―― 十二月五日 ――

 顔をあげると、少女が横からのぞきこんでいた。小さな掌が優しく俺の背中をなでている。

 俺の精神は、遠く暗く冷たい南洋の記憶から、薄汚れたボロアパートの一室へと引きもどされた。ガスレンジ周りにこびりついた焦げ茶色の染みから、古い油の臭いが鼻をくすぐる。掃除したのはいつだったろうかと、急に身近な生活のことが脳裏をよぎった。

「大丈夫ですか?」

 少女の表情はあまり変わっていなかったが、声色には案じている響きが感じられた。

 俺は手をふって、心配する必要はないことを告げる。少女の小さなため息が聞こえた。

「すみません、失礼なことをしてしまって」

 少女の指先が俺の背中からはなれていったのを感じる。

「いや、いいさ」

 ふれてきた理由は好奇心だろうが、不快ではなかった。傷をえぐるように質問する者や、傷から目をそらすように話題を変える者と遭遇したことは、何度となくある。逆に、このアパートに逃げこんでからは、他人と肉体的に接触したこと自体がない。いたわるように素直に傷へさわってきたのは、この少女が始めてだ。

 居間と食堂と寝室をかねた部屋に少女を招きいれ、木製の椅子をすすめる。前の住人が使っていたもので、座面の合成皮革は破れているが、それでも他の形がゆがんだ椅子に比べれば上等なものだ。

 火を止めたガスレンジに置いたままのヤカンを指し、たずねた。

「麦茶でいいか? あいにく作り置きの、中途半端に生ぬるいやつだが」

「いただきます。麦茶は好きです」

 少女は脱いだ上着をたたんで膝に置き、その上に脱いだ帽子を置く。

 白いシャツの胸はわずかにふくらみ、幼くこそあれ少女だということがはっきりわかる。切りそろえられた髪は、おでことうなじをかろうじて隠すくらいの短さで、窓からの光で天使の輪ができている。小ぶりの耳を見て、陽に焼ける前は色白だったのだろうと思った。

 壁を背にした少女は、首を動かさず、目だけで左右をさっと見回した。白い壁紙がはられた殺風景な部屋。片隅の小さな本棚には雑誌や文庫の一冊も入ってなく、携帯パソコンが置いてあるだけ。テレビも電話もない。服はハンガーにかけて壁につるしてある。

「どうだ、何もないだろう」

 少女は何も答えなかった。

 机に湯飲みを置いてやると、少女は一気に飲みほした。小さなのどぼとけが上下し、口の端からひとしずくの麦茶がたれた。

「おいしいです、ありがとうございました」

 ハンカチで口元をぬぐう少女に対して、再び湯飲みへ麦茶をそそいでやる。俺も麦茶を別の湯飲みに入れて対面に座る。

「それでは、話の続きをしようか」

 湯飲みから手をはなし、少女は首を縦にふった。

「さっき話していたな、白鯨を保護する選択肢があると」

「あくまで可能性の話です」

 可能性だけだとしても口にするのは珍しい。

「白鯨は漁場を荒らし、俺たちに残された数少ない食糧を食べつくそうとしている。無数の漁船を転覆させて死者を出している。確認された頭数から考えて、前世紀で消えかかった何種類かの鯨類のように絶滅の恐れがあるわけでもない」

 白鯨は主として南氷洋に生息していると思われるが、世界中の海域に広く分布しているとされる。百万頭を超える数ならば絶滅することは考えにくいし、その巨大さから想像される捕食量によっては他の魚介類を絶滅させかねない。

「そのとおりです。ただし、絶滅しそうにないほど繁栄していた生物が、人間の狩猟で数を急激に減らして絶滅した例は少なくありませんが」

 それは事実だろう。あまりくわしくない俺でも、億を超える数がありながら北米大陸で乱獲され絶滅したリョコウバトや、狩猟技術をおぼえた人類が生息地を広げるにしたがって姿を消したマンモスの名前くらいは知っている。

「食物連鎖の頂点にある生物は、環境の変動に対して脆弱です。白鯨がクジラ類に属することは確実でしょうが、大量にあるプランクトンを食べているナガスクジラの仲間か、イカや魚を食べるマッコウクジラの仲間か、それとも全く未知の食性を持っているか、それすら明確にわかっていないのです。数を抑制するだけのつもりで絶滅させる恐れは払拭されていません。漁場を荒らしているという説も、実際には学説として明確に結論づけられているわけではありません」

「食物連鎖の頂点とか、どういうことかゆっくり説明してくれるか」

 それくらいの単語は学校で習っている。だからこそ、相手が本当のことをいっていそうか判断するため、細かく質問してみた。それなりの専門性を持つ調査団体という自称が嘘ならば、どこかでボロを出すだろう。

「ええと、本当は食物連鎖という図式は少し古い比喩で、実際にはもっと複雑なのですが……たとえば、狼がいるとしましょう。たくさんの狼が森にいて、羊や人を襲います。数匹の牧羊犬で追いはらうには、狼の群が大きすぎました。そこで駆除しなければならないという話が持ち上がります……」

 だが、狼は数を増やしていたのではなかった。森が切り開かれて餌がなくなったため、人に殺される危険をおかしてでも、里に降りてきただけだった。食べられる植物が減れば、草食動物も数を減らす。草食動物が減れば、それを餌とする肉食動物も減る。しかし、最初に植物が減ってから、肉食動物も減るまでには、長いタイムラグがある。

 そんなたとえ話を、少女は順をおってていねいに語った。

「……現在に推測される固体数は減少直前のピークであって、今後は他の生物と競合しながら餌を食いつくしていくかもしれないのです。そうした状況で駆除をおこなえば、急速に個体数を減少させていくかもしれません」

「説明は納得できた。しかし白鯨の駆除といっても、もちろん乱獲することとは違うはずだろう。それなりに考えて様子を見ながら実行するはずだ」

「白鯨は移動能力の高い生物ということはわかっています。ある場所における出没を防ぐため殺傷するならば、相当数の個体を減少させる必要があるでしょう」

「それならば……もし人間の生命にかかわる害をおよぼすのであれば、絶滅させてもしかたないという考えもある。別に俺は絶滅させるべきとは思わないが、簡単に非難できないとも思う」

 どうだ、と試しに考えをぶつけてみると、メルヴィルは予想以上に長く考えこんだ。

 ややあって、ゆっくり自分の言葉をかみしめるようにメルヴィルが答えた

「そう、ですね。たとえば人間が襲われているような場合であれば、その個体を殺すと絶滅する場合でも……私個人は人間を助けることを選ぶと思います」

 初めてメルヴィルは個人としての考えで答えた。

 しかし個人として回答したということは、つまり所属する団体の全体的な考えは口に出せない、もしくは統一されていないということでもあるだろう。

「個人ではなく、組織としてはどうなんだ」

「即断はできません。ひとつの種族を殺すということは、その生物固有の情報や、生態系における一部品を、確実に欠落させてしまいます。そのことは考慮するべきでしょう」

「生態系における一部品……どういう意味だ?」

「たとえば、ある種の鳥は畑の穀物を食い荒らしているだけに見えて、実は穀物を食い荒らす害虫も食べていて、総合的に見ると畑を守っている可能性があります。生物は人類との関係だけではなく、周囲の様々な生物と密接な関係性を持っているのです。あたかも煉瓦をつみあげた壁のように……」

 想像してみた。天にまで届きそうに高い煉瓦の壁。ひとつふたつの煉瓦を抜いたくらいでは崩れないかもしれないが、重みが集中している場所の煉瓦を壊すと、それだけで壁全体が崩壊してしまう。そういうことか。

「また、生物が持っている遺伝情報は、予想もできない有益な内容がふくまれている可能性が常にあります。様々な病気を防ぐために、他の生物が持っている遺伝情報が研究され、実際に役立っているのですよ」

「なるほど、それは理解した」

 俺は湯飲みに口をつけてから、ひとつうなずいた。こんなに他人としゃべったのはひさしぶりだ。異性が相手にしては色気のなさすぎる内容だが、幼い子供のようにしか見えない相手へどうこうする気持ちは最初からない。

「しかし大幅に個体数を減少させなくても、船を襲ってきた時に倒すだけとか、それこそ先にいっていた直接的な生命の危機に関わる場合ならどうだ?」

「その選択肢も排除しません」

「それが君たちの、組織の考えか?」

「はい」

 今度ははっきりうなずいた。少なくとも建前では、保護を最優先とした狂信的な団体とは一線を画しているといいたいのだろう。

「話を戻そうか」

 俺は立ち上がり、それぞれの半分くらい残った湯飲みに麦茶をつぎなおし、戸棚を探した。

「菓子でも出そうか。何かあったかと思うのだが……見つからん」

「いえ、おかまいなく」

 メルヴィルは両手を膝の上におろし、俺の動きをゆっくり目で追っている。

 ぎしぎしと音をたてる窓を苦労しつつ開けた。ベランダはなく、落下を防ぐため窓の下半分を錆びついた鉄格子が覆っている。

 眼下に広がる世界は、海面上昇にともなって孤立した高台や高層建築が、離島のように点在している。浅瀬では、残った建物の隙間をぬうように海水が満ち、まるで運河のようだ。

 真下を見下ろせば、俺を乗せたゴムボートがロープで柱に繋ぎとめられている。水深が浅いので、このあたりは深く沈まないゴムボートかカヌーの類いしか使えない。

 まるでベネチア、あるいはアムステルダムのようだ。それらの本家本元は十年前から海の底へ沈んでいるが。


 机に戻ると、しばらく沈黙がおりた。重々しい機械のうなり声がどこか遠くから聞こえてくる。水没した街の資源を回収している船がクレーンを稼動させている音だろう。

 ゆるやかな風が窓のカーテンをゆらし、潮の臭いをはこんでくる。それも広い外洋とは違う、ゴミが岸辺に流れ着き、海藻や小魚が繁殖する、身近な海の臭いだ。それでも今の俺には遠い海の記憶も同時に呼び起こさせる。

「徹底的に駆除したくない理由があることはわかった。白鯨の正体を知るまでは何もできないのかもしれない。だが、それは逆に保護する理由にもならない」

 最初の問いにメルヴィルは何も答えていない。俺の話の進め方が下手だったのだとしても、軌道修正することはできたはずだ。癒えたはずの背中がうずく。

「わざわざたずねてきたなら、知っているはずだな。俺が白鯨のために仲間を失ったことも、その後で海に出なくなったことも」

 メルヴィルが膝にかかえた帽子をぎゅっと握りしめた。

「なぜ保護を考える。そもそも誰から保護するというんだ」

 白鯨への対応は各国が協議しているが、意見がまとまったという話は聞かない。調査と捕獲をかねた捕鯨船をくりだしている国は日本をふくめていくつかあるものの、それらはクジラの数を減らすことを目的として活動しているわけではない。

 意図しなくても、乱獲の結果として減少させるという主張もある。そうだとしても、漁獲し捕食し続けるためには、クジラの数が減れば困ると捕鯨国は考える。駆除とは目的意識が全く異なる。

「今のところ、白鯨を現実に駆除しようとしている勢力は聞いたことがない。存在しない勢力からの保護を考えている君たちは、いったい何者だ」

 きっちりした制服を着ているからといって、公的な組織に所属しているとは限らない。狂信的な団体が実働組織を作る時、しばしば軍隊を真似した厳しい規律を定める。もっといえば、ただの風変わりな少女が仮装して、俺をからかっているだけという可能性も残ったままだ。

 いや、公的な組織が安心できるというわけでもない。警察や軍隊の暴走や、それらが自国の民に銃を向けた事件で、歴史の年表は埋まっている。

 もしメルヴィルの所属する組織が日本のものでないという俺の想像が正しいなら、他国でひっそりと行動していること自体が高い危険性をうかがわせる。他国で活動して衝突が起きることが想定できない組織は無能すぎるし、衝突が起きても気にしない倫理観と政治力を持つ組織なら俺にあらがう力はない。

「最初に述べさせてもらったとおり、私たちはアクシュネットともうします。国連から委託されて海洋調査を行っている、非政府研究組織のひとつです」

「……はっきりいって、聞いたことのない名前なんだが」

 メルヴィルは手帳を開き、顔写真がはられた身分証らしきものを示した。かしこまった顔立ちは今とほとんど変わりないが、頭髪はさらに短い。そして私服らしい開襟シャツを着用しているところは予想外だ。制服のように見えた格好は、ただそれっぽいデザインの作業着にすぎなかったらしい。

 生年月日欄から十九歳という年齢が、そして性別欄から確かに女性らしいということも確認できた。思っていたより年齢は上だが、しぐさや顔立ちや体型と考えあわせて、少女と呼ぶことをやめるほどではない。法律的に成人しているかどうか、国ごとで判断がわかれる年齢でもある。

 身分証の上端には、北極点を中心とした円形の地図をオリーブがとりかこむ国連のシンボルと、見なれない記号が横並びになっている。見なれない記号は八つの光芒を持つ太陽を背に、人面の鳥がデザイン化されたものだ。

 人面の鳥といえばギリシャ神話のハーピーかセイレーンだろうか。美しい歌で人間をまどわす怪物。しかし現在では、同じように歌で人間をまどわす人魚と同一視されている。そんな豆知識を、海上で無駄話をしている時に、仲間の中浜から聞いた記憶がうっすらある。

「こちらの地域では活動が制約されているそうですが、非政府組織は世界中に存在し、広範な活動を行っています。現地の政府行政機関と連携している組織も珍しくありません。それどころか、政府や国連が機能していない地域では行政や司法を代替している場合もあります」

「国連と関係が深いというなら、俺でも名前を知ってそうなものだが」

 紛争時の中立的な医療活動をおこなう国際赤十字、ジャーナリストの心身を支援しメディア規制にあらがう国境なき記者団、アフリカ大陸周縁海域の漁獲量調整を仲介するネットメイカー、その他にもいくつか記憶している名前はある。しかしアクシュネットは記憶にないと断言できる。

 身分証の作りはしっかりしていたが、関係しているという国際機関のシンボルがならべてあるところは、逆に怪しさを感じさせた。詐欺師のよく使う手法だ。

 もっとも、本気の詐欺師ならば充分な下準備をしているだろうから、これ以上の追求をしても効果はないだろう。

「私たちは弱小の新興組織であり、知られていなくてもしかたありません。ご不審に思うようであれば、国連の公式サイトで協力団体を検索してみてください」

 ちらりと本棚へ目をやったメルヴィルに、俺は首を横にふった。さすがにすぐ正体が割れるような嘘をつくとは思えない。

 しかし白鯨づくしだな、と俺は息をついた。アクシュネットの名前を個人名や団体名として聞いた記憶はない。もちろん非政府組織として存在しているなどと耳にしたことは絶対にない。しかし、十九世紀に書かれた小説に関連する単語として記憶していた。

 半年前の出来事をきっかけに、白鯨という名前がつけられる元となった古い小説を読んだことがある。意外に難解な内容で、少女の話と同じように回り道や余談が多く、テーマもよく理解できなかった。クライマックスにたどりつく前に何度も眠気をおぼえたものだ。しかし、古き時代の捕鯨活動の描写には現代へ通じる雰囲気を感じられたし、いくつかの関係する単語や登場人物名は脳裏に刻まれている。

 巻末の解説によると、かつて白鯨の作者は捕鯨船に乗りこんで働いていた。その捕鯨船の名前がアクシュネット号だ。そしてその作者の名前が……

「メルヴィル、といったな」

「はい、何でしょうか」

 小首をかしげる少女に、俺は何もいえなかった。そらとぼけているのか、本当に知らないのか。

 白鯨の作者ハーマン=メルヴィルと同じ姓に、たしか作者の母親と同じ名をあわせ持つ少女。その作者が乗っていたアクシュネット号と同名の組織。それらが白鯨という名が与えられたクジラの群を追う。まるで現代の神話だ。

「質問の続きだ。ここまで時間をかけながら、まだ白鯨を保護する選択肢の意味について、核心を話してもらっていない」

 遠回りが楽しくて、他人との会話に飢えていた自分に今さら気づいてはいた。だが、いいかげんに本題の答えをもらわなければ、一歩も話を進めることができない。

「ひとつさかのぼって指摘しなければなりません。白鯨を駆除しようとする勢力は現実に存在しています。実力組織を保持し、国連に対する大きな発言権も持つロビイスト団体のひとつです。きっと、先ほどの市場でカナダさんを捕まえるよう治安組織へ情報を流したのも、それが関わっていたのでしょう」

 所属する組織が国連と繋がりあるという自己紹介が正しいなら、まだニュースに流れていない情報を知っていてもおかしくはない。今ここで思いついた嘘ならば、よく作ったと賞賛できる。

「そのロビイスト団体の名前は何だ」

 メルヴィルは首を横にふる。

「漁業利権を持つ企業や、引退した政治家が、個々にロビー活動を行っているように装っていますから。実際、活動している彼ら自身の多くすら、外部から組織と見なされていることに無自覚かもしれません。ただ、中心となって支援している組織は判明しています。キャンベラに本拠地を置く、新興の白豪主義団体。その名をエイハブといいます」

「……また白鯨か」

 捕鯨船で白鯨を追い続け、死闘をくりひろげた船長の名前がエイハブだ。語り手はイシュマイルという名の若者だが、実質的な主人公はエイハブ船長といってもいい。

「彼ら自身の主張する由来では、エイハブの元は旧約聖書に登場する王の名前です。もちろん実際は小説の白鯨から引いたのでしょうけれど。エイハブは、白鯨に象徴される自然を倒そうとする白人という解釈もあり、単純に団体の名前へ用いたのだと思います」

「結局は敗北して海の藻屑となる名前をつけるとは、馬鹿な連中だな」

 エイハブ船長は三日間の追跡劇の末、捕鯨船ごと沈没させられる。白鯨という物語は、たった一人生き残ったイシュマイルが過去を思い出す形式で語られていた。

「白鯨はいくつもの映画やコミックに翻案されています。彼らはエイハブ船長が勝利する安易なハッピーエンドしか知らないのかもしれません」

 あなたはちゃんと原典を見ているのですね、すばらしいです、と奇妙な賞賛をされた。面食らいつつ、しかたなく俺は話を戻す。

「たしか白豪主義とは、オーストラリアにおける白人至上主義のことだったな。なるほど国土の大半が砂漠で、沿岸部の被害が大きい国だから、残された海洋資源をできるだけ自分のものにしたいところだろう」

「白豪主義は、どれだけいいつくろっても差別主義でしかありません。ですから少数民族だけでなく、イギリス系オーストラリア人の多くからも嫌悪されています。オーストラリア世論と同一と考えてはいけません」

「それはそうだろうな。しかしエイハブ側にもいいぶんがあるんじゃないか」

 白豪主義団体という評価は少女の一方的な話にすぎない。それに差別主義団体であっても、行動の正当性を科学的に裏づけるくらいの知恵はあるだろう。

「彼ら自身の主張を見てみますか?」

「できるのか?」

 少女が再び本棚へ目をやった。

「ここにインターネットは繋がっていますよね」

「無線で、一応な」

 立ち上がり、たたんで本棚にしまってあった携帯パソコンを引き出す。表面に薄く積もったホコリを手ではらって落とし、机に置いて開く。スイッチを入れると、上部のモニターにOS画面が、下部のタッチパネルにキーボードのガイドが浮かび上がる。

「古い型ですね」

「船上でも使っていたからな。安い中古品から防水式を探して買った」

 わざわざ防水式を買って船上で何に使っていたか、追求されないことに少し安心した。もちろん十九歳なら知識も経験もあるだろうが、こちらの使用目的を知りあったばかりの少女へ見せつけたい趣味はない。もっとも、そういう映像や画像のたぐいは、使い終わってからすぐ削除するか、お気に入りのものも深い階層に隠している。

 面倒くさがらずデスクトップから使用法に見当がつくような状態にしてなくて良かった。

 俺は苦笑いしながらインターネットへ接続した。実家の父親からメールが届いていたが、どうせ戻ってこいというだけの内容だろう。宣伝スパムメールとまとめてゴミ箱へ削除する。

 おもむろにブラウザを立ち上げ、エイハブについて検索してみた。団体名にオーストラリア、白豪主義といった単語をいくつか組み合わせるが、批判している文章がいくつか出てきただけだった。

「私がかわります」

 俺の左側にある椅子をひいて座ったメルヴィルが、右手をのばしてきた。肩と肩がぶつかった。とりあえず触覚に関しては不快ではなかった。

 しかし同時に磯のような花のような、表現しがたいにおいがただよってきて、どう論評したものだかわからない。潮の匂いが染みついた、たしかに海の女ではあるようだ。

 メルヴィルが英単語を組み合わせて検索すると、あっさりそれらしい公式サイトが引っかかった。見つけられなかった原因は、彼らの使っている言葉で検索するという当たり前のことを俺が忘れていただけだった。

 フランス語ページやスペイン語ページはあるが、中国語や日本語のページはない。なるほど白人至上主義の団体なら当然のサイト構成だ。

 軽く目をとおして見たが、はっきりした内容はわからない。遠洋漁業で多言語を話す機会が多かった俺は、日常会話も口頭でなら理解できるし、漁業関係の単語は読める。しかし長文を読む能力はない。

 しかたなく機械翻訳を通して読んでみると、たしかにメルヴィルがいっていたような内容が書かれていることが確認できた。

 まず、オーストラリア先住民を文化保護すると称しつつ、実質的な隔離と民族教育への干渉を主張するページが目についた。有名な物語の船長名を使っているだけあって、海洋利権についてのページも多い。オーストラリアの周辺はもちろん、南氷洋全体における漁業権を主張し、遠洋漁業に従事する移民への規制を訴えるだけでなく、外国船が来ること自体にも反対している。

 別に善人ではない俺から見ても、人種差別を全世界に向けて堂々と公開している神経は理解できない。こっそり隠れて匿名でやるなら、まだ感覚としてはわかるのだが。

 耳もとで少女の論評する声がした。

「キイチロウさんのような人が来れば、その国もうるおうはずですのにね」

 単純な理屈と利害に基づく批判であり、それゆえ良くも悪くも正論だ。そういう主張を偽善と思って嫌う人間も世の中には多い。そうした偽善をあえて言葉にしたのは、アジア人である俺への、メルヴィルなりの気づかいなのだろう。

 団体の概要を説明するページを読みすすめると、聖書や白鯨の主人公から団体名をひいたことや、殺された人々のために白鯨を駆逐するという主張も、たしかに確認できた。

「それで具体的には、どれくらいの問題があるというのだ?」

「いいえ、まだ何も、彼らの動きは実をむすんでいません。今のところは、私たちのような対立組織へ遠まわしな嫌がらせをしている程度です。私たちが探していたキイチロウさんを先に日本の警察へ捕まえさせようとしたのも、そういう嫌がらせのひとつなのでしょう」

「何もだと?」

 思わず横を向く。じっとモニターをながめるメルヴィルの横顔は真剣だった。

「はい、国連も国際捕鯨委員会も、今のところ要求を聞き入れることはしていません。今後はわかりませんが」

 ここまできて、またもや話の筋道がひっくりかえされた。

「……結局、このエイハブも現実で対処するべき具体的な問題ではないように聞こえるが」

 もちろん、聞いたこともない組織への嫌がらせで捕まえられそうになった俺にとっては、たまったもんじゃないが。

 あきれたかえった俺に対し、少女は首をいったん縦にふり、次に横にふった。

「はい、そして、いいえ。エイハブ自体は、ロビイストを通して間接的に影響力を誇示しているだけ。今のところ彼らの要求は受け入れられていませんし、オーストラリアでも一部の熱狂的な支持者がいるだけで全体としては嫌悪されています。一方で、私たちのような海洋調査団体には妨害をくりかえし、その存在を周知させることに成功しています」

 前のめりにパソコンをのぞきこんでいたメルヴィルが、俺から体をはなした。

「そしてエイハブの影響力を過大評価した団体が生まれ、活動を始めました。それも政治的にではありません。主として南氷洋において、様々な船舶の通行を実力で妨害する組織。それこそが現在の脅威なのです」

「それくらいは聞いたことがあるかもしれない……何という名前だ」

 白鯨が出没するようになってから生まれたらしいエイハブより、ずっと前から南氷洋でクジラ保護団体が活動していることは知っている。資源が乱獲されていた時代には、それなりに意味もあったと、とある遠洋漁業船で仕事をしていた時に年配から聞いたこともある。けっこうな無茶をたがいに行っていたらしい。

 しかし十年前の大災害で海がその面積を広げ、その後に海中の動植物がいちじるしく勢力を広げた現在は、クジラに限らず海上における自然保護活動は活発ではない。保護するまでもなく、多種多様な生物が繁殖しているのだ。実際のところ、のべ二年近く俺も南氷洋で仕事をしていたが、その種の団体を見かけたことはなかった。

「名前はブルー。おそらく海からとったのでしょう。知られている過去の環境保護団体とは別個の流れで生まれた、新興の組織らしいです」

 ブルー……初めてはっきり聞き覚えのある名前だ。つい数時間前、海上市で男が口にしていた団体のひとつだ。

「英語か。単純すぎて検索にひっかからないぞ。他に本拠地とかの情報はないのか」

 今度はきちんと英単語をくみあわせて検索したが、見つかるサイトは多すぎるか少なすぎるかのどちらかで、ものの役にたたなかった。

 メルヴィルが目をふせる。

「ブルーは陸上に本拠地を持ちません。極端な秘密主義集団なので、インターネットに情報が見つかることもないでしょう。彼らは沖合いで人工の浮島に乗って生活し、他人との交流を断っています。そして海にワイヤーを流して漁船のスクリューを止めたり、時には小型船で接近して禁漁区の漁網を切断したり。しかし犯行声明も出されないので組織の思想もはっきりせず、誰がどのような経緯で設立したのかもわかっていません」

「情報が出てこないというなら、なぜ君たちはそこまで知っている?」

 メルヴィルは問いに気づいているのかどうか、淡々と説明を続ける。

「一ヶ月前にブルーが海洋調査船へ接近し、手紙を投げこんできました。白鯨は守るべき存在であり、エイハブは危険と主張する内容でした。そして今後の連絡手段についても記載されていました。そして直後、調査捕鯨をしていた船に遭遇したブルーは、攻撃的な態度をとってきました。過去には人員をいっさい傷つけず、船舶本体にも致命的な損傷を与えてこなかったブルーの、初めての暴力でした」

 少女は大きく長い息をついた。

「その情報が流れた今、国際的にエイハブの主張が受け入れられつつあります。先日には、息のかかった水産企業の駆除計画が国際捕鯨委員会に送られました。アクシュネットに協力して止めてくれている国が圧力に負けた瞬間、通過してしまうでしょう。このままでは、白鯨の駆除が一部海域で行われるというニュースが、今日明日にも流れると思います」

 ブルーとエイハブ、両方の団体がたがいに過激化して状況を急速に悪くしているということか。

「いずれにしても、全ては白鯨について情報を集めてからです。はっきりした調査結果が出れば、いずれの対処法を選ぶにしても、ブルーとエイハブを排除するよう国際社会に訴えることができます。あるいは両団体と交渉する余地が生まれるかもしれません。実際に私たちは今回の計画で、正体のはっきりしていないブルーへの接触もおりこんでいます」

 長くしゃべり続けて疲れたのか、メルヴィルはブラウスの首もとに指をかけた。

「もう時間がありません。キイチロウさんには今からでも私たちの船に同乗し、白鯨の調査へ協力していただきたいのです」

 メルヴィルが腰をひねって俺を向く。

「キイチロウさんは白鯨の謎を知りたいはず、いいえ知らなければなりません」

 そういいながら首もとから順番にボタンを外していく。

「おい……」

 何をやっている、という言葉が出てこない。

「先ほど、なぜブルーの情報を知っているのか質問されましたね」

 ブラウスの胸をはだけ、黒いハーフトップを伸縮させ、平らな胸の上半分を見せる。日光を浴びていない肌が生白い。

「やめろ、そういうのは……卑怯だ」

 制止しようと手をのばした姿のまま、俺は動けなくなった。

 少女は目をつぶり、顎を上げて喉をさらす。細い首に似合わない、痛々しい傷痕がそこにあった。

「一ヶ月前に調査捕鯨船が攻撃を受けた時、偶然に私も同乗していました」

 俺は目をそむけた。それでも今見た光景は網膜に焼きついてしまった。

 左右の鎖骨の中央に、縦の菱形に裂けた傷は、まだ充分に癒えていなかった。へこんだ傷口は体液で濡れたように赤黒く光を反射し、傷の周囲は地肌よりも白く乾いている。傷の形からして、もっと下まで続いていることだろう。

「さすがに銃や矢で撃たれたわけではありません。中古のクルーザーで衝突され、調査捕鯨船の船体にはられていたワイヤーが切断され、甲板の上にいた私に当たっただけです」

 皮の鞭でも、達人がふるえば先端が音速を超え、皮膚を切り裂くことがある。船にはられているような金属製のワイヤーが人体にあたって、傷が首から下だけですんだのは不幸中の幸いだったといえるかもしれない。致命傷でなくてよかったという、基準を限界まで下げた理屈の上でだが。

「ついてきてくれますね?」

 少女が醜い傷をさらしてまで説得しようとしている。

「……卑怯だ」

 俺は吐き捨てた。もはや己がメルヴィルのたのみごとを断れないと自覚しながら。

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