第8話 6日目

6日目・体操着袋の話

朝一番で捜査一課に顔を出したのは大沢だった。彼は明け方に発砲してしまったことで苦情が来ていないかドキドキしていたが、どうやらその心配はなさそうだった。しかし発砲してしまった以上、始末書は免れないことはわかっていた。

体操着袋の血痕のDNA結果はまだ出ていなかった。「今日も速いな」少しして現れたのは下山。

「結果が気になっちゃって」

「そうだろうな。死ぬ思いで手に入れた証拠品だもんな」

「はい」浮かない表情の大沢を横目で見ながら、下山は一番奥のデスクに腰を下ろした。

「でももし、あの血痕が速川征太のではなく、高瀬孝次郎本人のものだったら?」

「そのときはそのときです。また別の証拠を探します。たとえ自殺だったとしても、その証拠を見つけ出します」「若いな。不可能がないと思っているんだろ?」

「はい」真っ直ぐに見てくる大沢。

「近ごろ真木野が変わったのはお前のお陰だな」

「なに言ってるんですか。日々成長させてもらっているのは僕の方です。あの人は出合ったときと何ら変わっていません。ただの頑固オヤジです」

「一番近くで見ているおまえが言うんだから、そうかもな」

「誰が頑固オヤジだって?」このタイミングでの真木野の登場に、笑っていた大沢が固まった。そんな彼を救ったのは一本の電話。ワンコールで受話器を握ったのは真木野だった。

「もしもし、箱芝さん?」彼もこの電話を待っていたのだ。勿論一昨日、高瀬咲枝から預かった十二年前の体操着袋の紐の部分に付いていた、黒ずんではいるが、長年の勘がそれを血痕だと教えてくれたモノが、誰から出たのかの結果を待っていたのだ。高瀬孝次郎は速川征太の体操着袋を顔に被せて首を括っていたが、吊るされていた彼の首に食い込んでいたのは体操着袋の細い紐ではなく、彼の体重を支えるだけの太さがある縄だったとメモには残されていた。だから彼の顔に被せてあった袋の紐に血痕が付いていることはおかしいと部下に指摘され、気が付いた矛盾。だからこそDNA鑑定の結果に期待していたのだ。

「真木野さんの言うとおりでした。出ましたよ、体操着袋の紐の部分から血痕の反応が、そして採取されたその袋の血痕から高瀬孝次郎のモノとは違う別の人間のDNAが検出されました」真木野さえも尊敬する男でも、こんなときは少しばかり意地悪になるらしく、

「箱芝さん、焦らしますね」お互い見えない電話越しに歯茎を覗かせた。

「嫌なヤツですいません。ではそのDNAの持ち主を発表します。これも真木野さんの推測どおり、速川征太でした」

「そうですか、有難うございます」何時になく丁寧に真木野は電話を切ると、

「大沢っ!」

「はい」思わず立ち上がった部下に、

「車表に回せ。速川征太をしょっ引くぞ。勿論罪名は殺人罪。十二年前の高瀬孝次郎殺害容疑だ」

「はいっ」大沢は気張った敬礼でそれに答えた。

勢いよく出て行った二人のうしろ姿を下山は嬉しそうに見送った。その後で大事なことに気が付いた。

「何っ?速川征太が何だって?ちゃんと上司の俺にも報告しろ」下山の周りに既に部下はいない。

「そんなことより、今日も捜査会議欠席する気だな。昨日注意されたばかりなんだぞ」

彼は一人デスクに腰を下ろすと頭を抱えた。

「だから叱られるのは俺なんだってば」そう嘆いた彼の口元は上がっていた。


6日目・DNAの話

車に乗り込んだ二人は意気揚々と速川のアパートに向けて車を走らせた。雨を落としては来なかったが、空はどんよりと曇っていた。今日は大沢がカーナビをセットすることはなかった。真木野もいちいちそれに触れることはなかった。

「ダブルスパイラル」静まり返った車内に、突如大沢が零した。

「何だ、急に?映画のタイトルか?」

「違いますよ。テレビ局に届いた、犯人と思しき人間からのビデオテープにそう書かれたラベルが貼られていたじゃないですか?」

「そうだったか?でもそれがどうした?」

「ダブルスパイラル。最初は真木野さんと同様、僕も映画か何かのタイトルだと思ったんですが、ダブルスパイラルを日本語にしてみて下さい」

「ダブルスパイラル?まどろっこしいな。答え言え!日本語で何だ?」

「二重螺旋です」

「二重螺旋?」身を乗り出していた真木野の動きが止まった。

「そうです。それでその言葉をいろいろ調べた結果。二重螺旋構造を持つモノといったらそれしかなかったんです」

「それって何だ?」

「分からないんですか?」一度間を置いた部下に

「DNAですよ」上司は目に角が立ちながらも

「DNA……遺伝子を司っているあれか?」会話だけは続けた。

「そうです。DNAの二重螺旋は今までの科学界全体を通して最も偉大な発見の一つなんです。その構造は螺旋階段のような渦巻き型にねじれた二本の鎖で、1953年、ジェームス・ワトソンとフランシス・クリックがDNAは遺伝子によって物理的物質を形作る生命体の最も重要な分子であると提示したんです」

「DNA発見の偉大さが事件に関係あるのか?」助手席に深く座りなおした真木野が眠たそうな目で尋ねて来た。

「あっ、いえ」大沢は顔を赤くした。自分が得意な分野だと遂喋り過ぎてしまう癖は治りそうもなかった。

「で、それが何だって言うんだ?」

「いいですか。犯人が送って来たであろうビデオテープにはその単語が書かれていたんです。つまり犯人のメッセージなんですよ」

「メッセージ、二重螺旋がか?」

「そうです。インターネットで調べた結果、そのタイトルの小説はいくつかありましたが、今回の事件と繋がりがありそうなモノはありませんでした。そして二重螺旋を検索して一番ヒットしたのがDNAだったんですよ。だから犯人は今回佐久亜紗美を殺すことで、十二年前の事件の真実を警察が突き止めるように仕向けたわけです。そして高瀬孝次郎を殺害した人物を導き出す為に必要なモノが、DNAだったってわけです。十二年前の事件で、犯人のDNA、つまり証拠が残っているとするならば、あの体操着袋しかないんですよ」ハンドルを握る大沢が力んでいた。

「そしてあれには十二年前、高瀬孝次郎を殺害した犯人の血痕が確かに残っていた。あの体操着袋の血痕からDNAを抽出して犯人を導き出せというメッセージだった?」

「そうです。そして今回の佐久亜紗美を殺した犯人は、そのことを知っている人物なんです」

「そのことを知っている人物?」車内に一瞬の間が流れた。

「そう、十二年前の体操着袋を誰が持っているのかを知っている人物、その上その袋に犯人の血痕が付いていることを知っていて、この事件の真相を世間に知らしめたい人物ですね」

「今回の事件の犯人は速川征太ではなく、高瀬咲枝」

「そういうことになりますね」頷いた真木野の顔が遣る瀬無いモノに変わった。

「共犯は高田和夫だろうな。しかし十二年前は被害者だった彼女が、どうして今度は加害者になっちまうかな?」

「被害者の心理を考えれば、復讐が頭を過るんじゃないですかね?被害者の痛みを味わってしまった彼女は、それを相手にもわからせたかったんじゃないですか?」

「だろうな。だから彼女はヒントとしてダブルスパイラルとラベルを貼り、警察にDNAを連想させた。そしてあの体操着袋をしぶとく渡さなかったことで、自分への疑いを外させようと考えたわけか」

「多分。だから今回のDNA鑑定で、判明した十二年前の犯人が速川征太だという真実から、彼は今回の事件の容疑者からは外れたわけです」

「今回の犯行の動機は、仕返しということか」

「はい」頷く大沢。

「しかし大沢、おまえも段々刑事らしくなってきたな」

「有難うございます」

「喜ぶな。情には決して流されない。それが出来るようになってしまったおまえは、嫌な奴になったってことだ」

「刑事の宿命です」ニヤける大沢。間もなく速川のアパートかというときに、真木野の携帯が鳴り響いた。


6日目・左耳の話

「はい。真木野です」きちっとした対応から相手が下山だとわかった。

「本当ですか?・・・・・・はい・・・・・・わかりました。近くなんで自分らも行ってみます」電話を切るなり、

「方向転換だ」

「どうしてですか?ホシはもう目の前ですよ」

「出たんだ」

「何がですか?」

「右耳が発見されたんだ」

「佐久亜紗美のモノですかね?」

「まだわからん」

「何でです?何で犯人はバラバラに、それも小出しのようにするんですか?」突然、大沢が声を荒げた。

「俺が知るか」

「酷いです。人間じゃない」取り乱す大沢とは対照的に真木野は落ち着いていた。

「いいからUターンさせて車を磯子方面へ走らせろ」それが気に入らなかったのか、珍しく大沢から返事はなかった。彼は顔を強張らせ、ハンドルを握る手に力を込めた。

 右耳が発見された場所は、左耳が発見された場所から南へ五キロほど行った公園の中の小高い山道だった。今回はジョギングをしていた主婦が第一発見者だ。その右耳はジョギングコースの道の上に剥き出しで置かれていた。現場に着くと、車を降り発見場所まで向かう二人。真木野の後ろで既に上体を逸らす男がいた。

「でも、何で僕らが来なきゃいけないんですか?」

「そうか、おまえ刑事のくせして死体とか見るの苦手だったな」

「そんなことは関係ないです」

「捜査会議中に飛び込んで来た情報らしいぞ」それから自分達が捜査本部にほとんど顔を出していないことに大沢は気が付いたが、真木野同様この男にも出世欲はなかった。発見された右耳が二人の前を通過するとき、大沢もそして真木野さえも顔を顰めた。生身の人間の体をバラバラに解体する、人間の出来る沙汰ではない。それは神の領域に触れてしまった愚かな醜態にしか出来ないことだ。

「髪の毛?」鑑識の一人がポロッと口にした。すかさず真木野が近づく。切り刻まれた耳など見たいわけがない。ただ捜査の為に必要な情報なら、いち早く嗅ぎ付けたいのだ。それが刑事の習性というものだと疑ったことはなかったが、今目の前に居る大沢を見て、それも昔のことだろうと考えるようになった。そんな男を余所に、発見された耳を囲んでいる二人の鑑識官に真木野は尋ねた。

「髪の毛がどこに付いていたんです?」

「耳穴の奥の方です」そう言って一人の鑑識官がそれを彼に見せた。

「それほど長い髪じゃありませんね。それに黒い、遺体の一部が彼女のモノだとしても、こっちは彼女のじゃなさそうですね」真木野の呟きに、

「被害者の髪は肩までありましたからね。それに結構茶色がかっていましたしもっと細かったです」答えたのは箱芝だった。

「結果出たら一番に電話頂けますか?」さっきまで顔を顰め、切り取られた右耳を見送った男も、今はそれを前にして平然としていた。

「わかりました」

「髪の毛の持ち主の方も」

「はい。そっちは難しいとは思いますが、もしわかればすぐにお伝えします」そう返した箱芝が、大沢の方にも軽く会釈をしてその場をあとにした。

「凄いですね」

「何がだ?」戻って来た真木野に大沢は感心していた。

「流石に切り刻まれた人間の一部に真木野さんでも駄目なんだと思いましたけど、最後は平気でしたね」

「手柄の為さ」

「手柄ですか?」大沢が意外そうな顔をした。

「そう。人が殺され、殺した奴を捕まえる。それだけを追い求めているんだ。正義のヒーロー気分だな。被害者を生き返えらせることが出来るわけでもないのに。それなのに捕まえた奴らは大声でやったと自慢する。何か間違っている気がするよな」手柄が出世の為ではないことにホッとした大沢が、

「でも、犯人を捕まえれば被害者の家族も喜ぶんです。そして少しだとしても救われるんです。だからそれで良いんですよ、きっと」先に歩き出した。何故かそのあとを自分が付いていっているような気分になった真木野が一人笑った。

車に戻ると、「髪の毛、耳に付いてたんですか?」

「あぁ」

「誰のですかね?犯人のだったらいいですね」走り出し車内で今更大沢が興奮していた。

「耳穴の奥に埋まっていたんだ。被害者か加害者のものだろ」この男はいつも通りだった。

「髪の毛の持ち主が高瀬咲枝か高田和夫のモノだったら」

「事件は決着だな」

「そうですね。でも自然に抜けた髪の毛からDNAを採取することはほとんど不可能らしいですよ」

「何でだ?」大沢の発言に真木野は驚きを露わにした。

「DNAが検出できるのは髪の毛の場合、毛根部分に頭皮組織の一部である毛根鞘からだけなんです」「抜けた毛なら毛根ぐらい付いているだろ?」

「だから毛根だけでは駄目なんです」

「何で毛根だけじゃダメなんだ。そもそも毛だけじゃダメなのか?」

「毛から検出できるのはミトコンドリアDNAだけなんです」

「何だ?ミトコンドリア?」

「ミトコンドリアDNAです。それだけでは今の鑑定技術ではほとんど一個人に辿り着くことは不可能なんです」

「じゃあ今回も高瀬咲枝のDNAが出るのは皆無に等しいじゃないか」

「そういうことになりますね」顎を擦る仕草をした後に真木野が口を開いた。

「そう言えば数年前にも、そんな話を聞いた憶えがあるぞ」大沢がちらっと真木野を見たが、すぐに目線を戻した。また前を向けと言われるのがオチだと考えたからだ。しかし真木野はそんなことには気づかずに話を続けた。

「確か自分の工場で首を括った男性の首の縄に一本の髪の毛が見つかったんだが、DNA鑑定の結果、結局人物を特定するまでには至らず、それ以外に他殺の証拠も上がらなかったことで、自殺で処理された事件があったな」

「多分今回のケースもそうなっちゃうかもしれませんね」


6日目・速川宅の話

 速川征太のアパートに辿り着くと、真木野がポストを覗いた。戻した覚えのない中身はビデオテープであろう宅急便の不在者票が、まだそこにあった。それから隣の部屋の洗濯機横、ぐちゃぐちゃに丸めて入れられた衣類、積み上げられた雑誌のタワー、その隣にある何重にも重ねられた黒いビニール袋を一瞥した。犯人逮捕の瞬間を迎えようとしている緊張からか、震える手で大沢がブザーを鳴らした。中から反応はなかった。先に扉に手を掛けたのは真木野だった。玄関の鍵は開いていた。それぞれが拳銃を静かに取り出すと胸辺りでそれを構えた。それから一度だけ大沢に目を送り、真木野は用心しながらゆっくりと開いた。扉の両脇に身を隠す二人、中から反応はない。真木野は息を殺し存在を出来る限り無に近づけると左足から室内へと侵入した。それに続いて大沢も壁伝いに中へと足を進めた。息をするのも苦しい程の緊張感がそこにはあった。

静まり返った室内へと足を踏み入れた瞬間から感じていた、何とも言い難い臭い。

それが原因かはわからないが、それはあった。

キッチンシンクの前辺りで、仰向けの状態で、見る限り目立った外傷がなくても、その下に夥しい程の血が広がっていたから、すでに死んでいるだろうとわかった。

そう、そこに横たわって死んでいたのは、写真で見ていた顔から、速川征太であることは一目瞭然だった。

何故、彼が死んでいるのか。

自殺ではなさそうだった。シンクに置いてあった、洗われていないコーヒーカップが二つ。顔見知りの犯行の線が濃かった。

立ち尽くす二人の後ろで、

「わぁー」悲鳴を上げた大家によって我を取り戻した。

「ちゃんと張り込みはいたのか?」突然の上司の剣幕に、

「はぁ、一昨日から数人で張り込んでいたはずです」大沢が申し訳なさそうに答えた。真木野は一応、速川征太であろう死体の首に手を当て脈を確認していたが、そのあとの何もしなかった彼の行動から、完全に死んでいることを大沢も知った。

すぐに応援が呼ばれた。

大沢がある場所に目を止めた。

それは冷蔵庫、その上の扉の取っ手には間違いなく真新しい血が付いていた。彼はそれに触らないように気を付けながら中身を確認した。

冷蔵庫扉を開ける鈍い音に真木野が振り返った。

そして二人の目に飛び込んできたのは、棚に微量に残っていた血の跡とさっき感じた何倍もの悪臭。もろに嗅いだ大沢が、眩暈を起こし後ろに仰け反りながらすぐに口を抑えた。

そして二メートルほど遠くにいた真木野さえも顔を顰めた。

その臭いから、数時間前までここにあったモノの正体、そしてそれが臭いの強さから、速川征太が死ぬ前からここに放置されていたことも想像出来た。

このことから彼らが行きついた答えは、高瀬孝次郎を殺した速川征太は、隠ぺいの為かはいまだ不明だが、佐久亜紗美をも手に掛けた。

速川征太はこの冷凍庫に被害者の顔を保存した。

そして左耳、右耳と順番に切り離し、それを公園に捨てた。

一連の犯人は数時間前の刑事の推論を覆し、同一犯・速川征太という結論に達した。

 駆け付けた鑑識官が、部屋全体を確認した後で遺体をうつ伏せにした結果、外傷が明らかになった。背中を一刺し。凶器は現場に残っていなかった。

間違いなく他殺だった。

状況からキッチンに向いていた彼を後ろから一刺ししたようだった。傷の深さから躊躇った跡や、部屋の状況から争った痕跡はなかった。冷蔵庫の取っ手についていた血痕と中の棚に付着していた微量の血痕、それにシンクに置かれていた珈琲が入っていたであろうカップから指紋を採取した。

「やはり二つの事件の容疑者は同じ」

「犯人は、速川征太」

「そしてその連続殺人犯を殺したのが、いまだ行方不明の高田和夫。その後何故かは不明だが、彼は佐久亜紗美の顔を持ち去った」

「そういうことですね、きっと」二人は推論を繰り広げ結論を導き出した。そんな二人に笑顔はなかった。


6日目・繋がりの話

 署に戻った真木野は、部屋で弁当を食べていた宮部の顔を見つけるなり、走り寄り右頬をぶん殴った。一瞬の出来事に、隣を歩いていた大沢も止めることが出来なかった。宮部はただただ目を丸くし硬直していた。恐怖で床に転がっている彼目掛け、米粒の付いた割り箸を踏み付けた真木野はなおも飛び掛かった。

「何してるんです?真木野さん」必死で制止する大沢を払い除けると、

「おまえは、昨日何してたんだ!」

「すいません、すいません」

「謝れって言ったんじゃねぇ!何してたか聞いてんだ!」胸ぐらを掴まれた宮部の目尻に微かに光るモノがあった。

「いいか、速川は張り込みがされていた中で殺された。この失態の大きさがわかるか?今あの男は重要参考人だ。それ以前に日本国民なんだ。俺らが守らなきゃならない人間なんだよ」胸ぐらから手を放すと宮部は堪らず土下座した。

「すいませんでした。本当にすいませんでした」

「俺に謝ってどうすんだ?」真木野はそのまま外へと出て行った。鑑識の結果、死亡推定時刻は昨日の午後二時、張り込みの入れ替わりがあった時間と丁度重なった。その時間、窓側からの張り込みはすぐに入れ替わりが済んでいたのだが、玄関側の入れ替わりが手違いで誰もいない状態が一時間近く続いていたことがその後の調査で判明した。それとコーヒーカップに付いていた指紋は昔に採取していた高田和夫のモノと一致した。つまり二つの事件の容疑者である速川征太を殺したのは、ネット上で高瀬孝次郎を殺害した人物が速川征太だと公言していた人間の仕業だったわけだ。

「友人の仕返しか、はたまた愛する女の仕返しか?」真木野がため息交じりに零した。しかしまだ終わっていなかった。そう速川征太を殺した男、高田和夫はいまだ行方知れずのままなのだ。そして明け方に大沢を襲った男こそ高田、そしてあのとき彼に向けて翳したナイフこそ、速川を刺し殺した凶器だろうと大沢は考えていた。となると相手は凶器を持ったまま逃亡していることになる。一般人への危険も考えないといけなくなった。

二人は再び署を飛び出すと、高田和夫と佐久善治が入院している病院へと向かった。高田が戻っていると思ってなどいない。ただ奴は何かを残して逃亡していると考えていた。走り出した車が大通りに出た頃、

「速川はバカだったってことか?十二年前と同じ方法で殺して、隠ぺいしたのか?」真木野が呆れた横で考え込んでいた大沢が、

「いやっ、もしかしたら、やはり仕返しだったんじゃないですか?」

「仕返し?」

「はい。十二年前、高瀬孝次郎を殺した速川征太を、高瀬咲枝は守った。しかし速川はあの証拠品を咲枝に送ったことからも、十二年前の罪を認める決意をしていた。速川が証拠品を咲枝に送ったことと、それでも咲枝は速川を警察へは売らなかったこと、そこに二人の間には何らかの繋がり、高瀬咲枝が弱みを握られているとかの大きな秘密があるじゃないですか?」

「高田の言っていた、二人の間の秘密か?」

「そうです。そのことで速川征太は高瀬咲枝を恨んでいたんです。その恨みを晴らす為に、佐久亜紗美を殺し、十二年前の事件との繋がりを臭わせ、今回の犯行が仕返しであるかのように作り上げたのかも?つまり高瀬孝次郎殺害を認める代わりに、佐久亜紗美殺害を高瀬咲枝に被せた」

「随分まどろっこしいな。頭がこんがらがる」お手上げの真木野を残し、大沢は続けた。

「高田和夫と速川征太の間にも相当な因縁があったのでしょう。なんせ殺す程だったんですから」

「でも何故、佐久亜紗美なんだ?」真木野が首を傾げる。

「彼女が一番適役だからです。十二年前の事件の関係者だからです」

「でもそれにしたって、昔の彼女だぞ?ストーカーするほど好きな女だぞ。あの男も所詮、水島と同じだったってことか?」ここまでのハイペースな会話は一転、大沢がスローな物腰で語り始めた。

「いや、多分違う気がします。彼女の生首を何日間も冷蔵庫で保存していたくらいです。ストーカーをしていた男は、もう二度と彼女が自分のモノにならないことを何かの切っ掛けで知ってしまった。だから永遠に自分のモノに出来る方法を実行に移した。その衝動が今回の犯行で一番大きな動機だったのかも?」

突如、真木野の顔が緩んだ。「恋愛経験もろくにないおまえが良くそこまで、推測できたな?」小馬鹿にしているのか、感心しているのか迷ったが、とりあえず大沢は頭を掻きながら照れていた。

「しかし、そうなると速川征太と高瀬咲枝の間にくすぶる秘密ってやつを、洗い出さないといかんな?」

「そうですね」

小学生が下校する時間帯。歩道には大勢の愉しそうな顔があった。この子たちの安全の為にも、早く高田を捕まえなくてはいけないと力む大沢。助手席では目を瞑ったまま腕組みをして何かを考える真木野。


6日目・善治の話

病院に駆け付けたが、案の定、高田和夫のベッドは空いていた。ベッド回りを細かく調べたが、怪しいモノは愚か、ゴミ一つも落ちてはいなかった。ただテレビだけが綺麗好きであろう彼に似つかわしくなく、幾分斜めに置かれていた。期待していた情報は得られなかった。諦めた彼らは窓側に眠る佐久善治の方へ足を進めた。そんな彼の姿を確認するなり真木野は軽く会釈した。大沢もそれに倣った。それに気が付いた佐久善治がゆっくりとまなこを開いた。

「刑事さん。まだ見つからんのか?私の娘をあんな目に合わせた奴はまだシャバでノウノウとしているのか?許せんよ、私は断固許せん」その眼を限界まで見開き二人を睨んでいたが、病気のせいだろうか、娘を失ったせいだろうか、そんな男から威圧感は全く感じられなかった。

「社長、今、怒りは禁物です」付き人の部下が背中を擦っていた。

「煩いっウゥゥ……」

「大丈夫ですか?」真木野は前屈みになり、善治の容態を気遣った。

「君たちは早く犯人を捕まえることだけを考えていればいい」顔を歪め体を捻りながらも強い眼差しで二人を睨み続けた。そんな弱った男と目線を合わせた大沢が体をビクつかせた。再び一礼して立ち去ろうとした真木野が、善治のベッドの下に隠すように置かれていたゴミ箱の中に目をやった。そこには最新号の写真週刊誌が新品のまま捨てられていた。病室を出ると彼は善治の部下であろう、物腰の優しさが顔からも滲み出ている男を手招きした。

「すいません。一つだけ、気になったことがあったもので、お伺いしてもよろしいですか?」廊下に出て来た彼が、私にですか、という代わりに人差し指を自分に向けた。

「はい」

「私が知っていることでしたら」申し訳なさそうな言い草に、

「ご存知のことだけで十分です」大沢が答えた。

「ゴミ箱に入っていた週刊誌は、誰かのお見舞いの品ですか?」

「はい。でもその中に社長の娘さんの記事が載っていたもので、社長はそれを見るなり怒り心頭、壁に投げ付けてしまったんです。その人には申し訳なかったんですが、すぐにお帰り頂きました」

「その人物とは、誰ですか?」

「確か、新堀さんって名前の方だったと思います。その方の使いで男性の方が来られました」廊下で三人は幾分小声で会話をしていた。

「新堀って、三橋さんが言ってましたが、亜紗美さんが亡くなった次の日にも善治さん宅に現れた人ですよね?」

「あぁ」大沢の問い掛けに難しい表情のまま真木野は頷いた。

「真木野さん、知り合いなんですか?」

「あぁ、ちょっとした顔見知りだ」

「何をされている人なんですか?」

「特許庁に勤めているよ」部下とは幾分トーンを変え、真木野は質問を続けた。

「でも新堀が善治さんに何の用だったんですか?」

「すいません、そこまでは知らないんです。ただ社長はあの方の顔を見ると必ず不機嫌になってしまうんです」そのとき佐久善治の声がした。

「小林っ。何している?」

「はーい。ただ今戻ります」幾分大きな声で答えると、

「すいません。私は戻らなきゃいけないもので」頭を下げ、すぐに背を向けたが、

「すいませんが」真木野の声に小林が、体は病室に向けたまま顔だけを寄こしてきた。

「ゴミ箱に捨てられてたあの雑誌、頂けないでしょうか?」真木野は恐縮していた。

「わかりました。少し待っていて下さい」小林は同じ姿勢を保ったまま苦笑いをしながら答えた。

そして五メートルほどの距離を小走りで病室へと戻っていた。

数分後、逃げるように出てきた小林の手には一度はゴミ箱に捨てた雑誌が握られていた。それを、はいと手渡すと愛想など振りまくことなく小林はUターンしていった。主人様にバレないように決死の覚悟でそれを掴むと一目散に持ってきたのだろう光景を想像した真木野がその背中に一礼していた。

廊下を歩きながら、

「真木野さんには悪いですけど、知り合いの新堀さん随分酷い人ですね。この時期に娘の記事が載っている写真週刊誌をお見舞いに持ってくるとは、善治さんを殺すようなものです」新堀の意図はわからなかったが、今回の事件に少なからず関わっている予感を真木野も感じていた。


6日目・速川の話

病院を出て携帯電話の電源を入れた瞬間、散々待たされたのか、それは鳴り出した。

「もしもし」相手は下山だった。

「とんでもないことが起こったぞ。すぐに署に戻ってくれ」尋常じゃない課長の慌てっぷりに、二人は病院から車を飛ばし署まで戻った。

一課に戻ると全員がそこに立ち尽くしているといった印象を受けた。

「どうしたんです?」真木野の問い掛けに、

「大変なことが起こった」下山はほぼ同時に返答をした。

「少し前に、犯人から電話があった」

「犯人って高田和夫ですか?」

それでも十分驚きの展開だと大沢は考えていた。しかし事実は想像を超えていた。

「速川、速川征太から電話があったんだ」下山がツバを詰まらせた。

しかしそんなこと気にならないぐらいに、二人も凍り付いていた。

速川征太、数時間前にこの目で遺体を確認した人間だったから。そしてこの手で冷え切った体に触れた人間だったから。

だから一言目に出た言葉は、「そんな馬鹿な?」

「速川征太はさっき死んでいることを確認しました」

「それ本物だったのか?」下山から出た言葉は意外なモノだった。

「もしかしたら別人だったんじゃないか?」三橋がそれに続いた。

「誰かが整形して殺されたとか。所謂身代わり殺人」林が話を数段大きくした。鑑識に問い合わせた結果は、先程の遺体の指紋と速川征太の指紋は一致していた。九十九パーセント以上の確率で彼のアパートに転がっていた遺体は本人だと断定された。

「でも残りの一パーセントが残っています。そうじゃないとおかしいでしょ?死体が喋るはずない。まして遺体自体警察にあるんですよ」動転する林を横目に、真木野が違う案を打ち出した。

「もっと簡単に考えましょう」それに一同が頷いた。

「死体が偽物だったと考えるよりは、電話を掛けてきた人物が偽物だったと考える方が簡単なんじゃないですか?」

「それもない。話者認識した結果、昔ヤツが取り調べの際に残した声と今回の電話の声の特徴が一致したんだよ」青くなる大沢を取り残し真木野は続けた。

「で、その速川と名乗った男の電話を録画はしたんですか?」

「勿論だ」林が準備を済ませ、真木野を囲み皆がそのテープに集中した。

「警察の皆さんお疲れ様です。始めましての人もいるのかな?僕の名前は速川征太です。数年前につまらないことで一度お世話になりました。で今回、僕が色々な事件の容疑者に上げられているみたいだけど、出来れば僕としては会って話がしたいんだ。今回の捜査を担当している人、二人だけをこれから云う場所に向かわせて欲しいんだ。時間は明日午前七時。場所は僕が働く県立図書館。ただし必ず食堂がある裏口から来て欲しい。人数と時間と場所を必ず厳守するように。一つでも破ったら今回の事件必ず迷宮入りさせるから。では明日を楽しみにしています」

「何なんですか?この男、警察を舐め腐ってますね」真木野がいきり立ったが、それ以外の人間はただそれが本物の速川征太なのかを探っていた。

暫くして、それぞれが今回の事件を筋立てている中、「送られてきた右耳に死後硬直とみられる跡が見つかりました」鑑識部屋で大沢が騒いでいた。

「死後硬直?」真木野は一課から飛び出し大急ぎで鑑識部屋へと向かった。そこには下山も待っていた。

「真木野さん、これを見て下さい」今朝見つかった右耳の色々な角度から撮られた写真の山から箱芝が差し出した一枚を、言われるがまま確認した。死後五日経った人間の一部は劣化が酷かった。真木野は無意識に顔を顰めた。

そして、「ここを見て下さい」箱芝が指さした先は耳の穴。

「検死の結果、耳穴の入口付近に何か固いモノが詰まったまま死後硬直していることが分かったんです」

「つまりこの耳が佐久亜紗美なら、彼女は飛び降りる際、ここには何かが詰まっていて、死んだあともそれはここに居続けて死後硬直したということですよね?」

「そういうことになります」

「もしかしたら、これが屋上トリックを解くカギとなる証拠になるじゃないですか?」大沢が手放しで喜んだ。その行動に発言に下山は不審がった。それに気が付いた大沢が説明を始めた。

「数日前、僕らは彼女が飛び降りたシーンを何度も確認したんです。その中に自殺では明らかに引っ掛かる個所があったんです。それは彼女が何者かに誘導されているような素振りです。でもその証拠をどうしても探し出せませんでした」

「しかしこれが証拠になりました。犯人はカメラを回しながら誘導した。つまり彼女の耳にイヤホンを差し、巧みに言葉を発しながら誘導して殺したんです。そのイヤホンを回収する為には胴体から首を切り離す必要があったんです」真木野が付け加えた説明に下山が何度もコックリをした。

「だから犯人は顔を隠す必要があったのか。となると十二年前の犯罪と、今回の犯罪が同一犯ならば、十二年前も隠す必要があったのか?」下山の疑問は続いた。

「いや、十二年前は容疑者である速川征太は早朝に高瀬孝次郎を屋上に呼び出し、そこで自らの体操着袋を被せ首を絞めたと考えられます。ですから今回は十二年前の事件との結びつきを印象付けたかったか、あるいは十二年前も暴かれなかった自殺トリックを再び利用して自殺を作り上げたかった、どちらにしても犯人の巧妙なトリックを隠す為です」

「つまり一石二鳥。十二年前の事件と結び付ける狙いがあったと同時に、今回の事件の自殺のトリックに利用したわけか」

「はい」理解した下山の隣で、説明したはずの大沢が首を捻っていた。

「どうした?」それに気が付き小声で話し掛ける真木野。

大沢は下山が部屋を退出したのを確認すると、「何で犯人は耳だけを返してきたのでしょう?」

「それは、切り離すのが簡単だったからだろ」

「一般人の考えならそうでしょうが、相手は最低の異常者です。そんな化け物が顔のパーツの中では簡単に切り離せる耳を、果たして選ぶでしょうか?もっと目だったり鼻だったりインパクトがある部分を選ぶ気がするんです」

「確かにそうだが、もしかしたら既に目や鼻も捨てられているが、見つかっていないだけかもしれんだろ」

「そうか」一度は納得がいった顔をした大沢だったが、「あと、何で死後硬直したんですかね?」

「何でって、イヤホンが入れられたまま死んで放置された……おかしいな。確かにおかしい」真木野もある疑問に気が付いた。

「その為に顔を回収したなら、そしてそれを捨てるつもりだったならすぐにイヤホンは抜くべきじゃないですか?」

「その通りだ」

「犯人がわざと耳に痕を残し、異常者を装い、そのヒントを我々に与えている気がしてならないんです」そのあとも二人は考え込んでいた。

すぐに招集された捜査会議の席で珍しく真木野が話し始めた。「十二年前、犯人である速川征太は早朝に高瀬孝次郎を屋上に呼び出し、そこで自らの体操着袋を被せ首を絞めたと考えられます。体操着袋の紐に刷り込まれたような血の痕から速川のDNAが検出されました。それは明らかに何かを袋に入れ血が滲み出るぐらい力一杯絞めた証拠です。既に死んでいる同級生を、袋を被せたまま縄を首に巻き屋上から吊るしたわけです。では何故死んだ遺体をいちいち吊るしたか?それはこのまま放置してクラスメイトが生き返ったらどうしようという復活を恐れたと考察も出来ますが、多分、屋上から投げ捨てても、このまま放置しても、首を絞めた後から他殺が証明されます。そこで考えたんだと思います、縄を首に巻いて屋上から吊るすことを。袋を取らなかったのは自分の体操着袋を使ったことに由来していると思います。その理由が三つ考えられます。まず一つは余り袋の持ち主には関係がありませんが、死んだ友人の顔を見るのが怖かった。間違いなく目がぎょろっと彼のことを見ていたことでしょうから。それから二つ目が宮部が調べてくれたことですが、当時高瀬孝次郎も速川征太もどちらからも愛されていた佐久亜紗美の存在です。当時、彼女が愛読していたマンガに準え速川はその漫画を引用し、話すことが出来なくなった友人にその袋を被せることで、彼に負けを認めさせたわけです。そして三つ目が一番大切なのですが、実は彼の家庭は事件があった一年前に崩壊しているんです。原因は父親の浮気です。そしてその相手が何と高瀬孝次郎の母親、高瀬咲枝だったのです。その事実はお互いの家庭は愚か、学校中に知れ渡る結果となります。しかし家庭が崩壊したのは速川家だけだった。だから一年前、速川征太の母・速川緑の保険の勧誘を、高瀬咲枝は断ることが出来ずに入ったんです。自分の分と息子の分。それでも咲枝は息子の友人の征太に対しては強気だったようです。事件があった数日前、速川が体操着袋が無くなったと大騒ぎしていたそうですが、クラスのみんなはそれを隠したのが高瀬家の母親か息子だろうと考えていた矢先、孝次郎がその袋で首を括った。しかし本当はその袋を速川征太はなくしてなどいなかった。自殺なら、孝次郎が死んだのは自分のせいなんだと思わせたかったと考えられるわけです。そして他殺なら、母親である高瀬咲枝の仕業に仕立て上げた。速川の巧みなトリックがそこにあったんです。保険金欲しさに息子を殺した母親というシナリオのトリックです。案の定、警察を含め周りの人間たちは保険に加入させた人間よりも、保険に加入していたことで大金を手に入れた人間へと目を向けた」

下山の表情が曇り始めた。

それに気が付きながらも真木野は止めなかった。「つまり一人の人間の死で誰が得をするのかばかりに気を取られ、高瀬孝次郎の致命傷になった首の痕が自殺によってできたモノなのかそれとも絞められて出来たモノなのかも解らなかったばかりか、犯人である速川征太のミスである体操着袋の血痕をも見落とし、DNA鑑定もせずに袋をあろうことか被害者の遺族ではなく、証拠を隠滅出来る本人に返したんです。しかし調書には遺族と記述されていました。そのことからも警察はそんなことまで間違える程、高瀬咲枝を犯人に仕立て上げたかったと考えられるわけです。そうでなければ自殺しかないと考えていた証拠です。つまり当時の警察はまんまと速川征太の策に嵌まってしまったんです。まだ十八歳の若造に」

堪らず下山が咳払いをした。捜査本部長である署長の眼鏡越しの睨みに、流石の真木野もそれ以上を止め、話しを元に戻した。「だから最初、我々は今回の佐久亜紗美事件の犯人を、速川征太への復讐と共に警察への復讐とも考えました。つまり十二年前と同じ方法で彼女を殺すことで、十二年前の事件が自殺ではなかったことを証明しようとしたと考えたわけです。それにビデオテープのダブルスパイラルというラベルから導き出された体操着袋のDNAから警察の失態を暴きたかったと考え、今回の事件の容疑者を高瀬咲枝と踏んだわけです。しかし速川征太の自宅冷蔵庫から見つかった血痕と臭いから最初の推測を覆し、犯人は速川だと断定しました。そして殺害の動機がいまだ不明のまま、容疑者・速川征太は本日、死亡が確認されました」

一度発言を切った真木野が書記の方に一度目を向け三度話し始めた。「ただ十二年前、彼が犯した事件を連想させた今回の事件の彼の狙いが何だったのか。ここからは推測ですが、父親の浮気相手の高瀬咲枝を恨んでいた速川征太は、彼女の息子を殺した。そして今回も佐久亜紗美を愛しすぎた故に自ら手に掛けた。半年前、彼は高瀬咲枝に証拠品の体操着袋を送りつけています。それで彼女の出方を窺った。何もことを起こさない彼女を確認した速川は、浮気という弱みを最大限に利用し今回の事件も犯したと考えれば、彼の狙いは筋が通ります。人を二人も殺し高瀬咲枝に尻拭いをさせ続けたんです」真木野の独壇場で会議は終わった。最後に明日、速川が指定してきた場所に誰が行くかが議題に上った。真木野と大沢がすぐに挙手した。署長は渋ったが、結局この二人に決まった。


6日目・大沢の話

夕方六時、大沢は真木野の指示で早く帰らされたのだが、いまだパソコンで調べ物をしていた。彼は高校で見つけた高瀬孝次郎と速川征太の誕生日が一日違いであるということが無性に引っ掛かっていた。そこである事を確認した彼が、真っ直ぐ自分の家に戻ることはなかった。彼が向かった先は高瀬孝次郎や速川征太が通った小学校だった。夜の小学校に既に生徒の姿はなかったが、そんな中職員室の明かりだけは暗闇の中煌々と光りを放っていた。迷わず向かった職員室には一人の中年の女性がいた。彼女は二人の小学生時代の担任の先生だった。大沢が事前に電話を掛け、会ってくれるように頼んでいたのだ。彼女は今も現役で教鞭を取っていた。そこで大沢は色々な話を聞いた。彼はここへ暗闇の中宝探しをする思いで来ていた。過去の二人を探る上で欠かせないある推測の裏付けを取る為に。肩透かしは覚悟していた。何かを聞き出せれば棚から牡丹餅の心境だった。そして一時間程の会談は終わり、次にある病院に赴いたあと、向かったのは高瀬邸だった。

彼が高瀬邸に来た目的。それは報告の為、十二年前の事件、そして今回の事件の報告の為。その為に来たのだが、大沢にはもう一つどうしても確認したいことがあった。それは、高瀬咲枝と速川征太の間にある秘密。その為に事前に小学校と病院を訪問したのだ。そして彼女から真実を聞き出す為、彼は高瀬咲枝の元を尋ねた。時刻は夜の八時を過ぎていたが、彼は躊躇いもせずにインターフォンを鳴らした。出迎えてくれた高瀬咲枝の顔は、今までで一番和やかさを醸し出していた。玄関先の靴から、和馬はまだ帰宅していないようだった。

「夜分遅くにすいません」

「いえいえ。で、今日はどうしたんですか?」

「報告に参りました」大沢の顔が余りに神妙だったから、彼女の顔からも笑顔はなくなった。

「十二年前、息子さんを殺した犯人が死にました。速川征太が殺されました」一瞬にして凍りついた咲枝の顔に、喜びはなかった。

「どうして喜ばないんですか?いいんですよ。あなたは遺族なんです。手放しで喜んでいいんですよ。誰もあなたを責めたりしませんから」しかし彼女は喜ぶどころか、涙を堪えながらその場に蹲った。大沢もしゃがみ込み、出来るだけ近くで訴えた。

「どうしたんですか?十二年前からあなたは犯人が速川征太だってわかっていたんじゃないんですか?どうして訴えなかったんですか?本当のことを教えて下さい」暫くは下を向いたまま肩を揺らしていた咲枝だったが、ゆっくりと立ち上がると恐縮した面持ちで語り始めた。

「十五年前私はある男性と恋に落ちました。しかしその恋はお互い結婚をしていたから許されるモノではありませんでした。止めよう止めようと頭ではわかっていても心も体もそれを拒みました。そしてずるずると二年の月日が流れてしまったんです。そんなある日、私が相手の男性に送った手紙を、あろうことか相手の奥さんに見られてしまったんです。すぐに二人は引き離されましたが、相手が問題でした」「相手は、速川征太君のお父さんですね?」

知られていたことに驚きながらも、「はい」と答えた彼女は先を続けた。「妻の緑さんは物凄い剣幕で怒鳴り込んできました。その後、速川夫婦は離婚したんです。しかし私の旦那は私を責めることをしないばかりか、このまま一緒にいようとまで言ってくれました。でもそれが相手には面白くなかったんです。事あるごとに緑さんに怒鳴り込まれました。そしてそれに飽きると今度は自分の仕事である保険の勧誘、毎月ノルマがありました。すぐに誰も勧誘出来なくなり途方にくれました。でも緑さんはそれを許してはくれません。家に上がり込んでは昔以上に暴れる始末でした。そしてとうとう私は息子の命まで生命保険に掛けたんです。それからも緑さんの嫌がらせは続きました。勿論自らが蒔いた種です。耐えるしかないことはわかっていました。しかし私のストレスは息子の征太君に向かってしまったんです。彼は元々大人しい子でした。父親っ子だったんです。それなのに私のせいで大好きな父親と離れ離れにさせられた挙句、私はいつしかあの子を睨み付けるようになっていました。しかし相手は高校生です。力では及びません。だから彼が見ていないところで自転車をパンクさせたり、下駄箱の中に犬の糞を放り込んだり、上履きの中に画鋲を仕込んだり、最低な子供の虐めを息子の同級生にしてたなんて笑い話にもならないですよね。でもストレスをどうすることも出来ずに、すべてあの子にぶつけてしまったんです。そんなある日、彼が久々に家に遊びに来たんです。そのとき初めて知りました、息子が彼から虐めを受けていたことを。息子は彼がいる間中ずっとソワソワしていました。どうしたのかと尋ねると、アイツこのごろおかしいんだ、怖いんだよ。息子は震えていました。だから私、彼がいる部屋に行ったんです。勿論息子に虐めをしないように頼むつもりでした。虫が良すぎる話ですよね。でもそのときはそんなこと全く考えていませんでした。ただ息子を助けたい一心だったんです。しかし部屋にいた彼は図々しくも眠っていたんです。その姿に腸が煮えくり返りました。怒りが私を支配したとき、近くにあった息子の洗ったばかりでたたまれて置いてあった体操着袋を眠っている彼の顔に掛け、瞬時に首まで紐の部分を持って行き、一気に力を込めたんです。必死でした。彼は起き上がり、バタバタともがき苦しみました。私も負けられないと力一杯に紐を引っ張りました。しかし先程も言ったように高校生ともなると力では及びません。あと少しの所で彼は私を押し倒し、袋から脱出したんです。そのときの眼、今でも脳裏に焼き付いて離れません。それから一週間もしないであの事件が起きたんです。息子は私が彼にしたように彼の名前の入った体操着袋で首を括って殺されたんです。私はすぐに息子は自殺なんかじゃない、殺されたんだとわかりました。息子の葬式の席で、彼は私の傍に寄って来ました。憎さよりもとにかく怖かった。彼はあのときと同じ眼で私を睨むと、『あなたは僕の大好きだった父を取り上げた、だからあなたからも同じように取り上げたんだ。でもあなたにはお金が入るよ、よかったね。これでお相子だね』最後はおぞましい程の笑顔で言っていました。だから私は言えなかった。息子の命よりも自分の命が惜しかったんです。最低な親です。どうしようもない女です」一度は立ち上がった彼女だったが、最後は崩れるように座り込んでしまった。

そんな彼女に酷でも、大沢は訊いた。

「本当のことを話して下さい」

その目は真っ直ぐに高瀬咲枝に向けられていた。

「これが全てです」力なく彼女は大沢の方を見た。大沢は黙ったまま、ただ咲枝を真っ直ぐに見続けた。そして決心したように彼が、

「話したくなのであれば、僕から話します」一呼吸入れ、話を始めた。「半年前、あなたの下にあの体操着袋が速川征太から届いたとき、あなたはどう感じました?」咲枝は物々しい表情をしただけで何も答えなかった。

「速川征太君はよくあなたの家に遊びに来てたんですか?」

「息子があんなことになる前までは、息子の友達でしたから」

「そのとき彼は、煙草なんかを吸ったんじゃありませんか?」

「あの子、不良でしたから」

「注意は?」

「勿論です」

「そのときどうしても止めて欲しかったんじゃないです?」

「そりゃぁ体に良くありませんから」

「今、征太君の死は、あなたにとって十二年前の孝次郎君が死んだときよりもショックなんじゃないですか?」

「そ、そんなはずありません」力が抜けきっていたはずの咲枝が力んだ。

「その煙草を使って検査したわけですか?」

「はぁ……何をです?」

「DNA鑑定です」

「DNA鑑定?何を言ってるんです?全く意味が分かりません」大沢は自分が真木野の血を引き継いでいることに気が付いた。回りくどいという血を。だから彼はそろそろ核心に迫ることにした。

「これは僕の憶測です。でもあなたが取って来た半年間の行動はおかしい。我が子が死んだなら、その証拠を自分が抱えていると知ったならば、すぐにでも警察に提出するはずです。しかしあなたはそうはしなかった。どうしてか?」

咲枝の鼓動が大沢にも聞こえる程だった。それを確認したのか大沢の右の眉が微かに上がった。

「それは孝次郎君があなたの本当の子供じゃなかったからです。そして、征太君こそがあなたの本当の子供だったから」しゃがんでいた彼女の体からすべての力が抜けていった。

「どうしてそれを?」

「この前、あなたが僕に体操着袋を託してくれた時、あなたこう言ったんです。『息子の思いを酌んでやってください』と。最初はそのまま聞き入れました。しかしよくよく考え、インターネットでも意味を調べてみたんです。すると酌むという単語には、相手の気持ちを理解して思いやるという意味があったんです。それを孝次郎君に当て嵌めて考えたときに、思いやるがどうもしっくり来なかったんです。彼にとってあの体操着袋から求めること、それは思いやりなんかじゃありません。白か黒、彼を殺した人間が誰かを導き出すことだけなんです。そのときに気が付いたんです、征太君の存在に。最初は自分でもあり得ないと考えました。しかし彼が十二年前の犯人だという決め手は、もうあの体操着袋しか残っていなかったんです。それを半年前にあなたに託した彼の思い、そのことをあなたが僕に伝えたいと思ったなら、あなたが言った思いやりが余りにもしっくりと当て嵌まったんです」

咲枝は虚ろな表情で、地べたに完全に座り込んでいた。

「そして先程二人が通っていた小学校に行ってきました。するとある事故の話を窺うことが出来ました。孝次郎君、車に撥ねられて大怪我負ったそうですね。そこで大量の血が必要になった。すぐに輸血を申し出たあなたでしたが、それは叶わなかった。何故ならあなたの血液型はO型で、孝次郎くんはAB型。普通生まれるはずないですもんね、片親がO型でAB型の子供は。今でこそ科学が進み色々なケースが考えられ、そういったことも稀に起こるみたいですが。でも十数年前はまだそんな例外は考えられません。血液型が全てだったんです。そしてあなたはあることに気が付いたはずです。勿論自らがお腹を痛めて産んだ子ですから、旦那の浮気は考えられません。となると考えられること、それは孝次郎君が生まれた病院のミスです。それ以外思い付かなかったあなたは、自分の本当の子供を探したはずです。そして知ったんです。同じ病院で一日遅れで生まれた男の子のことを。それこそが征太君だったわけです。だからあなたはその真実を突き詰める為にDNA鑑定に頼った。DNA鑑定は煙草に付着した唾液からも検出できますからね」咲枝は大沢の話を聞きながら、庭先に今にも咲き出しそうな紫陽花に、焦点の合わない眼差しを向けていた。

「あなたの旦那さんもそのことを知っていた?だから十三年前の浮気騒動も許してくれた。実際どうだったかは知りませんが、速川さんの旦那に頼んだりもしたのでしょう、息子を交換しようと。しかし緑さんが聞かなかったか、彼女の耳に入る前に浮気が明るみに出てしまった?」

ため息にもならないため息を零すと、「その通りです」微かに咲枝が述懐した。

「あなたは十二年前、速川緑さんに相当嫌がらせを受けた。そしてそのストレスをどうすることも出来ずに、ある人物にそれを向けた。あなたの話ではその相手が征太君でした。しかし本当は緑さんの本当の息子、孝次郎君だったんじゃないですか?さっき言われていたことは全て孝次郎君にしたこと。つまり孝次郎君が残した日記の陰険な虐めは、あなたがやったことを、彼が征太君のせいにしていただけなんじゃないですか?」

咲枝はただ黙って頷く以外出来ないようだった。そんな咲枝でも大沢が質問を止めることはなかった。

「征太君はあなたが母親であることを知っていたんですか?」

「知らないと思います」

「では二人の間に蟠りなんかは?」

「それはあったと思います。あの子の首を絞めたのは本当ですし、征太から父親を奪ったのも私です。孝次郎の死後、あの子が私に向けた眼は恨み以外の何物でもなかったですから。実の子にあの眼をされては、何も言えません。結局あの子にはこのことを言えなかった。こんな女が本当の母親だと知ったときのあの子の悲しむ顔を見たくなかったから。緑さんは数年前、酒の飲み過ぎが祟って死にました。それでいいんです。あの子の母親は死んでもう居ない、それでいいんです」大量に流れ出た涙を彼女は拭うこともしなかった。

「最後に教えて下さい。征太君があなたの子供だから体操着袋を渡さなかったことは納得がいくのですが、では逆に最後は何故渡してくれたのか?確かに僕たちのしつこさもあったのかもしれませんが、本当はもっと何か切っ掛けがあったはずです」脱力感から彼女の表情には何処にも力がなかった。ただ口だけをパクパクと動かすロウ人形のようになっていた。

「刑事さんたちが最初に家に来られた日の夜中、あの体操着袋を燃やしてしまおうと思ったんです。そう決めたときに電話があったんです」

「誰からですか?」既に彼女を責め立てる必要がなくなった大沢の物腰は柔らかいものだった。

「息子からです」

「息子とは征太君ですね?彼は電話で何と?」

「征太、云ったんです。『十二年前の体操着袋、もし警察が貸してくれと来たら、貸してあげて下さい』勿論反対しました。でも、『お願いです。もう嫌なんです。心に何かを隠したまま生きていくことに疲れました。今まで本当にありがとうございました』そう言われてしまったんです。でも悩みました、本当に悩みました。それでもこれは親としてあの子に出来る最後のことだと考え、あなたにあの袋を託したんです」一度は伏せていた咲枝の眼差しが、今は大沢に優しく向けられていた。大粒の涙と共に。

彼は帰りの車の中、あの言葉を思い出していた。ダブルスパイラル。そうビデオテープを送り付けてきた人間が残したメッセージ。

「その人物が伝えたかった二重螺旋、DNAの真実はこれだったんじゃないだろうか?十二年前の孝次郎の事件の真実を導き出した体操着袋のDNAではなく、十二年前の事件に隠されていた真実、咲枝と征太が本当は実の親子、それを解明したのがDNAだった。これなら半年前、体操着が送られて来ても咲枝が征太を警察に売らなかった説明が付く。これこそが高田が病院で林さんに言った、高瀬咲枝と速川のとんでもない秘密だったんじゃないだろうか?ビデオテープを撮影した人物は、そのことを伝えたかったんだ。その人物は、高田和夫ということか。十数年前、咲枝が実の子が孝次郎ではなく征太だと知ってしまったことから悲劇が始まり、緑の虐めに耐えられなくなった咲枝は、緑の本当の子供である孝次郎に当たっていた。孝次郎は母親の咲枝が息子である自分に嫌がらせをしていることにあるとき気付いたんだ。何故母親がそんなことをするのかを色々調べたはずだ。そして彼は知ってしまった、自分は咲枝の子供ではなかったという事実を。そのあと孝次郎は征太に言い寄ったはずだ、母親を元に戻そうと。しかし咲枝の恐ろしさを知ってしまっている征太は、絶対にそれを拒絶したに違いない。彼は実の母親になる咲枝に、首まで絞められているんだから。二人は擦り合った、どっちも咲枝が母親になることはどうしても嫌だっただろうから。もしかしたら、征太が孝次郎を殺した最大の理由はそれだったんじゃないだろうか?征太と高田和夫はグルだ。今回も、そして十二年前の事件も。この秘密を知った高田は公には出来なかった。自分が言ったことがバレれば、征太にどんな仕打ちを受けるか分からないし、十二年前の事件の共犯者であることもバレてしまうかもしれない。今回の事件も十二年前同様、高田和夫は征太にグルにされた。そこでやっと彼は気が付いたんだ、このまま一生征太のしもべとして生きていかなければならないことに。だからバレないよう、ダブルスパイラルという暗号にしたんだ。ところが昨日、思っても見なかったチャンスが彼に訪れた。彼はそのチャンスを生かし、全てを知っている速川征太を殺して、二つの事件の全ての罪を彼に被せることにしたんだ、きっと」頭をフル回転させ数分間続いた独り事で行き着いた結論が事件の全てを解明したと感じた。しかし、死んだはずの速川征太との明日の決戦を考えたとき、大沢の存在を超越した出来事が襲い掛かって来るような気がした。彼は見えない敵に身震いしていた。だからそれ以上を考えることを止め、家路を急いだ。


6日目・真木野の話

 署を出たあと、真木野も車を運転していた。大沢を早く返したことを後悔した。久しぶりの運転に少し戸惑いながら、それでも一人では運転するしかないと諦めた。彼が向かうのは、橘貴代の団地だった。事件の報告がてら聞きたいことがあったのだ。しかし貴代が話してくれる保証はなかった。昨日彼女は言っていた。話すときが来れば自分から連絡すると。勿論彼女からの連絡はまだない。それでも彼は向かっていた。明日の速川征太の亡霊との決戦を前に、どんな情報でも掴んでおきたかったのだ。車の時計に目をやると、六時を少し回っていた。

「よっし」

彼は車を降りると階段を上りインターフォンを押した。そして少しばかり姿勢を正し彼女がドアを開けるのを待った。

「はーい」中から聞こえた声は橘貴代だとすぐにわかった。そしていつもよりも元気なことも。それは彼が事前に連絡を入れなかったから。相手は警察だとは思っていないのだろう。案の定、真木野を確認したときの貴代の目はウンザリが滲み出ていた。

「こんばんは」

「今日は何ですか?話すときが来たらこちらから連絡を入れると言ったじゃないですか」

「すいません」

「帰って下さい」

「速川征太が死にました」驚きよりも悲しみが大きかったのか、表情を崩すことなく、目尻だけを濡らした。

「犯人は高田和夫です」その名前を耳に入れても、彼女が驚くことはなかった。

「あなた昨日、高田がここに来た時点で知ってたんじゃないんですか?高田が血の付いた何かをあなたに持たせたか見せた時点で、彼が速川を殺してきたところだって」真木野の語尾が強くなる。

「知りません、知りませんでした」彼女の目から、今までのような力みは消えていた。何処か虚ろで弱々しい印象さえ受けた。

「あなたが抱えることはないですよ。あとは私たちに任せて下さい」今しかないと察知した。

「分かりました」堪忍した彼女の目からは安堵さへ漂っているように感じた。「昨日、和夫が突然目の前に現れて、血の付いたナイフを私に持たせ、殺してくれって言ったんです。僕はもうこの世にやり残したことはないからって、だから殺してくれって。でも怖くなってナイフを思はず投げ捨てたら、和夫は階段を一気に降りて行ったんです」表情が崩れた貴代が静かに語った。

「あなたは昔、速川征太のことが好きだった?だから彼がストーカーであることを信じたくなかったんじゃないですか?」

黙り込んだ貴代に、

「佐久亜紗美をストーカーする速川征太を認めたくなかった?」真木野は真実に近いだろう憶測を並べた。

「私は征太が好きだったことよりも、あの女のことが嫌いだったの」そして彼女からは悲しも安堵も消え、むしろ憎悪の顔に変化していた。

「あんな、男にばかり媚びを売るような女のどこが良いのか、理解出来なかった。飲み会に行ってもバーに行ってもいつも男にいい顔をしていた。征太がストーカーだったことも、友達の私に先に相談しないでバーのマスターにしてた。彼氏のことだって上手くいかなくなったことバーのマスターから聞かされたのよ。あの女は男がいないと生きて行けない阿婆擦れ、だから男に逃げられ死んだのよ」そのあとも、糸が切れた女の話は永遠と続いた。一時間近く話を聞かされ、彼としては疲労困憊、それなりに成果があったと信じ込み車へと戻った。

帰り道ブラックのコーヒーを買おうとコンビニに立ち寄った。そこで佐久善治が入院しているベッドの下に捨てられていた写真週刊誌に目が止まった。それは新堀が使いを使ってまで彼のお見舞いに持たせた雑誌だった。

 

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