―― 十二月五日 ――

 逃げる時に果汁で汚したシャツを脱ぎ捨てる。

 それから廊下を戻って扉を開けると、玄関先の少女が正面から俺を見すえてきた。

「カナダキイチロウさん、私たちアクシュネットは、海洋調査団体として白鯨を追っています」

 ずっと直立したまま待っていたらしい。少女の顔をまじまじと見る。やはり全く見おぼえないし、アクシュネットという名前の個人だか団体だかも聞きおぼえがない。

 今の俺は、上半身はランニングシャツをはおっただけの姿。ぼさぼさ髪の、きちんと髭もそっていない男。そんな姿を目の前にして、少女は表情ひとつ変えない。意思の強そうな瞳が、俺をとらえて動こうとしない。十四歳くらいの見た目のわりには立派な根性といえるか。もっとも、いつも部屋でそうしているように下半身もトランクス姿だったらどうなっていただろうか。

「たしかに俺は金田、紀一郎だ。さて、君は誰だ。なぜ助けてくれた?」

 そもそも本当に助けられたのだろうか?

 少女は軍隊とも私設団体ともつかない紺色の制服に身をつつんでいる。小さな尻をつつんだハーフパンツから、黒タイツをはいた細い足がのびる。階級章がはられた胸ポケットの下は平たい。つばなし帽子の下に、切りそろえた短い黒髪がある。

 まだ学び舎に義務で通っている年ごろにも見えるが、くすんだ肌を見れば案外と成人しているのかもしれない。日焼けのぐあいから見て、少なくとも海上の生活は長そうだ。

「私はマリア=メルヴィルともうします。キイチロウさんがこの周辺で目撃されたという情報をえて、力を貸してもらうため来ました。くわしい立場と、意図についての説明は長くなりますが……」

 ちらりと足もとを見て、続けて俺の背後へ目をやる。例のゴムボートで移動しながら説明するか、そうでなくても室内で話したいということか。

 確かに助けられたような立場ではある。何らかの組織が俺を拘束しようとしていることも事実らしい。だが、部屋に一度入って興奮がおさまった頭は、まだ安心するには早いと警告を発していた。ラーメンを食べながら話しかけてきた男がいっていたように、クジラを狂信するカルト団体という可能性もまだ残っている。

 周囲に他人の気配はない。このアパート四階にいるのは、どうやら俺と少女の二人だけ。長身の男は一階でゴムボートを浮かべながら待っているはずだ。大氷嘯のため塩水につかり、塗装から鉄筋まで傷んでいるボロアパートに、まともな住民や来客がいるはずもない。たとえ当局とやらに見つけられなくても、あと一ヶ月もすれば俺も出て行く予定だった。

 それにしても、メルヴィルという苗字に、アクシュネットという団体名か……

「そもそも力を貸すって、何のためにだ?」

 俺はメルヴィルと自称する少女から視線を外し、頭をかいた。ごわごわと脂っぽい髪が指にからみつく。

「先ほどボートの上でも説明しましたとおり、南極へ白鯨を追うためです」

 少女の背後に見える太平洋が、晩秋の朝陽をあびて輝いている。海に向かって吹く風は穏やかで、ほとんど凪いでいるといっていい。このたいらかな水面を見るだけでは、その先に白鯨が、一世紀以上も前に書かれた小説から名をとった海の怪物がいるとは、みじんも感じさせない。

 しかし、インターネットで見ているニュースによると、定期的に巨大鯨の出没情報がささやかれ、一ヶ月に一回はどこぞの海域で船が転覆させられたという話も出ている。十年前の大災害で多くの土地を飲みこみ、その深さを増した海は、深淵に人知がおよばない領域をかかえている。

 白鯨の実態はさだかではないが、少なくとも個体数は百万頭を超えるらしい。推測される生息域はタルシシュ半島の周辺。一説には新種ではなく、すでに知られているクジラ類が群をなしているだけともいわれているが、それはそれで未知の脅威ということに変わりない。

 少なくとも、既知のものではない何かが海にひそんでいることは、俺自身の経験からもわかっている。

「ただ追うといっても、大きくわけてふたつあるだろう」

 漁の障害となる害獣を退治するか、真偽や生態を調査するだけか、あえて俺は遠まわしにたずねた。

 まだ敵か味方かわからない今は、俺の考えを明かしたくはない。実のところ話を打ち切っても良かったが、少女の持ちかけてきた話には興味があった。半年がたった今、白鯨の記憶を思い出すこと自体に、癒えかけたカサブタをおっかなびっくり触るような、痛みと裏腹の快楽も感じられた。

 俺の問いに少女はどちらかを選ぶどころか、とぼけることも無言で返すこともせず、予想外の質問で返した。

「ふたつですか? 私たちは白鯨への対処はみっつあると考えております」

「倒す。調べる。あとは何がある。ああ、放置しておくという対処法もあるな。それを追うとはいわないが……」

「ええ、そうですね。私たちは白鯨の正体をさぐる南極調査のために、あなたを求めています。対処は調査結果をえた後で考えます」

 どうも、この女は真面目かつ親身なようでいて、こちらの知りたいことについて遠回りにしか話さない。意図的なのか、天然なのか。

「順序をおって説明してくれ。対処はみっつあると答えただろ。調べること、退治すること、放置すること、それで全部なのか?」

 目をしばたかせた女は、対面してから初めて眉と視線と頭を下げた。

「いえ、あの、説明がうまくなくてすみません。私たちは、倒すことと放置することの他に、選択肢があると考えています」

「飼いならすとか、追いはらうとかか?」

 海中に網をはったり、泡で壁を作ったりを試している計画もあると、かつて水産高校の授業で聞いたことはある。しかし教師からは、教科書に書いてあるような計画は絵空事で、実際は希望的観測すら立っていないとも聞かされた。敷設を行政から委託された民間や研究機関が予算をえるため、形ばかりの試験をくりかえしているだけだという。網は短期間で様々な海中生物によって切断され、泡は本気になった巨大生物を止めるほどの能力はない。そもそも予算と資源から考えて、人間の活動する海域を一割もカバーできないことは明らかだった。

 飼いならそう、それも家畜というよりペットのような存在にしようと行動している研究団体もいる。北米やオーストラリアの政府に対して執拗な陳情、いわゆるロビー活動を行い、いくらかの支援を獲得することに成功したというニュースが定期的に流れている。

 気が向いた時にニュースを読むこともあるが、そういう団体の行動は研究とは名ばかりなものばかり。論文どころか調査結果すらまともに出そうとしていない。ふるいにかけて厳選した論文だけを載せる一流科学雑誌には相手にされず、せいぜい一般人向けの雑誌へ、自説に有利な調査報告を結論だけ提供している程度だ。

 そういった団体は、クジラとのコミュニケーションが順調に進展しているという主張を、大氷嘯の前から現在にいたるまで続けている。つまり、計画は順調に停滞しているという実態を、自らの主張で明かしてしまっている。

 巨大な脳を持つクジラやイルカは人間に近い知性を持っているという、ごく少数の学者が前世紀に主張していた学説を思い出す。軍事目的や海中牧場での利用がとなえられたかと思えば、やがてイルカやクジラを狂信的に保護する口実にも使われていった。

 俺がつらつらクジラ牧畜の歴史を思い返している間に、うつむいていた少女は顔をあげて首を横にふった。

「短期的にならともかく、永続して追いはらうことは私たちの能力をはるかに超えています。また、あくまで私見ですが、飼いならすことも巨大なクジラ類が相手では非現実的だと思っています」

 どうやら、少女が所属しているのは、夢想を追いかけている私設研究団体のたぐいではないらしい。

 ふと俺は苦笑いを浮かべている自分に気づいた。アパートの玄関先で長々と話している状況が、今さらながら不思議に思えてくる。

 カルト団体のように意思疎通できない相手なら、玄関より中に立ち入らせるべきではないだろう。しかし、仕事らしきものを提示してくるお堅い団体であれば、部屋にあげることにためらう必要はない。好みに比べて幼すぎる外見とはいえ、そこそこの外見をした少女なのだから、歓迎することもやぶさかではない。

 俺は自室に少女を招きいれた。

「じゃあ、とりあえず靴を脱いでくれ」

 土足で上がりかけた足をあわてておろし、少女がうなずく。やはり日本文化で生まれ育った者ではないようだ。

 土間にブーツを脱がせて、廊下を進んでくる少女の足音を背後に聞きながら、質問を続ける。

「さっきの話だが、結局のところ他の選択肢とは何なんだ?」

「私たちは、白鯨を保護する選択肢もありうると考えています」

 ……先ほどの推論を撤回しなければならない。どうやら少女はこちらの想定以上に夢想的な考えを持っている。それも団体ぐるみで。

 ふいに背筋をなであげられて、俺は背後をふりかえる。すぐ近くで立ち止まった少女が、右手をのばして俺の背中をさわりつつ、やはり真っ直ぐな瞳で俺を見つめていた。冗談や好奇心でさわったという表情ではない。

「……本気、なのか」

 正気なのか、とは問えなかった。真っ直ぐな瞳は、ひとかけらの狂気も感じさせない。

「白鯨の力を見たという、あなたの証言と同じくらいには」

 返ってきた言葉は、茶化すでもなく皮肉るでもなく、感情をおさえて事実を告げるような口調だった。

「白鯨に負わされたという、あなたの傷と同じ確かさで」

 少女にしては硬い指先が、俺の背中に刻まれている長いくぼみを優しくなぞった。もう半年がたち、肉体の痛みはない。

「その名前と脅威ばかり有名になっていますが、白鯨を実際に見た者は少数にとどまっています。映像も断片的に残るだけ。その生存している目撃者も多くが沈黙をたもったまま。そして、群に遭遇して全体の様子を知り、かつ間近から個体を詳細に観察できた目撃者は、世界中を探してもキイチロウさんだけです」

 深い背中の傷がつけられてから、もう半年もたつ。傷口はすっかり白く新しい皮膚におおわれた。

 だが、ふいに記憶の底からよみがえってくる痛みがある。心をさいなむ叫びがある。

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