―― 十二月十日 朝 ――

 まぬけな声をあげてしまった。

 薄っぺらい靴底をとおして、船倉の床にある突起の存在が痛いほどに感じられる。足のツボをマッサージされているような感触だ。

「気分が悪いか?」

 腕組みをした平井が笑う。

「いや、慣れていなかっただけで、普通の胴長靴よりはずっと楽だ」

 ワタツミズも、まずは通常のパワードウェーダーと同じように、足先から腹部まで覆う灰色の胴長靴を着る。

 胴長靴はその名前のとおり、普通のゴム長靴から薄いゴム製のスーツをのばして下半身をおおうデザインだ。硬いゴム長靴と柔らかいゴム製スーツが繋がっている膝下は、何度も曲げ伸ばしすると裂けやすい。高級品は丈夫な繊維で補強されたりもしているが、原理的に裂けやすいという根本の原因は解消できない。太さが違うために、内側に着ている長ズボンが膝下にひっかかり、ふくらはぎが直接にゴム長靴とこすれて不快になったりもする。

 しかしワタツミズは外骨格の足首で地面をふみしめるため、胴長靴に分厚い靴底は必要ない。外装で守るため、防護性も少なくて良い。ゴム長靴を延長したものというより、潜水用スーツの胸から上を切り取ったものというイメージが近い。だから壁にかけると普通の胴長靴よりも平たくなり、ミイラのようにも見えたのだ。

 少し歩いてみる。膝下に不快感がないことはもちろん、足首や股関節もずっと動きやすい。

「いいな、これ。この胴長だけでもほしいぞ。水槽掃除のような軽作業なら充分に使える」

「それだけのために買うには高価すぎるし、管理も大変だ。サイズも合うものを探さなければならない」

 背の高さと反比例するように筋肉で手足が太くなっている漁師向け商品で、平井にぴったりあうサイズはたしかに少なそうだ。

「足先が渓流足袋けいりゅうたびのように親指が別れているのもいいな。靴底が薄くて滑り止めが弱いかわりに、しっかりふみしめられる。意外と見たことないぞ、このタイプ」

「それには理由がある。ちゃんとマニュアルを読んだのだろう?」

「もちろん。この別れた指を動かして、外骨格の足裏にある吸着装置を動かしたりするんだよな」

 強い弾力性を持つボールのようなものが足裏にあり、それを突き出しつつ圧力をかけると一時的に固化する。つまり表面の凹凸に食いこむことができる。斜面を登るための装置だ。ただし、人間を超えた能力があるというほどではなく、重い機械が二足歩行しても斜面を滑らないために使われる。

「そろそろライフジャケットも着てみるか?」

 平井に上半身部を手渡された。

 頭部ヘルメット部分をかぶってから、指先までのびる手袋部分を着用する。何度か手を握り、開きをくりかえした。

「これも軽いな。しかしヘルメットが大きくて動かしにくい。丈夫で軽くするため、外装を分厚くしつつ中空にしているからか」

 胸の部分が開いているのは、通常のパワードウェーダーと違って、背嚢ではなく前掛けをするからだ。バッテリーは外装内部に分散して配置し、制御装置は胸部につく。外骨格を着用した状態では手が背中へ回せないため、スイッチ類は胸部横に隠れた窪みにならべて設置されている。

 膝をかかえている状態の外骨格へ平井が近より、前方に回されていたマニピュレーターを左右へ開いた。頭部から胸部まで欠損した形状がはっきりわかるようになった。腰の内側には下半身を入れる穴があいている。

「さあ本番だ。外骨格は背後のアームフックを利用して自動でも立たせられるが、まずは地べたに座った姿勢で慣れようか」

 何となく平井が楽しげだ。

 腰部の前面と太股の外装を開いてから、ふくらはぎ部分に足をさす。底の内側にある輪へ足先を入れて固定し、さらに足指を小さな輪に入れる。固定する方法はベルトで止めるサンダルに似ているだろうか。

 次に手を後ろにのばして外装をつかみ、ゆっくりとバランスをとりながら座っていく。緩衝材とフロートをかねている外装は、硬めで弾力のある合成樹脂製だ。硬い芯を入れた体育用マットのような手ざわりといったところか。

 外骨格へ埋もれるように座り、各アタッチメントで身体を固定する。太股と腰部の外装を閉めて、下半身は完全に機械につつまれた。

 右足を上げると、重そうな金属製の外骨格ごとスムーズにあがる。ほとんど負担らしい負担を感じない。素足のまま足をあげる時より、さらに半分くらい軽く感じる。

 足を上げたまま足首を動かすと、ほとんど遅れることなく外骨格の足首も動く。一般的なパワードウェーダーも厚底の靴を履いているようなものだが、ワタツミズの場合は違う位置に関節がある気分だ。

 それに、クエビルコのような一般的なパワードウェーダーは、ひと呼吸はパワーアシストが遅れる。反応の良さは嬉しいが、過去の機種に慣れている身には、うまく歩けるようになるまで時間がかかりそうだ。

「どうだ、うまくいけそうか」

 ワタツミズ外骨格の肩部に肘をついて、平井が笑う。

「不快感はないが、かなり予想していたのとは勝手が違うな……足先を延長する機能は必要ないんじゃないか」

「マニュアルの概説に書いてあっただろう。足首のような複雑な動きをする部位を、着ている人間の関節と一致するように動かそうとすれば、歩けなくなるぐらいに太くなってしまう。不整地を歩くには爪先も稼働しなければならん」

「機械の足首へ人間の足を入れて容積を無駄に使うわけにはいかない、か……」

 技術者の発想だ。使う側の人間に立っているとはいいがたい。

「どうした、今日はやめるか」

 平井の問いに、少し考えこむ。先に進もうとしても、まず歩いて移動できなければ話にならない。慣れることが先決だろう。

「今日は着用はやめて、足首の分解をしてみたい。機構を知っていれば動かしやすくなるだろうし、どちらにしても南極探検には必要な技術だ」

 ワタツミズが南極で故障した時、修理を助けてくれる当てはない。メルヴィルに期待すべきではないだろう。少ない装備で整備できる技術を身につけておかなければ、生還することは難しい。

「ああ、それがいいだろうな」

「少し待ってくれ。独力で脱げるか試してみるから」

 平井の助けをさえぎる。故障した場合に脱ぐことができなければ、修理にとりかかることも不可能に近い。南極への冒険行には必須の技能だ。

 試してみると、外骨格の固定を外すことは意外と簡単だった。後方へ転倒した時、外骨格から抜け出ることを対処法として設計段階から組みこんでいるようだ。

 そして外骨格の足首にとりかかろうとした時、船内スピーカーから警告音が流れた。

「そうか、そろそろブルーの指示していた時刻か」

 スピーカーを見つめた平井が、それだけをいい残して、船倉を出て行った。すぐ俺も後を追う。


 船内にホイットフィールド船長の言葉が流れる。

 左舷前方から一隻の船が接近しているらしい。速度は遅く、手漕ぎボートくらいだという。

 甲板にかけあがった俺は、周囲へ目をやる。視界の全てに薄もやが満ち、かげっている。海面が鏡のように滑らかで、風がない。太陽も薄い雲に隠れ、世界は灰色におおわれている。かつての豪華客船が氷山に衝突して沈没したのも、このような天候だったか。

 やがて、ゆらりと薄もやの一角が崩れたかと思うと、一艘の小舟が静かに姿を現した。

 乗っているのは若い男女らしい。真っ直ぐな髪は肩で切りそろえ、ゆったりした無地の服を身につけ、甲板の俺たちを見上げている。一卵性双生児のようにそっくりの顔立ちが、無表情で見上げている。

 小舟の船尾に目をやると、似つかわしくないほど大きなエンジンが取りつけられている。赤い錆が表面に浮きつつも、よく使い込まれているようだ。もし全速力を出せば、古ぼけた木製の船体は粉々になってしまいかねない。いかにも密漁者が使いそうな舟だ。

 女が立ち上がり、誘うように無言で手招きするしぐさをした。そして小舟がエンジンから黒煙をあげ、速度を増しながら去っていく。ジョン=フランクリン号も取り舵で、小舟の後を追った。

「いよいよですね」

 いつの間にか同じ甲板に上がっていたメルヴィルが力のこもった口調でつぶやく。

「緊張しているな。ロゴス博士に会うのはひさしぶりだからか。それとも……」

 父との記憶をごまかすために持ち出した話であっても、ブルーとの衝突で傷ついたことは事実だ。痛くなかったわけがない。

「もし危なく感じたら隠れているんだ。今度は怪我ですまないかもしれない」

 そういったのは、メルヴィルが女だからという理由ではない。

 俺は外骨格こそ脱いでいるがウェーダーを着たままであり、いつでも背中へ回したヘルメットをかぶりなおすことができる。対するメルヴィルは、例の制服に似た作業着の姿で、いつものように帽子をかぶっているだけだ。肉体を守るに充分な格好とは思えない。

「キイチロウさん、その姿がよくにあってますね」

 ふいの直球の賞賛に、皮肉っているような響きはない。それが逆に気恥ずかしくて、俺は空を見上げた。

 薄い雲にさえぎられた太陽の周りで、細い光の輪ができている。

「では、お言葉に甘えさせてもらいます」

 そういったのでメルヴィルは下がるかと思えば、隣にやってきて、船縁の手すりにつかまって身を乗り出した。その横顔の向こうに、前甲板がのぞいて見える。

 前甲板では、平井が銀色の大きな銃を肩からぶらさげ、船縁に陣取っている。その足もとでは白いパイプが甲板をはっていた。

「……放水銃か」

 火災時に海水をくみあげて発射する消火装置だ。船縁に固定して、高圧で細く噴射すれば、水平に二十メートルは飛ぶだろう。当たっても死ぬことはないだろうが、海に転落し、溺死する恐れは考えられる。

 独裁国家でデモを壊滅させるため放水するニュース映像を見たことがある。武器を持っているようには見えない一般人に対し、かつて海軍学校に入っていた男が放水銃を使いかねない状況は、見ていて気分の良いものではない。その放水銃を握っているのが同じ船に乗る仲間であればなおさらだ。


 しかし結局のところ、放水銃は使用されずに終わった。

 ジョン=フランクリン号が小舟を追っていくと、霧の中から巨大な船の横腹が姿をあらわした。ちょっとしたタンカーくらいの大きさの双胴船だ。案内者の乗った小舟は、双胴船をまわりこむようにして消えていった。

 俺は目を細め、眼前の船を細部まで確かめようとした。間違いなく人工物だが、シルエットやディテールは有機的だ。

「これがブルーなのか。何というか……」

 目の前に現れたそれは、どう見ても難民船としか思えない。船の本体は古ぼけて、表面に浮いた赤錆が帯のように垂れ流れている。各所に錆止めの塗料を塗りなおしてはいるが、間に合わせにすぎない。もともとの色を無視しているため、原色が乱舞してモダンアートのようなありさまになっている。そんな二艘の船を並べて板で固定し、無理やり双胴船のようにしている。

 まともに外洋を航行できる能力があるとは思えない。それなのに今も堂々と浮かんでいる。

「ブルーですよ、あれが。自分達を示す旗も紋章も持たない。ただ海の上を漂流し、生きている」

 難民船と違うのは、甲板に人の姿がほとんど見当たらないこと。二艘の船橋の壁面と、さらにその間に種類の異なる太陽光発電パネルが密に渡されていること。甲板の半分がビニールハウスになっていること。舷側から無数のロープが垂れていること。

「あのロープですか。貝や海藻を付着させて育てているそうです。ブルーは各海域を移動しているので、固有の生態系を撹乱していないのか心配なのですが」

「その地域にいるはずのない生物を持ちこんできて、その地域にしかいない珍しい生物を絶滅させるかもしれない、ということか」

「はい。いわばブルーは自然にただ乗りしているだけで、あまり自然を守っているようには感じられません。海上生活を続けることが自己目的化している気がします」

 難民船ではない証拠に、ジョン=フランクリン号と遭遇しながら、逃げるでもなければ、助けを求めた人々が甲板に出てくるでもない。人の姿は船橋の奥に影となって見えている何人かと、舳先に座っている男が確認できるだけ。

 双眼鏡で見ると、舳先の男は布がだるくなった白いランニングシャツに長ズボンをはいている。屈強というわけでも虚弱というていでもなく、背は高くも低くもなく、肌は浅黒く輝き、汚らしくは感じない。大きな麦わら帽子をかぶっているため顔立ちは不明瞭だが、長い黒ひげが胸にまで達しているのはわかる。

 漁業の邪魔や、調査捕鯨船を攻撃するような、攻撃的な雰囲気は全くない。双眼鏡をメルヴィルへ返しながら感想をいう。

「あまり近寄りたい感じでもないが、正直にいえば危険な感じもしない」

 胸の傷を見た記憶は脳裏に焼きついている。しかし、それが眼前の光景とつながらない。

「悪いが、聞いていた印象とずいぶん違う」

 だいたい世界中の海で漁業を妨害してまわっているなら、俺が漁師仲間から名前はともかく存在くらいは耳にしているはずだ。もちろん傷つけられたメルヴィルの首を見た俺としては、ここでの様子だけから判断することもできないが。

「そうですね。大半は穏和に生きているだけの人々です。反社会的な宗教団体でも信者の多くはいいひとであることと同じでしょうけど」

「ひとつ思いついたんだが、もしかして……ブルーの妨害活動で、スクリューにからみついたワイヤーというのは、あれではないのか」

 ブルー船の舷側にたれるロープを指でさす。無数にたらしているのだから、一本や二本くらい切れたり落としたりして、海をただよって船の航行を邪魔することがあるかもしれない。

「そうかもしれません。犯行声明を出したことのない組織ですから。意図はどうであれ、そういう事例があることは確かです」

「ならば逆に、漁網を切断されたという話は、船の航行の障害になったから切っただけということだったりするのか」

 それならば、やはり困った集団であることに変わりはないが、それは自分勝手というだけであって、悪意ある集団という感じではない。

「その事例では小船で近づいて、意図的に切断しています。あまりニュースでとりあげられなかったのは、ブルーの名前はあまり知られていないし、妨害されたのが違法操業船だったからでしょう」

 かすかに聞き覚えはある。被害者も違法活動を行っていたという三面記事。

「……その情報から考えると、事件のニュアンスが全く変わって聞こえるな」

「犯罪者を捕まえたり、犯行に使われている道具を奪いとることは、一般人には許されていません。自助努力をせず、きちんと通報するべきです」

「法律論としてはそうかもしれない。だが、現行犯ならば逮捕することくらいは許されているだろう。目の前で行われる違法な漁を止めるためなら、漁網を切られても、俺はしかたないと思うぞ」

 いくつかの漁船をわたって仕事をしていた時には、違法すれすれのことをしている船にも出会ったし、自分が作業にくわわるよう強制されたことすらあった。しかし、あまり気分のいい仕事ではなかったし、すぐに嫌気がさして別の船へ移ることにした。別に潔癖なわけではない。綱渡りのように危なっかしい仕事を、監視の目からおびえるように続けたくなかった。

 メルヴィルが笑う。

「キイチロウさんらしいですね」

 どこがだ。

 双胴船に視線を戻すと、ずいぶん接近してきている。二十メートルほどの距離だろうか、外洋を航行する時には滅多にない近さだ。

 こちらに近い側の船の舳先にいた男は、立ち上がって帽子をぬいでいる。額から禿げ上がって後頭部までに達し、耳の後ろからうなじへのびる毛は長く、落ち武者のような風体だ。ペットボトルを持った手をふる。

「行くぞお」

 舳先の男が大声をあげた。低いわりに海上でよく響く、不思議な声色だ。そして背中をむけて、隣の船にわたした板を歩いて去っていく。

「来ます、頭を下げてください!」

 メルヴィルに腕を引っぱられ、船べりに身を隠す。手すりに隠れながら見ていると、わたした板の途中で立ち止まった男が、こちらに向かって走り出す姿が見える。

 男は腰をいっぱいにひねり、前に倒れそうなほどの大きな動きを全身で行い、ペットボトルを投げた。

 スクリューのように進行方向に対して垂直に回転しながら、ペットボトルの尻がこちらに飛んでくる。それが空中を通った後には何か光る筋が見える。光の航跡を引きながら、ペットボトルは右舷側のクレーンを超えたかと思うと、急に空中で向きを変え、後甲板に軽く着地した。いかにもプラスチックらしい間のぬけた音が鳴る。

 近寄って見ると、ペットボトルの首には釣り糸がしばってあった。その釣り糸が空中を飛んだ時に光って見えたらしい。ペットボトルに口をつけなかったのは、こんなことをするためだったのか。それにしても、よく動いている船に投げこむことができたものだ。重しのためらしい小石が入っているが、釣り糸までとりつけて、風で流されないはずがない。よほど強肩でコントロールもいいのだろう。

「手紙が入っていますね」

 メルヴィルがペットボトルを持ち上げ、キャップを外す。折りたたまれた白い紙を開き、さっと左右へ目を動かし、ひとつため息をついた。

「あちらに乗船してからロゴス博士と会わせるそうです。武装していない者を二人までという制限つきで」

 メルヴィルが俺を見上げた。

「つまり私とキイチロウさんだけで、あちらの船に行かなければならないということです。ついてきていただけますか?」

 ロゴス博士と会ったことのない俺が行っていいのか。

「ああ、俺も記録でしか知らないロゴス博士に会ってみたいよ」

 気難しいインテリは苦手だが、少しくらいなら話を聞いてみたい。


 すぐ近くの距離であり、三人が乗ったゴムボートは早々とブルーの船に接舷した。平井を残し、メルヴィルと俺は垂らされた縄梯子を登っていった。

「ジョン=フランクリン号へワシュウは戻っていてください。私たちは大丈夫ですから」

 登る前にメルヴィルがいったが、平井は首をふった。そしてブルーの船の舷側に垂れているロープをひとつ選び、ゴムボートのフックへ縛りつけた。

「海に落ちるなよ。まず助けられないからな」

 俺の言葉に平井は声をたてず笑っていた。

 前を登るメルヴィルは始めて会った時と同じ作業服に着替え、上にオレンジ色のライフジャケットをはおっている。俺はワタツミズの上半身部分を、ヘルメットを取り外した状態で着た。他のパワードウェーダーの付属品ほどではないが、ライフジャケットとしての機能がある。時間がない今は、少しでも慣れておきたい。少なくとも、掌の滑り止めは充分に機能してくれた。

 舷側にたらされた紐は太く、貝殻のかけらや乾いた海藻がこびりついている。縄梯子と間違って素手で握ると貝殻で切ってしまいそうだ。

 船縁にはいあがると、目の前に背の低いビニールハウスが姿をあらわした。双胴船の甲板片側を埋めている。海上の強風に耐え、少しでも水分を節約するために高くできないのだ。よく見ると、ビニールハウスの内部は一段下がっていて、高さ二メートルくらいの作物でも植えられそうだ。しかしハウスの形状を保つための横木もあるので、やはり背の高い者はかがんで作業しなければならないだろう。

 どのような作業をしているのかと思ったが、内側にびっしりと露がつき、よく姿が見えない。ハーブらしき強い臭いがただよってくる。何となく環境保護団体というもののイメージにふさわしい作物だ。

「ハーブは繁殖力が強い種類も多く、このような場所で育てるには適しているからでしょう。他にもトウモロコシやトマトを植えているようですね。どちらも比較的に少量の水で育ちますし、塩害に強い品種が存在しています」

「それなりに考えているわけか」

「ただ、このような栽培方法が最適な作物ではありません。連作障害も心配ですね」

「大丈夫だあ」

 かがんでいる俺たちの間に、のっそりとヒゲの男が顔を出す。ペットボトルを投げてきた男だ。小さく悲鳴をあげてメルヴィルが後ずさった。

「うまくいくよう。色々と工夫してるう」

 一言ずつはっきり区切って発音しているが、動きはにぶくない。ゆっくりとした印象が強いのは、今しゃべっている言葉が母国語でないらしいことと、俺たちにしっかり意図を伝えたいという意思があるためだろう。

 背をのばした男は俺より少し高い。目尻にシワこそ多いが、老人と呼ぶべき年齢ではなさそうだ。ぬいだ麦藁帽子は紐で首にかけたまま胸もとにおろしている。

「ついてきてくれえ。こっちだあ」

 船と船の間にわたした板の上を歩いていく。右手にビニールハウス、左手には黒いシートでおおった甲板。板の隙間からゆっくりと流れる海面が見える。今この船は動力を止めていて、海流に身をまかせているようだ。

 前を行く男はぺたぺたと足音をたてて、ゆうゆうと進んでいく。足もとを見ると、ゾウリに似た藁製の履物を素足にはいていた。

 艦にとりつけられた太陽電池を見ながら、メルヴィルが小声でつぶやいた。

「船の動力どころか、生活を維持するにしても、あまりに小さすぎますね。エネルギー源は別にあるはずです」

「しかし海底から資源を集めるような技術を持っているとも思えないが……」

「ええ、船の動力は陸地で燃料を補給しなければ無理でしょう。プランクトンをつかった洋上バイオマスを併用しているかもしれません。さすがに核燃料の発熱で電力を生みだす原子力電池などは無理でしょうが……」

 俺は脇にさげていた鉛容器から、そっとプレートを一枚引きぬいた。プレートは薄い水色に変わっただけ。この船は平均的な日本の海岸よりも放射線量が低いくらいだ。少なくとも航行には原子力を使っていないし、核燃料の密輸をおこなっているというわけでもないようだ。

 左の船体を見て、鼻をひくつかせる。黒いシートにおおわれた下でプランクトンを飼って、人間の排泄物からメタンガスを発生させる方法がある。しかし塩水のにおいと、ハーブらしき香りが感じられるだけで、刺激的な臭気はない。他に燃料としてアルコールを発生させる方法もある。その場合はアルコールを液状のままあつかうので、臭いがもれだすことはないはずだ。

 どうにも判断材料が足りない。しかし閉鎖環境において動力源は生命と共同体の維持に直結する、いささか過敏な問題だ。安易に質問すれば機嫌をそこねないともかぎらない。

 やりとりに気づいているのかどうか、先頭の男はふりむきもせず、ビニールハウスを回りこむように右船体の船橋へ入っていく。


 アラビア文字が書かれた扉を押し開けて、船橋の上に行くかと思えば、男は階段を下りていった。

 男を追って俺たちも階下に向かう。思っていたより船内は痛んでいないようだが、照明の光量がとぼしくて足もとが不案内だ。

 一階分降りると、いきなり顔面へ臭い鼻息が吹きかけられた。熱く重い動物がふくらはぎに体をこすりつけてくる。

「なぜ豚?!」

「ここで飼っているみたいですね」

 メルヴィルがしゃがみこんで頭をなでる。嬉しそうに豚が目を細めて鳴く。体毛は黒っぽく硬く野生的で、半分くらい猪に先祖がえりしているような外見だった。

 潮の風ならなれているし、魚の生臭さも嫌いではないが、この臭いは我慢することが難しい。この階の天井が低いためか、やたら蒸し暑い。

「なかなか大切に飼われているようですね。肌も鼻の粘膜もきれいで清潔です。この臭いは豚というより、餌のせいではありませんか」

 メルヴィルの視線を追うと、扉の向こうに野菜クズがまとめて細長い木箱に入れてあり、がつがつと豚が食らっている。生ゴミが発酵して熱を生んでいるのか。

「生ゴミ処理と蛋白源をかねているといったところか」

「豚乳も美味しいのだ。一度にとれる量が少ないので滅多に飲めないがなあ」

 そういいながら先導する男が豚を船室に追いこみ、扉を閉めた。もうしわけなさそうに頭をかく。

「悪いなあ、いつもは踊り場で遊ばせておく時間なのだ。あいつら出てきてしまった」

 さらに階段を下りていくと、先ほどよりは臭くなくなった。少なくとも床にゴミや枯れ草が散乱してはいない。

 扉を開けると、思っていたより広く明るい空間だった。高い天井の照明はついていないが、無数の丸窓から光がさしこんでくる。厚い布や絨毯をしいた床には何人もの男女が座りこみ、藁を編んだり石臼をひいたり、道具の手入れをしている。片隅では子供達が絵札をならべて遊んでいた。

「……これは少し感染症が心配になりますね」

 メルヴィルの疑問に、前を行く男が答えた。

「寝室は家族ごとに別だあ。体の調子が悪いんだったらあ、特別な船室で寝かせて先生に診てもらう」

 絨毯をしかずに廊下のようになっている中央をとおり、小さな扉の前にたどりつく。

 木製の合板でつくられた、薄そうな扉だ。これだけ大きな船には似つかわしくなく、老朽化したものを安く直したものかもしれない。

「ロゴス博士、お客様を、つれてまいりましたあ」

 男の力強いノックに、扉の向こうから返事がきた。

「ありがとう、とおしてくれ」

 写真の印象とは違う、優しそうな声だった。

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