何か考え事してたんだとは思うけど……何度も呼んだのよ?」

「うん、ごめん。何かあったの?」

「別に何かあったわけじゃないんだけど……智くん、どうかしたの?」

「どうかしたって……?」


 春華さんの質問を図りかねる。

 僕は別にどうもしてないと思うんだけど。


「最近、考え込んでることが多いじゃない? だから何かあったのかなって思ったのよ」

「僕、そんなに考え込んでた?」


 まったく身に覚えのないことに聞き返すと、春華さんは呆れたように肩をすくめた。


「気づいてなかったの? ちょっと前からそうよ。私が見たらいつの間にか考え込んでるんだもの。何かあったんじゃないかって心配にもなるわよ」

「う……ごめん」

「何も謝ることないでしょう。それとも後ろめたいことでもあるの?」


 言われて、心臓が一瞬だけ高鳴る。

 春華さんは、深夜に僕が独り言を聞いていたことを知らないはずだ。

 それなのに、後ろめたい事だと思っている、そう言い当てられているような気がしてしまう。

 ここで言えば、僕の抱えているものは楽になるはずだ。

 でも言い出すための一歩を踏み出すことは、できなかった。

 だから僕は春華さんを安堵させるように、ゆっくり首を横に振りながら言う。


「ううん、なんでもないよ」


 この言葉しか、僕には発せれなかった。

 それを聞いた春華さんは、これ以上の追及をするのが無駄だと感じたのか。


「そっか」


 と言って、まばらに雲が散らばる晴れた空を見上げた。

 春華さんがひとり深夜に呟いていたことは、心に深く突き刺さっている。

 それでも僕は、この平穏が続くことを祈って突き刺さっている言葉を解消せず、問題を先送りにした。

 踏み出した足でも、一度ですら足を止めてしまうことを本能が覚えてしまったら、ほんの少しでも壁を越えるための一歩を踏み出すことはできなくなっていた。


 ……

 …


 その日の体育館は大勢の人が集まっていて、心地の良い春の陽気に、明日から突入する春休みを連想させられたのか、いつも以上に騒々しかった。

 春華さんは僅かに微笑みを浮かべながら、喧騒を見回して言った。


「ねぇ智くん」

「なに? 春華さん」


 大勢の人が話している環境だと、春華さんと受け答えがしやすい。

 授業中とか静かにしなければならない場所では、僕だけがノートに文字を書いて返事をするから尚更やりやすく感じてしまう。


「明日からは春休みだけど、どこかに出掛けたりしないの?」

「特別どこにも行ったりはしないかな。今年は母さんも入院しちゃってるからね」


 母さんを置いて僕がどこかに行ったりしたら、母さんから文句を言われたりしそうだ。

 そうでなくても、行きたいところなんて特にないけどね。


「それもそうだわ。はやく良くなるといいわね」

「うん。でも母さんが帰ってきたら少し困るね」

「……どうして?」


 冗談っぽく言ったつもりだったけど、春華さんは怪訝そうに眉をひそめた。

 もちろん本当に帰ってきて欲しくないなんてことは、思っていない。

 でも――。


「今だけは居間で会話できるけどさ、母さんが帰ってきたら声を出して春華さんと話せないなって思って」


 ここ三週間、春華さんと一緒に居て実感したことは、僕と春華さんが周りに違和感なく話していられるのは、誰もいないときだけということだ。

 母さんが退院したら、春華さんと言葉を交わしていられる時間は今より確実に減ってしまうことになる。

 それが寂しく思えてしまったから、こうやって言葉にしたけれど春華さんは一瞬顔を伏せて、それからまた何事もなかったかのように微笑んだ。

 僕が寂しく思ってしまったことが、伝わったのだろうか。


「……うん、確かに私と智くんが話せる時間は減っちゃうかもしれないわね……」


 言葉を紡いだあとも春華さんは口を動かしていたけれど終業式を始める合図のせいで聞き取れずに、何を言っていたのか分からないまま終業式が始まった。


 ……

 …


 耳からそのまま通り抜けてしまうほど長い、校長先生の話が終わり、春休みに向けての連絡事項のあと教室へ戻るように告げられた生徒たちが続々と立ち上がり教室に戻ろうとする中、春華さんは直立不動のまま、気でも失っているかのように静かだった。


「春華さん?」


 呼びかけてみるものの、返事はない。

 いつもならすぐに返事してくれるんだけど……何か考え事でもしてるんだろうか。

 春華さんの前に回って彼女の顔を見てみても、呆けたようにぼーっとしているだけで特に変わった様子はない。

 ただ単に終業式をやっていただけでこんな風になるわけがないし……呆けてしまった原因でもあるのだろうか。

 校長先生の話が思ったより詰まらなかった、とか……?

 考えることはいっぱいあるけど、触れることもできないから呼びかけるしかない。


「春華さん、春華さん!」

「……? えっな、なに智くん、どうしたの? そんなに近くまで寄ってきて」


 春華さんは僕が目の前にいるのに驚いたらしく、後ずさりながら言う。

 どうしたのって聞きたいのは、僕のほうだ。


「春華さんのほうこそ、どうしたの? 呼んでもぼーっとしてたみたいだったけど……」


 言葉を聞いた途端、春華さんは思案するように口元へ手を当てる。


「……もう終業式って終わったの?」

「今終わったばっかりだよ。もしかしてぼーっとしてて聞いてなかった?」

「えぇ……どうやら、そうみたいね」


 合点がいったように口元へ当てた手をどけると、春華さんは体育館の入口へ振り返った。

 体育館の入口付近では、体育館から出ようとする生徒達がたむろしている。

 その様子を見て状況を把握したのか、春華さんが言う。


「みんな帰ってるってことは、もう体育館からでなきゃいけないんでしょう? 智くん、はやく行きましょう。遅れちゃうわよ」


 喋っている間に、春華さんはさっさと入口へ向かおうとする。


「う、うんって春華さん早いよ!」


 急ぐ春華さんに戸惑いながらも、僕は春華さんを追いかけた。

 彼女の強引な言動や、ぼーっとしていた姿に確かな違和感を覚えながら。


 ……

 …


 春休みに入ってからも、僕と春華さんの日常が変化することはなかった。

 いつものように朝起きてテレビを一緒に見て、勉強をして一日が過ぎていく。僕が春華さんに会うために、病院へ行っていた頃となんら変わらない日々。

 そんな平穏としか思えない日々の中でも、気がかりなこともある。

 春華さんは時折、終業式のときみたいに気を失ったかのようにぼーっとしていることが増えた。

 ぼーっとしている間は、どうやら記憶の繋がりがないらしく、突然何十分も経過して春華さんが驚くこともある。

 この異変が、何かが起こる予兆かもしれないということは、漠然と分かっていた。おそらく、春華さんも分かっていたんだと思う。

 でも、僕らはその口に出すことはなかった。

 春華さんがその異変をどう考えていたのかは、分からない。でも僕は、話してしまえば迫り来る予兆が現実のものになる気がして、言葉がでなかった。

 しかし、予兆というものは来るべきときが来るから予兆と言うのだから、いつ来てもおかしくないものだったんだ。

 予兆が現実という言葉に様変わりを始めたのは、三月も終わろうとした日のことだった。


 ……

 …


「それでね~ナースさんったら智ちゃんのことばっかり話すのよー」


 春華さんがいなくなってから僕が病院に行かなくなって、母さんもそれに対して何も言ってくることはなかった。だから久しぶりに聞く母さんの声だった。

 入院する前は何日も家で声を聞いてたはずなのに懐かしい気もする、以前とまったく変わることのない、おっとりした声が受話器から響く。

 

「うん、うん、それはさっき聞いたよ」

「あら、そうだったかしら?」

「はぁ、母さんは相変わらずなんだから……」

「もー智ちゃん、お母さんは真面目に話してるのよ?」

「それは分かってるけど……さっきからなんでもないようなことばっかりだから。大事な用があるから電話したんじゃなかったの?」


 言った途端に、受話器から息づかいだけが入ってくる。

 母さんのことだからこの間に天井でも見て、何があったか考えていたりするのだろうか。

 しばらく待つと、納得したかのように声が流れてきた。


「あぁ~、そう、そうだったわ。明後日に退院できそうなのよ」

「え、えぇ!? そうなの!?」


 重要なことってそれだったの!?

 そんなことなら、もっと早くに言ってくれてもいいと思う。

 

「前に三月の下旬くらいには退院できそうだって伝えたじゃない~」

「そ、そうだっけ」


 確かにそんなことを言われていた気もする。

 最近は春華さんが幽霊になってしまったりしたこともあって、すっかり忘れていた。


「とにかく、母さんは明後日に帰ってくるだね。退院するときは、迎えに行ったほうがいい?」

「智ちゃんが来れるならお願いするわね~」

「いけると……思うよ」


 春華さんがいなくなってしまったとき、僕は病院に行くことができなくなってしまった。

 病院に行くと春華さんを思い出してしまうから、何より、もう春華さんが病室にいないと理解してしまったら本当に潰れてしまうと思ったから。

 でも今なら……春華さんが居てくれるなら、病院に行けるはず。


「そうなのね。じゃあ、お願いしちゃおうかしら」

「うん、分かったよ。父さんにも一応連絡しなきゃいけないだろうから、そろそろ切るね」

「あ、それは大丈夫よ~さっきまでお父さんとはお話してたから」

「そ、そうなんだ。じゃあ母さんがいない間に僕は家を綺麗にして待ってるよ」

「宜しくね、智ちゃん」

「うん」


 言いながら、僕は受話器を電話機に置いた。

 掃除と言っても母さんが家を空けていた二ヶ月間ほどの時間で大体の家事はできるようになっているから、掃除機をかける程度だと思うんだけど……主婦の人から見たら甘いのかもしれないなぁ。

 母さんが帰ってくる前にやらなければならないことについて色々考えながら、居間に続く扉を開ける。

 すると目に飛び込んできたのは、苦しそうに息を荒げて、床に倒れている春華さんの姿だった。

 突然のことに思考が途切れながらも立ちすくむことはなく、呼びかけながら春華さんに駆け寄る。


「春華さん! どうしたの!?」

「はぁ……はぁ……なんだ、智くんじゃない」

「喋らないでいいから!」


 床から少し顔をあげて春華さんはだるそうに僕を見上げる。

 その瞳は、意識が朦朧としている意思表示でもあるように焦点が定まっていないように見えた。

 電話を取るために僕が居間から出るまで、春華さんとはたわい無いことを話していただけで、変わった様子もなかったはずだ。

 僕がいない間に何があった?

 春華さんの様子から読み取れることはないのかと、視線を彷徨わせて原因を探ってしまう。

 いや、こんなことしてる場合じゃない。ひとまず春華さんを運ばないと!

 そう思って春華さんの左肩を抱こうとするけれど、手が素通りする。

 何度彼女に触ろうとしても、彼女の存在などないみたいに、手がすり抜ける。

 焦りや緊張で、僕は春華さんに触ることができないことを忘れていた。

 そんな僕の様子を見て、春華さんは苦しげに、でも僕を安心させるためであろう笑顔を作って、語りかけるように柔らかく話しかけてくる。


「もう……智くんは焦りすぎよ……」

「こんなの焦るに決まってるじゃないか!」


 声に答えながら、どうしたらいいか必死に考えを巡らす。

 僕は春華さんに触れることができないから、ここから運ぶこともできない。

 逸る気持ちを制御しようとして、やれることがないか探そうと、再び春華さんに視線を合わせる。

 見るからに息は荒く、見ることを躊躇うほどに顔色が悪く辛そうで……そして、僕は見てしまった。


「……ッ!」

「……智くん? 驚いたみたいに目を見開いて、どうかした?」

「どうかしたって、どうかしてるのは春華さんのほうじゃないか!」


 今まで意識が回らなかったこともあって、まるで気づかなかったけれど、春華さんの体からは人体を構成するあるものが、消えていた。

 春華さんは僕が言っていることの意味をようやく理解したのか、太ももを床から離して見せる。


「これのこと?」


 何事もなさそうに春華さんは言う。でも、その言いようとは裏腹に、春華さんの足は太ももから下がなかった。

 正確には、膝の付け根から下がごっそりとなくなっている。まさしく、消えてなくなっていると言うのが正しい。


「いつの間にこんなことになったのさ!?」

「さあ、気づいたらこうなってたわね」


 あくまであっけらかんとした春華さんの言い方に、怒りがこみ上げそうになる。

 自分の体がなくなっているのに、春華さんはどうしてそうも冷静に居られるんだ!


「気づいたらって……そんなこと……!」


 何かが起こるような予兆は、春華さんがぼーっとすることが起こった辺りからずっとあたんだ。

 春華さんがぼーっとする事態から端を発して、彼女が倒れたことや、太ももから下がないことはきっと全て春華さんの異変として関係のあることのはずだ。

 なんでぼーっとしている春華さんを見たときの僕は、春華さんに大丈夫か聞かなかったんだ。

 もっと早くに、春華さんの身に何が起こっているかを聞いておけばこんなことにならなかったかもしれないのに!

 もし、それが原因で春華さんが消えてしまったりなんかしたら……。

 こみ上げてくる自責の念が心を締め上げる。


「……そんなことより、聞いて欲しいことがあるの」

「今は話をしてる場合じゃないよ! 春華さんのことをなんとかしなくちゃ……」


 このまま放って置いたら、もっと春華さんの異変は加速してしまう気がする。膝から下が消えるだけじゃ済まないような、そんな気がしてならなかった。

 だからそんな気持ちを払拭しようと必死に考えても、何かアイディアが浮かんでくるわけもない。

 解決策のない堂々巡りの思考だけが回りまわる。


「智くん、聞いて」


 どうしたら触れることのできない春華さんのために動ける?

 僕自身が幽霊になれば、春華さんに触ることができるだろうか。

 いや、前提条件として幽霊に確定でなれるわけがない。

 次の瞬間にまた異変が起こるかもしれないって考えると、焦燥感だけが募っていく。

 どうすれば、手の届かないところで春華さんに起こっている異変を止められる?

 どうすれば、どうすれば――。


「聞きなさい!」

「ッ!」


 鼓膜を震わす春華さんの大声に、思考の底から意識を戻される。春華さんの大声を初めて聞いて呆気にとられる僕をよそに、春華さんは僕を優しく見つめて、微笑みながら次の言葉を紡いだ。


「智くん、明日デートしましょう。私とあなたで、二度目のデートよ」

 

 ……

 …


 ベッドから見える、開け放たれた小窓から小鳥が元気に鳴いている。

 朝が来てしまったからだろうか。いつもなら耳にすんなり入り込む囀りが、今はとても忌々しいもののように感じてしまう。

 朝に来るな、来るなと願っても時間は残酷なもので、いつの間にか夜が開けて朝になっていた。

 目を細めるほどに眩しい太陽とは裏腹に、僕の心には陰が落ちて身をだるさが支配する。

 こんなに気分の悪い朝が来るなんて、昨日の僕は想像すらしていなかった。

 春華さんは自分の体に異変が起きて大変なことになっているのに、どうしてデートなんてしようとするんだろう。

 まずは自分の体をどうにかして治すほうが先じゃないだろうか。

 デートは体が治ってからならいくらでもできる。このままの状態で春華さんを放っておいたら、取り返しのつかないことになるかもしれない。

 もし、また春華さんがいなくなったりしたら僕は……きっと、もう立ち直ることはできない。

 考えうる限り最悪の状態を頭の中が描いて、無意識のうちに掛け布団を握り締めていた手に力が入る。


「起きなさい、智くん。朝よー」


 明るく高い声を掛けながら僕の部屋の扉を突き抜けて、春華さんが現れた。

 顔色を見る限り、どうやら昨晩より体調はよさそうに見えるけど、太ももから下がないのは依然としてそのままだ。

 春華さんは僕が起きているのを確認すると、驚いたように目を丸くした。


「あら、起きてたの?」

「うん」

「それは関心ね。でも起きてるならパジャマから着替えていてくれてたら尚よかったわね。さっさと着替えてデート、いきましょう」

「……」


 やっぱり、行こうとするんだ……。

 春華さんが促すけれど、僕はまったく動く気になれなかった。

 彼女の言葉を、心が勝手に拒否してしまっていたから。

 僕に拒否されることを春華さんは予想していたのか、特に変わった様子もなく口を開く。


「はやく動かないと時間は雪崩みたいに、一瞬で過ぎて行っちゃうわよ」

「……」

「やっぱり……行きたくないのね」


 二度目の無言に、春華さんは俯いて哀しみを表情に浮かばせた。

 違う……僕はそんな顔をさせたいわけじゃないんだ。

 笑顔で居て欲しいと思いながらも、僕は彼女がやろうとしていることを受け入れられずにいた。

 だからだろうか。搾り出した声で僕は話し始めてしまった。

 

「……どうして、春華さんはデートに連れていこうとするの……? 春華さんだって分かってるでしょう。幽霊でも今まで見えてたはずの体が消えたり、体調が悪くなったりしたら絶対に何かがおかしくなってる。今は安静にして様子を見るべきだよ……」

「うん、智くんの言うことはよく、分かるわ。本来なら……幽霊である身で言うのも変かもしれないけど、安静にするべきかもしれない。でも、私は智くんと一緒にデートがしたいのよ。今日消えることになってしまっても、私はそうしたいの。そうじゃないと……ダメなのよ」


 言葉を紡ぎながらも春華さんの手が、忍び寄る恐怖に抗うかのように、震えていた。

 まるで心臓が鷲づかみにされた気分だった。

 そうか……。僕は、なんて身勝手だったのだろう。

 春華さんが消えるかもしれない――それで辛いのは、恐怖を感じるのは僕だけじゃない。

 頭を凝らして、よく考えてみればそれは当たり前のことで。なのに気づけなかった自分が、酷く恥ずかしい。

 自分の体が段々と消えていく恐怖に抗いながら、春華さんは僕にデートをしようと言っていたんだ。

 どうしてそこまでデートをしようとするのか、まだ釈然としないけど恐怖に抗っている春華さんの言葉を否定するほど、僕は……薄情な人間じゃない。


「……分かった。デートしよう」


 彼女が体調を押してまで、デートを願っているのなら僕も想像から来る恐怖に抗って、付き合おう。

 例え、春華さんが今日消えてしまうとしても、楽しくデートをしよう。

 それが今の春華さんにできる唯一のことだろうから。


 ……

 …


 雲ひとつない晴天から差し込む日が僕たちの心情を体現したかのように晴々として明るい光をもたらして、風が肌を撫でて背中を押すように吹き抜ける。

 自然を構成する何もかもが、僕たちの進む道を祝福してくれている。

 そんな気がしてしまうほど、外の世界は澄み渡っていた。

 正直に言えば、まだわだかまりはたくさんある。でも、付き合うと決めたからには楽しくいこう。

 きっとそれを春華さんも望んでいるはずだ。


「ところで、なんで僕は制服なの?」

「あら、私も制服じゃない。文句でもあるの?」

「いや、まぁいいんだけどさ」


 デートに行こうとしたところ、春華さんは学校の制服を着ていこうと提案してきて、それを着用して僕は住宅街を歩いている。

 ちなみに、春華さんも僕と同じく制服を着ていた。

 春休みにわざわざ制服を着てデートだなんて、普通はしないと思うし……意味でもあるんだろうか。


「制服で来た意味はあとで分かるわよ。まずは、繁華街に行きましょうか」


 僕が納得していない表情をしていたらしく、春華さんは付け加えるようにそう言った。

 あとで意味があるなら、今は気にしないでおこうかな。


「繁華街? 何かやることでもあるの?」


 投げかけた言葉に、春華さんはそっと目を閉じた。

 やっぱり、いくら物が体を貫通するからって浮きながら進んでる最中に目を閉じるのは何度見ても慣れるものじゃない。

 でも……あの閉じた目の奥で、僕たちが最初にしたデートを思い出したりしてるのかな。

 繁華街は僕と春華さんが初めて一緒に行った場所だから、もしかしたら特別な思い入れでもあるのかもしれない。

 しばらくすると春華さんは目を開け、唇を綻ばせて感慨深そうに言った。


「……私の――私たちの思い出の場所だから行っておきたいのよ。いい?」

「そっか。うん、その通りだね、いこう」

「ありがとう」

「別にお礼なんていらないよ。僕も春華さんともう一度行きたかったからさ」

「そう言ってくれるのは嬉しいわね。智くんは行きたいところとかある?」

「うーん、行ってみたいところかぁ。なかなか難しいね」

「どうして?」

「あそこって繁華街だから食べるところしかないし……」

「それもそうねぇ」

「あっ、でも――」


 もしかしたら、春華さんとこうやって住宅街を話しながら歩くのも最後になるかもしれない。

 そんな予感を抱え、自然に心から溢れ出る言葉を笑顔で交わしあいながら、僕たちは繁華街を目指した。


 ……

 …

 

 喧騒が支配する繁華街の大通りを、春華さんと並んで進んでいた。

 お昼に近い時間ということもあって、友達と来ているらしい人、会社の休憩時間なのかスーツを着た人、僕たちと同じようにデートをしている人たちが喧騒を構成している。

 ただし喧騒の中身はそれだけじゃなくて、春休みということもあってお客さんを捕まえようとする人が呼び込みをしているのも喧騒の一部と化していた。

 前に進もうとする力が強くて、人混みから動くのが少しでも遅くなれば目的の場所へ着けなさそうだ。


「まずは何処からいこうか?」


 周りに人がいるけれど構うことなく、隣で浮いている春華さんに話しかける。

 こんなに人が居れば誰もいないところに話しかけても、怪しまれて何か言われることもないだろうし……なにより僕が春華さんと話していたかった。


「そうねぇ……ってハムエッグたい焼きよ、智くん」


 前を見ながら春華さんが指を差す。

 一緒に目を動かすと、そこには以前と変わらない、ハムエッグたい焼きと書かれた看板があった。


「あっ本当だ。いこうか?」

「えぇ、行きましょ」


 計らずしも前回したデートで最初に寄った場所を見つけた僕たちは、人の流れから外れて、ハムエッグたい焼きと書かれている看板に足を向けた。

 大通りでは人の流れがあるのに、店先にあまり人がいないみたいで、すぐに注文することができそうだ。

 この時間だとしっかり昼食を食べ来ようとする人のほうが多いから、軽食なお店だとあまり人が並ばないってことなのかな。

 待ってる間に話す間もなく、注文の番が回ってくる。


「いらっしゃーい、ってこの前の坊主じゃねぇか」


 僕の顔を見たなり、開け放たれた窓から顔を覗かせるおじさんは言った。

 坊主って……高校二年生は少年っていう年でもないんだけど、そこまで若く見えるのだろうか。

 少しショックだけど気を取り直す。


「覚えててくれてたんですか? ハムエッグたい焼き一個ください」

「おうよ。そりゃあ、あんなべっぴんな彼女と一緒に居て、しかも口の中に砂糖放り込まれたような会話してたら印象に残るってもんよ。今日は彼女と一緒じゃないのかい?」


 褒められた春華さんは、頬を指で掻いて照れくさそうにする。


「べっぴんだなんて、照れるわよ。おじさん」

「あはは、今日も一緒ですよ。はい、お金です」

「おう、置いといてくれ。今日も一緒か、そりゃよかったよかった。あんなべっぴんなかなかいねぇからなぁ、坊主、絶対に手放すんじゃねぇぞ?」


 言いながら、おじさんは何重もの紙で包まれたハムエッグたい焼きを差し出してきて、それを受け取る。

 手放すな……か。おじさんの言っているのは物理的なものでもあり、感情的なものだろう。

 僕は春華さんの考えが分からないからって、言葉を聞かずに今朝、感情的な手を放しかけた。

 もし話しかけないで、あのままデートをしなかったら、どうなっていたんだろうか?

 細かいことまで予想がつかなけれど、後悔する結果になっているだろうというのは想像に難くない。

 彼女が何歩も先に進んでいたとして、手を繋ぐには僕も同じく前へ出ていくしかない。

 それをしようともせず、また後悔をするところだった。

 僕はもう……彼女の手を放しちゃダメなんだ。

 おじさんからの言葉に決意を固めて、僕は気持ちが精一杯伝わるように返事をした、


「はい、手放しません。絶対に」

「いい面構えだ。頑張れよ」

「はい!」


 ……

 …


「それにしても智くん、さっきのはさすがの私でも恥ずかしいわよ」


 じとっとした目をした春華さんが、僕を見ながら言った。


「え、何が……?」


 大通りから少し外れたところに人の少ない広場があって、僕たちはそこで休憩している。

 当然、さっき買ったハムエッグたい焼きを食べながらだ。

 にしても春華さんの言う恥ずかしいことってなんだろう。特に覚えがないんだけど……。


「さっきおじさんに、絶対に手放しません、みたいなこと言ってたじゃない」

「あ、ああ~」


 納得して声を出すと同時に、そういえば春華さんもあの場に居たことを思い出す。

 自分の考えに夢中で、聞かれていることをまったく意識していなかった。

 あれを春華さんに聞かれてたんだ。

 告白紛いなことだったし、意識した途端に恥ずかしさが込み上げてきて、顔が熱くなってきた。

 なんてことを口走ってたんだ僕は……。


「ちょっと、なに赤くなってるのよ。私まで恥ずかしくなってくるじゃない」


 そう言いつつ、春華さんの頬が朱に染まっていく。恥ずかしくなるなら言わなかったらよかったのに……。


「いや、だって意識させたのは春華さんだよ!? 僕は全然気にしてなかったのに」

「私のせいにする気? それより気にしてなかったってなによ。私だけどきどきしてたみたいになってるじゃない!」


 睨み合うように視線を交わす。僕たちはそうしているのがおかしいものに思えて、次の瞬間に笑みをこぼしあった。


「どうしてこんなことで言い争ってるんだろう、僕たち」

「まったくその通りよね。智くんが頑固で認めないからよ」

「春華さんだって」

「なら、どっちもどっちってことかしらね」

「そうかもしれないね。僕たち似た者同士なのかも」

「似た者同士ねぇ、初めて知ったわ。ところで――」


 春華さんが広場の奥にある、舗装された林へ視線を映しながら言う。

 あの辺りって何かあったかな?


「――あの先に進めば、前に桜があったところに着くわね」


 言い終わったあと、思い出に心を馳せるかのように、春華さんは遠くを見据え始めた。

 桜の木のことを思い出してるのかな。

 今でも、あの風景は瞼を閉じれば昨日のことのように思い出せるほど印象深く記憶に残っている。

 海と桜の花びらと夕日。自然を構成するものが幾つも入り混じったあの幻想的な風景は、綺麗なんて言葉じゃ足りないほどのものだった。

 もう一度、あの風景を見れたりしないだろうか。


「行ってみようか」


 食べ終わったハムエッグたい焼きの紙を丁寧に折り込み、ハンカチに挟んで腰を上げながら言うと、春華さんはすぐに頷いた。


「えぇ……行きましょう」


 こうして僕たちは初めてのデートでもっとも印象に残っている、桜の木がある場所に向かった。


 ……

 …


 周囲が林のおかげで豊かな自然の匂いが漂う道中を進み、断崖にぶつかる波風の音が聞こえ始めた頃、僕たちは丸く小ぢんまりした広場にでた。

 以前と変わらず、ここは座るための椅子もないからか、人っ子一人いない。断崖の前に配置されている柵や潮風も記憶からまったく変わることがない。

 でも、一目見て変わっていると気づけるものがあってしまった。

 それは広場で唯一の特徴とも言っていい、僕たちの思い出の中に象徴として残る桜の木。


「残念、もう枯れちゃってるわね」

「そう……みたいだね」


 初めてデートをしたときと違って、桜の木は既に花びらを散らしていなかった。

 時間の流れが形となって現れてしまっている姿に、一抹の不安が過ぎった。

 時間が経っているのは分かっていたんだ……。

 桜の花びらと夕日以外は瞳に映らないほど、幻想的な風景がもう一度見れると……思っていたわけじゃない。

 そういうわけじゃないんだけど……。


「そんなに険しい顔して、どうしたの?」


 春華さんが心配する視線を向けてくる。言われるほど、僕は険しい顔をしているだろうか。

 再度、殺風景にすら思え始めてしまった桜の木を確認する。

 何度見ても、以前の風景は見る影もなくて……。


「もう、あのときの風景は見られないんだなって思って……」

「来年になったら、また見られるわよ」


 春華さんの瞳には、海の地平線に沈もうとする夕日と桜の花びらの思わず息を呑んでしまう風景が見えているのだろうか。

 僕にはそれが思い描けなくて、桜がずっと咲かず、夕日も沈まず……ずっとこの風景が続いてしまうのではないかと思ってしまう。


「春華さんは、どうしてそう思えるの? 僕はそんな未来がこないかもって考えちゃうよ」

「だって智くんが言ってたんじゃないの」

「なにを……?」

「私と智くんなら幸せな未来を描けるんだって、最初のデートで言ってたじゃない。私はびっくりしてたのよ。そういう考えもあるんだって、そう思えるんだって。今の智くんは、そうは考えられない?」


 そうだ。僕は確かに言っていた。

 ずっと日々が続くと思っていたから、春華さんとお別れをする日がくると思っていなかったから……。

 あのときの僕は、なんて楽観に囚われた人間だったのだろう。

 春華さんと居られればそれだけで幸せな未来を作れるなんて、本当に薄っぺらな言葉だった。

 自分の楽観したもの言いが記憶から呼び起こされて、怒りか悔しさかどっちも感情に拳を握り閉める。

 春華さんが今日消えるとしてもデートをすると誓ったのに、未来のことを考えると素直に幸福な未来が待っているなんて、到底思えなかった。


「今の僕は、幸せな未来なんて考えられないよ……」


 この返答を予測していたのか、春華さんは僕の前にふわっと来て、何事もなかったかのように優しげに微笑んだ。

 でも、笑顔が心に遠慮なく突き刺さる。

 優しい顔をされればされるほど、過去の無責任な言葉が蘇って、どうにかなってしまいそうだ。


「そっか、今のあなたが考えられないならしょうがないわね……。ここに居ても辛いだけだろうし……智くん、デートの"さいご"に行きたい場所があるの」

「"さいご"に。行きたい場所……?」

「ええ。智くんもよく知ってる場所よ」


 柔らかな声色で告げられる"さいご"が最後なのか、最期なのか、僕は聞き返すことができなかった。

 

 ……

 …


 夕日の眩い光が見えて、街全体を見通すに足る高さがある場所。

 僕たちは、学校の屋上に来ていた。

 屋上に景色を遮るようなものはなく、人の身よりも高いフェンスだけが屋上の輪郭に沿って配置されている。

 下からは、運動部がまだ部活をしているのか気合を入れている元気な声だけが響く。


「デートの"さいご"に来たかった場所って、ここ……?」


 何もない開けた空間で、声だけが風と共に駆け抜ける。

 このなんでもない殺風景な場所に、どうして春華さんは来たがったのだろう。


「そうよ、前々から来て見たかったの。色々な本で読んで、どんなところなんだろうって」


 屋上に入った扉の前で止まる僕をよそに、返答しながら春華さんはフェンスの前に着く。

 その背中を見て、思う。

 歩にすれば、たった数歩の距離なのに酷く遠いように見えてしまう。まるで、僕と春華さんの心の距離が現されているみたいだ。

 もう距離が縮まることはないかもしれない。いや、逆に広がってしまうこともあるだろう。

 僕はこのままふたりで過ごせればいいのに、春華さんは前へ、前だけを見て進んでしまっている。そんな彼女の背中に追いつくことはできるのだろうか。


「いい景色ね。夕日が雲と空と海を――世界を黄金で形作ってる。病院に居た頃の私は、こんな風に感じたことすらなかった。病院から見るものは全ていつもの風景だって、思ってた。でも見る場所によってはこんないいものに感じるのね」


 背中を向けたまま話しだした春華さんは、弾むような声をしていた。でも、僕はその言葉に賛同することができない。

 夕日が世界を煌びやかに構成しようとも、街に作り出された影が視界に入ってしまっていたら、色褪せたようなものにしか見えなくなっていた。

 昔だったら綺麗に見えたのかな……。


「……僕には、とても殺風景で哀しいものみたいに見えるよ」

「こんなに綺麗なのに?」

「だって影があるじゃないか。夕日は綺麗かもしれない。でも、影がある。どうしてもその影のせいで、綺麗に思えないんだ」

「勿体無いわね、こんなに綺麗なのに」


 そこで一区切り置いて春華さんは振り返り、喜びと哀しみが混じったような笑顔を僕に向けた。

 夕日を背にしている春華さんは、幽霊だからなのか今にも消えてしまうのではないかと思ってしまうほど存在感がない。

 いや、大丈夫。彼女はまだそこにいる……。いるんだ。


「ねぇ智くん。私ね、君と居て本当に楽しい思い出ばかりができたわ、本当にありがとう」


 今までの思い出を噛み締めるように、感謝するみたいに言われ、心音がいやにはっきりと聞こえ始めた。

 いやだ……。


「突然どうしたのさ……楽しい思い出ができたとか、本当にありがとうとか、今の言い方だと、まるでもう会えないみたいじゃないか」 

「智くんだって気づいてるでしょう? 時々ぼーっとしているのも、私の膝から下が消えたのだって、もう私が幽霊としてこの世界に居られなくなってきてるからなのよ」


 今まで気にしないようにしていことを、春華さんは次々と突きつけてくる。

 予兆みたいなものは何個かあっても言い方からして、まだ消えると決まったわけじゃないみたいだし……もしかしたらまだ居られるかもしれない。 


「……でも、消えないかもしれないじゃないか」


 可能性にすがろうとする必死の感情が顕になって、搾り出したような声になる。

 春華さんは自分の存在を確かめるように手を何度も握って、それから首を横に振った。


「私の体のことだから、分かるのよ。もう私は消えるしかない……って」

「そんな……そんなことって……。ようやく春華さんは自由に外に出れるようになったのに、また春華さんと居られるようになったのに……」

「ふふっ、そう言ってくれるのは、嬉しいわ。私も、もっと、ずっと、ううん、一生、智くんと一緒にいたい」


 優しく、暖かい感情を感じられる言葉は、不安の臨界にまで達していた僕の心を崩壊させるには十分な、ものだった。  


「一緒にいたいって、そう言うならずっと一緒に居てよ……僕は春華さんがいないと、ダメなんだ」


 もう感情が抑え切れなかった。

 足が崩れ落ちて、立っていることすらできない。

 春華さんのことすら考えようとしない。溜めに溜め込んでいた僕だけの感情が、勝手に震えが止まらない喉から出て行く。


「春華さんがいたから僕は幸せな未来を見て……前へ進めたっ! 春華さんが前を歩いていてくれるから、僕は何度も止まりそうになる一歩を踏み出そうとすることができた……っ」


 止まらなかった。

 いつの間にか頬を伝っていた涙も、言葉も、感情も、全てが我慢しきれなかった。


「春華さんが居たからどんな日も人生の中で一番っ楽しくて、嬉しくてっ……。こんなに幸せな日々があるんだって、そう思えたんだよっ! デートだってっ特別なことがなかった日だって……全部楽しかった……っ! なのにっ消えちゃうなんて……っそんなことっいやだ……。僕と一緒に居てよ……僕は弱い人間だから、春華さんみたいに強い人が居てくれないとだめなんだっ……それだけで……いいのに……っ」

「うん……そうね……私もそうよ」


 柔らかで安らぎのあるものに、抱きかかえられているような気がした。

 春華さんは僕が泣き叫ぶようにして感情を吐露していく間に近づいて、僕の頭を胸に抱きかかえるようにしていた。

 実際に触れられるわけがないのに、密着した胸からは確かな温もりを感じる。


「うっぐ……消えちゃいやなんだよ……消えないでよ……」


 必死に、聞き分けのない子供のように掠れた涙声で縋り、喘ぐ。

 彼女が消えてしまったら、いなくなったら僕はもう無理だとすら、感じていたから。


「わがままを言っても、私はもう消えちゃうの。それに智くんはそんな弱い人間じゃないでしょう?」

「そんなことないっそんなことないんだ……。いつだって僕は自分に自信がないんだっどうしようもないくらい弱い人間なんだよっだから一緒に居てよ……」

「何を言ってるの。私に、最初に声をかけてくれたのは、あなたのほうじゃない。誰とも知らない人の病室に来て、また来てもいいかな、なんて言える人、そうはいないわよ。あの一言で、私がどれほど救われたか、知ってる? 自分の人生なんて、どうでもいいものだって笑わなくなって、これっぽっちも人と関わりすら持とうとしていなかった私に、生きる強さをくれたのはあなたなのよ。そんなあなたが、私との別れ程度で泣いててどうするの」

「だって、そんなこと言われたって……っ不安なんだっ春華さんがいない未来が……まったく見えないんだ……春華さんがいなかったら……どうしたらいいのか分からないんだっ」


 言葉にするだけで、慟哭が何重にもなって圧し掛かってくるみたいだった。

 自分でも情けないと思うほどの言葉の羅列をしているのに、それでも春華さんは優しく心を包み込むかのように語りかけてくる。


「ううん、智くんも本当は分かってるはずよ。私がいなくなっても、智くんは強く生きていける。だってあなたは元から強いもの」

「なんで……なんでそう言い切れるのさっ……どんなときだって……僕は春華さんが居たからっ幸せな未来を見れただけなんだ……そんな僕が強いわけなんてないっ」

「生きるのが不安で、本当に不安で仕方なかった私に、あなたは未来をくれた。死ぬ前には、もっと生きたいとすら思えた。もし君と出会わなかったら私はずっと、足踏みをして世界に数多ある楽しいことも何も知らずに、前へ踏み出すこともできず、ただのうのうと日々を過ごして……宣告された死を待つだけだったわ。そんな思いをくれた智くんが、弱いわけないじゃない」

「それは……僕も同じなんだよっこの二ヶ月が今まで生きてきた中で一番楽しくてっ今まで足踏みして後悔ばっかりしてきた僕の心を君の笑顔が前へ進ませてくれたっ」

「そう、それよ。智くん」

「えっ……?」


 肯定するように言われて、思わず顔をあげる。

 見上げた春華さんの頬には、一筋の涙の跡があった。

 声色からは泣いているなんて、判別できなかった。でも、話をするうちに自然と溢れ出てきてしまったような、そんな涙の跡。


「聞いてて恥ずかしい話だったけど……あなたは私の笑顔を見て、一歩を踏み出してくれたんでしょう? そこに私を思う気持ちもあったでしょう。でも最初にその一歩を踏み出そうとしたのは私だけが理由じゃなくて、きっと……あなたの中にあった勇気よ。智くんが例えこれまでの人生で後悔ばっかりしてきていても、私が絶望しているときに唯一、足を踏み出してくれた。それに、今日私が消えるかもしれなくても、一緒にデートをしてくれたのはあなた自身じゃない。そんなここ一番で勇気を持てるのがあなたじゃない、ね?」


 僕が春華さんに話しかける勇気を持ったのは、これ以上後悔したくなったからなのは確かだ。

 春華さんの言う通り今朝だって僕はもう後悔しないために、春華さんが恐怖に抗って誘ってくれているからデートをしたんじゃないか。

 慟哭に押しつぶされようとしていた心が、段々と冷静さを取り戻していく。

 今だって、自分が消える恐怖に彼女は抗っている。その証拠がきっと涙の跡だ。

 こんなに背中僕の一歩を押そうとしてくれる春華さんに、僕は泣き続けたままでいいのだろうか?

 泣いたままの状態で、春華さんが消えてしまってもいいのか?

 自問する言葉は何度も思考を巡り続けて、ひとつ、自問したときから絶対に分かっていた結論を導き出した。

 こんなままで終わるのが、良い事なわけがない。

 今になって、ようやく素直に受け止められた。。春華さんが傍に居てくれるからって、僕は甘えて……依存していたんだ。

 幽霊になったときから、いつか来る別れを必死に考えないように努めて、考えなくても分かっていたはずなのに目を背け続けた。でも、それじゃいつか訪れる別れに潰れてしまう。

 そんな僕の背中をこんなにも優しく春華さんが押してくれるなら、押された分以上に一歩を踏みださなきゃいけないんだ。

 もう後悔しないと誓った――春華さんに話しかけた日の僕みたいに。そう思ったら、涙は不思議と出なくなっていた。

 それでも喘ぐようにしていたからか呼吸に乱れていた息をしっかり整えて、春華さんに僕の中でまとまった思いを告げた。


「うん、分かったよ。僕は……春華さんがいなくなった世界を受け入れる……受け入れて、前を向くよ」


 僕の言葉を聞くと、春華さんは抱きかかえるようにしていた僕の頭から腕をどけて、対面するように僕から一歩ほど離れた場所に浮き上がる。

 その際に見た春華さんの顔は、今まで僕が見たことがないほどに迷いの何ひとつない清々しい顔をしていた。


「そっか、ありがとう」


 風のように、耳を撫でる声色だった。

 この時間になると夕日は圧倒的なまでに世界へ輝きを放ち、一日の最後を盛大に彩り始めていた。

 それを背にしている春華さんは幻想的なまでに美しく、儚く見える。

 別れのときが近づいていることを、僕はひしひしと感じていた。


「なんでお礼なんて言うのさ」

「私の目的が達成できたから……かしらね」

「目的……?」


 今までの会話から思うに、止まろうとする僕の一歩を踏み出させることかな……。


「智くんに何かできることがないかって探してたの。私は弱かったから……智くんに自分が病気で死ぬってことを伝えられなくて……君を絶望に突き落としてしまった。そうなるって分かってたのにね……。でも、智くんが前を向くって思ってくれたのなら、幽霊になって現れてよかったと思う」

「それが春華さんが幽霊になっちゃった原因なんだね……」

「たぶん、そうだと思う。私にある思いがこうやって私をここに存在させているんだわ」


 春華さんが幽霊となって現れた日に、ふたりで登校をしたとき、春華さんは幽霊になった原因が分からないと言っていたけれど、おおよその予測はついていたってことなんだろう。だから幽霊になった身であっても、あんなにも落ち着いていたんだ。


「春華さんは……自分が死ぬことを知ってたんだね」


 そう口にすると、春華さんは顔を伏せて僕に表情を見せないまま震えながらも芯のあるしっかりとした声で語りだした。 


「ええ、そうよ。死を宣告されていたのに死ぬってことが怖くて、私は中々言い出せなくて……デートをしたときに本当は言いたかった。智くんと一緒に居るのが楽しくて、嬉しくて、私は智くんと一緒に居ることを選んだのに、どうしても口にするのが怖くて、そのまま死んじゃった……ごめんね。私は智くんが言うような強い人間なんかじゃない……弱い人間なのよ」


 誰だって、自分が死ぬと宣告されたら気が狂いそうになるほど苦悩するに決まってる。その中で春華さんがとった選択肢はきっと、自分の感情を閉ざすことだったのかもしれない。

 だから、病室でもふいに襲い掛かる死への恐怖を遮断するために表情がなくなるときがあったんだろう。それが彼女にとって恐怖を回避する手段だったんだ。

 確かに春華さんは僕に自分が死ぬということを、伝えてくれなかったかもしれない。でも、最後にはこうやって幽霊になって現れてくれて……春華さんが死んで僕の心を支配していた闇を取り払ってくれた。

 そんな春華さんを、誰が弱いと言えるだろうか。


「春華さんは弱い人間なんかじゃないよ――」


 言葉を紡ぎながらも、首をゆっくり意思を表すように横に振る。


「――だって春華さんは、今、僕を救ってくれたじゃないか。幽霊になってでも、僕の一歩を進ませようとしてくれたじゃないか。そんな人を誰が弱いなんて言うもんか」


 春華さんは恐る恐る顔をあげてから、脱力したように顔を綻ばせた。

 

「あはは……そっか、私、弱い人間じゃなかったのね……智くん、ありがとう」

「ううん、僕のほうこそありがとう」


 そこで一端、言葉は途切れて僕たちはお互い見つめあったまま、静寂の時間を過ごした。

 まだまだ話したいことはたくさんある。口を開けば開いただけ出てきてしまうだろう。

 でも僕たちはそうしなかった。別れの前に春華さんを焼き付けたかったのかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれない。

 本当のことを言えば、よく分からなかった。

 それでも、これでいいと思った。


「……そろそろ、時間みたいね」


 静寂の中で、先に口を開いたのは、春華さんだった。

 気づけば、春華さんの体が端から粒のようなものが少しずつ舞い上がっていく。夕日を受けて黄金に輝くその黄金の粒は、まるで春華さんの魂の欠片のようだった、


「もうお別れ、なんだね……」

「ええ。でも言葉は尽くしたから、大丈夫よね、智くん」


 その言葉に、僕は少しだけ目を閉じて思考に沈んだ。

 春華さんと出会ってから何か劇的なことがあったわけじゃない。

 誰だって過ごすような時間を、春華さんと共に過ごしてきただけだ。でも、その時間は何よりも大切なものとして、心の中に刻み付けられている。

 春華さんが死んで、哀しんだこともあった。

 春華さんとデートをして、未来に思いを馳せたこともあった。

 春華さんに、背中を押してもらった。

 何もかもいい思い出だった、とまで言うことはできない。でも貴重な時間だったってそう思う。

 これから前へ向いて一歩を踏み出すのに、十分なものを春華さんからもらった。

 気持ちの整理をつけて、僕は目を開けて夕日に溶けていくように消えていく春華さんを正面に捉え、できるだけ、笑顔であるように心がける。


「うん……僕はもう大丈夫だよ。春華さんがくれたものを手にして……前へ進み続ける」

「ええ、頑張ってね」


 そう言って、春華さんは手を振った。


「ばいばい」


 僕もそれに習って手を振り返した。


「うん。ばいばい」


 その言葉のやり取りが最後だった。


 手を振っている腕も粒になって天へ昇る。


 手を伸ばしそうになった。


 このまま繋ぎ止められたら、とやっぱり少しだけ思ってしまったけど……手は動かなかった。

 

 僕はもう春華さんのいない世界で生きていかなきゃいけない。背中を押してくれた春華さんに情けないところは見せたくない。


 春華さんは、最後まで笑いながら夕日が消えると共に、この世界から跡形もなく消えてしまっていた。


 残照の光を纏って、粒は上へ、上へ昇る。


 それがなくなれば、まるでそこには元から誰もいなかったように風だけが過ぎ去っていく。


 例え姿形が見えなくても思いだけは夢や幻想でもなんでもなく、心にある。


 そう思っていても春華さんが消えてから、少しだけ泣いてしまった。


 これくらいは許してくれるよね、春華さん……。 


 こうして僕と春華さんの、ふたりだけの時間は終わりを告げた。


 ……

 …


 吹き抜けるうららかな風が、髪を撫でる。

 春華さんが消えてしまった翌日。

 母さんの退院日ということもあり、僕は病院に訪れていた。


「ナースさんにはお世話になりました~」

「私のほうこそ、春華ちゃんのことで患者さんに慰めてもらって……」

「いいのよ~。私は人のお話を聞くのが好きだから~」


 大量の荷物が詰め込まれたスーツケースを隣に置く母さんと僕も知り合いのナースさんが話をしていた。

 どうやら、僕が春華さんの幽霊と居る間にナースさんはナースさんで母さんに話を聞いてもらっていたらしい。

 僕が春華さんに支えてもらって一歩を踏み出せたように、みんな、誰かに支えてもらいながら一歩を踏み出しているんだろうな……。

 僕たちが過ごした時間は誰にでもある時間なのかもしれないけど、ひとりひとりが持ちえる時間なのかもしれない。

 ふと、母さんとの会話を終えたナースさんが僕を見て、微笑を浮かべた。


「いい顔、してるわね。春華ちゃんがいなくても……もう大丈夫そう?」


 僕はその質問に、数秒だけ悩んだ。

 春華さんと別れたのは昨日のことで、まだしっかりと大丈夫か聞かれると悩まずに頷くことはできなかった。でも、僕には春華さんに押してもらった一歩がある。

 だから迷うことはあっても前へ進むことだけはやめない。


「はい、大丈夫です。ご心配おかけしました。前に電話で言ってた通り……もう少し落ち着いたら春華さんのお母さんにも電話してみようかと思ってます」

「そうなのね、お願いね」

「はい」

「智ちゃーん、いくわよー」

「え!? あっ母さんそんな先に行ったらダメだよ! それじゃあ失礼します」

「ええ、またいつでもきて春華ちゃんのこと聞かしてね」

「分かりました」


 ナースさんと短い言葉を交わして、僕はスーツケースを持ってずんずん進んでしまう母さんを追いかけた。


 ……

 …


「智ちゃん、ちょっと見ない間に大人っぽくなった?」


 住宅街を進んでいると、母さんが話しかけてきた。


「そう?」

「そうよ~お母さん久しぶりに会ってちょっとびっくりしたんだから~」

「見た目が変わるような時間は経ってなかったと思うけど……」


 母さんと会わなくなってしまったのは、春華さんが死んで病院を避けるようなってしまってからだから、およそ一ヶ月ほどになる。


「それでもなんていうのかしらね~、感覚っていうのかしら~少しだけ大人になって、強くなってくれたような、そんな気がするのよ~」

「そんな曖昧な……でも、母さんの言う通り僕は強くなれたと思うよ。色々なことに後悔せずに一歩を踏み出せるようになったと思う」


 呟きながら見上げる空はひたすらに晴々して、雄大だった。

 昨日までの出来事は、白昼夢のような日々だったんじゃないかとちょっとだけ思ってしまう。でも僕と春華さんが過ごした時間は確かに存在している。それが心に深く刻み込まれている。

 彼女の強さが僕を救って、僕の強さが彼女を救っていた。

 僕たちは救い、救われ、支えあって知り合ってからの二ヶ月間を過ごすことができた。

 これからも僕はその中で培った思い――そして彼女からもらった一歩を踏み出す勇気を忘れることはしない。

 春華さんは、自分の死に向き合えなかったことを弱いと言ったけれど、幽霊となって僕を救ってくれた。そんな風にまで思いを抱ける人間が、どれほどいることだろう?

 信念を突き通した姿は、野であっても育つバラのように強く、ふとした拍子に見せる笑顔が可憐で、そしていつも僕より先に結論をだして何歩も先にいる孤高さがあった。

 僕は僕なりに頑張って前へ進むよ、春華さん。

 一筋の風が答えるように僕の頬を撫でていった。

 

 彼女は野に咲くバラのように、強く可憐でありながら、孤高だった。


 春の白昼夢 おしまい

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