―― 十二月十日 夕 ――

 メルヴィルとロゴス博士。

 薄暗い船室で灯りに照らされながら向かいあう老人と少女。

 二人の姿は、俺から見ても絵になっていた。


 しかし、それだけで話が終わっては困る。

「ひたっているところを悪いのだが……」

 俺は挙手をしてロゴス博士にたずねた。まるで積極性だけがとりえの学生みたいだが、今はいたしかたない。

「……なぜ、わざわざ南極の何者かが彼女の誕生日を祝うのだろうか。仮に白鯨だとして、そのコードをいれることの意味がわからない。そのコードがあることで、たしかに七年前のアクシュネットとの繋がりがはっきりしたが、そうなることを白鯨が予測できたとは思えない」

「カナダ君、その疑問はもっともだ。南極大陸の発信者は、深海探査艇のコンピューターを解析してコードを送ってきたのだろう。つまり、誕生日を祝うコードとは知らなかった。きっと、同じコードを深海探査艇が受信した時に対応する定型文のつもりで、送信したと考えられる。先述したように、該当するコードを母船で受けとれば、サラへの長いメッセージが出てくる予定だった。しかし、母船側からコードを送って同様の内容が出ても意味がない。だから我々は別の定型文を当てはめておいた」

「母船側から同じコードを送ると、私からの感謝の言葉が返るようになっていたわけでしょうか?」

「いいや、母船側に返答文を入力しておくと、誰かが気づいて情報をもらしてしまう恐れがあった。それに我々は、誕生日を祝えば喜んでくれるだろうと信じていたが、あらかじめ返答内容を予測してコードに当てはめるような真似もしたくなかった。実際にサラが思う真実の気持ちを返してほしかったし、何より自分で娘からの感謝の言葉を考えて入力することを、アブラハムは恥ずかしく思う性格だった」

 ロゴス博士は疲れたのか、机にもたれるような姿勢をとって話を続けた。

「つまり、該当コードは何の変哲もない、それでいて使う機会がない内容だった。厳密には母船側から送る可能性こそ皆無ではないが、深海潜行中には使わないと確信できる文章だった」

 俺たちへ背中を向けて机に走り書きし、数列を二分割したものを示してきた。

「南極大陸から送られてきたコードの解読結果はこれだ。クジラに優しく餌をあたえるという定型文と、クジラと人間という単語を取り違えたと訂正するコードが送られてきたという意味になる」

「白鯨……かどうかは明らかではありませんが、南極大陸にいる何者かが間違った通信をして、訂正したということでしょうか?」

 メルヴィルの問いかけをロゴス博士は否定する。

「いいや、その時に私たちが使っていたのは、定型文だけでなく、よく使う主語や述語を入れかえる指示を組み合わせて、文章を圧縮する手法だった。煩雑になるだけなのでとりやめたがね」

「つまり最新の通信は、人間に餌をあたえるという意味を最初から持っているのか……その通信が白鯨によるものだという考えが正しいなら、良いイメージが浮かばないが」

 俺は白鯨に助けられた。第三者にはそう考える人間もいるだろう。だが本当に白鯨が俺の命を救ったとして、それが同種に見えた錯覚でなく、高い知性を持つ動物同士の仲間意識でなく、愛玩すべき弱い動物を哀れむ傲慢さであったらどうだろうか。

 奴隷に対する主人の優しさは、奴隷にとって自分の全てが誰かの手の上にあるという恐怖でしかない。

「そう、そしてその通信を、その意味もふくめて、エイハブも知ってしまったのだよ」

 一瞬、ロゴス博士の発言が意味するところがわからなかった。

「どのような経緯で受信した。たとえ受信しても、アクシュネット以外には解読できないはずではなかったのか」

「ここにいる者たちは、通信手段に電波などを用いない。電子機器は、人工衛星を用いて位置情報をえられる程度で、受信することを専門としている。もしも通信のため電波を発したなら、発見される危険性が格段に高まるからね。だから君たちも見たように、手紙を相手の船へ投げこんだり、投げたボトルに手紙を入れてもらってから糸を引いて回収したり、小舟で受け渡したりしている。緊密な連絡網が必要ない生活形態をとっているから、それで充分だった」

 それも個別の共同体という話につながっているわけか。

「先ほどもいったように、三ヶ月前の通信は、南極に接近していた一隻のホールシティーも受信していた。そして解読を求める手紙がまわされていき、私は解読した結果を返答した。その手紙が、どこかで運んでいた小舟ごとオーストラリア海軍に拿捕されてしまったのだ」

「オーストラリア海軍……それだけでエイハブと結びつけるのは早すぎませんか」

「拿捕した艦は、ただ海上訓練をおこなっていただけで、背後関係はないだろう。問題なのはその後だ。つかまった女性は難民としてあつかわれ、小舟や持ち物を全て没収された。もちろん手紙もとりあげられ、保護と称して弁護士にも会わせないまま拘束されている期間に、外部へ流出してしまった。おそらくエイハブに心酔している関係者が漏洩してしまったのだろう。エイハブは移民を恐怖する団体だからね。白鯨と関係があるとは知らなくても、情報を閲覧する動機があった」

 メルヴィルが傷つけられた事件を思い出す。

「偽装工作という主張は、それも根拠だったのか」

「そうだ。もちろんエイハブが直接的に傷害事件を起こしたという断言もできないがね」

 しゃべり終えたことを示すように、ロゴス博士はカップへ口をつけた。

 すすめられるままに俺たちもカップに入れられた茶を飲む。発酵させていない緑茶で、それなりに良い味だった。


 飲み干したカップを机に置き、メルヴィルが口をひらいた。

「話を戻しますが、先ほどキイチロウさんがいったことと同じように、私も心配していることがあります」

 ふりかえり、先ほど入ってきた扉を見つめる。その視線の先には、ホールシティーの住民がいるはずだ。

「ここに住む子供たちの教育はどうなっているのでしょうか。そして子供時代はここで育つとしても、自立して成人した時にホールシティーの外へ出る選択権は与えられているのでしょうか」

「後者については答えやすい。人間は自らの行き方を選択する権利をあらかじめ持っている。選択権は与えられるものではない」

 今さらな感想だが、ロゴス博士の返事はどれも、学者という職業に対するある種の偏見が事実と示すかのように面倒くさい。

「すみません、いいなおします。子供はホールシティーの外へ出る選択肢を大人に示されているか、せめてホールシティーの外へ出る選択権を阻害されていないのでしょうか」

「説明したように、ホールシティーは陸地に工芸品を運び、商取引をおこなっている。その仕事は主に成人を終えた若者が複数で担当している。商取引以外の役目に、ホールシティーへ入りたいという者をつれて帰るだけでなく、ホールシティーから出たいという若者を陸地に降ろすこともふくまれているのだ。アーミッシュのラムシュプリンガより簡単かつ、複数回の機会が与えられている」

「アーミッシュ?」

 俺の疑問に対してメルヴィルが解説した。

「北米大陸において移民当初の禁欲的な暮らしを守り続けている人々のことです。外部との接触を可能な限り断って、手工芸品を売ることで薬品や機械を購入しています。たしかラムシュプリンガとは、十六歳になったアーミッシュの子が、俗世間の欲望を経験する儀式のことですね。その儀式によって外界の知識をえて、大人として共同体を支えるか、共同体を出て行って関係を断ち切るかを子供が選択することになっています」

「……そっくりだな」

 話を聞く限りでは、ホールシティーが真似をしているかのように、生活様式が似通っている。

「サラの説明したとおり、アーミッシュは基礎教育を共同体の内部で完結している。そしてホールシティーでも教育はほとんど個々の船で独自におこなわれている。特殊な知識を持つ者が、小舟で移動して教えていくこともあるが、まだ一般的とはいえないようだ」

「わかりました。でも、そうだとすれば、アーミッシュと比べても、この船の居住者は少なすぎるように見えます。それなりに共同体を保ってきた教育方法の蓄積もありませんよね。教育の格差が個性の域を超えて、船ごとで大きくなりすぎないでしょうか」

「その懸念には妥当性がある、としか今のところはいいようがないな。私の予定としても、このまま手をこまねいたままでいるつもりはない」

「では、ぶしつけな質問になりますが、これから博士は何を目指していくのでしょうか」

「まずはホールシティー個々が即応できる連絡網を整備して、次にネットメイカーとホールシティーのつながりを作る。ホールシティーの住民に、それぞれ必要性を理解してもらうことには時間がかかりそうだがね」

「アフリカ大陸周縁部だけの組織を、世界中の海にまで広げたいのか?」

 それが成功したならば、大氷嘯後の世界情勢は、一人の言語学者の意思と行動によって形作られたこととなる。

「いいや、共同体と国境の齟齬を逆用したネットメイカーと異なり、ホールシティーは最初から各シティーで共同体ごとの境界がある。ネットメイカーを支える漁業民にとっても、ホールシティーは競合する対立者でこそあれ、手を結ぶ利点は少ない。普遍的な規律を再構築するための組織と、規律を越境する個別の意思とでは、現代社会へ異議をとなえる方向性が正反対だ」

「ならば、どうしたい」

「ネットメイカーは大氷嘯後も組織力が低下することなく、ホールシティーの数は増え続けている。競合する相手として今後に接近し、やがて衝突することは必然だよ。来るべき日にそなえ、あらかじめ用意をすべきだと私は思っている」

「ネットメイカーの硬直化を防ぐためにも、でしょうか」

「そうだな。もはやネットメイカーには抗するだけの対立組織がない。どれだけ優秀な組織でも、対立者と研ぎあわなければ劣化していくものだ。一方で細分化された共同体であるホールシティーは、外からの情報が入らないことで硬直化や宗教化が進行しやすい。同質化ではなく、対立のための対話にこそ意味がある」

 ただ一人で計画を進行させる夢が長々と語られ、まるで誇大妄想狂につきあっているような気分だ。

「ここに来てからずっと違和感があったのだが……」

 俺はロゴス博士に向きあう。立っている博士は俺と背丈があまり変わらず、正面から見つめあう格好になった。

「博士は、自分が何者だと思っているのだ?」

「……私にはキイチロウさんが何をたずねているのかがわかりませんが」

「メルヴィルは感じないのか。俺には博士が、まるでアフリカだの難民だのの、神様か御主人様を気どっているように見える」

「私という存在は全くの無力だ。私の意思が社会の動きに影響をあたえたことなどない」

「それはそれで、ただの無責任だ」

「キイチロウさん、そんな失礼なことをいわないでください。ロゴス博士は真摯に目の前の問題へ取り組んでいるだけでしょう」

 自身への弁護をさえぎるように、メルヴィルの背後からロゴス博士が肯定した。

「そうだな。私のしていることに押しつけがましさがあることは否定しない。父権主義者と批判されてもしかたがないだろうな。他人を調査し分類する文化人類学という学問自体が、構造として持っている問題でもある」

 そうだ、まるで父が幼い子に教えさとすように、幼い子が昆虫を飼っているように、高みから見ているように感じられる。人間に優しく餌をあたえるという、白鯨からの通信と何もかわらない。

「そのような形の救いは、かわりに誇りを奪ったりしていないのか。人は対等であるべきと主張する口で、他人をかしずかせているような矛盾があるだろう」

「私にはキイチロウさんが、何かに嫉妬をしているように見えます」

 なぜか、メルヴィルの声は硬かった。

「……俺が何か嫉妬するような要素がどこにある」

「嫉妬という言葉が適切かはわかりません。でも、キイチロウさんだって、個人的な感情で行動することがあるのではないですか」

 手を叩く音がして、メルヴィルと俺は近づきすぎていた顔を離した。

 興奮した学生の熱を冷ますように手を叩いて、話を打ち切らせたロゴス博士が、扉へ向かった。

「必要な情報は全て教えた。外で潮風にあたってから帰りなさい」

 ロゴス博士は背を向けたまま扉に手をかけた。

「最後に、この船をはなれるまで、少し私の昔話をしよう」

 博士が扉を開けると、蜘蛛の子をちらすようにホールシティーの子供たちが逃げていった。

 論争を子供たちに聞かれただろうか。ロゴス博士の批判は今ここでする必要がなかったなと、俺は少し後悔した。


 ジョン=フランクリン号への帰り道でロゴス博士が始めた話は、アブラハム博士に会う前の日々についてだった。

「小さな地域紛争と思って介入した国連の考えは全く甘かった。仕事の延長と思って参加した私はそれ以上に甘かった。現地の意向を尊重し、各部族で協調できる回路を確保しようとしたが、たがいに憎しみあう材料を両地域の支配者から恒常的に供給され、紛争は拡大するばかりだった。働き盛りの男は腕を切断され、少年は兵士にするため拉致され、労働力を失った村は規律も伝統も維持できず、ただ先進国の支援を飲みこみ続けるだけの飢餓集団と化していった。やがて国連は手を引き、私は中途半端な調査記録だけを残して失職した」

 先頭をロゴス博士がゆっくり進んでいく。手仕事をしている何人かの住民が博士へ頭を下げた。

「やりのこした仕事を終えるため、父に協力してくれていたのですか」

 メルヴィルの問いを言下に否定する。

「いいや、そもそも私には何もなかった。もちろん命はおしかったが、それは研究を続けて好奇心を満たすためだけに必要なものだった。作業が中断しても、私には愛する家族も、背をあずける仲間も、守るべき信念も、喪失感すらもなかった」

 こつりこつり階段をあがる音が響く。

「そしてアブラハムには全てがあった。それに支えられ、アブラハムは目指した場所へたどりついた。私という存在に意味があったとすれば、その成功を構成する一部品となったことだけだろう。社会とつながるよすがにできる、私のただひとつの思い出だよ」

 船橋の扉を開けると、視界が黄金色の光で満ちた。メルヴィルが帽子をおさえる。海風のにおいがした。

「国連があきらめて手をひいてから二年後に、言語戦争はあっさりと終わった。悪魔のように敵味方から恐れられていた軍最高司令官が怪我をしてね。銃弾がとびかう戦場ではなく、庭で散歩をしていてガラス片を踏んでしまい、足裏を少し切っただけだったが。最前線で兵士をひきいて戦いながら傷ひとつ負ったことのない戦士にしては、つまらなすぎる怪我だった」

 船上のトマト畑を横目に歩いていく。雲がふきちらされた空は、すっかり黄金色に染まっていた。

「だが、一週間の入院をしている間に病院の神父からカウンセリングを受けた男は、あっさり神がかりな宗教者へくらがえした。軍最高司令官の地位にいるまま停戦命令を出し、戦闘は終わった。反対勢力も虚をつかれた形で交渉のテーブルについた。その後の男は再び最前線に出向いて、部族の神を信じている兵士に洗礼をほどこしたり、設立させた現地の病院で苦しむ人々を元気づけたりした。敵味方問わずにね」

 トマト畑の扉を開け、一人の少女が飛び出してきた。収穫物でいっぱいの籠を両手で持ち、足音をたてて甲板を走っていく。

 その少女にロゴス博士は笑顔を向けつつ、話を続けた。

「男は、悪魔的な戦士だった時と同じように銃口をおそれることなく敵陣へ行った。神に使命をたくされた自分は不死なのだと思いこんで、感染症に苦しむ人々を抱きしめた。かつて自分が命じて腕を切断させた労働者でも働ける工場を作ったり、自分が戦場におくりこんだ少年兵を社会に復帰させる施設も建設した。国連や私がためらっていたことを迷わず実行し、成功してみせた」

 少女が向かっている先を見ると、ここに来た時に案内をした男が舳先に座っていた。わたされたトマトを持って、男が俺たちを見ながら立ち上がる。夕陽をあびた男の顔には半分だけ影が落ちていた。

「白鯨とだけではない。我々は誰も真に言葉をかわしたことなどないのだ」

「それは嘘です。私は言葉と知識の力を信じてます」

 メルヴィルがここに来て初めて、はっきりロゴス博士を否定した。

「そうか。ならば、ひとつだけ教えておこう。私は確信しているよ。南極から通信を送ってきた者の正体は、クジラではなく、文字通りの悪魔だ」

 冗談や比喩をもてあそぶ台詞ではなく、真剣味を感じさせる声色だった。

「しかし、そのような相手だからこそ敵対せず、対話しなければならない。同質であれば言葉をかわす必要など最初からないのだから」

 そういいのこして、ロゴス博士はきびすをかえして去っていった。

 舳先までたどりついた俺たちに、男が真っ赤にうれたトマトをさしだしてきた。

「どうぞお」

 ひとつ受けとってみると、柿のように硬く、パプリカのようにいびつな形をしていた。

「子供らが、悲しんでましたあ。あんまり先生を責めないでやってください。みんな、感謝しとるんです」

「……それは、そうだろうな」

 なぜあのような話にこだわったのか、ロゴス博士と顔をあわせていた時の気持ちが、もう俺自身にもわからない。

「でも、俺らのために色々と考えてくださったことも、嬉しいと思っとります」

「それは違うよ。俺は俺自身が正しいと思う、俺の感情を口にしただけだ」

 そう答えたが、この男にいわれたことで、ようやく気づかされた。ロゴス博士の身勝手さを批判したつもりの俺も、身勝手に代弁していただけかもしれない。

 ゴムボートまで下りると、平井が無言でロープを解いて発進させた。

 俺は背後をふりかえる。赤い夕焼けを背に、黒々とした船の輪郭と、博士の孤独な影が見えた。その小さな姿が、ふいに父親のように感じられた。

……そうか、俺が博士のおせっかいな態度が嫌だったのは、そういうことかな。

 家族だからといって、好きになる義務はないし、束縛される必要もない。暴力をふるう子供、虐待する親、憎みあう兄弟、どれも昔からよくある話だ。しかし同時に、そう思っている今だからこそ、一個の人間として父や母に向きあえるかもしれない。この旅が終われば一度くらい実家に顔を出してもいい、そう俺は思った。


 掌の上に赤いトマトがある。かぶりつくと、驚くほど甘くて、後口の酸味が強かった。

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