最終話 二百と十二の月

 ずり、ずり、ずり。

 ずり、ずり、ずり。


 日増しに重さを感じるようになった足を引き摺り引き摺り。けれど心はどこか軽やかに、兎は歩みをのろのろ進める。


 空は一面の星で雲ひとつなく、月はいつもにもまして、不気味なほどに青白く巨大な円を天に描き、変わらぬ瞳で兎を見下ろしている。


 写真は実に二百と十一枚になり、結局絵空事を詰め込む余地のある写真となると、先の一枚、それのみであった。


 けれど、兎は老兎であり、老兎であるからには足を痛めていて、当然、写真家であった。


 そしてそれ以上に、兎は老兎であり、老兎である前に、一匹の兎であり、下戸蛙の唯一の友であった。たとい下戸ゲコ下戸ゲコ吐瀉ゲロ吐瀉ゲロ寓話グウワ愚話グワ。としか鳴けぬ友であっても、その友のためであれば、その友と楽しみ、杯を交わすためであれば、夢絵空事など、たった一つあればよいのだ。


 蛙は中秋の名月は雨であるべきだ。などと愚痴をこぼすやもしれない。

 空に映る月などまやかしであるなどと大言壮語を吐くやもしれない。

 無論、蛙が話す言葉は、兎には伝わらないかもしれない。

 けれど、それでもいいと思えるほどに、兎の心は晴れていた。

 兎による反逆史などと息巻いていた過去を笑い飛ばし、そんなことよりあの箱舟は――。と新たな物語を提供すること。

 それこそがこの名月の肴であり、花なのだ。と、強く、強く、思っていた。


 それにしても、静かな夜であった。

 不気味なくらい、静かな夜であった。


 ともすれば、この世界にはもはや兎ただ一人しか存在しないのではないかと感じさせるような、そんな夜であった。


 ずり、ずり、ずり。

 ずり、ずり、ずり。


 足を引き摺る音だけが、夜空に吸い込まれ、消えていく。

 ああ、蛙と会うのはいつぶりだろうか。もう、しばらく会っていなかったような気さえする。


 ずり、ずり、ずり。

 ずり、ずり、ずり。


 蛙の声は、聞こえない。風の音すら、聞こえない。摺(ず)り摺(ず)り摺(ず)り摺(ず)り足を引き摺る音だけが、ただ、ただ、響く。


 ずり、ずり、ずり。

 ずり、ずり、ずり。

 ずり、ずり、ずり、ずり、ずり、ずり、ず


 足が、止まる。


 池であった。

 兎と下戸蛙が幾度となく語り明かしたいつもの池であった。

 池は見事に鏡の体をなし、その湖面にはやはり、不気味なほどに青白く巨大な月が、写しだされていた。


「おい」


 声を張る。


「おい、蛙」


 返事はない。



「おい、蛙。私だ。兎だ。老いた兎だ。名乗るまでもないだろう」


「ここ数日はすまなかった。めっきり、自分事に打ち込んでしまってな」


「だが、聴いてほしい。なに? その前に月に行くのではなかったかと? なるほど。確かに私はそういったやもしれぬ」


「だが、そんなこと。些事にすぎぬ。そんなものより私は、より、大きな物語を持ってきた」


「全ての生物を、月へ運ぶ物語だ。老いたウサギ一匹が月に行くなどというちっぽけな話とはわけが違う」


「なあに、証拠はここにある。長い話になるだろう。だがしかし、今宵は名月。酒と団子ならここにある。無論、君が、下戸であるのは承知だがね。だが、たまには良いのではないか。なあ、君。たまには、不格好に、無様に、酔いつぶれて、吐瀉吐瀉鳴いて、愚話愚話言って、そんなことが許されるのが、名月だろう」


「なあ、おい、だから、そんなところで。まさか湖面に映る月の真ん中で、そうして黙って浮かんでなくてもいいだろう。なあ、ほら、こっちに来いよ。月の写真ならたくさんある。一つの月より、二百の月を愛でようじゃないか。ああ、そうだ、この月を見てくれ。この月こそが、先に私が述べた箱舟の鍵。物語の証拠なのだよ。なあ、ほら、君。こっちへおいでよ。なあ、君、一体どうしたって――」



 不意に。風が起こる。


 一瞬の、秋の風だ。


 そしてその風はいともたやすく兎の手から写真を。

 二百と十一枚にのぼる写真を奪い、舞いあげ、水面へと。残らず投げ出すのである。





 さあさ、見ものだ。大勝負。

 挑みますは、老いたる兎。跳び方忘れた、哀れな老兎。

 されど、兎は飛翔とびましょう。

 武器は、己の老体と、水面に映る二百十二の月、月、月。

 さよう、これは兎による反逆史。

 取り残された老兎の、最後の意地の飛翔であります。

 さあさ、皆さま御立会。月へと飛翔とんで見せましょう。




 風が止み、水面は静まり、もはや聞こえるのは、兎の小さな吐息だけ。


 そして、二百と十二の月のもとへと、


 兎は――

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