第23話 希うなら、あなたのために



 ※ ※ ※




 匡の不調はそのあとも続いた。


 いや、相手側のイカサマが続いた、と表現すべきだろうか。


 匡があがったと思ったら、匡の捨て牌に細工がされてフリテンとなり、チョンボの罰符を払わされた。また、仲間内で牌を交換しているようなしぐさがあり、それによって相手のあがりが格段に早くなったりもした。


 そんな局面が何度も続いた。

 結局、その半荘一回戦目は、匡の点数が全てなくなって終了となった。


「箱下なんて久しぶりに見たぜ、きひひ」


 強がりなのかはわからないが、そんな風に匡は笑って見せていたが、しかし余裕があるようにはとても思えなかった。


 ちなみに、一回の半荘でプレイヤーに与えられる点数は二万五千点であり、それをすべて失ったということは、この試合だけで、匡は相手に最低でも二千五百万円の負けを記録したということになる。



「さーて、どうすっかね」


 十分間の休憩。

 目を閉じて匡はぼやくように言った。


「さすがに真樹ちゃんの分くらいは取り返さないといけないしなぁ」

「……役に立てなくて、すみません」

「何謝ってんのさ」


 真樹に顔を向けて、匡はおどけたように言った。


「気にすることねぇって。元をたどれば、俺のせいでこんな事態に陥ってるんだし。ま、どんと構えててよ。真樹ちゃんの貞操くらいは俺が守るからさ」

「…………」


 軽口にも、いつもの切れがない。

 口調からも分かる。匡は明らかに疲れている。


 そもそも、今日はポーカーで一大勝負をしたあとに、ほぼ休憩なしなのだ。時間も深夜なので、疲労はピークに達しているだろう。


 しかし、真樹にはどうすることもできなかった。




 半荘二回戦目。

 初めに親決めがあり、そのあと一局目に移る。


 始まりの親は匡だった。


「じゃあ、ま。仕切り直しと行きますか」


 そんな風に言いながら、匡は手牌に手を伸ばした。


 しかし、案の定この半荘も、妨害やイカサマに満ちていた。

 真樹には細かいところはわからないが、匡が苦虫をかみつぶしたような顔をしているのを見ていれば、何が起きているのかはだいたいわかる。


  匡は、普通に負けた時は表情を変えないのだ。

 素直に負けを認め、次を考える。明らかに手牌が悪かったり、相手が高い手を持っていると予想した時は、すぐに自分が振り込まないように動きを変えていた。


 それなのに、負ける。


 おそらくは、ただのイカサマだったら、匡はここまでイラつかなかっただろう。先のポーカーの試合のように、相手を見極めたうえで対策をとったはずだ。

 しかし、この状況は少し違う。

 アウェーの状態で、匡自身は動きを封じられたようなもので、好き勝手に敵が暴れているのだ。それも、本来なら相手にもならないような、低レベルなイカサマで。


 もう何度、匡の驚き顔を見たことだろう。


 いつだって飄々としているはずの匡が、歯ぎしりをし、悔しがり、怒りを見せる。


 真樹にとってそんな匡の姿を見るのは、崇拝していた物が音を立てて崩れ去るようなことと同じだった。



 匡なら大丈夫だと思っていた。


 近江匡ならば、例えどんなに逆境に立たされても、笑って受け入れると思っていた。



 それが例え、死や破滅であっても――

 近江匡ならば、笑ったまま堕ちていくだろう。



 なのにどうして。


 今、匡は、苦しんでいる?

 どうして悔しがっている?

 怒り憎しみを抱いている?


 自分の知らない匡が目の前にいるようで、真樹は怖かった。



「おい」



 何度目の文句だろうか。

 匡は赤ジャケットの赤下に対して、文句を言った。


「捨てかけた牌を戻すんじゃねぇ。八索パーソーだろ。一度河に触れたもんを戻すのはチョンボじゃねぇのか」

「ハッ、別にいいだろ。まだ指を放してなかったんだ。小さいこと言うなよ」

「そうじゃなくても、そりゃ見せ牌だ。ここでは見せ牌はどういうルールになってんだ?」


 キッと睨みつけるように三司馬を見る。

 それに対して三司馬は、肩をすくめながら言う。


「別に何のペナルティもないなぁ。まあ、見せてしまった牌で和了るのだけは禁止ってところが妥当か。というわけで赤下。この局、八索で和了あがるのは禁止だ」

「へい。わかりやした」


 おどけたように赤下が言って、今度は別の牌を捨てた。


 ギリ、と匡が奥歯を噛む音が、後ろの真樹のもとにまで聞こえてきた。


 見た感じ、匡の様子は変わっていない。

 しかし、後ろで見ている真樹は、次第に匡の背中に黒いオーラのようなものが満ちていくように思えた。


 もちろんそれは幻想で、そんな変な異能じみたものを匡が持っているわけがないのだが、確かに匡の中に、どす黒いものがたまっていくのを、真樹は後ろで見ていた。


 それを真樹は、匡が怒っているのだろうと思った。



 しかし違った。

 匡は怒ってなんかいなかったのだ。


 イラついてはいただろう。憎悪のようなものをため込んではいただろう。乱暴な口調で文句を言うし、八つ当たりじみたこともした。


 しかし、そうしたポーズの怒りなんて、本当の怒りではなかった。

 そのことに真樹だけでなく、室内にいる全員が理解することになるのは、それからしばらく後になるが――きっかけとなったのは、明らかに次のイカサマだった。




 ※ ※ ※




 麻雀で使われる牌には、大きく分けて四種類ある。


 そのうち、大きく一文字だけ字が書かれているのが、『字牌』だ。

 方角が書かれている『東南西北トンナンシャーペー』と『白撥中ハクハツチュン』がそれにあたる。


 そして、数字牌として三種類。

 漢数字が描かれているのが『萬子マンズ

 青い丸が描かれているのが『筒子ピンズ

 緑の棒が描かれているのが『索子ソーズ

 数字牌はそれぞれに一から九までの数字が表示されている。



 ここまではいい。



 そしてここからが問題だが、麻雀において、まったく同じ絵柄の牌は、しかない、ということだ。


 たとえば、『トン』と書かれている牌があったとして、それが四枚卓上に出ていれば、もう誰の手にも『トン』はない、ということになる。


 この事実を真樹は知らなかったのだが、否が応にも知ることとなった。


 問題は、サングラスの男、黒屋がツモあがり(自分で引いてあがる)をしたときに起こった。



「……おい。舐めてんのか、お前」



 低い。

 地の底から這い出るような。


 いや、どちらかと言えば、無理やり地の底へと押さえつけて、怒鳴り散らさないようにこらえているような、そんな声が匡の口からこぼれた。


 彼は地面を思いっきり踏みつけながら、鋭い声で怒鳴りつけた。



「動くなよてめぇら! 特にてめぇだ赤下! いいな! そこからちょっとでも手を動かしてみろ。殺してやるからな!」



 山を崩そうとしていた赤下に激しい言葉を飛ばし、そして三司馬と黒屋を順番に睨んだ後、匡は言った。


「今、黒屋が和了ったそいつ。『チュン』だ。そいつはお前の手に、何枚ある?」

「……和了分を含めてだが、それが?」

「おう、そうだな。いやあ、すげぇ。見事すぎるぜおい。かははっ」


 そう、無理やり笑って見せた後。


「見やがれクソども!」


 バンッ、と乱暴に匡は自分の手牌を倒した。

 ――そこには、『チュン』と字が描かれた牌が、ある。


「それに河を見ろ!」


 怒りに満ちた匡の言葉とともに、さされた指の先を見ると、赤下の捨て牌の中に、『チュン』がだけあった。


 

 あるはずのない枚数、『チュン』が卓上に存在した。



「はは! まったく傑作だなぁおい。ここまであからさまなサマは初めて見たよ。なあこら。どうして同じ牌が六枚もあるんだよボケ共がッ!」


 思いっきり匡が卓を殴りつけた。

 牌が飛び散り、じゃらじゃらと甲高い音を立てて、そこらじゅうに散乱する。


 よっぽど腹に据えかねたのだろう。

 匡は、怒りに震えながら息をしていた。


 しかし、そんな感情的になった匡とは対照的に、三司馬は落ち着き払った様子で匡の文句に答えた。


「悪いな。いやはや、どうやら二局分の牌が混ざってしまっていたみたいだな」

「あ? どういう意味だそりゃ」

「近江も知っているだろう? 自動卓は、麻雀牌を二セット交互に出す。本来なら別の色の牌を使うが、今回は同じ色にしてしまったからな。混ざってしまったのに気付かなかったようだ。いやあ、悪い。この通りだ」


 そう、まったく悪びれる気配もなく、三司馬は言った。


「――っしょから、そのつもりで……ッ」


 もはやはっきりと言葉にならないのか、ぼそぼそとかろうじて聞こえる程度の声で、匡は何かをつぶやいていた。

 だが、この件に関してはさすがにごまかしがきかないからか、三司馬は妥協案を出してきた。


「今の局はなかったことにして、別の卓でもう一度やり直そう。ちゃんと事前に牌のチェックもして、だ。もちろん使う二セットは背を別の色にする。それでどうだろう?」


 怒りに震える匡に対して、三司馬は余裕しゃくしゃくと言った様子で、そう言う。



「……ああ。それでいいよ」


 もう怒る気力もないのか、力のない声で匡は答えた。

 そうして、卓そのものを移動し、仕切り直しすることになった。


「それじゃあ、南三局、俺の親からだな」


 三司馬がそう言って、サイコロを回す。


 半荘二回戦目は、あと三司馬の親と、次の赤下の親で終わりだった。


 匡の持っている点数は八千点を切っており、対してトップの三司馬は三万二千点。圧倒的に差がついている。


 たとえさっきの不正がなかったとしても、状況がひっくり返るのはかなり難しい状況だった。




「……計算してみたんだけどよ」


 局面を進めながら、匡はまるで独り言をつぶやくように言った。


「三司馬。前の半荘のトップはお前だったわけだけど、その時の点数が四万三千点だったよな。んで、今の点数合わせて、七万五千。もしこのまま三回戦に進んだとしても、俺がこれを逆転するのは、ほとんど不可能なんだよな」

「なんだ? 今更泣き落としか?」

「いや、そういうわけじゃねぇよ」


 パチン、パチンと、牌が卓に打ち付けられる音が不気味に響く。


 匡の口調は落ち着いていた。

 落ち着きすぎていて、怖いくらいだった。


「ただよ。もしその点差をひっくり返そうって思ったら、次の半荘、お前ら三人同時に箱下に叩き込むくらいのミラクルは必要だろうなぁって思ってさ」


 パチン、と匡が牌を捨てる。

 続けて、黒屋が牌を捨てる。


「ロン」


 特別感情を込めることなく、ただ淡々と、匡は黒屋に宣言した。

 それに対して、赤下が宣言をする。


「ロン。また、頭ハネだ」


 また、匡のあがりが妨害された。


 その言葉に対して、冷ややかな目で見返す匡。

 赤下の手牌は……真樹にはわからない。前回の例があるので、怪しいのではないかと思うのだが、しかし匡は何も言わずに、自分の手牌を崩した。




 そして、次局へと移る。



 南四局オーラス。

 半荘二回戦目の最後の局だ。


 赤下の手でサイコロが回され、それぞれの手前に手牌が配られる。

 その時だった。




「く。くく」



 くぐもった笑い声が響いた。

 笑い声――そう、それは、笑い声だった。




「く、くは。くはは」




 必死で押し殺そうとしているような、それでもこらえきれないような、そんなどうしようもない笑い声。


 何事かと、三司馬たちは目を見張る。

 そんな周囲に構わず、匡は笑い続ける。終いには、その笑い声は隠す気すらない、哄笑へと変わった。




「くははは。ははは。あーっはっはっはっはっは!」




 笑う。

 馬鹿みたいに、笑う。


 笑って笑って笑って――しかし、その後ろ姿は、まったく笑っていなかった。


 むしろ、真っ黒だった。


 これまで匡がため込んでいた、どす黒い泥のようなオーラが、まるで匡の中で沸騰でもしているようにため込まれていた。

 その中には、笑いが湧き起こるような要素は微塵もない。あるとすれば、それは失笑だろう。


 あるいは、嘲笑や嘲弄といった類の、負の笑いだ。

 決して可笑しさから来るものではない。



「あー、馬鹿らし。なんだろな」



 吐き捨てるように、匡は言った。


「真剣にやってんのが馬鹿らしくなってきた。つーわけで、真面目モードはやめだ、やめ!」


 何かを投げ出すように「万歳ッ!」とポーズをとる匡。



「なあ。真樹ちゃん」



 唐突に。

 匡は、真樹に対して正面を向いて、謝ってきた。



「悪い。約束、守れそうにないわ」

「へ……?」



 匡の突然の言葉には、慣れていたはずだった。


 それなのに。


 突然。

 何を、言い出すのだ、この人は。

 真樹は思わず言葉を失った。





 ※ ※ ※





 榎本友乃恵が閉じ込められて二時間ほどが経った。


 いろいろ考えたが、ここは大人しくしているのが得策だと察して、室内を物色するに努めた。

 最悪、扉をぶっ壊してでも出てやろうという気概はあったものの、ビリヤードルームにあるのはキューくらいなものだ。


 最終的には、それで扉を延々とたたき続けてやろうかと思った、その時だった。



 榎本の携帯に電話がかかってきた。



 一体誰かと思ったら、非通知である。

 なんでまたこんなところで非通知の電話を受けるのかと想いながら、通話ボタンを押す。



「よぉ。この電話は、榎本友乃恵のものでいいか?」

「……あんた。いったい何もんや」



 慎重に榎本は言葉を選ぶ。

 それに対して電話口の声はけらけらを笑いながら言う。


「おお、よかった。実はすっげぇひやひやしたんだぜ。さすがに携帯の番号なんて覚えてねぇし、妹の携帯からはアンタの番号削除されてるしよぉ。本家の方のサーバーにオレのアカウントが残ってたから、なんとかアンタの情報に辿れたけど、しょーじきギリギリだったぜ」


 声はどうやら少年の声のようだった。聞き覚えのあるような、そして懐かしいような気もするが、思い出せない。


 二時間の監禁状態で精神的に限界だった榎本は、苛立ちをぶつけるように電話越しの相手に食ってかかる。


「だから、おどれは何者かと聞いとるんや。悪いけど、いまうちは冗談に付き合う余裕は」

「監禁されてんだろ」


 電話越しの声は、あっさりとそんなことを言った。


「どうやら『妹』が迷惑かけちまったみたいだから、謝らせてもらうよ。わりぃ。ついでに、アンタの居場所さえ教えてもらえれば、そこの電子ロックの解除もできるが」

「妹? どういう意味や」


 いや。今はそれどころではない。


「五階のビリヤードルームや。部屋番号までは、済まんけどわからへん」

「了解した」


 短い返事があった後に、カチリと扉が開くのが分かった。

 恐る恐る扉に手をかけると、あっさりと扉は開いた。


「お、おおきに」

「構わねェよ。オレとお前の仲だっつーの。それより、早く近江匡を探してやれ。どうやら妹は、近江に三司馬組をけしかけたらしい」

「……なああんはん」


 まさか、とは思った。

 そんなはずはないと思いながらも、榎本は問いかける。


「もしかして……まさか、あんはんは」

「遠山ヒズミ」


 あっさりとそう答えてから、電話越しの声は言った。


「ひっさしぶりだな、榎本。かっこいい名前だからって、惚れんなよ?」


 そんなセリフの後で、唐突に通話は切れた。




 ※ ※ ※






「悪い。約束、守れそうにないわ」





 何に言い訳をしているのかわからないが、匡は弁解するように言った。



「真樹ちゃんの分は稼いでくるって言ってさ。要するに、真樹ちゃんだけは助けるつもりだったけど、どうも確約できそうにないわ。つーわけで、ごめん。悪気はある」

「え、ちょっと、何言ってるんですか、近江さん!」



 突然何を言い出すのか。


 さっきまで、どんなに不利な状態でも、それだけは言わなかったのに。

 どうして今。

 どうして今更。



「ま、そもそもの話さ」


 真樹の動揺をよそに、匡は開き直ったように続ける。


「俺みたいな馬鹿者の外馬に乗ってしまったのを悔やんでよ。半ば無理やりだったかもしんないけどね」


 いつもの自信満々な匡はどこにいったのか。

 投げやりなふうに言う匡を見て、真樹は途端に心細くなった。


「そんな! あ、諦めないで下さいよ! だって、半荘戦って、もう一回やるんですよね!? 最低でもあと八局はやるんですよね!? そ、それなら、近江さんなら大丈夫でしょ!」

「そんな期待しないで欲しいなぁ。そもそも、問題はそこじゃないんだけどね」


 困ったようにぼやく匡。

 そんな匡の姿に、彼が本気であることが伝わってきた。


 本気で彼は、真樹を救うことを諦めている。

 それどころか――自分自身が救われることすらも、諦めている。



 そのことに気付いた瞬間、ゾッと、背筋に寒気が走った。



 それは、これまで感じてこなかった、身の危険に対する恐怖だった。


 もしこのまま匡が負ければ、負債の足りない分は、匡と真樹の身体で支払われることになる。ポーカー勝負での六千万ほどの余裕はあるといっても、すでに二千五百万負けているのだ。あとの勝負すべてに負ければ、容易に足りなくなるだろう。


 末路は容易に想像できる。良くて商売女、悪くて臓器摘出の上でコンクリ詰め。最悪で、一生人間扱いされないまま、奴隷として生かされるという道もあるかもしれない。いやいや、もっと酷い道もあるかもしれない。真樹が想像もつかないような、人道から反した、おおよそ人間が考えるとは思えない非道が待っているかもしれない。



 そんな、絶望的な未来。


 寒気が、足元から真樹の体に這い上がってきた。

 今まで考えようとしていなかった分、そのツケを上塗りするかのように、真樹の体を凍えさせてくる。


 怖い。


 未来が怖い。

 匡が諦めてしまうような未来が――怖い。


 近江匡が大丈夫だと言うから、真樹は信じてこれたのだ。


 それなのに、その信じるべき存在から、諦めろと言われた。

 それじゃあもう――絶望以外に、何も残らないではないか。


「おうみ、さん……」

「なあ、真樹ちゃん」


 匡は澄んだ目をしている。

 正直に正面から、気の衒いもなく、ごまかしもなく、真摯に素直に。




「まだ確定じゃない。けど、もしもの場合――」




 彼は真樹に、『』をしてきた。




「もしもの時は――俺と一緒に、地獄の底まで堕ちてくんねぇか?」




 匡のその言葉は、死刑宣告にも等しかった。




「そん、な……」



 ぼろぼろと。

 気が付けば、真樹の両目から、涙がこぼれていた。


 涙は次から次にこぼれてくる。止まることを知らない。止めようとしても、あふれてくる。その涙は何の涙なのか。恐怖、失望、悲壮、自己憐憫、絶望感。さまざまな原因が頭の中からあふれ出して、涙という形となって流れる。



 だが、しかし。




「まったく、もう。近江さんは」




 こぼれる涙を必死で拭う。

 涙声が情けない。




「いっつもいっつも、勝手なことを言うんですから」




 恐怖はある。

 裏切られたという失望感もある。


 ごまかしようのない、そんな自己憐憫の感情を否定するには、真樹の人間性はあまりにも貧しすぎるだろう。真樹は、そんなにできた人間ではない。



 それでも真樹は、自分の中にある、疑いようのない、たった一つの感情に気付いた。

 勝手にこぼれる表面上の思いじゃなくて、心の中から湧き上がってくる、その思い。





 それは、




 飛び上がらんばかりのそれを、はっきりと言葉にした。





「あなたがそう言うんなら、どこまでも付き合いますよ! この大馬鹿せんぱいっ!」





 


 





 真樹の言葉に、にぃっと、匡は満面を喜色に染める。

 それから勢いよく卓上へと向き直る。



「つーわけだ」



 ダンッと卓が強くたたかれる。

 手をついた匡は、まるで宣言するように言い放った。



「お嬢様の許可が出たんだ。さあ、こっからは、馬鹿をやらせてもらうぜ?」



 その声には、真樹の知る匡の雰囲気があった。


 そんな匡に、けなすような声がかけられる。


「お涙ちょうだいはその辺で終わりか? 近江」

「おうよ。安心しろ、これ以上は臭い話は見せねぇよ」

「ははッ。しっかし女泣かせだね、お前も。こんな可愛い子泣かせて、わっりーの」

「ばーか。男は女を泣かせた数だけ成長すんだよ。いいから、とっとと、始めようぜ! オーラス!」


 匡に急かされて、赤下が牌を捨てる。

 間髪入れずに、匡は自分の打牌をした。









 牧野真樹は、近江匡のことを、天才だと思っていた。


 そんな匡に、『』をされた。


 理不尽な命令でも、面倒くさい頼みでもなく、お願いをされたのだ。




 それがどんなにうれしいことか。



 よくある拙い恋心とは違う。信頼とも違う。愛情は……少しくらいは、まああるかもしれない。


 けれど何よりも一線を画すこの思いは、崇拝。



 結局のところ、牧野真樹は、近江匡に惚れているのだ。


 どんなに文句を言いながらも、どんなに呆れながらも。

 真樹は匡に、どうしようもないほど狂わされていて、蕩けさせられている。



 もう五年も前からその気持ちは変わらない。日々を重ねるごとに精錬され、強く大きくなっている。



 彼に頼りにされることが、嬉しくて堪らないのだ。

 だから真樹はただ見守る。



 自分の行く末を。

 自分が信じた男の、選ぶ道を――





 半荘二回戦、南四局。オーラス



 近江匡は、反撃を開始する。








  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る