第六話 結編「智の一歩」part1

 結編「智の一歩」part1


 蛇口から流れた水は、周りに跳ね返ることなく、綺麗に排水溝へ流れ落ちる。

 心地のいい水音を聞きながら、洗面台の鏡を見つめて、僕は確かめるように呟いた。


「夢じゃ、ないんだよね……春華さんが居たんだ」


 鏡に映った自分は、数時間前まで絶望の真実に心を閉ざしていた自分とは思えないほど、清々しい顔をしている。

 人の心なんて一瞬のきっかけがあれば、絶望から希望へと――正反対の方向に変わってしまうものらしい。

 なんて現金な奴なのだろうか、僕は。

 自分のことながら春華さんが居るというだけで、こうも元気になれることに呆れてしまう。

 でも、それを悪いことだと思うことはできなかった。


「なんて顔してるんだ。こんな、にやけた顔してたら春華さんに何か言われるかもしれないし……しゃきっとしなきゃ」


 頬を叩いて、呟くと。

 

「なにか呼んだ? 智くん」


 居間にいたはずの春華さんの声が、洗面所と廊下を仕切る扉の奥から聞こえた。

 春華さんと僕しかこの家にいないのだから、独り言でも余計に聞こえやすかったのかもしれない。

 ほんの数日会えなかっただけなのに、もはや懐かしさすら感じてしまう春華さんの姿を思い浮かべながら、返事をする。

 

「呼んでないよ、僕は大丈夫だから居間に戻っといて」

「そ、そう? 分かったわ。何かあったらすぐに呼ぶのよ?」


 戸惑いを含みながらも心配してくれる言葉を掛けてくれながら声が遠ざかる。

 家に居る誰かに返事をするという、当たり前のような光景に、頬が緩む。最近お母さんも家にいないから尚更そう思ってしまうのかもしれないけど。


「……ダメだダメだ。しっかりしないと!」


 洗面台に顔を近づけて、蛇口から流れている水に手をお椀のようにして添える。

 水が手の中に溜まってきたら顔を近づけて、突っ込んだ。


「冷たい……」


 熱を帯びたような心とは裏腹に、三月に入った初日でも冬の気候による凍ったような水の冷たさは、変わらないようだった。

 

 ……

 …


 果てしない広がりを感じさせる青空が、広がっていた。

 昨日は雨が降りっぱなしだったけど、今日はさっぱりとしたいい天気だ。

 何もかも受け入れてしまうとすら思える空の下で、春華さんはふよふよと浮きながら、僕とほぼ同じ速度で動いていた。

 そう、歩いている、ではなく動いている、というのが相応しい。

 重力の影響なんて気にもしない、と言いたげに僕の右隣で浮いている姿は、事情を知らない人から見たら異質な姿だろう。何しろ、種も仕掛けもなく浮いているのだから、おかしなものにしか思えない。

 しかし、誰もそんな春華さんを気にすることなく、ひたすらに自分の目的地へ向かって歩いていく。

 誰にも見えてないってことなんだろうな……。

 今の春華さんは、僕の見慣れていた白くて袖の長いゆったりとしたワンピースを着ておらず、デートのときに着ていた学校の制服を着用している。あのときは、スカートの裾しか見えていなかったけれども、今回は違う。

 春華さんの制服姿は異様なほどに似合っていて、新鮮味があった。

 いつも同じ服を見ていたせいもあるだろうけど、春華さんの制服姿は凜とした華やかさがあって、その中に穏やかなものが感じられる。もし学校に現れたのなら、生徒の注目を一身に集められるのではないかと思えるほど、似合っていた。 


「どうしたの、私なんてジッと見て。この服おかしかった?」


 注目して見ていたのがバレていたらしい。

 春華さんは、体を左右に揺らして不思議そうにしている。


「ううん、おかしなところなんてないよ。制服、似合ってるなって思って」

「そう?」


 言いながら春華さんは、事もなげに重力に逆らって左回転した。

 病院で寝ていた頃とは違って、春華さんは言葉と共に手とかで動きを混ぜてくることが多くなっている。

 もしかしたら本来、体を動かすのが好きなのかもしれない。


「まーた見てるじゃない。しかも笑顔だし、さっきから私の顔に何かついてる?」


 不思議そうにして、春華さんはついに自分の顔をぺたぺたと触りだした。

 何かついてるからって、見てたってわけじゃないんだけど……。

 

「本当に春華さんが、ここに居るんだなって思ってさ」

「そんなこと考えてたのね……でも、そうね。私は確かに、ここに存在してる……」


 自分が存在していることを確認するみたいに、春華さんは目を伏せて胸の辺りへ手を持っていくけれど、少しすると胸に当てた手をだらんと下げてしまった。


「私、どうしちゃったのかしらね。心臓に手を当てても鼓動すら伝わってこないし。智くん以外に私の姿は見えてないみたいだし……」


 自重気味に春華さんが口にしたものは、昨日、春華さんと出会ったあとから、ずっと気になっていたこと。

 今の春華さんは触れることができず、肉体がなく僕以外には見えていない。少し目を離せば、そのまま景色に溶け込んでしまうような、半透明の姿をしている。

 見たままの姿を、そのまま言葉にすれば、つまるところ――。


「幽霊、みたいな感じだよね……」


 そう言うのが、今の春華さんの状態を表すのには、もっとも正しいものに思えた。


「みたいっていうより、幽霊そのものだと思うわ。こんな風に服も自在に変えられるし。普通に、生きているんじゃ起こり得ないことだからね」


 話ながら、春華さんは手品みたいに次々と服を変えていく。

 いつも春華さんが着ていた長袖のワンピースや、警察官やら看護婦の格好やら、普段見たことないものまで着こなしている姿は、着替えを楽しんでいる人のようにしか見えない。

 心の底から楽しそうに服を変えながら、春華さんは再び制服に服を戻した。


「それって念じたりするだけで服を変えられるの?」

「うーん、まぁそんなところね。為りたい自分を想像するだけで、勝手に服が変わるの。幽霊っていうのは、便利なものね。足で歩く必要もないから外にも簡単に出れるし」

「……」


 春華さんの言っていることが、酷く無理をしているように感じられて、続く言葉が浮かばない。

 外に自由に出るということ自体は、ずっと病室に居た、幽霊になる前の春華さんの望んだことであっただろう。

 自分の足で、好きなところへ行き、好きな景色を見つめる。自由に外に出られれば、学校にも行ける。

 春華さんのしたいことが、たくさん外にはあったはずだ。

 だけど幽霊になってから外に出る望みが叶うなんて、とても哀しいことのように思えてしまう。

 本当に幽霊になってしまったかどうかは、分からない。けれど、外に出て来てからの状況から判断するに、春華さんの姿が僕以外に見えていないのは確実だ。

 外に居るのに誰にも存在を分かってもらえない。

 普通なら外に居れば、誰かの目に留まるはずなのに……。それすら起こり得ない。

 誰の目にも留まらないのなら、存在しないのと殆ど変わらないじゃないか……。


「黙りこんで、どうしたの?」


 不意の言葉に、思考していた意識を戻されて、なんでもないと意思表示をするために、首を横に振る。

 哀しいことを延々と考えるより、今は楽しいことを考えたほうが、きっといい。

 心が締めつけられる感覚はもう、たくさんだった。


「ううん、なんでもないよ。それにしても、分からないことだらけだね」

「……その通りね。分かってることと言えば、私は智くん以外の人には見えてないみたいだし、浮けるし、今の私は幽霊ってことくらいだものね」

「今ここに居る春華さんを幽霊だと仮定するのなら……何か幽霊になった原因があるはずだよね、きっと」

「原因、ねぇ……」

「何か思い当たることはないの? 春華さんが僕の前に現れる前までに何かあったとか」


 昨日の夜、春華さんは突然と僕の前に現れた。

 それなら――幽霊となって僕と出会うまでに何かあったと見ることもできるから、聞いてみたんだけど、春華さんは特に考える素振りも見せず。


「んー特に何もなかったと思うわ。私自身も……知らないうちに智くんの傍に居たのよ。でも強いて理由っぽいものをあげるなら死んでしまったってことくらいじゃないかしら」


 春華さんが、あっけらかんと言う。

 死と言う言葉に、思うところがないわけじゃなかった。だけど、できるだけ平静を装って、自分の感情から逃げるように、暗闇に閉ざされそうな心に必死に光を纏わせて、後に続く言葉を僕は言った。


「……そっか。でも幽霊ってテレビとかで見てる限り、執念とか、憎しみとか負の感情っていうのかな。そういうものが原因だったりするみたいだけど……」

「強い激情を抱く相手が居るほど、私が誰かと繋がり持ってたと思う?」


 なるほど。言われてみれば、その通りだ。

 春華さんは病室にずっと居たはずなのだから、そういうことを思う相手すら――あれ?


「もしかして僕、とか?」


 そういうと春華さんは、呆れたように肩をすくめてしまった。まるで検討はずれのことを言ったらしい。


「智くんに、そんな感情抱いたことはないわよ。だから安心しなさい」

「う、うん。ありがとう。ごめんね、疑うようなこと言って」

「いいのよ。智くんは私が幽霊になった理由を探そうとしてるだけなんだから。……でも――そうね」

「どうしたの?」


 春華さんは穏やかに微笑んでから、深い青に染まる、綺麗で曇り一つないさっぱりとした空を見上げる。

 それは今、自分の身に起こっている幽霊となった姿に諦めを抱いているようでもあり、達観しているようにも思える仕草だった。


「幽霊になった理由があったとしてもなかったとしても、検討のつかない理由を考えても、きっとしょうがないのよ。きっと誰にも分からないことだろうから……ね。分からないことを放っておくのは、気持ち悪いかもしれないけど、今の私にとっては、ここにいるってことが全てだから、それでいいと私は思うのよ」


 嘘偽りを感じさせない言葉には、有無を言わさないような清廉さがあり、僕には先の言葉を紡ぐことができなくて、ただ頷き、学校への道を僕たちは歩き続けた。

 春華さんに言ったように、幽霊になった理由は、強い思いだとか強い願いとかの原因があったり……また、幽霊になってしまうほどの思いや願いを叶えたら成仏するというのが、よくある話だ。なら、幽霊になった原因を突き止めたとして、仮に幽霊となった春華さんが消えてしまったら……僕は、どうするのだろう。

 どうするか、なんて考えるまでもない。答えは決まっている――素直に、春華さんが消えてしまうことが嫌だった。

 心の奥底で、瞬いた考えは驚くほど自分のことだけを考えた矮小なもので、自分のことが嫌になる。

 誰からも見えない幽霊となった春華さんのことを心配する傍らで、僕は彼女に消えて欲しくないとも思ってしまっていて、一度失った人を二度と失いたくないと心の中で呟いていた。


 ……

 …


 学校の校門前に着くと、僕の一歩前を浮遊していた春華さんは唐突に前へ進むのを止めて、校舎を見上げ始めた。

 いきなり、どうしたんだろう?

 気になって、隣に居る春華さんの横顔を見てみる。

 呆然と校舎を見つめる眼差しには、羨望や期待や絶望や――その全てをない交ぜにした感情が何重にも広がっており、それが並大抵のものではないことを春華さんの瞳が物語っていた。

 重苦しい雰囲気を纏っている春華さんに、どう言葉をかけるべきか迷っていると、彼女は生徒が飲み込まれるように入っていく校門に視線を移しながら、そっと呟いた。


「智くんは、いつもこの道を通って学校に行ってるのよね」

「うん、そうだけど……どうかした?」

「私も、この校門を通れるんだなぁって思って入学したんだって思っちゃってね。入学試験を受けた時期は体調もよくて、通えると思ってたんだけどなって前にもこんな話したわよね」


 春華さんが話すと同時に穏やかな風が吹き、春華さんの声を妨害することなく僕の髪だけを揺らして、駆け抜けていく。

 いやにはっきりと聞こえた春華さんの言葉が、心の中でひとつの結論を導いた。

 春華さんにとって学校は通いたくても通えなかった場所だから、こうやって校門の前で立ち止まっているんだ。

 校門を通るということ自体が学校に足を踏み入れる一歩目なのだとしたら、春華さんが校門を通るということに多大な意味を持っているというのは、想像できる。

 以前デートをしたときも学校に入るかを聞いたら、春華さんはデートを優先するという理由があったとはいえ、学校に足を踏み入れなかった。

 そのときは考えが回らなかったけれど、自分が通えるようになってから、きちんと校門を通りたかったからこそ、デートのときは学校に入るのをやめようとしたのかもしれない。

 今となっては、通うことすら叶うことじゃないから……春華さんは立ち止まっているんだろう。


「ごめん。暗い話だったわよね。よし、初めての校門くぐりよ、行きましょう、智くん」


 考え込んでいると、春華さんは黙っていた僕に気を使ったのか、明るい語気で校門へ進もうとする。

 全てを飲み込もうとしている横顔が、僕から離れようとする。

 そんな姿を見て、反射的に春華さんを止めていた。


「待って、春華さん」

「え、なに? 早くいかないと予鈴なっちゃうわよ。遅刻よ?」

「うん、分かってる……でも」


 少し前を進んだ春華さんの隣に並ぶために、一歩を踏み出す。

 僕は何を迷っているんだ。

 春華さんには笑顔で居て欲しいって数日前までの僕なら率直に、愚直に動いていたはずだ。

 それなのに、今は無理をさせて、苦しくて辛い顔をさせている

 春華さんが幽霊になっているとして、誰かに見えていなくても僕は春華さんを認識できている。

 それなら僕が春華さんを笑顔にしてあげればいい。彼女の笑顔が見たいから。それが僕が一番最初に抱いた動機のはずだろう。

 決意を固めて、僕は春華さんの右手に沿わせるように左手を重ねた。


「……なに、してるの?」

「ほら、前に春華さんと一緒に登校しようって言ったでしょ? だから……一緒に登校しようかなって」


 前に交わした一緒に登校するって約束は、もう二度と叶うことはないかもしれないけど、今できる精一杯のことをしよう。


「……そっか」


 搾り出した声のあとに春華さんは、確かで自然な笑みを浮かべてくれる。

 それを見て、安堵してしまう。僕の見たかった、柔らかな笑顔だったから。

 でも春華さんの中にある後悔や絶望や希望を全て振り切るのに、僕の言葉はおそらく足りない。足りるようになるときは、一生来ないのかもしれない。

 それでも、今だけは振り切って笑顔を見せてくれたのだから、素直によかったと思える。


「行きましょうか」

「そうだね」


 目で見ている限りでは握っているようにしか見えないけど、実際にはもう握り合うことすら叶うことのない手の感触を思い出しながら、僕たちは校門を通り抜けた。


 ……

 … 


 ホームルーム前にざわついている学校の教室に着いた僕を待っていたのは、しばらく登校していなかった事を心配する友人の姿だった。


「なんだ、智くんにも友達が居たのね」


 登校していなかった理由を少しばかり聞かれて、春華さんがいなくなって塞ぎこんでいたからだ、なんて言うことはできず、嘘を言わない程度に理由をつけ、話をしてから席に座った僕に対する春華さんの第一声がそれだった。

 春華さんは僕の左隣あたりで、周りをきょろきょろと見ながら浮いている。


「いないと思ってたの……?」


 あまり大声で言うと、回りからは何もない空間に話しかけている変な人に見えるだろうし、小声で聞いてみる。


「ええ」

「はっきり言うね……」

「だって放課後になったら、すぐ私のところに来てたみたいだし。友達がいないって誤解してもしょうがないと思わない?」

「そりゃ、そうかもしれないけどさ……」


 何気ない会話をしていると、教室に先生が入ってきてさっさと教壇に立ち始める。


「お、今日は南条も揃ってるな。ホームルーム始めるぞー」

「あれが智くんの先生?」

「そうだよ」

「南条、私語は慎めよ。えー、もうすぐ春休みなわけだが、テストが終わったからって授業の手を抜かないようにしろよー」

「注意されちゃったわね」

「うん……」


 頬を右人差し指で掻きながら、頷く。

 クラスメイトの前で注意され、少し恥ずかしい思いをしつつのホームルームは、春休みに向けての行事を聞かされて終わっていった。

 春華さんは、初めて受けるであろうホームルームで先生の話を受け終わったあとに、こう呟いた。


「ホームルームってやることは、案外普通なのね」


 普通じゃない、春華さんの想像してたホームルームってなんなのだろうか……。

 

 ……

 …


 春の穏やかな気候による気持ちのいい風が、頬を触れるように流れていく。

 太陽が淡く濃い光を放ち、雲があかね色に染まり有様は、何度見ても幻想的と言う他なくて、瞼に焼き付けてしまいそうになる。

 僕と春華さんが下校する周りでは、様々な生徒が今から何処へ寄り道をするだとか、春休みの予定だとかの雑談をしていた。

 それに習うわけではないけど、地面から浮いて前進している春華さんに話しかけてみる。


「一日学校で授業受けて、どうだった?」


 言葉に春華さんは人差し指を唇に当てて、考え込むように目を閉じた。

 僕にとっては授業を受け、お昼ご飯を食べて、また授業をして、といういつもの一日だったけど、初めて学校に足を踏み入れた春華さんは、どういう感想を抱いたのだろう。


「ん~、どうだった、か」


 言いながら閉じていた目を、春華さんは一日の反芻をするかのようにゆったり開ける。


「授業は、そうね。思ってたよりみんな勉強してて退屈だったけれど、休み時間に色んな人の話声が聞こえてくるのがとても面白かったわよ」


 そこで春華さんは、心の底から嬉しそうに唇を綻ばせる。

 さすがに高校生にもなって、きちんと授業聞いてない人は少ないと思うけど……。


「何の食べ物が嫌いだとか、今の授業の何が分からなかったとか……なんていうのかしら、日常会話っていうのかしらね。そういうのがいっぱいあって、これが普通の学生の日常なんだなぁって、智くんと一緒に学校に来てよかったと思ったわ」


 特に何事も起こることのない普通の日常を学校で暮らす。

 それが今まで春華さんの憧れていたものみたいだ。僕ら学生にとってはいつものことでも、春華さんにとっては今日の一日を細かに思い出せるほど、印象深いものになっているのかもしれない。


「楽しんでくれてたんだ。よかった」


 それを聞いた春華さんは穏やかな視線を僕に向けて、可笑しそうにした。


「なに、私が楽しんでるかどうかなんて、そんなこと気にしてたの?」

「うん。だって初めての学校だったでしょ? 楽しく居れたかなって思ってさ」

「そっか……うん。ありがとう、とっても私は楽しかったし、学校に行けて嬉しかったわ」


 芯から心が温かくなりそうなほど、温かみに満ちている言葉と笑顔が体中に染み込んでくる。

 春華さんと一緒に学校、行けてよかった。校門の前で彼女の手を握らなかったからこんなにも清々しい気持ちで、お礼を聞くことはなかったように思える。

 だから、よかった。春華さんの笑顔が見れて、春華さんを楽しくできて。

 その思いと共に、僕は言葉を返した。


「どういたしまして」

「ふふっ、でも今日は感動したりしても、何日も通ってたら退屈になるかもしれないわね」

「いつか学校に行くことが普通になったら、そうなるかもしれないね。ところで、明日も一緒に学校行く?」

「行くというより、行かないといけないわね、私は」

「えっと、どうして?」

「昨日智くんが寝てる間に調べてたんだけど、どうやら私は智くんから一定の範囲しか離れられないみたいなのよ。距離で言うなら二百メートルくらいね」

「そんなことになってたんだ……」


 もっと早く行ってくれててもよかったのに、と思う。

 それから僕たちは、来るかもしれない未来のことを話しながら家に帰った。

 

 ……

 …


「はい、南条です」


 夜ご飯を食べ終えて、居間でテレビを春華さんと見ていたところ、自宅の電話に掛かってきたものを取る。


「夜分にごめんなさい。私は――」

「えっと……ナースさん、ですか?」


 受話器からは聞いたことのある柔らかな声がして、反射的に反応してしまう。


「ええ、そうよ。南条くんが電話にでてくれてよかったわ。もしかしたら出てくれないかと思ってたから……」

「今日は……どう、したんですか?」


 言葉に詰まりながら、恐る恐る聞く。

 僕としては昨日、お葬式で春華さんのお母さんからの言葉に耐え切れなくて、逃げてしまったせいもあり、萎縮してしまう。

 電話が、居間から離れた廊下にあってよかった。

 もし春華さんに、この顔を見せていたら心配をかけていたかもしれないから。


「昨日は無理やり春華ちゃんのお葬式に連れて行って、ごめんなさいね。私だって気持ちの整理がついてなかったって言うのに、南条くんはもっと整理できてなかったでしょう……?」


 ナースさんの申し訳なさそうな声が、受話器から心に入り込んでくる。

 春華さんが死んだ知らせに、僕の気持ちがまったく整理できていなかったことは紛うことなき真実だ。

 あのときの僕は外界に視線を向けないようにして、春華さんの死から必死に逃げようとしていた。

 ……今も春華さんの死をできるだけ考えないようにしている。でも春華さんが居てくれるおかげで少しは外に意識を向けれるようになったと思う。

 今考えればナースさんが、お葬式に意気消沈して返事すらしようとしない僕を連れて行ったのは、春華さんと最後のお別れをさせてくれようとしたからだろう。

 でも僕はナースさんの意図を理解できず、最終的には逃げ出してしまった。僕からナースさんに感謝することはあっても、謝られることはない。


「謝らないでください。例え気持ちの整理ができていなくても、お葬式に連れて行ってくれたのに、最後に春華さんと会わせようとしてくれたのに向き合えなくて、逃げてしまったのは僕です。だから、ごめんなさい」

「……そこまで言えるようになったってことは、南条くんは春華ちゃんの死に向き合えたのね」


 寂しさを滲ませた声が、受話器から聞こえてくる。

 僕は幽霊になっているとはいえ、春華さんが傍に居てくれるからいいけれど、ナースさんは本当にひとりで自分の気持ちと戦っているのだろうか。

 それを考えたら、僕はなんて弱いのだろうと震える左手を握ってしまっていた。


「向き合えたかどうかは……僕にもまだ分からないです。でも、塞ぎこんでいた頃とは違って、少しだけ外を見れるようになったと思います」

「昨日の南条くんは見ていてとても心配になったから、少しでも立ち直ってくれたみたいで、よかったわ。春華ちゃんのことはまだ私も時間がかかりそうだけど……また落ち着いたら電話させてもらってもいいかしら?」

「はい」

「そうだ、言い忘れていたわ。春華ちゃんのお母さんから連絡先を預かっているのよ。落ち着いたら連絡をしてあげて。春華ちゃんのこと、沢山聞きたがっていたみたいだから」

「……分かりました」


 僕は春華さんのお母さんの電話番号を教えてもらい、メモ帳に書いてから電話を切った。

 それから少しの間、居間へ続く扉を凝視しながら立ち尽くしていた。

 ナースさんとの電話で気づかされたことだけど、僕は……決して春華さんの死を乗り越えたわけではない。

 元から分かっていたんだ。彼女が近くに居てくれるから、春華さんが死んだ事実を心が直視しなくてもいいだけだ。

 自分の中にある、うす暗い絶望から目を逸らして、存在する希望にすがる。

 僕は、春華さんに話しかけたときより少しは強くなれたかなと思ったけど、弱いままだったのだろうか……。

 思考は何度も、何度も答えのない問題の解答をめぐり、春華さんが僕が戻ってこなくて心配になり、居間から声をかけてくれるまで途切れることはなかった。


 ……

 …


 春華さんと学校に通い始めて、何事もない平穏無事な一週間が過ぎた日のことだった。

 誰もが寝静まっているであろう深夜に起きてしまい、用を足してトイレから出てきた僕は、ひたすらに暗闇が支配する廊下に面した扉の隙間から光が漏れていた。

 あれは……居間の扉か。

 今日は月が綺麗な日なんだろうか、と行ってみる。

 レバータイプのドアノブを握ろうとしたら、少し開いた扉の隙間から春華さんの姿が見えて、手の動きが止まってしまう。

 白色の月光が降り注ぎ、窓際の床が化粧でもしたかのように照らされて、そこに後姿の春華さんがぽつんと居た。

 現実感を覚えることのない宙に浮いているような、自分が何処にいるのかも分からない幻想的な感覚が全身を支配していく。

 声をかけるという思考すら浮かぶことがない。

 こういうときに、僕は春華さんが絶対に手を伸ばしても届かない、遠いところに居る孤高の存在だと思えるのだ。

 最初に春華さんを一目見たときも、そう。

 まるで、この世界には僕と春華さんしかいなくなってしまったかのような、そんな感覚があった。

 息を殺すようにして、体すら動かさず月光の中にいる春華さんに視線が吸い込まれ続ける。


「私は……このままでいいのかしら」


 不意に、自分に問いかけていると思われる言葉が聞こえた。


「このまま智くんに何もできないでいいのかしら」


 続いて紡がれた言葉は、心臓の鼓動を一段と叩くには十分なものだった。


「私は、なんのためにここにいるの……? 智くんと一緒に居るためだけ? ううん、違う。絶対に違うわ。私は……私は――」


 段々と思いつめるようにか細くなっていく語尾に、春華さんが心配になって顔色を窺おうと窓へ視線を向けてみるものの、彼女の姿はまったく窓に映っていない。

 春華さんは幽霊で、だから窓に映らない。簡単に結果まで繋がる問題ではある。

 でも、その事実が僕を幻想的だと思われた風景から僕を現実に引き戻した。

 彼女は、何を悩んでいるのだろう。

 深夜にひとりで考えているってことは、僕に話せないことなのだろうか。

 疑問が次々と浮かび上がり、心が体を動かそうとしたとき。


「――智くん、ごめんなさい」


 長い間、途切れていた春華さんの言葉が紡がれた。

 ごめんなさい。

 その単語が呟かれた意味が分からず、戸惑う。

 春華さんに謝られることをされた覚えはない。

 なら、彼女は何に対して謝っているのだろう。

 疑問は絶えず出てくるけども、僕は扉の前から一歩も踏み出すことができなかった。

 もし、ここで春華さんの目の前に僕が現れたら彼女が消えてしまうような、そんな気がして。今、彼女にどう話しかけたらいいのか分からなくて。

 僕は静かに扉の前から立ち去り、自分の部屋で熱せられたように鳴り響く心を沈めようとして、布団にもぐりこんだ。


 結編「智の一歩」part1 終わり


 結編「智の一歩」part2に続く

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