第7話 5日目

5日目・新堀の話

 その日は生憎の雨だった。ただ蒸し暑さはなく、肌寒いとさえ感じる日だった。昨日あんなに遅くなっても大沢は一番に署に出て来ていた。彼は待ちきれないのだ、鑑識の結果が。昨夜の収穫である体操着袋の、袋の部分に付着していた夥しい黒ではなく、それ以外で黒ずんでいた紐の部分の血痕が、誰のものなのか気になって仕方がなかったのだ。

「おはよう。しかしこのごろよく雨降るな」

「そうですね」

「今日は随分と速いな」真木野の登場に大沢がニヤけた。

「まさか、たった二回俺より早く来ただけで、勝ち誇っているんじゃないだろうな?」真木野も薄ら笑いを浮かべた。

「それにいくらDNA鑑定が発達したからって、昨日の夜の今日の朝では不可能だろ。早くて今夜、多分明日朝になってしまうだろうな」

「そうですよね」大沢はあからさまに肩を落とした。そのあとはそれぞれが机に向かいデスクワークをしていた。

 一時間ほどが経過し、静まり返った部屋の中、真木野は立ち上がり出口の方へと足を進めた。

「真木野さん?」それは大沢の声だった。

「一人で出掛ける」背中のままの真木野に、

「わかりました」ため息交じりに答えた。

外に出ると、真木野は暗い空を一瞥し傘もささずに歩き出した。彼が向かった先は駅前の喫茶店。そこに待っていたのは、こっちに軽く手を振る新堀だった。

「おまえから何度も電話が掛かって来たときは驚いたよ」

「嘘つけ、こうなることをわかっていたくせに」友好的に話す新堀とは対照的に、真木野は顔を顰めた。

「で、警部さんが俺に聞きたいことって何ですか?」新堀は一転し冷やかな表情になる。珈琲が運ばれて来たのを確認すると、真木野が口を開いた。

「何故、佐久家に顔を出している?」

「仕事の調査だ」

「調査?特許庁のか?」

「そうだ」

「特許庁が佐久善治の何を調査している?」

「それは教えられない」

「娘の亜紗美が死んだことと関係はあるのか?」

「ないよ」

「本当か?」向かい合って座る二人。それを嫌がるように新堀が体を斜めにしてから足を組んだ。

「俺は何時だって開け放っている。包み隠すのはいつも君の方だろ」それでも目線だけを相手へと向けた。

「そんなことはない」真木野は掴んだ珈琲カップを見つめながら、それをゆっくりと口へ運んだ。

「そう。ところで、佐久亜紗美の犯人捜査、だいぶ手古摺っているようだけど。早く捕まえないとお蔵入りしちゃうんじゃないか。君が前回担当した事件のように。可哀想だよね。司ちゃんだっけ、僕と同じ名前なんだもん覚えちゃったよ」

「どうして俺がその事件の担当だったことを知っている?」勢い良く置いたカップからコーヒーが毀れる。

「君のことは何でも知っているんだよ、僕は」ほくそ笑む新堀を真木野は煙たがった。それを一段と嬉しそうに眺めながら、

「今回聞きたかったことは、何故佐久善治の家に行ったかだろ?それも娘が殺された次の日に。でもたまたまだったんだ、本当だ。じゃあ君の疑問には答えたからね」新堀は立ち上がり伝票を掴んだ。

「待てっ。何故あの事件の担当が……」真木野が言葉を止めたのは、新堀が顔を近づけてきたから、そして彼は云った。

「もう君からの質問に何個も答えるのは止めたんだ。僕がいくら答えても君は何も教えてくれないから。だから今日は一つしか答えないよ。ただ、一言だけ忠告しておこうかな。司法解剖はきちんとやった方が良いと思うよ。バイバイ」そして歩き出した新堀だったが、

「何が知りたい?」背後から聞こえた真木野の言葉に足を止めた。体を反転させゆっくりとした足取りで、

「十二年前の事件の真実」新堀が席に戻った。

「それなら明日か明後日にはニュースで流れる」

「だったら今教えろ」

「今はまだ無理だ」

「じゃあ交渉決裂だ」再び立ち上がり背を向けた。

「おまえ……今の事件絡んでるな?」何の反応も示さない新堀だったが、

「結婚の仕方でも聞きたいのかと思ったのに」その言葉には、レジで会計をしながらニンマリとした。


5日目・9か月前の事件の話

 九ヶ月前、真木野が担当していたのはある男の子の誘拐殺害事件だった。横浜市に在住の三歳の男の子、高橋司ちゃんが何者かに誘拐された。母親からの通報で警察は動き出した。当時、家の庭で遊んでいたはずの司ちゃんが、母親が数分だけ目を離した間にいなくなってしまったのだ。数人の捜査員が手分けして三歳児が一人でも歩けそうな半径五百メートル圏内を隈なく探した。しかし二日経っても子供は見つからなかった。誘拐、それは母親の通報を受けたときから誰もが考えていたことだった。しかし三日が過ぎても犯人からのコンタクトは愚か、それらしい電話も掛かっては来なかった。母親はただ泣き崩れ、数分間の自分の行動を悔いた。真木野は一日目から子供の家で犯人からの電話を待ち続けていた。犯人からの接触がない以上それ以外の可能性も考え周辺の捜査や聞き込みも行ったが目ぼしい結果は得られなかった。司ちゃんの家から百メートルほど歩いたところに公園がある。その中に一週三百メートルほど池があった。事件発生から既に一週間が過ぎていた。誰もが誘拐よりもこの池の中に疑いの目を向けていた。勿論、その池は二日目に既に捜索はしていた。しかし他の場所よりも水がある分、捜索には手間取り、捜査員の誰もがその中に司ちゃんがいないと言い切れる者はいなかった。前回の数倍の数を動員し早朝から捜索は行われた。季節は秋に入ったとはいえ、夏休みが終わったばかりの九月、蒸し熱くまして池の水の蒸発は想像以上に捜査員の体力を奪って行った。畔では司ちゃんと同じ年ぐらいの子供たちが母親に連れられて捜索を見つめていた。彼らが興味を持っているはずもないのだが。時刻は正午を過ぎ、いよいよ太陽がその日一番強い日差しを降り注ぐ時間へと突入していた。全身をビニールで覆われた格好での捜索に数人が熱中症になる始末だった。池の捜索開始から十時間、太陽の日は幾分落ち着き始め、湖畔では夕涼みにこの公園始まって以来の賑わいを見せていた。

そんな中、「いたぞ」池の真ん中より幾分自宅寄りの深さ一メートル五十センチ程の所に、泥まみれで手足に全く力の入っていない男の子が発見された。すぐに救急車で運ばれたが、その小さ過ぎる手足が再び動くことはなかった。訃報はすぐに自宅で待つ母親に届けられた。椅子に座ってその知らせを聞かされた彼女は少しの間、何の反応も見せなかった。その場に居合わせた真木野も掛ける言葉など持ち合わせてはいなかった。数分後、彼女は椅子から崩れ落ちた。ショックの余り、気を失っていたのだ。引き上げられた司ちゃんに目立った外傷も靴が脱げていた以外衣服の乱れも見当たらなかったことで、警察は事故死と断定した。新堀が忠告してきた解剖は、ちゃんと行われていた。池の水を大量に飲んだことによる溺死だった。それでも母親は誘拐され殺されたんだと訴えた。まず一つに司ちゃんの靴が二足とも脱げていたのだが、池からは一足分しか見つからなかったこと。そして彼がその公園には今まで一度も行ったことがなかったこと。引っ越して来たばかりだった高橋家は引越しの片付けに追われ、周辺の散策にまだ出向いてはいなかった。だから司ちゃんが一足の靴が脱げてもなお一人でそこまで歩き、池の中に落ちることなど母親には考えられないことだった。結局警察の判断は変わらず、真木野も捜査規模の縮小から司ちゃん事件の捜査を外された。その直後のテレビ番組では、幾つかの証拠からこの事件は他殺だったと訴えたことで、民衆を煽り、警察の事故死の判断に苦情の電話が後を絶たなかった。それから三ヶ月が過ぎ、テレビでもその話題が取り上げられなくなるのと同時に、苦情の電話も止み人々の記憶からも薄れて行った。勿論、今でも家族は立ち直れずに、喪に服している。多分この先何ヶ月も、いや何年も、人々の中でこの事件が頭の中から完全に消え失せても、家族だけは心に傷を負ったまま、ただ時間が経過して行くのだろうと真木野は考えていた。そんなときに発せられた新堀の言葉が、今の真木野にはやたらと生々しく思えた。しかしその事件に関わった彼でも今は別の捜査を進めている。日々担当の事件のことを考えるばかりで、司ちゃんのことを余り思い出さなくなっていた。彼は新堀が言うような偽善者だと自分では思っていない。だからだんだん薄れて行ってしまうことに、少しも心を痛めてはいないのだが、ただ感じるのは、人間は無情だということだった。新堀との遣り取りも不発のまま、署までの道のりを歩きながらそんな事件のことを思い出していた。彼は初夏の少し冷たい小雨の中、思い詰めた表情で歩いたが、あまりにも服を濡らす小糠雨だったから、考えることを止めて走り出した。署に戻ると、部下に大丈夫ですかと心配されたが、心にもない癖にと鼻で笑いタオルで服だけをゴシゴシと拭いた。


5日目・出前の話

昼時になったが、その日の下山は気持ちが悪いぐらいに機嫌が良かった。

「おまえら腹減ったか?」そこにいたのはさっき戻ったばかりの真木野、三橋、林、大沢の四人だった。

「はぁ」

「減りましたね」誰も期待していたわけではなかったが、

「よっし、じゃあ今日は俺の奢りだ」課長がそんなことを言い出した。彼が大盤振る舞いをするときは決まって昼飯の出前、それも蕎麦と決まっていた。しかしその日は、

「俺、ラーメン食べたいから中華にしよう」立派な腹周りをだいぶ気にしている下山が、珍しく油が多い中華を食べたいと言い出した。

「じゃあ俺はチャーシューメン」誰よりも早く三橋がメニューを決めた。林はチャーハン、下山と大沢はラーメン。真木野はサンマーメン、このサンマーメンというラーメンは横浜が発祥なんだと、メニューを決める際に横浜を愛する男真木野が誇らしげに蘊蓄を披露していた。それに餃子を人数分頼んでいいとの許しまで出たことに一同驚いた。出前を頼むのは一番下っ端の大沢だった。二十分かそこ等で到着した出前のオジサンを一同拍手で迎えた。確かに早かったが、このごろの疲れからか変なテンションが一課には蔓延していた。飯も食べ終わり、皿は給湯室で大沢が洗った。幾分まどろみながらも午前中からの流れでそれぞれが調べ物や書き物をしながら、皆があの袋のDNA鑑定の結果を待っていた。佐久亜紗美が何者かに不可能な方法で殺され、ここまでの四日間毎日少しずつではあるが真実へと近づきつつあるはずだった。しかし五日目は真木野や大沢にとって捜査は停滞した日だった。


5日目・高田の話

だからといって全ての人間がそこに留まっていたわけではない。例えば高田和夫の場合は特に激しく波を打つ日となった。

朝ふと気になって、いつもされるように高田和夫は境川連治との境界に引かれたカーテンを勢いよく開けた。しかしそこに怖い顔はなかった。

少しして現れた看護師に尋ねると、

「あれ知らなかったんですか?境川さん、今朝早くに退院しましたよ」との回答だった。別に寂しいとかは感じなかった。ただ昨日の夜のことを謝りたかった。しかしよくよく考え、あの男はあの風貌でだらしがないからやはり謝らなくてよかったと、すぐに考えを改めた。

午後になって、連治のいたベッドには既に次の患者が入院してきた。

「何で個室じゃない?」

「申し訳ございません。開き次第すぐに用意させますので」次の患者はなかなかの金持ち爺さんらしかった。新入りとその付き人らしい男の会話を聞いていたら胸糞悪い気分にさせられた。それに少し外の空気も吸いたくなったから、高田和夫はいつものように一人無断で病院を抜け出した。無断にしなくても誰も彼を止まる者などいないことはわかっていたが、彼は病室から廊下に出るときも、エレベーターから待合室に出るときも、外に出るときも用心して先に進んだ。誰も彼を気に掛けなくても、彼はそれをやめるつもりはなかった。

外に出ると彼は決まって空を見上げる。冬の空が好きだ。晴れた空は透明感と広さを感じる。しかし夏の大気は澄み切ってはいない。それでも晴れた空に何層にもなった雲があれば奥行きを感じ生きる力を貰える。ただ今日みたいに小雨交じりの空も嫌いじゃなかった。全然奥行きも広さも感じない。どんよりしているから生きる力なんかまったくもって感じないのに、本当はこっちの空の方が好きだった。雨が服を通してジンジン体に沁み渡る。歩いてもその日は何故か体が温まることはなかった。寧ろどんどん熱を奪っていく。その日の雨は冷た過ぎた。そんな雨が、彼は好きだ。温かみを持たない雨は、何をしても許してくれそうだった。何をしても自分の方が冷徹だよと言ってくれているようだった。だから彼はこんな天気の日は一番自由を感じることが出来た。そんな日だから今一番したいことをしようと思い、一度立ち止まって空を見上げていた彼は再び歩き始めた。彼は病人でも携帯電話は手放せない。肌身離さずに持ち歩いている。そんな携帯電話がブルブルと震えた。堪らず彼もいっしょに震えた後にそれを鞄から取り出した。

横浜の住宅街。冷たい小雨がぱらつく中、少し行くと幹線道路がある近辺を歩くのは入院中の高田和夫。彼が何処へ向かうのか。入院患者の高田は結構な距離を歩いたが息一つ乱れていない。雨粒に打たれても表情さえも崩れていない。彼が足を止め見詰める先にある物、それは幾つもの扉の前に洗濯機が置かれている光景。階段が剥き出しの決して綺麗ではない二階建てのアパート。少し立ち止まってそれを見ていた男が、足の向きを変えるとゆっくりとアパートへと近づいて行った。

目の前まで来ると迷うことなく階段を上がり、左に曲がる。

その突き当りまで辿り着くと、目の前のドアを叩いた。

中から応答はない。

だから高田は叩いた。反応はない。それでも叩いた。無音。叩いた。

「煩い」ボソッと漏れてきた声。

彼の目の前にあるのは、速川の部屋だった。

間違いなく中にいる。確信を得た高田は尚も速川征太が住む部屋のドアを叩いた。

ドンドンドンドン只管叩き続けた。

「煩えなっ」堪らず反応した彼が諦めたようにドアは開いた。

中から現れた男は、無精ひげを生やし、眼は虚ろとしていた。一番印象的だったのはクマ。どうしたって消えそうもないそれが眼の下に蔓延り、そいつが今の速川征太という男の全てを物語っているようだった。

「来てくれたのか?」

「あぁ、止めようと思ったけど、来た」さっきまで失明していた目が、突然見えるようにでもなったのか、久しぶりに見た友人の姿に彼は素直に喜んでいるようにも思えた。

「どうした?元気か?」何処となく目が潤み出した速川に高田は明らかに動揺した。

「あぁ」二年ぶりの再会だった。

「おまえが僕を覚えていてくれたなんって光栄だよ」速川の言葉に、姿に、目を逸らす高田。

「当たり前だ。散々一緒に遊んだろうが」

「そうだったっけ?」速川は考えている風な顔をした。

「そうだよ。君にとっては遊びでも、僕にとっては遊びなんかじゃなかった。君は格好良くて頭も良くて、そしてずるかった」

「そんなことはない」への字口の速川に、

「そうなんだ」高田のトーンが段々とヒートアップした。

「ごめん、覚えてない」

「そうか。ならいいんだけど」二人の間にはベルリンよりも頑丈な壁があるようだった。

「まぁ中に入れよ」昔の友人を招き入れると速川は高田の為に珈琲を入れた。高田は言われるまま小さな木製のダイニングテーブルに二つ添えてある玄関側の椅子に座った。間取りは六畳ほどのキッチンとその奥に同じ大きさの部屋があるだけだった。突き当たりに窓があったがカーテンが閉まっていて薄暗かった。そのせいだろうか、少しばかり何かが腐ったような臭いが鼻に付いたが、我慢出来ないほどではなかった。一人暮らしみたいだが、散らかっている印象は受けなかった。寧ろ物がなく閑散としていた。夏だというのに、まだ安物のハロゲンヒーターが部屋の結構いい場所に配置されていた。そして夏だというのに冷た雨に濡れたこともあって無性に寒いと感じさせる部屋だった。

「暗い部屋だね」思わず高田の口から出た言葉だった。しかし珈琲を入れることに夢中らしい速川の耳には届いていないのか、それとも聞こえないふりをしているのかはわからないが、反応はなかった。だから高田は、キッチンのコンロ辺りで背中をこっちに向けている二メートルほど向こうにいる速川に、

「おまえのせいなんだよ」さっきと同じトーンで、速さで、口から出した。

「何がだ?」返ってきた口ぶりは穏やかだったが、こういうことは聞こえてしまうことが可笑しかったのか、高田がクスッと口を押さえた。そして全く同じ口調で大きさで彼は次の台詞を吐いた。

「だから君のせいで僕は不幸になったんだよ」すると少しだけ背中が動いた後に答えがあった。

「そうだな。ごめんな」お互い穏やかなままそんな会話は続いた。

「だから君は罪を償わなきゃ駄目だ」

「そうだな」高田だけが強い口ぶりに変わっていた。

速川は小さな声のまま、

「冷蔵庫の上の扉、開けてごらん」どれだけ大そうな珈琲を入れているのか、いまだ彼は久々に会った友人に背を向けたままそれを入れていた。

見たくもなかったが、高田は腰を上げ、言われた通りに椅子から右側一メートルほどの距離にあるひとり暮らしにしては大きめな冷蔵庫の上の扉に手を伸ばした。

「カチャッ」空くことを嫌がっていると感じたその扉を開けた。

そして彼は見つけた。

幾分融けかけたそれは眠っているようだった。

「どうしたの?これ」

「俺の宝物」

「そうなんだ」

「うん」

高田は冷凍庫の冷気を嫌がるように静かに扉を閉めた。

彼は座っていた椅子に戻ることはしなかった。

肩から掛けていた紺色の布製の鞄の中に右手を突っ込んだ。そしてたった二メートルほどの距離を走り抜け、鞄の中で握り締めていたナイフをいまだ背中のままの速川にぶっ刺した。

「バイバイ。もう僕は君が怖くはないんだよ」


5日目・クラスメイトの話

午後二時を過ぎ、林が徐に立ち上がると、「高田にもう一度話し聞きに行ってきます」彼はどこかの紳士服屋で買ったのか、新し目の黒いスーツの上着を手に取り部屋を出て行った。

午後三時になると真木野が立ち上がった。「聞き込みに行ってきます」彼の目線は大沢に向いていた。「お供します」幾分弾んだ声で、彼らも林ほど新しくもない上着を手に取った。真木野は、珍しく大沢と一緒に駐車場まで歩いた。

 二人が訪れた先は、十二年前県立A高校に通っていた佐久亜紗美や高瀬孝次郎と同じクラスの人間たちの所だった。その中でも真木野がアポイントを取ったのが、大園由美と西野栞。二人とも結婚をしていなかった。その上まだ実家で生活をしていた。真木野がこの二人を選んだことに大沢は彼の腹の中を見れた気がしたが、二人とも決して綺麗な顔立ちではなかった。だからその帰り道に大沢は思わず聞いていた、何故この二人を選んだのかを。すると真木野はアポイントを取れたからだと言った。それに彼の中では女は少しでも心を許せば何でも話してくれる、それがどんなに親友でも聞いていないことまで話してくれるから選ぶのだと、本人の勝手な理論でどうやら彼女たちは選ばれたようだった。確かに男性よりは女性の方が何でもホイホイ話してくれる気はするが、それは異性だからだろうと大沢は考えている。先に訪れた大園由美の話では、佐久亜紗美と速川征太は高瀬孝次郎が死んだあと、クラスの中で相当浮いた存在だったようだ。孝次郎があんな死に方を選んだにも拘らず、二人はそのあと堂々と交際していた。周りの人間たちはそれに異を唱えた。しかし速川征太はそんな周りの批判に屈することなくグイグイと交際を推し進めたが、一方の佐久亜紗美は周りの目を相当気にしていたようだった。そして何時しか亜紗美は虐めの対象にされ、かなりの嫌がらせを受けていたが、それでも別れなかった亜紗美から、速川征太に対する脅迫観念にも似たモノを感じたと彼女は言った。西野栞の話では、高瀬孝次郎が死ぬ前、佐久亜紗美と橘貴代、高田和夫、高瀬孝次郎、速川征太の五人はグループをなし、とても仲が良かったそうだ。それは亜紗美と孝次郎が付き合いを始めてからも変わることはなかったのだが、高校二年の夏が終わり二学期も中盤に差し掛かった頃、それぞれ別の人間とつるむようになっていたという。その頃から孝次郎と速川、それに高田の関係も周りから見ていてもおかしく感じたと彼女は話す。常に誰かが誰かを虐めているような不思議なモノだったらしい。孝次郎が死ぬ少し前には、高田と彼が二人早朝に登校する姿も目撃したこともあると言っていた。その頃、高瀬孝次郎の母親と速川征太の父親が浮気していたことが学校中の噂になったことまで教えてくれた。


5日目・貴代の話

二人の聞き込みを終えた真木野が腕時計に目をやってから、「六時か、よしっ橘貴代の家行くぞ」それは大沢にとっても余り足が進まない場所だった。何故なら自分たちが必要以上に嫌われていたから。事件の犯人でもないであろう貴代があそこまで自分たちを毛嫌いすることに、真木野は彼女が何かを隠していると確信していた。彼の中では、大穴ではあるが彼女も容疑者としての要素を充分持ち合わせていると考えていたのだ。彼女だって仲良し五人組の中の一人だったのだから。

そして三度目の訪問をするために、彼女の団地の下までやって来た。雨脚が強まり強く地面を撃ちつけていたが、着く頃にはだいぶ弱まっていた。時刻は六時半を回ったが、辺りはまだまだ明るかった。二人は車を降り、団地全体を見渡した。近くの公園では中学生だろう集団が屯していたが、振り向けられた真木野の目に何かを感じたらしく、そそくさと退散した。その時、彼女の棟の階段から疾走する、一人の男の後ろ姿があった。しかし飄々と走り去ったその姿に、真木野は何の違和感も覚えなかったが、

「不気味でしたね」大沢が漏らした一言で、彼の目の色が変わった。

「ヤバいか?」すぐさま走り出した上司の後ろを大沢が続いた。

「おまえは今逃げ去った男を追え」

「はい」男が逃げて行った方に向かった大沢だったが、その後ろ姿は団地間の木々の中すでに消えていた。それでも少しの間近辺を彷徨ったが、結局その背中を見ることは出来なかった。四階まで嫌いな階段を駆け上がった真木野は息を切らしながら着いた先に、彼女を見つけた。

「どうしたんですか?」そう言って駆け寄った先には、玄関のドアは開いたまま、その前で貴代が腰を抜かし座り込んでいた。呆気にとられた表情から只事ではないことを悟った。

「どうしたました?橘さん?」走り寄り支えた彼女の体は震え顔から赤みは消えていた。掌には、本人のモノかは分からない赤い水滴が付いていた。全身を見廻したが彼女に出血は見られなかった。どうにか立ち上がらせたが、何も話せなそうだった。少しして落ち着きを取り戻したが、

「私は何も見てないし、知りません」異性でも彼女だけは例外だと真木野は思った。

「そんなはずはないでしょ?」真木野も食い下がった。

すると貴代は、

「話す時が来たら、必ず話します。だからそれまで待ってください」その目は確かに強かった。五分前に悶絶していた彼女は今、既に先を見据え、自分なりに今回の事件の決着を付けようとしているのだ。

「橘さん、あなた今ここで何を見たんですか?あなたの掌に付いた血は誰のモノですか?あなたの前に現れた人間は誰です?」その言葉に、貴代は咄嗟にそれを拭き取った。誰かを庇っている証拠であることは、誰の目からも明だった。刑事として、事件の全貌を明らかにしなければならない真木野は譲らなかった。

「お願いです。心の整理が付いたら必ず全てをお話し致します。だからもう少しだけ待って下さい」その時、「カッカッカッカ……」階段を一気に駆け上がる音がした。その方に、真木野は貴代を隠すように体を向けた。

そこに現れたのは、「すいません。逃げられました」息を切らした大沢だった。

それで拍子抜けしたのか、結局二人は橘貴代に押し切られ、その場をあとにした。

行きは駆け上がった階段を、ゆっくり下りながら大沢は話し始めた。「さっきの男が橘貴代を襲ったんですかね?それとも彼女が襲った?」

「掌の血は量的に付いた感じだった。だから彼女は危害を加えられても加えてもいないだろ、家の中も荒らされた形跡はなかった。暴漢とは考えられない。そして彼女はその男を庇いたかった。となると、あの走り去っていた男は速川征太?」

「高田和夫ということもあるかもしれません」

「よしっ林に電話を掛けて確認を取ってくれ」

「わかりました」そして林からの情報で、高田が病院をまた無断で出て行ったという情報を獲た。

「高田がいなくなったか。そうなるとおまえの線もあり得るな」唸る真木野に、大沢が林から獲た情報を口にした。

「それと、あまり関係ないかもしれませんが、高田のベッドの隣に今日新しい患者が入院して来たらしいんですが、それがなんと、佐久亜紗美の父親らしいんです」

「佐久亜紗美の父親が?入院した理由は?」

「心筋梗塞だそうです」

「命に別条はないのか?」

「一命は取り留めたようですが、娘を失ったことで相当ショックだったんですかね?」

「彼の会社の従業員の話では、亜紗美の父親の善治は誰に対しても冷徹だったらしいが、娘だけには何処までも甘かったみたいだからな」

「それで、ダウンしてしまったわけですね」

「多分な」真木野が携帯電話を取り出した。掛けた先は、

「宮部か?速川は家を出たのか?」

「すいません。さっき張り込みを交代したばかりで、それまでに家から出た形跡はありませんが、今張り込んでいる捜査員に連絡入れてみます」電話を切り、車へ戻った。乗り込んだものの、

「彼女、大丈夫ですかね?」運転席でフロントガラス越しに目の前の団地を見上げながら大沢が零した。

「じゃあ朝まで見張っといてやるか?高田は確かに重要参考人だ。だが今は何の証拠もない。もし仮にさっきの男が奴で、舞い戻ってきたら事件は急展開を見せるかもしれない。それに今度あの男が橘貴代を訪れるとしたら、奴はそれなりの覚悟を持ってやって来るだろう」

「殺しに来る?」

「そこまではわからんが、さっきの彼女の様子から察するに充分あり得ることかもしれない」話をしながら真木野が煙草に火を付けた。

「でも何故、高田和夫が橘貴代を殺す必要があるんですか?」

「事件の真相を知ってしまったから?」

「真相?佐久亜紗美を殺したのが、高田和夫ということですか?」

「そこまではわからん」大沢が難しい顔のまま止まっていたが、

「わかりました。僕張り込みます」車は止まっていてもハンドルを強く握りしめた。

「よっし、頑張れ」えっとした表情を向ける部下に、

「俺はおまえと違って若くないの。だから夜通しの張り込みはもう無理」そして真木野の携帯が鳴った。

「宮部か?どうだった?……そうか、ありがとう」

「宮部、どうだったんですか?」

「速川は今日家から一歩も出ていないようだ」

「さっき病院にも確認しましたが、高田はまだ戻ってきていないそうです」

「つまり高田一人が行方不明ということか?」

「そういうことになりますね。となると、先ほど走って逃げたのは高田和夫で間違いなさそうですね」大沢の言葉に真木野が頷いた。


5日目・大沢の話

午後十時、近くのコンビニで珈琲とおにぎりや菓子パンを袋に入れて大沢は車へと戻って来た。助手席には相変わらず無表情があった。そんな男の横で大沢は笑顔で菓子パンを頬張った。真木野は缶コーヒーを開けるとそれを口に運んだ。だがすぐに渋い顔になり、

「何で甘いヤツ買って来るんだよ。珈琲はブラック。何度言ったらわかるんだ?」

「すいません。でも肌寒いときはカフェオレが良いかなと思いまして」

「馬鹿っ。寒かろうが温かろうが、好みは一緒。俺はブラック」

「すいません。僕のと替えますか?」

「おまえ何買ってきたの?」真木野は大沢が手に持っているモノを覗き込んだ。

「ココアかよ。もっと甘いじゃんか。おまえはどれだけ甘党なんだ。こっちの方がまだマシだ」

「すいません」おまけに甘い菓子パン。甘い物ばかりで敵わないと思いながらもそれ以上を言わなかった。言ったところで、今食べ始めたパンが辛くなるわけはないのだ。

「でも真木野さんが元々は学校の先生になりたかったなんて意外でした」何を言い出すのだと顔に書いた真木野に、

「学校行ったときに校長に言っていたじゃないですか。自分も先生になりたかったって。僕はてっきり真木野さんは生まれたときから刑事になりたかったんだとばかり思っていました」

「おい、生まれたときから刑事を目指す奴なんているわけねぇだろ」

「違うんですか?」

「当たり前だ」静まり返った団地、その敷地に車を止めた。その夜は気温が低い日だった。幾分湿った服のせいもあってだいぶ寒く感じる夜だった。

「じゃぁ、いつから警官になろうと考えたんですか?」

「最後まで考えてねぇよ。ただ何となくだ。何となく試験受けて、何となく受かったから、何となく続けている。家族も持っちまったし、辞められないだけだ」

「そうなんですか?」

「そうだよ。誰が好き好んで刑事なんかやるか」

「少なくとも真木野さんだけは刑事しか頭にないんだろうと思ってました」鼻で笑い返した真木野の携帯電話が静かに震えた。液晶画面を見つめる目が何処となく優しくなるのを大沢は見付けた。

「ミヤビか?どうした?」この名前を聞く度に大沢は相手がキャバクラの女ではないかと疑ってしまう。しかしそれは真木野の一人娘の名前だ。

「ごめんな。お父さん、今日は帰れないんだ……うん」このときの真木野の声は鳥肌が立ちそうなぐらい優しくて気持ちが悪い。

「だからお母さんの言うこと聞いて早く寝なさい……うん。わかった。おやすみ」電話を切っても、何時までもそれを見つめる男に、

「あとは僕が見張っときますから、真木野さんはタクシーで帰って下さい」

「嫌だよ!お金が勿体ない」

「でも張り込みがあるから送れません」

「それにおまえ一人にして、被害者増えたら不味いし」

「そんなドジは踏みません」

「大沢だよ。あり得るだろ」そう云った真木野が、いい年して膨れる男を目の前にして、気色が悪いと言い掛けたが止めておいた。代わりに大沢が口を開いた。

「真木野さん見ていると結婚もいいものかなって思いますよね」

「そうだろ」

「でもカカァ殿下なんですよね?」

「それは関係ない。でも子供は可愛いぞ」

「僕、子供好きじゃないんですよね」

「じゃあ止めとけ。おまえみたいな草食系男子は嫁さんに良いように扱き使われて、要らなくなったら捨てられるのがオチだ」

「そうですよね。僕もそう思うんです」真木野の嫌味もこの男には通じない。そんな大沢が話を戻した。

「僕が警察官になろうと思ったのは、高校生のときなんです」

「随分と早かったんだな」

「僕、兄貴と兄弟二人なんですが、もう何年も会ってないんです」

「どうして?」相変わらず話が急展開する男に真木野は慣れ始めていた。

「ある事件が切っ掛けで、僕から兄弟の縁切ったんです」聞いて良いのか迷いながらも真木野は尋ねた。

「事件って何があったんだ?」

「兄貴と当時付き合っていた彼女が、ある夏の暑い日の夜、強姦されたんです」

「ご、強姦?」それでも余りに唐突な展開に真木野が面食らっていたが、お構いなしに大沢は続けた。

「それでその彼女、どうしようもなく落ち込んじゃって、怪我などはなかったようなんですが、鬱になってしまったんです。それまではとっても明るかったし凄く優しい女性だった。恥ずかしい話、母親以外で初めてだったんです。女性は良いモノだって思えたの」

「それで彼女は?」

「精神科に通っていました。でも兄貴、そんな彼女を捨てたんです。納得がいかなかったから問い詰めました。何故別れるのかって、今彼女には兄貴が必要なんだって。そしたらアイツ、あの女はもう汚れちまったって言ったんです。気が付いたら殴ってました」会話をしながら部下は下を向き、上司はフロントガラス越しに団地を見上げた。

「そのあとすぐに、彼女、自殺を図ったんです。手首を切ったんです。命に別条はありませんでしたが……」

「辛いな」

「でもそのとき、彼女をずっと気に掛けてくれたのが、その事件を担当した刑事だったんです。彼らのサポートによって彼女は少しずつですが回復し、つい先日風の便りで結婚したと聞きました」

「そうか」

「でもあの時、あの刑事たちがいなかったら、彼女どうなっていたか?」

「そうだな」

「僕、喧嘩とか弱いし、痛いのも血も駄目ですが、彼らに出会って考えが変わったんです。警察って一般人からは結構煙たがられている感もあるじゃないですか。でもいざとなったら、みんな交番とかに駆け込むのを見ていて思ったんです。ここぞというときに頼りにされる仕事って良いなって。それで刑事目指すようになったんです。すいません、こんな話しして」聞いても居ないことをここまで話した部下に、真木野が笑みを零した。それから真木野が張り込みをしていて痴漢と間違えられた話や、初めて犯人を捕まえたときに刑事になって良かったと初めて思えたことなど、緊迫した中で他愛もない会話をした。


5日目・再び大沢の話

日が変わり、丑三つ時も過ぎ、お互い話すこともなくなった。気温は十度近くまで下がり、車内もだいぶひんやりとしていた。真木野は相変わらず外を睨んでいたが、大沢は瞼を開いていることで精一杯だった。

「寝ても良いぞ」

「寝ませんよ。眠くなんかありませんもん。それにここまで寒いと六月でも凍死しそうです」真木野が大沢を一瞥し頬を上げ、

「そうか?」再びフロントガラスに目を戻した。

「はい。でもこのごろこんなのばっかですね」瞼をパチクリさせた大沢が、今度は小刻みに震えながらぼやいた。

「そうだな。夏だというのに寒いな」車内でもポケットに手を入れ、首を窄め、無意識に体のどこか一ヶ所を振わせ続けた。そんな二人が行きつく話はやはり佐久亜紗美、そして高瀬孝次郎の事件のことだった。

「あの五人の内、二人が殺されたわけですよね?」

「そうだな」

「仲が良かった五人が、ある時を境に関係が悪くなった。何があったんですかね?」

「まだ鑑定の結果が出ていないから何とも言えないが、高瀬孝次郎が速川に殺される数ヶ月前から男子三人の仲が悪くなったわけだ」

「速川の父親と高瀬の母親の浮気は関係があるんですかね?」

「どうだろうな?」

「もしかして、高田が口にした高瀬咲枝と速川の秘密ってこのことだったんじゃないですかね?」

「多分な」

「高瀬咲枝は速川征太に弱みを握られていたんですね」

「それにしても、親同士が浮気したからって殺したりはしないだろ?」

「そうですよね。でも佐久亜紗美を巡る争いに、その出来事が油を注いだのかもしれませんね?」

「高校生は何かと多感な時期だからな」大きく頷いた大沢。彼は一度身震いをしてから、再び紫色の唇を開いた。

「高田も佐久亜紗美が好きだったのかも?」

「それもあり得るな」

「そうなるとグループの全員の男が、佐久亜紗美を好きだったってことですよね。橘貴代が嫉妬するのも頷けますね」

「確かに卒業写真の彼女は清楚綺麗な顔立ちをしていたからな」車内で、男二人が頷いた。

「しかし男同志、幼馴染ほどの関係の二人が女のことや親の浮気があったからって、相手を殺すまで憎んだりしますかね?ドラマや漫画じゃないから応援までは出来なくても、悔しくても彼女に選ばれなかった方が身を引くんじゃないですか?」

「それが殺人事件だ。どんな殺しも大概は理不尽なんだ。殺すことはなかったんじゃないか、が、事件を追う中で常に感じることだ」諭した様な口ぶりの真木野だったが、

「でも親同士の浮気って、結構堪えそうですね」

すぐに口を尖らせる結果となった。

「高瀬咲枝は、十二年前の犯人が誰かを知っているんですかね?」

「確信は持っていなくても、薄々は気が付いているはずだ」

「だったら高瀬咲枝は何故、息子を殺した犯人が誰かを知っていたのに、訴えなかったかんですかね?」

「知っていたからこそ今、仕返ししてんじゃねぇか?」

「でも体操着袋を渡すことを嫌がったりしたじゃないですか?」

「それはおまえも言ってたじゃないか。それが被害者遺族の心理だって」

「確かに言いましたけど、それは十二年前の犯人が速川だと知らなかった場合です。知っていたなら、話は別です」

何日経っても、この事件の真相を探ろうとすると何時も平行線を辿ってしまうと真木野は考えていた。

「我が子の命を奪われているんですよ。浮気程度の弱みだったら、高瀬咲枝は速川を警察へ突き出すはずですよね?」大沢がポツリと漏らした。

「そりゃそうだろ」部下が見張りを忘れていても、上司は外を見張り続ける。懲りずに大沢は頭を捻り、新しい自論を打ち立てた。

「もしかしたら高瀬咲枝は、速川征太を恨んでないんじゃないですかね?」外を只管警戒していた真木野が一瞬へという目を向けるが、すぐにそれを戻した。そんなことには気が付かない部下が続けた。

「そこに高田の言う二人の間の秘密があるんじゃないですか?高瀬咲枝が速川征太を警察に売らない大きな秘密が。それに仕返しが本人ではなく、佐久亜紗美というのが、僕にはどうしても納得がいか……」話しの途中、真木野が体をビクつかせた。前傾姿勢になると、体を低くして身を屈め鋭い目つきで正面少し右側を凝視した。

「どうしたんですか?」上司の態度に、咄嗟に口を噤んだ大沢も、小声で確認しながらその方に目を向けた。そこにあったモノ、それは黒い影、間違いなく何かがいた。真っ黒い空の下、微動だにせずに同じ場所に立っている生き物。ドアに手を掛けた部下に、

「もう少し待て。奴はまだ何もしていない」

その手を戻すと、「高田ですかね?」大沢はいつものように心の疑問を声に出した。

「さぁな」暫く、重たい時間がじんわりと流れた。落ち着かない表情の大沢。じっと十数メートル先の黒い影を睨みながら、拳銃を取り出す真木野。それでも動かない影。どれ程の時間が流れたのか、息を殺し、ジッと相手の出方を窺った。一瞬空気が固まった。

それぞれが感じた、来るっという感覚。

次の瞬間、微動だにしなかった影が猛然と走り出した。

影の性別は雄だ。

真木野がすぐさま車を飛び出した。少し遅れて大沢も外へと転げ出た。

辺りは静まり返り、体をすり抜けて行く風に煩さを感じた。

真木野が拳銃を構え悠然と男に向かっていった姿に、すかさず大沢もそれを取り出した。

男は間違いなく橘貴代の団地の方へ向かっていた。

真木野の足が速まる。大沢の息が速まる。

男があと五メートルまで団地に近づいた。

二人と男の距離はまだ十メートル近くあった。

どうやら先に橘貴代の棟の階段を駆け上がるのは男のようだ。

ふと視線を感じた大沢が振り返った。何も見えなかったが確かに感じた何か。

もう一度男に目をむき直すと、団地の階段の真ん前で急に右へと方向転換をしていた。

すぐさま真木野がそれを取り押さえた。羽交い締めにされた男が、

「頼まれたんだよ、メガネの男に。この団地の前で五分程立ち止まったあとに猛然と突進してくれって」大沢が振り返ると、木の間を影が躍った。彼は咄嗟にその影目掛け走り出した。

「大沢っ?」後ろで真木野が声を張り上げたが、大沢の耳には入らなかった。彼はただ影を追った。彼の脳裏には十数年前のあの事件、兄の彼女が犯された現場がありありと見えた。待ち合わせ場所に現れない彼女を心配し、辺りを探した兄。そのとき偶然にも林の中から飛び出した男の後ろ姿を見つけ、そのすぐ後に服をビリビリにされ白い肌を剥き出され、呆然とした彼女の姿を見付けてしまった。彼はすぐさま、逃げた男のあとを追った。今の大沢のようにあとを追った。そのとき兄はどんな思いだったのだろうか、すぐに戻って彼女の傍にいるべきなんじゃないか、そんな葛藤をしながらも彼は逃げる男の影を追い続けた。しかし結局、兄は数メートルまで追い込んだ犯人の追跡を諦め、彼女の元へと戻った。林へと戻ると彼女は一人で立ち上がり歩き出していた。すかさず差し伸べた兄の手を、払い退けると一人タクシーに乗り込んだ。そのあと彼女は一度も兄の方を見なかった。これはすべて兄の言葉を元にした映像だ。だから大沢は信じたわけではない。寧ろ胡散臭い、卑怯者と罵ってやった。

しかしそれが何故、急に蘇ったのか。真木野にあんな話をしたから。確かに他人に話したのはこれが初めてだった。でもそうじゃない気がした。

あのときの兄と同じように目の前の影を追い掛けているから。それも状況が全く違う。多分理由なんてない。

今、凶悪犯かもしれない男を追い掛ける緊張感。

佐久亜紗美の無惨な死に様。十数年前の彼女たちの苦痛。

全てひっくるめて彼は影を追いながら、あの日の兄に遭遇してしまった気がした。

息を切らしながらも、腹に痛みを感じながらも、そんな痛みでは到底太刀打ちできない痛みだったのだろうと認識しながら、影を追ったのだ。

そして目の前で懸命に走る影である男を射程圏内に確認したとき、男は立ち止まり、振り返った。

右手には刃渡り二十センチ程のナイフを握り締めていた。

足を止めた大沢の表情は引き攣っていた。これは兄の出来事ではない、今まさに自分が直面している出来事なんだと分かったとき、

やられる。そう感じた大沢が後ろへとつんのめり痛々しい表情で目を瞑った。

「バンッ!」次の瞬間、大空に拳銃の音が鳴り響いた。

それに反応した真木野が、今捕らえた男を一度睨み付けると音のした方へと走り出した。

大沢はその場に腰を抜かしながらも手には拳銃を握り締め、今度は目を見開いたまま銃口を空へと向けていた。

その目に飛び込んで来たのは、振り返った男が銃声に一度は怯んだものの、再びナイフを天高く掲げた光景だった。

やられるっ。恐怖で再び瞼を閉じてしまった大沢。

「大丈夫か?大沢」遠くで真木野の声が聞こえたが、全く動けなかった。そのあとすぐに男が走り去っていく足跡が、聞こえた。

「……助かった」大沢がしみじみと感じたことだった。震える体をどうしることも出来ないまま目の前に夜空が広がっていた彼に芽生えた思いは、兄を許してやろうというものだった。大好きだった兄貴の彼女も、今は幸せになれたのだから。


5日目・川端の話

その頃、バー・アームストロングには人生に疲れた男や女の顔が幾つかあった。それを一番感じさせる男がやってきた。

「いらっしゃいませ」

「キンキンに冷えた生、頂戴」新堀は入店するなりオーダーをすると、いつもの席に腰を下ろした。

「かしこまりました」

「今日はお一人ですね?」

「あぁ」返ってきた生返事に、この前の連れの話しではこの男とは盛り上がれないだろうと川端は思った。

「このごろ刺激が足りなくてさ」

「何でですか?」

「だって特許庁だよ。他人の思い付きに付き合うのって全然刺激感じられないんだよね」

「そうなんですか?色々なアイデア知れて楽しそうだけどな」

「なかなか面白い発明はまだいいよ。どうしょうもないの発明するヤツに限って説明だけは永遠と長いことが多いんだ。それを最後まで聞く辛さったらないよ。もう辞めようかな」

「このご時世、公務員が一番です。辞めない方がいいですよ」愚痴を聞くのも接客業なんだと言わんばかりに川端は微笑んで見せた。

「そうかな。マスターみたいにバーやって女の子にキャーキャー言われたいな」

「全然モテませんよ」

「またまた」

「本当ですって。でも新堀さん、転職したばかりじゃなかったでしたっけ?」

「そう」

「前の仕事は何でしたっけ?」

「保険屋」

「そうだ、生保でしたね」

「そう、あの頃はよかったな。なんせ人の命が掛かっているから今なんかよりよっぽど興奮したもん」

「そうですか?」

「あぁ。人が病気だったり老衰だったり自殺したり殺されたりして死ぬと、親族は誰しも一応は悲しむ。それでもカネの話が絡みだすと、一瞬にしてみんな悲しみなんか吹っ飛ぶ。自分の取り分のことで頭がいっぱいになっちまうんだ。それを見ているのが楽しくてな」その発言に、接客を心得ている川端でも顔を顰めた。

「悪趣味ですよ。少なくとも掛け替えのない人が死んだりしたら、カネなんて本当に関係ないんじゃないですか」

「何だ、マスター。散々女泣かしといって、急に良い顔しょうたって、そうは問屋が下ろさないよ」

「何を言ってるんですか?もう酔っちゃったんですか?」飲み屋では酔っぱらい相手によく使う常套手段だが、その日のマスターの受け答えが余り良くなかったと感じたのか、新堀はいつも以上に長居することなく、小銭を置いて店をあとにした。

 

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