6話 箱船

 兎とて、いつでも寝坊をするわけではない。


 むしろ兎は老兎であり、老兎であるからには眠りも短くなり、必然。中秋の名月を迎えるその日、兎は早くに目覚めたのである。


 場所はここ数日ですっかり寝室へと化した暗室であり、暗室であるからにはやはり赤暗い沈黙が場を支配しており、その頭上には二百と三の月が掲げられ、四百と六の瞳は、相変わらずの色で老兎を見下ろしているのである。


 すなわちそれは、兎の敗北であった。

 いや、たとい兎があと百年をかけ、一億の月を眺めたとして、結果は変わらなかったであろう。


 それほどまでに月は兎にとって圧倒的であったし、兎は老兎で、科学者でも天文学者でも物理学者でもなく、ただの写真家にすぎなかったというまでのことだ。


 不思議と、兎に悔しさは無かった。

 むしろどこか安堵のような、言い知れぬ感情が、くつくつと静かに腹の中で蠢いているのだが、それが何に由来するものであるかを、老いた兎には確認する術もない。


 未だ真赤な寝ぼけまなこを手で擦り、昨日現像しておいたネガを印刷する作業に取り掛かる。


 一枚。二枚と印刷し、つるしては目を凝らし、けれどそこには何も見つけられず、また次の印刷へと戻る。


 哀しいかな。実に二百を超える月の写真をここ数日で取り続けたのにもかかわらず、老兎の写真の腕前は一向に上達することなくこの日を迎えていた。

 せめて。せめて腕前が上達でもし、最高の一枚が取れたのであれば、蛙にだって自慢を出来たであろう。

 月の真の姿をこうして収めたが、なに。月は大したことがなくこうして戻ってきたのだ。と、虚を吐くこともできたであろう。


 或いは、これから数年して、ああ、あの時に一心不乱に写真を写し続けたおかげで、劇的に成長したものだった。と、懐かしむことだってできたかもしれない。


 けれど、現実とは得てしてそういうモノなのだ。

 徒労は徒労で終わり、けれど本人はそれを徒労であるとすら気付かずに、暖々のんのんと日常という積み重ねの一幕として、いつかは忘れてしまうのだろう。


 と、兎は新たにつるした写真の一部に、目を向ける。

 それは、なんてことはないただの月の、なんてことはない汚れであった。


 概ね、寝ぼけ眼を擦った目ヤニが、感光時に交じりでもしたのだろう。

 不自然に一部だけ白く抜かれた、現代芸術だというにもおこがましい、失敗作。


 無論、兎だってそんなことは承知していよう。

 だが、それでも、一度転がり出した想像は膨らむのである。


 さては、あの箱舟は、月へと向かう箱舟だったのではないか。

 そうして箱舟は昨夜、こうして月に降り立ち、これより先は月にて生を広げ、満ち満ちて、第二の楽園へと至るのではなかろうか。


 兎は知らず、微笑んでいた。


 その頬笑みがどこから端を発するモノなのか。やはり老いた兎には想像だにできない。

 けれど、少なくともその想像に、ありえない絵空事に、善しと。それならば、万事が善し。と、太鼓判を押したのだった。


 そして、そうだ、この写真を、あの下戸蛙に見せてやろう。一緒に悔しがり、一緒に喚き、呑めない酒を呑ませて、吐瀉吐瀉鳴かせてやろう。いや、この写真だけではない。全ての写真を持ちだして、全ての写真を見比べて、寓話愚話と言われながらも、その痕跡を見つけてやろう。嘘を本当にしてやろう。本当を嘘にしてやろう。

 なあんて、老兎らしくもなく、心を躍らせ空想を広げ、そうと決まれば納まりが悪い。残りの写真も現像せねばと、しこしこ作業に戻るのであった。

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