終章 夢のあとに

一、それぞれが前に進むために

 夢からめるのは一瞬のことだ。

 それを夢だったと受け入れるのに、どれだけ時間がかかるにしても。


 静謐せいひつにして荘厳そうごんな玉座の間。

 至高の御方々の御旗の下に在るにふさわしい秩序をもって、シモベたちが整列している。

 常であれば、至高の主の御姿を見、御声を聞けるだろう期待に、押し殺した熱狂と興奮、陶酔とうすいが場を満たす。


 今も確かに、シモベたちの身の内には喜びがある。

 玉座に座す絶対支配者、アインズを目にする光栄に打ち震えている。


 しかし同時に、いくばくかの寂寥せきりょうがあり、ふとした拍子に御旗に目を走らせる者どもがいるのもまた事実であった。


「……皆の者、よく集まってくれた」


 アインズが声を発すれば、全員がそちらに意識を振り向け、全身これ耳といった具合に集中する。


 いつものことであれど、しかしこの時には、何かしら別の期待が――ともすれば至高なる御声が他にも、どこからともなく降って来はしないかという期待が、うっすらと見え隠れする。


 いや、それはアインズ自身の期待だったのだろうか?


此度こたびの事件、『ナイトメア・カーニバル』については皆も説明を受けたことだろう。いまだ混乱している者も少なからずいるだろうが、……残酷なようだが、ここに断言しておこう。現在ナザリック地下大墳墓にいる至高の存在は、この私一人。残る四十人は……いずこにいるとも知れずにいる。

 お前たちが夢の中で会った至高の存在は、全て――」


 まがい物だった、と言いかけて。

 アインズは言葉を呑み込み、わずかにうつむく。


 練習した通りの台詞を、練習した通りの口調と身振りで、話す。

 慣れているはずなのに、声にならない。


 シモベたちの、すがるような目や、悲しげな顔や、諦めたような表情を見ていると、言えなくなってしまったのだ。


「……お前たちが夢の中で会った至高の存在は、彼らの記憶や想いが結晶したものだった。彼らはお前たちに会いたいと願っていたのだろう。そのゆえに起きた事件だ」


 それはかすかなどよめきをもって迎えられる。


 まるっきりの偽物と否定されなかったことを喜び、

 しかしまた同時に、

 至高の存在の一部から発したものを失ったと認めたがゆえに悲しんでいる。


 パンドラズ・アクターがしでかしたことは、秘密にしてあった。

 シモベたちの間で軋轢あつれきが生まれるようなことは避けたい。


 パンドラズ・アクターには時を改めて、二人きりで話そうと決めていた。


「……彼らはそれほどまでにお前たちを愛している。いつかまたナザリックに戻る時があるかもしれない。私にそれを保証することは出来ないが、信じるよすがを得られたと受け止めてもらいたい」


 アインズが口をつぐむ。演説が済んだと認めるに過不足ない時間をおいて、アルベドが恭しく頭を垂れ、


「尊きお言葉、確かに承りました。ナザリック地下大墳墓全ての者が、さらなる忠義に励むことでしょう。いと尊き御方、アインズ・ウール・ゴウン様に絶対の忠誠を!」


 万歳の声が万雷のごとく響きわたる。

 切なる願いと祈りを込めて。










 ナザリック第六階層。

 アウラはため息まじりに偽りの空を見上げていた。


「まったく……休憩時間になるなり一目散に逃げ出すんだから」


 仕事の都合で別行動になることも多いのだが、ここ数日は偶然、双子のどちらもナザリックに詰めていた。


 マーレはこのところ、姉を避けている。


 普段ならばマーレは、あまり出歩かない。

 というか引きこもりである。

 至高の御方のためとあらば喜々としてどこへでも馳せ参じ、身を粉にして働くが。


(守護者で集まって話し合い、とかでもないと、自分からは動きたがらないくせに)


 気に病んでいるのだろう、とは分かっている。

 全てを投げ出して夢の世界に逃げてしまったのだから。


(アインズ様は許して下さったみたいだけど……)


 罰を欲するマーレに、アインズは言った。


 至高の存在に会いたい、至高の存在を攻撃したくない、といった理由での行動を罰するわけにはいかない。

 それではナザリックにいる多くの者を罰さねばならず、現時点でそれを行ってはナザリックが機能不全におちいりかねない、と。


 それに、とアインズは続けた。


 己が創造主を愛する気持ちを、シモベたちには持ち続けてほしいのだと。

 それこそがアインズの喜びでもあるのだと。


 アインズがそう決めたならば、受け入れるしかない。


 たとえそのために、シモベたちの間にわだかまりが残ろうとも――


 いや。

 残したいのかもしれない。

 アウラも。マーレも。他のみんなも。


 この痛みが、風化しないように。

 この苦しみが、刻印となるように。


 夢の世界を守りたがった者は、アインズへの裏切りとして苦しみ。

 夢の世界を壊そうとした者は、他の至高の御方々の想いを裏切ったとして苦しむ。


 罰が与えられないからこそ、

 永劫に己を己で罰し続けることも出来よう。

 それがどんなに耐えがたくとも、

 至高の存在とかすかにも繋がった証でもあるならば、捨てられはしない。


(……みんな、どういうふうに動いたのかな)


 アウラは、誰がどんな行動を取ったかを知らない。

 それを詮索せんさくすることはアインズから禁じられていた。


 アウラは唇を噛み、目を閉じる。


 ほんのわずかなひととき、ぶくぶく茶釜と過ごした。

 ……夢の世界での約束を、果たさなければならない。










 第五階層。

 凍てつく世界に、剣風の音が響く。


 コキュートスだ。


 アインズの命令により与えられた休憩時間である。

 友と酒を酌み交わしたり、職掌しょくしょう外の事柄について話し合いをするなどといった用事がない場合、彼は鍛錬たんれんに勤しんでいることが多い。


 好きなことに時間を費やすのが休憩である、とアインズは言う。

 一方で、至高の御方に忠義を尽くすことは労働であり、休憩にはならない、と。


 仲間の多くが戸惑い、コキュートスもまたはじめはそうだった。

 しかし考えてみれば、鍛錬こそは休憩にあたるのではないか。


 むろん、己が力量を磨くのは至高の御方に忠義を尽くすため、と言える。

 しかしながら剣を振るい、槍で突き、斧を旋回させる時、コキュートスの中で意識は研ぎ澄まされ、無心になっていることが多い。


 ただ強く。

 もっと強く。


 ……もっとも。


 今、この時。

 珠玉の逸品たる剣を振るいながら、彼は到底無心とは程遠い域にいる。


 武人建御雷の太刀筋。

 その剣技を、あたう限り模倣した。


 あの御方が振り抜いた剣の軌道。

 その幻影を追うように真似まねていた。


 少しでも、長く。

 あの御方と共にいた夢を、己の内に留め置きたくて。


 けれど、こぼれ落ちていく。


(……アノ御方ノ太刀筋ハ、モット鋭カッタ)


 重ねたくても、

 ずれていく。

 なぞりたくても、

 ぶれていく。


(私ハ、コンナニモ弱イノカ)


 単純なステータスならば、弱体化した建御雷よりもコキュートスが優れていた。


 何かが、足りない。

 何か。

 決定的な、もの。


(……経験ノ差)


 足りない。

 足りない。

 ひとりで鍛錬していても、

 どんなに繰り返しても、

 あの域には到達しない。


 分かっている。

 それでも。


 剣を振ることを、止めなかった。


 亀の歩みであろうとも、一歩を進むことを諦めはしない。

 あの御方の背中がどれだけ遠くとも、追いかけることをやめはしない。


 絶望しているひまがあれば、一本でも多く素振りをする。

 そもそも絶望する、という選択肢が彼の頭にはない。


 ひたすら鍛錬たんれんし――

 休憩時間が終わったと、息を吐いて振り返れば。


 ぼんやりした顔で座り込む、マーレがいた。


 コキュートスがハルバードを除く武器を収めると、マーレはよいしょ、と立ち上がる。隣に積んでいた数冊の本を小脇に抱えて。


「えっと、内政とかの参考になりそうな本はこれだけだそうです」

「助カル」

「ほんとはもっとあるらしいんですけど、いくつか見当たらないらしくて……誰か勝手に持って行ってるのかもしれません」

「ソレハイケナイナ。アインズ様ニゴ報告スベキカ」

「でも、至高の御方にかく在れと望まれた仕方によっては、堂々と借りるよりそうした方がいいってひとも、いるみたいですし……」


 言われてコキュートスの脳裏に真っ先に浮かんだのは、執事助手たるペンギンである。


 ナザリックの支配を企んでいる、という設定上、支配した後の統治についての本をチェックしようとしたとしても不思議はない。

 あえてこっそりと持ち出すことで、いかにも何か企んでいる奴がこそこそ計画を練っています、と見せかけるパフォーマンスとしたのかもしれない。


 他にも思いつくNPCはいる。

 コキュートスは頷き、


「ソチラハ司書長ノ判断ニ任セルベキダナ」

「は、はい。ボクも、そう思います。あの、でもこれらの本がリザードマンの統治にどこまで役立つかは、分かりません。扱われているのはリザードマンの集落ではないそうなので……」

「フム。忠告感謝スル。参考ニハスルガ、鵜呑ウノミニハシナイ」


 いざとなればデミウルゴスに相談しよう、と胸の内で呟きつつも、

 コキュートスはそれを口に出さない。


 ナザリック随一の智者であるデミウルゴスに、こうした問題でかなうとは思っていない。


 しかし努力はすべきだ。

 最初から頼るようなことを公言するのは嫌だった。


「トコロデ、マーレハ休憩時間ナノカ」

「は、はい。えっと、前に休憩を取り忘れてしまって……ふりかえ、でまとめて休憩を取っています」

「ナルホド」


 ちなみに、あまり休憩を取らないと一日分余計に働いたとみなされ、『ふりかえきゅうじつ』なるものを申し渡されることになる。


 シモベたちにとっては恐るべき措置そちだ。


 そうなる前に、みんな頑張って休憩を細々と取る。取り忘れたら早めに『ふりかえ』をする。


 『ふりかえきゅうじつ』は『ふりかえ』の上位互換である、というのがナザリックの共通認識である。


「フム、……私ノ手伝イデ本ヲ探シテモラッタワケダガ、マーレハ図書館デヤルコトガアッタノデハナイカ?」

「いえ……休憩時間を持て余していただけです。うまく使えなくて」

「ナルホド。シカシ私ノ記憶ガ正シケレバ、マーレハ仕事ノナイ時ニハ自室ニ引キコモッテイルコトガ多カッタハズダガ、コノトコロヨク別ノ階層ニイルナ」


 マーレはおどおどとして、目をそらす。

 いつも通り、と言えばいつも通りな振る舞いだ。


 ……そう、解釈していい。

 放っておけばいい。

 踏み込むべきではない。

 詮索せんさくはするなと、アインズも命じた。


 だが。


 その目がいつもより、どことなく陰って見えたから。


「アウラト喧嘩デモシタカ」


 つい、聞いてしまった。


 面倒見のいいところは、創造主譲りだろうか。


 マーレは困ったように眉を八の字にして、杖を両手で握りしめる。


「……そういうわけじゃ、ないんですけど」


 マーレは黙った。

 コキュートスも黙っていた。


 やがて、マーレはぽつりと言った。


「ボク、お姉ちゃんに会わせる顔がなくて」


 また、長い沈黙。


 コキュートスは「ソウカ」と言って。

 ハルバードを構えた。


「え? あの……コキュートスさん?」

「構エロ」


 いえ、こっち杖ですけど。魔法職なんです。


 などとマーレが言う暇もなく。


 がつん、と。

 振り下ろされたハルバードを、とっさに両手で掲げた杖で持ち上げる。


 重い。

 明らかに手加減されているが、それでも。


「ちょ、ちょっと……!」


 氷った地面が、ひび割れる。

 足が沈む。

 膝から崩れそうになる。


「魔法ハ無シダ」

「こ、これってなんの罰……」


 頭上に降りかかっていた圧が消え、マーレはたたらを踏んだ。


「構エロ」

「ま、まずは話し合いからではないでしょうか?」

「武人建御雷様ノ御流儀ニナラッテイル。何モ問題ハ無イ」

「な、なるほど。そ、それは失礼しました……」


 マーレはきりっと凜々りりしい顔つきになり、杖を構える。

 意図が不明でも、理不尽に見えても、至高の御方の流儀ならば、是非もない。


「とにかく、えっと、殴りかかればいいんですか?」

「斬リ結ブノダ」

「……杖、なんですけど」

「心構エガ重要ダゾ、マーレ」


 理屈が通じる次元ではない。

 そのことに呆れるどころか、マーレは感嘆する。

 決して「脳筋」などという表現は浮かばない。

 それはやまいこのための言葉でもあるし、そもそも至高の御方の流儀は理屈を超越して素晴らしい、という理解に一足飛びに向かうからだ。


「たあっ!」


 とてとて、と走って行き、杖を振りかぶり、振り下ろす。

 ハルバードに弾かれる。

 踏みこたえられず、マーレは後方にのめった。

 歯を食いしばり、無理な体勢から再び杖を振るう。

 弾かれる。

 振るう。

 弾かれる。


 何度も何度も。

 一撃でもコキュートスに打ち込もうと。


 そうしていると、ぎ落とされる。


 片時も脳裏を離れなかった罪悪感も、

 身の内を焦がす激しい後悔の念も、

 決して口に出来なかった言葉も、


 行き場のないままぐずぐずになって、渦巻くだけだったものたちが、澄み切った意識にろ過されていく。


 ……打ち合いがいつ終わっていたのか、マーレにもよく分からなかった。


 気付けば互いに武器を下ろして向き合っていた。

 コキュートスが軽く礼をするのを見て、慌ててマーレもまねをする。


「本気ノ打チ合イハ、心ヲキ出シニスル」


 コキュートスが堂々と言い切る。


「不思議な気分になりました。以前アインズ様がデミウルゴスさんと王都で闘ったとき、前衛は高揚するといったことをおっしゃっていたそうなんですが、ボクもなんだかちょっとだけ、アインズ様のおっしゃったことが分かった気がします」


 やるべきことは決まっていた。

 前に進むために必要なことは、驚くほどシンプルだった。


 マーレは、はにかむ笑顔で頭を下げ、

 きりっとした顔つきになり、決然と言う。


「ボク、お姉ちゃんに謝って来ます」


 コキュートスは一つ頷いて、「ソウカ」と言った。


 ただ、それだけだ。


 けれどもそれが、何よりの励ましと聞こえた。

 いくつ言葉を費やすよりも力強い――戦士の励ましと。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る