―― 十二月十日 昼 ――

 扉を開けると、太い木材で組まれた丈夫そうな書き物机に、白髪の男が座っていた。色落ちしたシャツを着て、首筋にたるんだ皮膚がのぞいている。波打つ髪が肩までのび、鷲鼻にちょこんと眼鏡が乗る。

 くぼんだ眼窩に鷲鼻という特徴から、ロゴス博士ということはわかる。しかし頭髪の色から髪型、服装まで全く違うため受ける印象は大きく異なる。

「おひさしぶりです、博士」

 メルヴィルが手袋をぬいで右手をさしだす。ロゴス博士も細い右腕をのばし、がっしりと握手した。

「会話するのは一年ぶりだな。顔を直接にあわせるのは二年ぶりといったところか」

「はい、なつかしく思います」

 ロゴス博士が左手で眼鏡の位置をなおす。

「見ないうちに、大きくなった……かな?」

「あまり背は高くなりませんでした」

 そうか、と握った手をはなして博士が笑う。机の上には書類が広げられている。細かい数字がならべられていて、何を意味するのかはよくわからない。

「そちらの青年は?」

「カナダキイチロウさんです。半年前に白鯨へ接触し、間近で観察した人物です。アクシュネットが行う今回の南極大陸調査にも協力していただく予定です」

「ほう、カナダキ……いや、カナダがファミリーネームか。日系人だね。歓迎しよう、そこに椅子があるから、二人とも座りなさい」

 すすめられるままに木製の椅子に座った。座りにくくはないが歪な形をしていて、この船の上で流木を組み立てたものかもしれない。

 メルヴィルがさっそく質問をした。なぜロゴス博士はブルーに入ったのか、そしてブルーという集団は何者なのか。本題の南極大陸から送られてきたコードについては、後回しにしている。

「入った動機については手紙に書いたとおりだ。海上だけで生活する、私たちの知らない共同体。専攻している研究テーマそのものだ、入る機会があれば逃せるわけがない」

「どのように入ることができたのでしょうか。海上で対話に成功した例はブルー側から接触してきた前回が初めてです」

「彼らは海上生活にあたって自給自足するだけでなく、手工業で生産した工芸品の売買もおこなっている。たまたま私が言語を採取していた地域にも、彼らが小舟に籠を乗せて売りにきた。そこで帰りに乗せてもらったのだよ。この機会を逃せばいつまた会えるかわからなかった。そのため連絡を残せなかったことは悪かったね。走り書きした手紙を現地の友人にたくすのがやっとだった」

「それで、研究の結論は出たのでしょうか。ブルーの思想や、目的としていることが何なのか」

 メルヴィルが首もとを押さえる。つけられた傷をたしかめるように。

「思っていたとおり、ここの者たちは海洋保護団体などではなかった。全く新しい漂泊の民。いわばロマであり、そこの青年の国でいうならサンカやワコウと同じだ」

「サンカ? ワコウ?」

 比喩として出された言葉のどれも聞きおぼえがない。

「ロマについては、偏見をおびたジプシーという呼称が、今でも知られているかな。エジプト出身という意味でジプシーと名づけられたが、民族としての源流はインドと思われる」

 ジプシーならば聞きおぼえがある。今では国境を超えて移動する民族として権利が認められているが、かつては差別され、時に虐殺されたこともあった。

「サンカは日本国内を定住せずに生活する人々の呼称だ。日本語を話して日本の風俗で生き、それでいながら社会的に別個の存在としてあつかわれた、階級と民族の境界線上にある存在だ。小説家が物語じみた研究結果を発表し、概念を広めたため、サンカ自身にも過去の姿は忘れさられてしまった。ワコウは、歴史の授業で習わなかったかな。西暦でいうと十五世紀ごろに朝鮮半島から日本列島にかけて活躍した海の集団だ。日本の海賊という意味の言葉だが、実際にはアジアの広い地域から集まって活動をしていた」

「そうか、倭寇なら知っている……知っているが。しかし各国の民族が混成して暴れた海賊だろう。ただの犯罪集団を民族にならべるのは違和感があるが」

「海賊という呼称は、その時々の中央政府が正当性を認めなかった海上生活集団を指すものだよ。近代国家という概念のない時代に、どちらが正当性を持っているかなど後から安易に決めるべきではない。海の豪族か陸の豪族かという違いしかないのだ」

「他人から物を奪うことに正当性があるというのか」

「生活についても、実際に強盗や脅迫だけで共同体を成り立たせられるわけがない。それらは偏見と物語化の産物だ。実際の海賊は、漁業や海上交通の許可料、私的な貿易で利益をあげていた。中央政府と海賊がそれぞれ持つ正当性には、あいまいな差異しかないのだよ。中央政府と同じことをしても、許可料をとれば恐喝とされ、外国と正式な関係を持っていても密貿易とされる。無理に金品を奪うことや、奴隷化することを、中央政府流の言葉に翻訳すると税や労役になる」

 机の茶をひとくち飲み、ロゴス博士は結論づけた。

「アフリカ大陸やオセアニアで見られる現在の海賊にも通じる話だよ。海賊は境界線上で生きる、マージナルマンだ。その生活基盤を、ほぼ完全に海へ置いた者達がブルーと呼ばれているといっていい」

 ちょうどいい話題に、ずっと疑問に思っていたことをたずねた。

「だが大きくなった集団には規律が必要だろう。たしかに海賊は古い国家と同じくらいの正当性があって、他人から何も奪わずに生活できていたこともあったのかもしれない。しかし海賊の中に、略奪や戦闘をおこなう集団がいたことも事実だろう」

 二人が俺を見る。

「ある者がブルーと接触して傷をつけられた時に、責任を取るのは誰だ。傷をつけた船に乗っている実行犯だけを特定し、捕まえなければいけないのか」

「その場合は、たいていの法律では船の責任者もかくまった責任を問われるだろう。それだけだな」

 メルヴィルの顔を正面から見る。メルヴィルの瞳はゆるがず、無言で俺を正面から見返す。俺にはいえても、ロゴス博士の前ではいえないのか。それとも今はブルーの船にいるからいえないのか。

「こいつがブルーの行動で傷ついたことを知っているのか」

 隠している傷の話をしたために後でメルヴィルから批難されようとも、目の前の男にいいたかった。

「あれは事故です」

 メルヴィルの言葉をさえぎって俺はいう。

「一ヶ月前、ちょうど博士から手紙が送られてきた直後だと聞く。体当たりをされて船上のワイヤーが切断され、怪我をおった」

「それは大変なことだ。大丈夫だったかね」

 ロゴス博士が眼鏡をさげ、裸眼でメルヴィルを見つめる。メルヴィルは無言で小さくうなずいた。

「大丈夫とか大丈夫じゃないとかの話はしていない。いったい誰が彼女を傷つけた責任をとるのかと質問しているんだ」

「君は外国旅行していた日本人が外国人を傷つけたら、全ての日本人が手当たりしだいに裁判にかけられることを望むかね」

「日本の外交官が公務で外国人を傷つけたら、外交官特権で実行者は捕まえられなくても、日本政府の責任が大きく問われるはずだ。ブルーは調査捕鯨船に接近して、白鯨を傷つけないよう主張するために体当たりしたのだろう」

 メルヴィルを見る。

「はい、彼らはブルーと名乗り、接近して手紙を投げ入れてきました。その時に衝突したのです。でも、衝突が意図的かどうかすら、近くで見ていた私にも判断できません。たがいに高速で航行していましたから」

 メルヴィルの言葉をうなずきながら聞き終えた博士が、俺に向きなおった。

「なるほど、君がいいたいことは理解した。傷つけられたことを許せないと思う感情のまま主張しているわけだ」

「感情の何がいけない?」

「理性をなくし、思考力をなくすことがいけない。衝突してきた船はブルーと名乗っていたそうだが、偽装工作という可能性をまず考えるべきだ」

「たしかに、彼らが移動に用いる船は、ありふれた中古の漁船が多いですが」

 可能性を検討しはじめたらしいメルヴィルを俺はさえぎった。

「そんな理屈は、いいわけにもならない。裁判で証言しても通用するものか」

 ロゴス博士は指を一本立てた。

「まず、ここにいる者たちはブルーを自称してなどいない。それは彼らを外部から見た社会が、勝手に名づけたものにすぎない。ロマをジプシーと呼ぶようなものだ」

 次に二本目の指を立てた。

「彼らは個別の意思で動く、独立した共同体であり、ひとくくりに呼ぶこと自体が単純すぎる。同じ見た目だからという理由でブルーと呼ばれているが、似ているのは海上生活様式の知識を共有した結果にすぎない。アブラハム博士がアフリカ大陸で作ったネットメイカーと同じだ。ちなみにネットメイカーと違って、上位の統率者集団もなければ、規約の共有すらおこなっていない」

「それは無責任すぎる。領海に入りこんで漁をおこなうような生活様式を教えたなら、教えた者の責任もあるはずだ」

 メルヴィルが傷ついたのは事故だとしても、誰も責任を取らなくていいという話にはならない。

 しかし博士は三本目の指を立てた。

「それは教えられた生活手段の結果ではない。そういう共同体がいたというだけで全体の責任が問われるべきではない。調べた限り、あくまで生活基盤となる船の改造や修繕、農業や畜産や養殖の方法論が教えられているだけだ」

「メルヴィルがいっていた。貝や海藻を船体からたらした紐で養殖しているなら、外来生物を広めてしまうだろうと」

「メルヴィル……サラ君がいっていたのか。さすが、その懸念には妥当性があるといえるだろう」

 だが博士は四本目の指も立てた。

「むろん、貝や海藻が既存の生態系を壊さないよう、注意くらいはしている。そもそも陸地には近よらず、外洋をただよう生活様式が基本なのだからな」

「ならば、どうやって薬や機材を入手しているのだ。いくらなんでも、そこまで海上だけでまかなえるはずがない」

 五本目の指が立てられた。

「海中に沈んだり海面を漂流したりしている物品を集め、いくつかの地域で売っている。手工業による生産品や、絵のような文化もだ。そう不審がるようなことではない。ブルーと呼び、怪しいという理由で門戸を閉ざすような国ばかりではないのだ」

 だが、まだロゴス博士が答えていない問題が残っている。

「海上生活の方法が教えられている。それも、たがいにというより、誰か特定の集団であるかのような口ぶりに聞こえた。その正体こそがブルーではないのか」

「この海上生活の起源は、そう古くはないが、新しくもない。教えを受けつぎながら、独力で学んだ知識をくわえていっている」

 ロゴス博士は椅子に深く座りなおし、語りだした。

「最初は、独裁国家から逃げ出した難民船だったという。だが難民をこころよく受け入れる国は滅多にない。上陸を許さないか、拘束して権利を奪うか、ひどい時にはもとの国へ送り返す」

「ああ……知っている。大氷嘯の後は、特にひどかった」

 遠洋漁業中、まれに、沈没しないことが奇妙に思えるくらい赤錆びた船が、外洋で漂流している姿を見つけたことがある。たいてい当局へ通報したが、その船に乗っている者たちが生きていたか、生きていたとしてどのようにあつかわれたか、俺は知らない。

「そうだ。海岸線に面した国家の多くが領土の減少にばかり目をうばわれ、難民を移住させればさらに土地が奪われるという恐怖におそわれた。少なくない難民船が、海上を漂流し続けて、乗っていた者は息絶えていった」

 ロゴス博士は静かに語る。ブルーの船は速度が遅く、ほとんど海流にまかせて漂っているため、船内にほとんど音がしない。天井からうっすらと、集団で小太鼓を叩くように豚の足音が聞こえてくるだけだ。いつか肉になる日まで、豚はのんきに生きているのだろう。

「もし、上陸せずに海上で生きていける方法を編み出せたなら、その難民船だけが生き残ることができる。数知れぬ難民船があふれている現代は、それぞれの難民船が生きていける方法論を無数に試していたといっていい。充分な数があれば、たとえ相互に情報を共有しなくても、確率的に誰かが巧い方法論へたどりつくことができる。一度でも方法論にたどりつけば、あとは他の難民船に方法論を伝え、あるいは乗員を仲間へ迎える。そうして大きな共同体が形成されていった」

「適者生存で淘汰されたということですか」

 問うメルヴィルにロゴス博士が答える。

「そういう概念もあるね。ただし、生物学的な進化論を社会学へ安易に当てはめることはつつしまなければならん。劣った者は死んでも良いと進化論を誤読する政治家は、独裁国家だけでなく、形ばかりの民主国家にも、まま見られるものだ」

 いずれにせよ、とロゴス博士は話を戻した。

「難民が人間らしく生きていける場所は既存の国家に存在しなかった。海の上に新たな共同体を作りあげても、追い出した者達が、それを黙って見ていた者達が、非難できることではない」

 かつてロゴス博士は難民が生まれずにすむような政策にかかわり、持てる力をそそいでいた。その立場にある者が非難できなければ、他に非難できる者はいないかもしれない。

「彼らは自由であり、できる限り他人を傷つけないよう生きている、それだけだ。正式な医者がいなくても、感染症がはびこる地域に住むより、激しい内戦が続く社会より、自由な表現ができない国に住むより、ずっと人間らしい幸福がある」

 たしかに正論ではあるだろう。だが、だからこそ俺は反感をおぼえたし、どこか卑怯ないいまわしのようにも思えた。

「それでも、俺には今も難民と同じようにしか見えない。せめて子供には出て行く選択肢をあたえるべきではないのか。たとえば病気にかかれば、抵抗力の低い子供が最も苦しむ」

「両親から引きはなして何がしたい。かわりの衣服と食事と住居と、そして家族を新しく与えられるというのかね。この失われつつある土地を今なお奪いあっている世界で」

「違うだろ、その理屈は」

 俺は反射的に否定した。

「嫌なことと、すさまじく嫌なことを比べて、嫌なことを我慢しながら受け入れることは自由じゃない。どちらも嫌だといえるのが本当の自由だ」

 主張しながら論理を組み立てていく。俺自身でも正しいことをいえている自信はない。ただ、感情的な反発だった。

「ここの連中は、ここが好きだから、ここに住んでいるんだろう。ひどいところと比べてしかたなく、嫌なところに住んでるわけではないだろう」

 ロゴス博士は口をつぐみ、しばし顎をかきながらうつむいた。それから、じっと机に広がる書類を見る。

 そして何度もうなずき、顔をあげた。

「そうだな、本当にそうだ。それについては私が間違っていたな。ここにいる者たちは、海の生活を楽しんでいる。もちろん苦しいこともあるし、悲しいこともあっただろう。だが、ここにある幸せを選んで、ここに来ているのだよ」

 俺は問いを続ける。疑問と反感がないまぜになってあふれてくる。

「共同体というからには、その共同体を呼ぶ名前があるのではないのか。個々の船が異なる共同体だとしても、その個々に名前がついていないとおかしくないか」

 俺の問いに対して、ロゴス博士は首を何度も横にふった。

「気持ちはわからないでもないが、現実はそうではないのだよ。たとえばカナダ北部に住むイヌイット民族は、彼らの言葉で人々という意味しかない。カナダ君の国にも、北方にアイヌ民族がいるだろう。その名前はかつて人間というだけの意味を持っていた。民族意識は外部との関係性によって築かれるのだよ。遺伝形質はもちろん文化が全く同じでも、自認することで別民族となる場合すらある」

「だとしても、自身の共同体を意味する呼称はあるはずだ。民族や共同体という自覚がなかったとしても、他の船と交流する時に、それぞれが区別できる名前を使っているのが自然だろう」

「そう定義して質問するなら、私にも答えられる。彼らは同じ生活様式を持つ共同体としてではなく、船ごとの共同体という自意識を持っている。共同体がいる場所、いわば国名や地域名として、乗っている船の名前をそのまま使うことが多い。そして船のかわりに、世界を意味するワールド、都市を意味するシティー、粗末な家や巣穴という意味のホール、といった単語が土地を意味する言葉として主に使われている。シティーという言葉が好まれるが、入り江という意味や、淵という意味も持っている言葉、つまりホールと組み合わせて、ホールシティーという単語が最も多用されている。それが私の調査結果だ」

「英語なのですね」

「ここにいる者たちは主に英語を用いており、ほとんど共通語となっている。共同体といさかいがあれば、別の船に移動することもあるので、共通する言葉があれば便利なのだろう。商売のために、中国語やヒンドゥー語を話せる者も多い」

「ブルーという呼称も英語だ。何か関連性があるのか」

 俗語で、ブルーがアフリカ系アメリカ人を意味する蔑称と聞いたことがある。実際に目にしたことはないが、多種多様な人種が働いている遠洋漁業ではそういう俗語の知識をそこここで耳にした。

「おそらく、過去に陸上の人間と接触した誰かが、どこから来たかを説明するために、ザ・ブルーといった表現を使ったのだろう。あくまで推測であって、まだ研究は途上だがね」

 ザ・ブルー。大海から来たということか。

「ホールシティーが成り立った起源ははっきりとしないが、大氷嘯前にまでさかのぼる可能性もある」

「では、エイハブに対抗するため生まれた組織だという説は、完全に間違っていたということでしょうか」

「そうだろうな。少なくともホールシティーで生まれ育った子供もいる。ここにいる少なくない住人が、すでに海を故郷としているのだよ」

 海をさすらう、全く新たな民族。

 それゆえに、彼らの生き方を否定してはいけないということなのか。


 メルヴィルが椅子から立ち上がった。

「博士がここへ入った経緯と、こちらの概要は理解できました。ありがとうございます」

 鞄から折りたたまれた書類を出し、ロゴス博士へわたす。

「それでは本題に入らせてください。三ヶ月前に、南極大陸のタルシシュ半島から、電波を用いた通信が発せられました。その内容は、七年前の第一次白鯨調査計画でアクシュネットが用いていたコードで暗号化されていました」

 ロゴス博士は書類を見もせず机に置き、メルヴィルの話へ耳をかたむけた。

「みっつの文章の内、同型のコードを用いることでふたつの文章までは解読できました。それぞれ、白鯨と人類の友好を求める文章と、知性ある存在として人類との接触を求めているという文章と思われます。ですが、残ったひとつの文章は当時に使用していたコードが不明で、解読できていません。そこで当時のコード開発をおこなっていた博士に、お力ぞえをいただきたいのです」

 ロゴス博士はメルヴィルを正面から見つめ、動こうとしない。

「私たちには調査に残された時間がほとんどありません。解読に手間と時間がかかるかもしれませんし、七年前のことですから博士にも困難かもしれません。それでも、たよれる人が他にいないのです。手助けをねがえないでしょうか」

 いいつのるメルヴィルを押しとどめるかのように手のひらを向け、ロゴス博士が口を開いた。

「そのコードならよく記憶しているよ。もちろん、すでに解読も終わっている」

 口を開けたままメルヴィルが言葉につまった。

 話が理解できない俺たちの目の前で、博士は机の引き出しから無数の走り書きがされた便箋をとりだす。

「三ヶ月前の通信は、南極に接近していた一隻のホールシティーも受信していたのだよ」

 博士が受信したわけではないようないいまわしに俺は疑問をおぼえた。

「アクシュネットしか使っていないコードを受信できたのか?」

「もちろんコードの解読などはできなかったが、コードをつたえる電波の帯域や規格は既存のものだからね。何か重要な意味があるのではないのかと解読を求める手紙がホールシティー間でまわされていき、最終的に私のところまで来た」

 眼鏡を外し、メルヴィルからわたされた書類と、自らの手もとにある走り書きされた紙を見比べる。

「まさかとは思ったが、間違いなくこのコードだった。これだけは何を意味するかを調べなおすまでもなく記憶していた。これは、あの日にしか意味がないものだった。誰にも解読できるはずはない。内容を知っているのは、私とアブラハムだけだ」

 ロゴス博士が椅子から立ち上がった。

「今なら秘密を明かしてもいいだろう。アブラハムも許してくれると信じている」

 机をまわり、メルヴィルへ歩みよってくる。

「サラ、君だけのコードだ」

 彼女が見あげた先に老いた男のほほえみがある。その唇が開き、ずっと失われていた文章を口にする。

「誕生日おめでとう」

 ああ、そうか。事故を起こしたその日、深海調査をおこなっていたアブラハム博士は、ただ一人血のつながった家族に、海の底から誕生日を祝おうとしたのか。友人のロゴス博士と二人だけの秘密にして。そのメッセージは七年の時を超えて、ようやく今ここでとどいたのだ。

 そして博士は頭をかいた。

「少し遅れてしまったね。でも、今年の誕生日までには間にあって良かった」

 メルヴィルは何もいわず目をふせて、ちいさくうなずいた。

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