2 亡羊


 今からおよそ八百年前。当時世界を統べていた龍神たちが、悪神ガフに唆されて異世界より召喚したのが、ラトリウムの人の祖だと言われている(余談だが、これがラトリウムで初めて発動された召喚魔法である)。


 伝説によれば、シュッグクロコンなる修行の最中であったという彼らは、戸惑いつつもラトリウムに根を張り、国家を作り、子孫を増やしていった。人間を忌み嫌う悪神の呪詛が生み出した魔物と戦い、龍神に守り導かれながら、世界中に進出していった。

 その人の祖たちが作った最初の街であり、ラトリウムにおける人の始まりの地でもあるのが、ここギナリタの都だった。時代と共に緩やかに衰退しズの属国となり、ズが滅んだ今は都市国家として穏やかに時を刻んでいる……そんな場所だ。


 人類最初の都に対する敬意と憧憬、栄光を失いつつある現状への揶揄と諦観――それらを込めて老都と呼ばれるこの街に慈乃が逗留を始めてから、すでに五日が経っていた。




   ○   ○   ○




 窓枠に頬杖を突いて空を眺める。流れる雲の合間に、東に向かって悠然と泳ぐクジラの姿が見えた。


 あの後――ライゴウと別れた後、気がつくと慈乃はザンに抱えられて森の中を移動していた。慌てて何があったのか問い質し、ライゴウ一人を残して逃げてきたのだと知った。

 驚愕し激昂しザンを罵り、単身エウクレイデス城へと戻り、しかしそこにはもう戦いの気配は感じられなかった。ライゴウが恐らく何者かの虜となったことを悟った。


 その後はあまり覚えていない。廃墟の中で長いこと座り込んでいたような記憶が薄らとある。いつの間にか朝になっていて……ザンと別れた場所へ向かってみたが、そこにあの罪人の姿は無かった。探しても、待ってみても、会うことはできなかった。


 日が西に傾き始める頃になると、心に力が入らなくなっていて……気流に乗って一人で樹海を脱出、ギナリタへと辿り着いた。それからずっと宿に籠って過ごしている。

 当面は路銀の心配も無い。旅の疲れを癒すなら、良い機会ではあるのだが。


「…………」


 フィルウィーズを出立してからここまで、本当にいろいろなことがあった。

 見たことの無いものを見て、信じられないことを経験して、何度も殺されかけた。こうして老都の静かな空気を感じていると、全てが夢の中の出来事だったようにも思える。


(私は、ここで……いったい何をしているのでしょうか……?)


 渚の危惧した事態を自分なりに回避しようとしたのが発端だった。そのためにライゴウに同行し、アルメルティへ向かい、悪化する状況をなんとかしようとグース大陸を横断し……結局は失敗して、ライゴウとも離れ離れになってしまった。


 自分の努力など、全て無駄だった。冷静になって考えれば、何がやりたかったのかさえ分からない。その場その場ではそれなりに筋の通った行動をしたつもりだが、全体的には支離滅裂。我ながら呆れるしかない……ライゴウもザンもよく付き合ってくれたものだ。


(あの方は……ライゴウ様は、今どこで何をされているのでしょうか)


 ライゴウは自分たちを逃がすために足止めをして捕らわれた。野放しになったザンは、きっとまたどこかで殺戮を繰り返している。どちらも放っておいていいはずがない。

 やらなければならないことは分かっているのに、気持ちがついてこない。ほんの数日前あれほど必死になっていたのに、嘘のように心が沈んでいる。


(これから、私は……どうすれば……)


 フィルウィーズに帰って、神官になる? なるほど、それは旅に出るまでは全く疑問も無く受け入れていた自分の道だ。きっと多くの人を救えるだろう……その自信はある。

 だがそれを素直に受け入れられない自分がいることを、今の慈乃は自覚していた。他人を救うことはできても、それでは自分を救えない。胸に落ちた虚無はどうにもならない。


 前へも進めず、故郷に帰ることもできず、ただ切なさだけが募る。こんな気持ち、どう対処すればいいのだろう? 本には書いていなかったし、誰も教えてくれなかった。


 ふと見られていることに気づき、表通りに視線を落とす。遠目に繁々とこちらを眺める一団を発見する。どこかで会ったような……思い出した、クアンプールだ。

 自分を組み伏せ、ゼフィーに叩き斬られた四人のファルニオの兵士たちで間違いない。見張る風でもなさそうだが、どういった意図にせよ関わるのは億劫だった。


 荷物をまとめて宿を出て、慈乃はギナリタの街を彷徨った。

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