―― 半年前 四月二十六日 ――

 分厚くたちこめた黒い雲の下。巨人の手でもてあそばれるかのように体がはげしくゆり動かされ、握りしめられているかのような圧迫感をおぼえたかと思うと、急に空中へ投げ出されて水平線が遠ざかる。

 永遠のような時間を体感した俺は、いきおいよく海面にたたきつけられる。白い網目状の波間に、白い水しぶきがあがる。

 着こむことで力がアシストされるパワードウェーダーは、インナースーツの内部にまで海水が入りこんで、すっかり水びたしになっている。吸水することで発熱するパックが内部に入っているが、いつまで体温を保ってくれるかはわからない。断熱しているはずの足先がしびれてきた。

 いつも低い作動音を響かせている背嚢は沈黙し、パワーアシストするはずの外骨格が重く体を拘束する。

 このままでは体力を消耗するだけだ。関節をねじるように力をふりしぼって抜け出すと、動きを止めた外骨格はそのまま沈んでいった。

 右前方では、転覆したハウランド丸が船首から海中へ没しようとしている。船尾は船底まで空中へ露出し、スクリューが水しぶきをまきちらしながら空回りしている。ばたばたとあえぐように舵を左右へ動かしながら、大型漁船は渦の底へ消えていく。

 ハウランド丸のトロール網が水流にのたくり、巨大な海蛇のようだ。両手を上げて降参するように船尾から二本のクレーンも宙へのびていたが、すぐに泡立つ黒い海面へ沈んでいった。


 ふいに、どこかから名前を呼ばれた気がした。

 周囲を見ると、俺と同様に海へ投げ出されていた中浜が、巨大船体の沈没が生み出す流れに巻きこまれて、必死に水をかいている。バンドで止められている丸眼鏡が中浜の頭部に引っかかっている様子を、一瞬の雷光で確認する。だが短く丸刈りにした頭は海面へ月のように沈み、二度と見えなくなった。

 俺はおぼれることが怖くて、口を開けて中浜の名前を呼ぶことができなかった。たった一度も。

 オレンジの救命色でいろどられたライフジャケットは、陽がささない暗黒の海面上では暗褐色に見える。カタログ上では充分以上の浮力をえられるはずだが、重い海水の激しい流れにさからうことはできない。少しでも深く引きこまれると、再び浮かぶまでの間に肺へ水をたっぷり吸いこんで溺死してしまうだろう。

 俺はぎゅっと目をつぶった。塩水の痛みが目尻を焼く。流れる涙は仲間のためのものではない。俺は、名前を呼んで友を勇気づけることすらしなかった。

 叫び声がもれないように口もひきむすぶ。もし口を開けば水が浸入し、全く呼吸ができなくなる。だが鼻腔にも粘った鼻水が満ちて、呼吸を困難にさせる。俺は波の上下するタイミングを頭ではかり、首から下が海中から押し出された瞬間に息を吸うことにした。

 波頭に押し上げられ、数え切れないほど上半身が空中に放り出された時、青白い雷光が頭上にのびた。俺は吸っていた息をのんだ。

 遠くに島影のようなものがある。波しぶきに煙ってさえぎられた視界の先に、うっすらと水平線より上に盛り上がった小山が見える。その小山は視界いっぱいにつらなり、左右へのびている。

 雷光が輝くたびに、小山の位置が変わる。俺が動いているための錯覚ではない。個々に盛り上がった小山は間違いなく、個別に自由な方向へ動いていた。それも氷山や流木が波に押し流されているのとは違う。小山は個々に動きつつも、全体としてひとつの指向性が感じとれる。まるで統率者がいる群れのように。

 小さな山脈はうごめきながら、その中腹や頂上で青白い光を明滅させる。夜光虫にしては、あまりに明るい。あたかも活気ある港町の夜みたいに華々しい光景だった。

 ひとつの小山が身をひるがえし、小さな前ヒレが空中をかく。噴出される水しぶき。そしてイチョウ型の尻尾が宙にのびた時、ようやく俺は気づいた。

 この距離ではうっすらとしか確認できないほど小さな瞳。モザイクのように斑点が浮き出た滑らかな肌。現在の地球に生息する最大の動物。頭頂部の鼻腔から吐き出される呼気が、空中で冷やされ水滴となり、あたかも潮を吹いているかのようだ。

 身ひとつで凍える南氷洋をただよいながら、雷光をあびて輝く巨大鯨の群れを、たしかに俺は目撃していた。

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