5話 餅

 二日が過ぎ、三日が経ち、四日が走り去ったところで、それでも変わらず兎には、何ら勝算の糸口すら見えていない。

 兎は老兎であり、老兎であることをこの時ばかりは恨んでみたものの、それすらどこか空しくなり、以後は大人しく、月を、星を、大地を、自然を写しては現像をする環の中へと没頭していった。


 それと同時に兎には、こなさねばならぬ案件があった。

 餅をつき、団子とするその作業は、今や兎のみが取り行える、中秋の名月というどこか儀式めいた月見に花を添える、重要な役割なのである。


 そも、月見といえば酒であり、酒を呑むにはつまみがいる。

 今や兎と下戸蛙しか存在しないこの地ではあるが。

 いや、この地だからこそ、宴の花として、肴として、餅はなくてはならないモノなのである。


 そしてそれはつまり、名月までの日がもう残り少ないことを――兎の敗北が目前に迫っていることを――如実に表しているのだ。


 今や暗室には百と十七にものぼる月がつるされ、故に二百と三十四にも至るあの瞳が兎を見下ろしており、けれどそこからは何らかの情報も発せられることはなく、まさに、天上の月のように、手の届かない光だけを、その内に宿しているのであった。


 兎には焦りがなかった。といえば、それはもちろん嘘になるだろう。

 だが、それでも、兎はどこか落ち着いていた。

 必ず勝機はあるのだと、無根拠に確信をしていた。


 兎は老兎であり、老兎であるけれど、結局のところ、その天性の楽観性は消え失せることはなかったのである。

 過去に鮫に毛皮をはがされようが、亀に歩みで負けようが、それでもなお、兎は等しく楽観主義であり、そのことに矜持さえ持っているのである。


 だからこうして餅をつき、一人でそれを返し々々する姿を愚痴りながらも、月への道筋を、算段を、模索し続けているのである。


 そしてふと、ここ数日は蛙に会っていないことを思い出す。

 もちろん、酒の入った中とはいえ、あれだけの大見栄を張ったのだから、なかなかどうしてそう簡単に顔を出すことができない心情ではあった。

 けれど、こう、数日にわたって顔を見せなかったことはてんで兎の記憶にはなく、まあ、だが、それでも、たまにあるかないかの機会だ。むしろ私が月へ行ったあかつきには、蛙は一人だけこの地に残されるのだから、その前練習と考えればよいだろう。なんてひとりごちて、不意に体を震わせる。


 嗚呼。月とはもしや、ひどく孤独なのではなかろうか。

 これまで百と十七の月を見てきたが、そこに生物の痕跡などもなく、何より、月に兎や蛙がいたなどというのは、お伽噺。

 蛙の言葉を借りるなら寓話愚話でしかあり得ないのだ。


 きゅぽん。


 と。兎は、兎自身の中の、何かが外れるような音を聞いた気がした。

 けれどその音がなんであるか。

 今、老兎の心に芽生えたこの感情がなんなのかは、理解ができる類のものではなかった。


 或いはもしこの場に人間がいて、兎は寂しくなると死んでしまうのだ。と告げられれば、その文面の通り、兎はここで死に絶えていたのやもしれぬ。

 だがしかし、兎の経験が。兎のこれまでに連綿と紡いできた歴史が、それを寂しさだとは認識せず、また、兎自身に、兎は寂しいと死んでしまうという知識すらなく、よって、その言い知れぬ感情を抱きながら、ただただ、ぺたん。ぺたん。と、餅をつき続け、月を思い続けるのである。


 吐瀉吐瀉と、どこか遠くで鳴く蛙の声を、老いた耳で拾いながら。

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