第001話 その壱/02月15日(月曜日)「ただいま」「おかえり」 

――座標軸:風見ナミ


 風見ナミは魔女、魔力持ちである。そうは言っても、所詮は只の人間だ。


 その日は、もうすぐ自身の15歳の誕生日がやってくるという2月の半ば、15日だった。


 玄関のチャイムが鳴った。暫くして、インターホン越しに、「神矢さんのお宅はこちらでしょうか」と問う、低く響く男の声が聞こえてきた。

 彼女は丁度、学校から帰って来たところだった。まだ紺色の制服を着たまま。それどころか、今、靴を脱いで玄関を上がったばかりだ。

 少女は壁に留められたインターホンの確認画面に目を向けた。そして肩にかかった長い髪をかきあげて耳を出すと、魔力を乗せながら、そこから再度、注意深く音を拾う。

 耳についた小さな青い石のついたピアスが、もうすぐ15歳という年齢の彼女に対して少々不釣り合いな、大人びた印象を与える。

 彼女がそうして念を押して確認をした理由。それは、ほんの少しだが、その声に違和感を覚えてのことだった。そして。

 ……よし。『音』に異常は無し。警報も何も、反応は無し。

 門の両側に設置してある魔力探知機からの反応も、ゼロ。

 門の外にいる声の主は、同類ではなく、ただの魔力無しの人間のようだ。先の違和感も、何かの気のせいだろう。彼女はそう判断する。

「こちらは神矢さんの敷地内なんですが、神矢さんのお宅ではないんです。ウチは居候ですから」

 彼女も、インターホン越しに返答を投げる。小さいながらも一軒家。それで居候も何もあったものではない、と内心で自分自身に向けて小さく呟く。そして、ややよそ行きの声を再びインターホンに向ける。

「神矢さんのお宅の玄関は、塀沿いにぐるっと南に行けば、大きな門がありますから。そちらへ行けば……」

 言いかけて、少女は確認画面に映る外の画像に改めて目を止める。

 赤い短髪。この国の人らしからぬ風貌。和人離れした長身に屈強そうな体躯。相手は外国人らしい。

 体格からしても、神矢のおじさまの開いている道場の関係者で間違い無いだろう。海外遠征もしている神矢の道場には、これまでも外国人の知り合いや弟子、入門者が何人も訪れている。そんなことを思い出しながら、彼女は男もそうした人間の一人だろうと見て取る。

 先程の声色の違和感は、和語を母語としない人ならではの発音だからだろう。

「あ、ひょっとして」

 そう結論づけた途端、思わず、彼女は小さな声を漏らした。独り言だ。インターホン越しに聞こえるような声量ではない。それどころか、たとえ聞こえたとしても相手がどこまで和語を理解できるのか、彼女には判らない。ならば。

 気を巡らし、魔女としての意識を高めてから、彼女は扉を開ける。大丈夫。今日は気力も満ちていて魔力も充分だし、相手の力量によっては魔力以前にただの体技で対応することもできるだろう。体格差が大きそうだから、油断をするわけにはいかないとしても。

 彼女はブラウスの上、ベストの中に挟まれていた、深い藍色のペンダントを探り出して手に取った。そしてその宝珠の上に、気を込める。お守り、よーし!

 そうして彼女は外に歩き出し、門の外に立つ外国人らしい男に直接声をかけた。

「外国の方ですよね。和語、お分かりになりますか?」


 ……でかい。少女の、男に対する印象だ。


 「居候」の家らしく、彼女の家の門の造りはかなり小さい。その小さな門と引き比べると、男はとても大きく見える。

 ただ、神矢の道場に来る人たちにも大柄な人は何人かいる。彼女は、その中でも特に大柄な人間たちの顔ぶれを数人分、思い浮かべた。その人たちと肩を並べるくらいはあるな。五本の指、いや三本指に入るかも、などと思いながら、改めて彼女は軽く男を見遣った。

 やや色目の薄い赤い髪。濃い赤銅色の肌。そして少しだけ和人よりも淡い瞳の色。モンゴロイドかどうかまではわからないが、しかしさして掘深い顔立ちではない。けれども異国情緒の混じった顔立ちは、明らかにこの国の人ではない。

 探知器の反応が無かったことに加えて、その短髪や、各種の宝珠による魔力保持の様子が無いことからも、この人間は魔力持ちでは無いだろう。

 しかし。

 相手のその淡い色の瞳が少女の姿を認めた時、その中にほんの僅かだが、驚きの色が浮かんだように見えた。

 どういうことだろう。彼女は青の瞳を見開いて、まじまじと男を見つめた。

 だがその間を先取りするように、男は彼女へと声を掛けてきた。

「居候、というと、こちらは神矢さんのお宅ではないのですね」

 インターホンよりもよく判る。その発音からすると、明らかに和語を母語にしている声ではない。だが、発音も聞き取りやすく、比較的滑らかな喋りだ。低くて深い、よく通る声。意思の疎通は問題無さそうだと判断した彼女は、少し気を抜いて話しかける。

「ええ。ここは『お隣さん』ですね。神矢さんの道場へいらっしゃるのなら、南側へ回るんです。神矢家のお屋敷は、とても広いですから」

 再度、素早く、門の両柱に隠されている魔力探知機の反応を見る。それは家の中で確認したままと同じ。反応はゼロ。何も問題はない。量販店で市販されているものや町中に設置されているものよりも数倍の精密度でもって魔力を感知できる特注のその装置は、ウンともスンとも言ってこない。尤も、それも彼女があと一歩踏み込めば、彼女自身の魔力に反応して警戒の意味も無くなるのだが。

 彼女はそうして、その「あと一歩」を踏み出した。門は低く、開けていないとはいっても、その高さは男の腹の高さ程度。二人の間の障壁としては、さほど威圧感を与えるものではない。

 門を開けぬまま柵越しに、彼女は細い右手を上げて、「ええ、南へ」と言いながら自身にとっての右方向を指し示す。

 それまで真っすぐ彼女の顔を見ていた男は、彼女の手の意思的な動きに沿って視線を南へと向けた。

「ええ、道場に。師匠へ挨拶に参りました。和国には……8年ぶり……です」

「ああ、やはり拳道をなさっていらっしゃるんですね」 

 8年ぶり、と言うことばが途切れたことに不自然さを覚えて、彼女は視線を男に戻す。だが、男の表情を見ても、それは気にする程ではないようだ。和語がそこまで巧みでないからだろう。彼女はその感覚にひとまず蓋をして、男のトラブル解決へと意識を振り向ける。

「地図はお持ちですか? 8年ぶりだと、この辺りの道も風景もかなり変わってしまっていると思いますし」

 南へ向かうには、とそのまま説明しだす彼女に、男は少しだけ困った表情を向ける。

 あ、やっぱり解らないのかな、和語。男の素振りからそう判断をした彼女は、いつもながらのお節介癖、もとい独善的な思考でことばを口にしていた。

「そこまでご案内しましょうか。どうせわたしも半分、神矢のおじさまの身内……のようなものですから」

 少し声を明るめにして、大きな男に笑顔で言った。

 瞬間、それまでずっと控えめな表情を崩さなかった男が、その瞳に分かりやすい喜びの色を浮かべ、口の両端を大きく上げる。つくりものっぽく見えるが、好意的な笑顔だ。

「それはありがたい。感謝します、お嬢さん」

 8年前というと、先の魔女狩り……彼女たちに言わせるところの「戦争」……が終わって、まだ間もない頃だ。この中野町の辺りは結構な「激戦地」だったから、8年ぶりの訪問者からすると、周囲の変化は随分と大きいものだろう。尤も、神矢のお屋敷そのものは、さしたる変化はない。ただ、こうして少女……風見ナミの小さなちいさな家がその広いお屋敷の領地の隅をこっそり占領していたり、あるいはこの地域全体で戦後の復興に合わせて送電線を地下形式に変更したりと、当時と比べると町の外観は相当変わってしまっている……筈だ。

「あ、少し待ってください。家の鍵を閉めてきますから」

 くるり、と男に背を向ける。ひらり、とスカートが揺れる。少女・ナミの長くて艶やかな黒髪も、また一緒に、ふわり、と曲線を描いて、男から遠ざかっていった。




――座標軸:赤銅色の外国人


 家の扉の中へと戻る少女を、男は強い視線で見つめていた。少女が背中を向けた途端、男はその瞳に、彼女への感情を解放する。強い、その想いを。けれども、扉を閉めるだけというその時間は短く、すぐに少女は飛び出してくる。意識して自分の感情に蓋をして、男は努めて感情を出さないように注意しながら、それでも少女の事を眩しそうに見つめる。

 はっきりとした目鼻立ち。特に、大きくて意思的な瞳の力強さが、印象に残る。よく見ると、彼女の瞳はこの国の人間の色とは少しばかり違っていて、深いふかい青い光を湛えている。美しい、けれども少しばかり冷めた印象を与える、青。もちろん彼女が先刻のように屈託の無い微笑みを浮かべれば、そうした冷めた印象などはすぐさま吹き飛ぶのだが。

 戻ってきた彼女に、男は助かったとばかりの声色で話を続ける。

「この町は、先の『戦争』、その後の復興で随分と変わったと思いますが。まあ、拙者の中野町の滞在は短期間でしたから、大して覚えていることはなくて」

 カタン。軽金属の門を開ける彼女の手が、止まる。


「せ……『拙者』?」


 ポカン。

 少女はその場で固まったまま、5秒ほど間を置いて、盛大に吹き出した。


 ぷ……ぷぷぷぷぷ……ぷっはっはっはっは……!


 ポカン。

 男は、目の前30センチの距離で笑いながら腹を抱えてうずくまる少女に呆気にとられたまま、体を硬直させている。

「ははは……おじさん、おじさん。今時、『拙者』は無いわよ。入国してから誰か他の和人に教わらなかった? なんか悪い詐欺師に騙されたりしてない?」

 あまりにも開放的に笑う少女に、男はただ黙ってしまう。オロオロと取り乱したい気持ちもあるが、あまりにも無邪気な少女の大笑いっぷりに、仕方がない、と腹を括って彼女の感情が落ち着くことを男は待つことにする。

「和語で自分のことを指すことばはたくさんあるけれども、男の人なら『僕』とか、あとはおじさんくらいの歳の人だったら『私』とか。あるいは『俺』とか。とにかくもうちょっと現代のことばがあるんだって……知らない?」

「いや、知らなくはないが……拙者が教本としていた……」

 重ねて『拙者』と自分を称して話を繋ぐ男に、収まりかけていた少女の笑いが再び勢いを盛り返した。

 はあはあ、ひいひい……折りたたまれた少女の細い体が、ようやく、笑いを残しながら大きく伸びあがり、男の視線にしっかりと収まる。

「おじさん。だからねえ、その『拙者』って言い方、もうギャグのレベルだから、止めた方がいいわよ。今日で和国滞在、何日めなの?」

「いや、先ほど空港からモノレール、新幹線、電車、バスを乗り継いで……」

「おじさんのボキャブラリー、ヘン!」

 青い目に涙を浮かべながら、笑いを堪えつつ、少女は強い語調で言い切る。そしてようやく目元の涙に気がついたのか、笑い涙の浮かぶ目を手の甲でそっと拭う。その彼女の右手中指に収まる小さな青い石のついた指輪に、男は目を止めた。その視線に、しかし彼女は気づかない。

「変よ、それ。どうして乗り物の名前はどれもこれも和語で正確に言えるのに、自分のことは『拙者』なのよー!」

「やはりそうであったか……」

 大柄な男がうなだれる。まさか、ちょっと道を尋ねただけの少女にここまで笑いものにされるようなことだとはこれっぽっちも思っていなかった、といった様子で。

「いい?」

 少女の、その年にしてはやや低くて大人びた、けれども澄んだ声が、落ち着いて話を紡ぎ出す。

「おじさん。もしもよければ、その『拙者』って言うのはすぐにやめて、『私は』か『僕は』の方に変えた方がいいわよ。今後、ずっとよ。今の和国でそのことばで自称する人はまずいないし、あってもせいぜいお芝居だとか……っていうか、それ、すっごく変なテキストを和語の勉強の素材として使っていたんじゃない?」

「いや、拙者は……その、サムライ・フィルムを……」

 ここでまた、『拙者』。三度目だ。少女もまた、堪えきれずに三度目の笑いが飛び出す。流石に今度は小さな笑いに留めているが、しかしまた暫く二人の会話は止まってしまう。どこがどういうことなのか、何が彼女の笑いのツボを刺激しているのか、彼には皆目見当がつかない。けれども彼女は、なかなか笑いを止めることができない。

 その時間の長さに業を煮やした男は、グッと拳を握り締めると、大きく深呼吸をして、その低く良く通る声を彼女へと向ける。

「ワタシはっ」

 120%の笑顔でかたどられた彼女が、男を見上げている。


 ……あれから成長したとはいえ、やはり小さいな、彼女は。


 一瞬少女と自分との身長差に気を取られたが、すぐにその想いを放り出し、男は少女に対してことばを紡ぐ。

「『拙者』が『拙者』では、やはりおかしいのだろうか。どうだろう、お嬢さん?」

 彼女の青い瞳はまるで鏡のようだ。彼の、不機嫌と不安の入り混じった気持ちを真っすぐ受け止めたかのように、彼女は彼のその声を受けて表情を変化させる。

「でも。和語で話す時、ずっと自分のこと『拙者』って呼んできたの……?」

 そう言って男を見る少女の顔が、真摯なものへと移り変わる。そうして真面目な瞳の色で彼女は男と正面から向き合うと、門の外へと足を踏み出した。

「和語を習うならば、教材はもっときちんと選んだ方がいいわ。神矢のおじさまにでも、すぐに相談して……サムライ・フィルム? 時代劇? あれはお芝居の中でしか使われない言い回しが多いから、今の和国でリアルに使ったところで『笑い』しか取れないわよ」

 わたしみたいに。そう続けて再度、彼女はクスクスと笑った。しかし今度は、その笑い声はすぐに消えていった。

 門を後ろ手で閉めながら、少女は歩き出す。美しく伸びた背筋。その姿は、恐らく彼女もまた武道の嗜みがあってのことだろうと男は推測する。神矢の家の一角に住む、その身内のような者と言い張る少女が、道場に関係していないことはないだろうから。

「少なくともこれからは、さっきみたいに『私は』って言うようにした方が……」

 数歩先を行く彼女が、くるりと振り返る。それまで真っすぐに歩んでいた足さばきからの振り返り。ダンスのように綺麗なターンだ、と男は場違いな印象を抱きながら、感情を抑制した瞳の色で彼よりもずっと小さい少女を見下ろす。道は坂道。下りの道のため、余計に二人の身長差が強調されているような気がする。

「はい、続けて言ってみて。『私は今日、和国の空港に着いて、モノレールに乗って、新幹線に乗って、電車に乗って、自転車に乗って……』」

「いや、自転車には乗っていない。バスには乗ったが」

「解るわよ、そのくらい。冗談よ」

 含むものの何もない、純粋な子どもらしい笑みが彼に向けられる。一瞬、彼もとても嬉しそうな顔をする。それが、いつの間にか、声になる。尤もそれは、既に進行方向に向き直っていた少女の耳には、鼻を鳴らしただけの、「ク」といった音として届いたようだった。

 真っすぐ歩いていた少女は、その音を聞いて鼻で笑われたとでも思ったのだろう。自分の後ろを歩く男へ、首をひねって視線を合わせようとする。しかし振り返って再び男の表情を目にすると、さっきと同じような嬉しそうな顔をしたままの男が彼女の目に留まるだけである。彼女は何も言わずに姿勢を進行方向へと戻した。

 そんなふうに、自分の声と顔は、どうやら少しちぐはぐな対応をしているらしい。男はそう自分を分析すると、必死になってことばを紡ぐ。

「せ……ワ、ワタシは、自転車には、乗っていない」

 和語を母語としないということが分かるイントネーションで。一言ずつ、区切りながら、男は目の前を行く少女に、声をかける。

「これでいいのかね?」

「ええ、上等!」

 ニヤリ、とチェシャ猫のような笑みを浮かべて、少女は再び前を歩きだした。


 2人はそれから道なりに進む。彼女の言う通り南へと坂を下る。その方角は、彼にも太陽の向きから判断ができた。一つ目の角で右、即ち西方向に曲がり、2人は更に50メートルほど進む。

 すると、いかにも「道場」とでも言いたげな造りをした大きな門の前へと彼らはやって来ていた。よくあるサムライ・フィルム、時代劇の映像で見るような、彼から見てもやや大げさにも見える、立派な造りの門だ。

「はい。ここがおじさんの目的地よ」

 気がつくと、立ち止まった少女が彼へと振り返っていた。

「ありがとう。助かった。時間を割いてもらって、済まなかった」

 真剣な表情で男は少女に礼を述べる。少女の方は、どこか油断のならない小さな笑みを浮かべている。いや。それは、何か想像を逞しくしながらあれこれ算段を立てている、といった表情だ。

「おじさんは、まだしばらく道場を見学するのかしら」

「あの、お嬢さん。済まないのだが……」

 穏やかな表情で、なんとか友好的な声色を保ちながら、長身の男は少女へと真っすぐに向き直った。

「その、『おじさん』と言う呼びかけは……いかがなものだろうか。拙……ワタシの年齢的には、まだ、そこまでの歳ではないのだが」

 少女の青い瞳が、驚きで広がる。

「……あなたを『お兄さん』って呼ぶ、ってこと?」

 またも、あの顔。どうやら、笑いを必死で堪えているようだ、と男は彼女の表情から見て取る。なんとも、感情と表情が近い少女だ。

「一人称代名詞には無頓着なくせに、年齢的な若づくりは気になるんだー……」

 笑う代わりに、嗤う。それでも、整った顔立ちの彼女がそういう表情を浮かべたところで嫌味や下品さとは皆無なのが、まだ救いようがあるというか、不思議というか。そう彼がとりとめも無く考えていると、彼女はすぐにその後を継いだ。

「若く見られたいんだ、『おじさん』も。あ、ごめん。お兄さん、だったわね」

 彼が真っ直ぐに少女を見据えるように、少女もまた男に正面きって向き直る。とはいえ2人の身長差は30センチ近くあるだろう。どうしても少女が見上げるようなかたちとなって、そのことが少しだけ彼に安心感を抱かせる。尤も、彼女の側がその事実にどういう感情を抱いたかまでは、彼には判らなかったが。

「『お兄さん』というのも他人行儀だから、よければ、あなたの呼び名を教えて」

 それまでの笑顔をすっと消して、彼女が真剣な表情を浮かべる。彼女は彼に、真正面から問いかけていた。




――座標軸:風見ナミ


 魔女である少女にとって、名前を得ること、与えることは、大事な意味合いを持つ。魔力を持たない人間たちの名前の交換とは、文化的な位置づけが若干異なるのだ。

 確かに彼女はまだ、自分が魔女、魔力持ちの一族であることを、相手に告げてはいない。けれどもそれが知られる前であれ後であれ、魔女としての矜持からすれば、ここはきちんとしておかなくてはならないことであった。

「わたしのことは『ナミ』って呼んでくれていいわ。あと、神矢のおじさまとは血の繋がりはないの。だから神矢姓でもない。『風見ナミ』よ。ええっと、その……本当の名前ではないけれども、これで通っているわ」

 凛と背筋を伸ばした彼女の全身から少しだけ余分な緊張が伝わったらしく、彼は不思議そうに少女を見つめ返してきた。「本当の名前ではない」という言い回し。恐らくそこで、相手も彼女が名乗ったのが通称であることを悟ったのだろう。

 平素は通称を用いて真名を伏せる文化は、魔女にとっては日常であると同時にとても大切なことであり、重要な価値観だ。彼も、ここまでくれば彼女の存在を確信したことだろう。「魔女、魔力持ち」として。

 尤も和国の場合、魔力持ちだけではなく魔力無しであっても通称を名乗ることはごく普通になされている習慣だ。同様に、諸外国でもその傾向は大きく幅を利かせている。

 しかしこの外国人が、その習慣が和国でも充分浸透していることを知っているかどうかは判らない。

「ああ、本当の名前ではない、と。通称を公開したということは、君は魔女……魔力持ちなのだな」

 確認するかのように、男は自分の知り得た事実を、まるで時代劇のような口調で彼女に告げる。やはり、彼女の伸ばした髪や宝珠といった魔女らしさを、最初から見て取っていたのだろう。彼女が、彼の短髪を見て魔力無しだろうと、見当をつけていたように。

「せ……ワタシは、魔力持ちではない。ただ、名乗るほどの名前は持ち合わせていない」

 と。

 え、それも時代劇? それまでの緊張が氷解して、ナミは思わず小声で漏らす。

「神矢老師からは、和名として、『レイジ』の名を頂戴している。せ……ワタシは漢字があまり得意ではないのだが、なんでもゼロや無を意味する『零』という字と、それから『司る』という字の二文字で綴られるのだそうだ」

 こういう……と、言いかけて、大きな男は大層使い込んだ様子の超特大のバックパックを下ろし、その一番上のポケット収納から小ぶりのノートを取り出す。それをぱらぱらとめくりながら該当する文字を探し出し、彼女に紙面を指し示す。その指は、本人の体と同じくごつくて太く、長い。

 彼が選んで示したその紙面の頁には、一面に、いくつもの『神矢零司』の四文字が並んでいた。彼が、何度も何度も、自分できちんとその和語の文字を書けるように、練習していたのだろう。

「うん、わかった。『レイジ』さんね」

「ああ。いや、名前は別にいいのだが、『おじさん』というのは、ちょっと……その……」

 真剣だった男の表情に皺が寄り、困ったような表情になっていた。

「レイジ、さん……そんなに、おじさん扱いは、嫌い?」

「ああ」

 怒っている訳ではないが明らかに不本意だと言いたげな表情でナミに言う。その傍らで、ナミは、「一人称は拙者だったりワタシだったりどうでもいいくせに」とぶつくさと呟いた。

「分かったわ、レイジさん」

 やや諦めたような表情で、ナミはノートを手にしたまま目の前の大きな男を見上げる。

「いや、『さん』もいらないよ。敬称はいらない。『レイジ』、でいい」

 男はノートを彼女の手から取り戻そうと引く。しかし、ナミの手は彼のノートを掴んだままだ。

「和語、上手じゃない。書く方だって。綺麗よ、筆跡。発声もことば選びも支障はないし。なんで自称だけ『拙者』なのよ、レイジ?」

 男はさらに、ノートに力を入れる。引く。しかし、動かない。彼女は、動かさない。手放さない。

「へえ……」

 あまつさえ、彼女はノートをぺらぺらとめくり始める。

「おい、止めないか、ナミ!」

 絶妙のタイミングで、彼女はノートに込めた力を抜き、彼は自分のノートを取り戻す。プライベートを垣間見た、というところまでいくかいかないか。その微妙なラインを彼女は上手にくぐり抜けて、「ごめんなさいね」と丁寧に謝った後。

「おじさん……じゃなかった、レイジお兄さんは観光で来たの? ひょっとしてお仕事?」

 え? と小さい声が漏れるか漏れないか。ノートを仕舞いかけていたレイジの手が止まる。

「和語、かなり上手だもの。それ、お仕事に活かしていないってわけじゃないでしょ? 翻訳・通訳は難しいかもしれないけれども……取材とか?」

 ゆっくりノートを仕舞ってから、レイジは大きな鞄を軽々と背中へと担ぎあげ、彼女にこう言った。

「半分当たりで半分外れだな、ナミ。まあ、そこいらのことは、君にはどうでもいいことだろう。せ……ワタシの事は、気にしないでくれたまえ」

「ふーん、そう」

 そう言うと、彼女は改めて上目遣いの目線で彼を見る。話の先を促されたと思ったのだろう、レイジはナミの視線を受け止めながら、話をし始めた。

「厳密に言えば、取材ではないが、いつかそれをかたちにできれば、とは思っている。和語の勉強に力を入れているのは、その為もあってのことだ。せっ……ワタシの事は、だからもうあまり気にしないでくれればいい」

 同じことをもう一度繰り返して、念を押すかのようなその言い方は、逆に彼女のアンテナに引っかかるものがあった。

 彼女は、目の前の見慣れぬ外国人の観察を続ける。観察、分析、推理。頭をフルに回転させながら。

「つまり、もっとこの国のことが、知りたいのよね?」

 にっこり。親しげな笑みを浮かべて、ナミは彼のことを見上げた。

「神矢のおじさまの所に、これからもうしばらくいるの?」

 何もことばを返さずに、レイジが不思議そうな顔を少女に向ける。

「ウチに少しばかり和語の勉強に使える絵本があると思うから、あなたにあげるわ、レイジ。それを持って、夕方こっちにお邪魔するから。あなたの和語能力の向上にも夢の成就にも仕事の目標にも、役立つと思うわよ。少なくとも、サムライ・フィルムなんかよりは」

 親しみの籠った笑顔を浮かべて、少女は彼をじっと見ると、それから迷わず背中を向けた。彼はまだ、何の返事も、それどころか声すら発していないというのに。

「じゃあ、また後でね、レイジお兄さん!」

 きびきびと。彼の返事も聞かずに、少女は真っすぐに走り出した。




――座標軸:神矢レイジ


 ……綺麗なフォームだな。間の抜けた感想が男の胸中に浮かぶ。

 彼の口元に、隠し切れない嬉しさが溢れ、それを抑えるように彼は口元に力を入れる。同時に、その瞳には、隠しようもない哀しみの色が滲む。

 そうして、神矢零司カミヤレイジの和名通称を名乗った男は暫くその場に佇んでいた。

 自分が少女のことを何の不思議もなく、すぐに「ナミ」と親しげに呼びかけることができたこと。そのことを、彼女が不思議と思った素振りがまるでなかったこと。それどころか、恐らくはその距離感にまるで気づいていなかったであろうこと。

 更に。そのいずれもが、彼にとっても、また少女にとっても、ごく当たり前の事実として受け入れられたこと。

 それら諸々の事柄にようやく意識が向いたレイジは、自分が浮かべている口元の笑みと己の悲しみに気がついて、改めて無表情をつくり直す。そして使い込んですっかりくたびれた色合いのバックパックを背負い直すと、門へと向き直り、そのまま中へと入って行った。




――座標軸:神矢レイジ


 時代劇のように、男は土下座をしている。

 男――先刻、風見ナミの前で、神矢零司カミヤレイジと名乗った、あの大柄な赤銅色の肌の男だ。

「まあ、顔を上げなさい」

 強く戸惑った表情で、その温かい声の持ち主、神矢家の主が、男の肩に手を伸ばす。

「そんなことはしなくていい。8年ぶりだろう? 入国禁止が解けてから、すぐにこの国にやってきた、君の気持ちはよく解る」

「かたじけのう御座います」

 やけに時代がかった言い回しをしながらも、声色は真剣だ。神矢レイジの低くて良く通る声が、神矢家の当主に心からの許しを請い、深く響く。

「しかしまさか、すぐにやってくるとは思わなかったよ、レイジ君。しかもお願いごとというのが……」

「ええ、無理は承知しています。また、北の魔女をはじめ、彼女たちの『コミュニティ』からは相手にされない可能性も理解しております」

 土下座のまま、頭を上げない状態で、レイジは神矢老人と話を続ける。

「まずは顔を上げなさい、レイジ君。本当に暫くだったねえ。和茶はどうだね? 和むよ」

「はい、喜んで!」

 声に喜びの色と、そして若干の謙遜を盛り込んで、漸く大きな男は顔を上げた。正座はまだ崩していない。当人は当然とばかり、そのままの姿勢で話を続けるつもりでいる。対面で、ローテーブルを挟みソファに座る老人にとっては少々目線に困る位置なのだが、正座中の当人はそのことに気がついている様子は無い。

「お茶だから、レイジ君も椅子に座って、寛いでくれ」

 話はそれからだよ。続ける老人の温かい声を受けて、それからまた暫くの間を置いて、ようやく意を決したかのようにレイジは膝を立てる。

「あ……」

 思わず漏れた、レイジの、間抜けな声。短時間ではあったものの、彼は正座で足が痺れてしまっていた。

「掛けてくれ、レイジ君。君の今回の来和の目的を、きちんと整理しようじゃないか」

 足のしびれの辛さをおくびにも出さず、いかにも老人の顔を立てましたとばかりにレイジは椅子に収まった。この家の主人に自身の状態が気づかれなかったらしいことに、彼は内心、安堵する。

 8年ぶりに対面する彼の恩人は、やはり武道者らしく、ソファに掛けているとはいえ姿勢が大層美しい。その姿を目にして、足のしびれに負けてなぞいられぬ、とばかりに、彼も姿勢を美しく保とうとする。けれどもその足の痺れに、慣れない和語への集中力が途切れそうだ。彼は慌てて意識を引き締めた。

「師匠、先にお伝え申し上げたいのですが」

 足の痺れという今の身体の間抜けな事態をなんとか意識の外に放り出しながら、レイジは話を切り出す。

「お願いごとと、今回の旅の目的の話の前に」

 音も無く茶碗を持ち上げながら、老人が目線だけでレイジの発言の続きを促す。

「先程、ナミに、会いました」

 喜びと、悲しみ。その二つの、相反する感情。その気持ちは大き過ぎて、老人を前にしていても、レイジは気持ちを隠すことができなかった。いつもならばこのくらい、感情を表に出さずに対応することは、彼にとっては容易いことなのだが。

「本来は、先に『北の魔女』にお伺いを立ててから、許可が得られた場合に、会見に向かう心積もりでしたが……」

「どういうことかね?」

「いえ、全くの偶然です。今、そこで、道案内を買って出てくれたんです」

 相変わらず、優しい子です。彼は一人、自分に向けるかのように、小さく言い添えた。

「……拙者も、自分がどういう立場にあるか。痛い程、解ってはいるのですが」

 僅かばかりの苦痛を声に滲ませながら、レイジは老師に淹れてもらったお茶に手を伸ばす。

「そうか」

 茶碗をテーブルに置くと、老人は大きく息を吐いた。

「尤も、彼女は拙者には気づきませんでした。『北の魔女』の言う通りでした」

 少し悲しげな微笑みを浮かべ、声を出すこともなく、老人は再びゆっくりと茶碗を手に取る。

「君には伝えていなかったか。ナミちゃんはね、ウチの敷地の一角に住宅を再建したんだよ。私と妻、そして近所の魔力持ちの仲間が支えていてね。一人でも何とかやっていっているんだ。北の魔女、スズノハさんからはきちんと独立してね」

 そこでことばを区切ると、老人は改めて茶碗から温かい和茶を上品に啜る。

「大した偶然だ。8年……いや、9年ぶりか。大きくなっていたろう。よく、一目で気づいたね」

 そのことばを不思議に思って、男は老師を見遣る。その皺の目立つ顔に浮かぶ笑顔は、ただひたすら温かかった。

「だって、会いたかったのだろう?」

 長い、沈黙。

 漸くの時間を間に置いてから、「はい」とレイジは声に強い意思を込めて肯定する。

「君がそれこそ妹のように、娘のようにして、大事に守り抜いた子だ。君自身の『コミュニティ』を捨ててまで、だ」

 老人は、わざと場の緊張を崩すかのように、ズズッとやや下品な音を立てて茶を啜る。いつも立ち居振る舞いに品格のあるこの老人にしては珍しいことだ。

「ただ、それを彼女たちの『コミュニティ』がどう受け止めるかは、やはり別問題だろうが」

 覚悟を決めたかのような真剣な目で、彼は頷きを返す。

「9年ぶりの彼女。よく気がついたね。君の愛情は揺るがなかった、ということか」

「いえ……」

 正直なところ、彼も一目見てすぐにわかった、というものではなかったのだ。

「彼女は、アレを身につけていましたし……何より、瞳の色が」

「ああ、確かに。そうだね」

 彼女は独特の、魔女らしい瞳の持ち主だから。母親に、いやそのまた母親であった女性にも、とてもよく似ているんだよ。そう、彼の老師は続けた。その深い声は、ほんの少しばかり、懐かしさを隠しきれない、といった色を乗せていた。

「ところで、お茶の味はどうかね。和茶は久しぶりだろう?」

「いや、拙者の国でも、和茶は手に入りますよ、老師」

 話題が変わったことを受けて、レイジも表情を崩す。

「そうは言っても、君は随分とホームタウンには戻っていないのだろう? それどころか君のことだ。母国を捨て、転々とあちらこちら、世界を放浪していたのではないのかね」

 でないと、その旅装の馴染み具合は理解できないよ。そう続けて、老師はまだ年若い外国人の弟子に大きな笑顔を向けてきた。

「……流石ですね」

 この人も相変わらずだ。レイジは内心で驚きながらも、師の変わらぬ健在ぶりを確認できた喜びにも満たされていた。

 長い旅の間に使い込まれた大きなバックパック。同じく、使い込まれて無駄がないどころか皮膚のように馴染み過ぎた、清潔なだけのぼろ一歩手前の服。そうした旅の話も、話し出せば老師は興味を持って楽しんでくれるだろう。

 だが、今は。

「本当、偶然でした。あれは」

 強いて、レイジは自分から辛い話に話題を戻す。なぜならば、それが彼の今回の訪問の最大の目的なのだから。

「表札もかかっていませんでしたし……老師のご自宅のイメージではなかったのですが、マップによれば番地は正しかったですし、ご近所の方や縁者であればこちらを教えていただけるかと思ったので」

「そうか。そうだったね」

 風見の家の造りを思い出しているのだろう。表札の無い小さな門、小ぢんまりとした質素な建物。老人は小さくうんうんと頷いている。

「で、呼び鈴を押して出てきたのが彼女だった、というわけか」

「……はい」

 最初は、分からなかった。まさか、とは思ったが、一瞬で確信を持てるわけが無かった。心の内で、彼は一人ため息を漏らす。流石に9年だ。とてもではないが、先程逢った「今の」彼女と記憶の中の子どもとの共通点は、殆どと言っていい程、意識できない。

 それでも。

 彼女は胸に、あの青の宝珠を下げていた。目にしたのは一瞬で、すぐさま服の下に隠されてしまったが、アレは彼女以外の持ち主には馴染むまい。

「彼女との縁を取り戻したいとは、思いません。拙者にその資格があるとも思えません」

 ともあれ、まずは北の魔女にお伺いを立てて、許しを請うてから。先を考えるのだとしたら、それらのことだ。レイジは表情を抑えて、そう考え続ける。

「ですから……」

「取り継ぎを、ということか」

 老人は近くにあった急須から自分の茶碗に和茶を継ぎ足して、今度は音もなく上品に飲み始める。

「それは了解した。頼まれよう。すぐにでも。ただ、もう先に出会ってしまったことだし、スズノハの姐さんからの印象が余計悪くなる事は覚悟しておけよ、レイジ君」

 当人に視線を合わせ、そしてその目線を下ろす。レイジの茶碗が空になっていることを視認して、老人は年若い弟子の茶碗にも同じく温かい緑色の液体を注ぐ。ほんのりと、清廉な香りが二人の男の鼻孔を再び擽る。

「ありがとうございます!」

 もしも手元に茶碗を持っていなかったとしたらそのまま再びまた土下座をしたであろう勢いで、レイジは大きな声で老人に礼を言う。目は真剣そのものだ。

「まあ、所詮我々のような魔力無し、彼女たちの『コミュニティ』外の存在は、心底からの信頼を得ることはないのかもしれないが」

 相手は、魔女のコミュニティだ。どんなに老師がそのコミュニティとのパイプが太いといったところで、こちら側は所詮「魔力無し」でしかない。数百年、あるいは四桁と言われる年月を経た諍いの歴史を前にしては、いつ何時ひっくりかえらないとも限らない関係だ。老人が前提として話をしているのはそういった背景も踏まえてのことだということを、レイジも理解はしていた。

「……お茶、美味しいですね」

 そこでようやく、意識して柔らかい笑顔を浮かべるようにして、レイジは老師にお茶のお礼を述べる。

「だろう?」

 やや自慢気な顔で、老人もまた青年に微笑みを返す。その顔は老人らしくもあり、またえらく子どもっぽい表情にも見える。彼にとって、懐かしい思い出の一つだ。

「ところで師匠」

 ようやく安心して、少しばかり緊張を解いた表情で、レイジはお茶にもう一度口をつけながら話題を進めた。

「先程ナミと少しばかり話をしたのですが、彼女からすると、拙者はもう中年なのでしょうか」

 レイジは不本意な感情を隠しもせずに、不満気な声色でそう呟く。そんな様子が笑いを誘ったのだろう、クッと笑いを声に出してから、老人は返答した。

「そりゃあまだあの子は十代前半のチンチクリンだ。成人男子なんぞ、あの年齢の子どもにかかれば、誰も彼もがおっさんであり爺さんだろう」

 そんなことは怒る程ではないだろうに、という声色で彼をいなしながら、老人はいたずらっ子のような眼差しでレイジを見ている。しかし彼の表情は、憮然としたまま変わらない。

「さて。先に姐さんへと連絡をつけないといけないな」

「はい、お願いします。予定は、先方に合わせて。こちらの予定はあってないようなものですし、相手に合わせるのが筋でしょうから」

 何より、これは拙者の都合でありお願いごとであり……謝罪なのだから。レイジは目線を自分の膝に落とす。

「元々、長く居ることは無いと思いますし」

「そうかね」

 それは残念だ。そう言って、音もなく立ち上がると、老人は少しだけ席を離れる。

「先に、偶然とはいえ彼女と出逢って会話を交わしたことは、先方の耳にも入れておくよ。姐さん相手だと、下手に隠しごとはしないに限る」

「そうでしょうね」

 深呼吸の要領で大きく息を吐き出して、レイジはソファの背もたれに体を預け、少しばかり緊張を解いた。そのまま頭の中で、先程のナミの顔を思い返す。

 彼女は、無事だった。元気だった。もうすぐ15歳を迎える。そこまで生き延びることができたのだ……その安堵。

 そこまで彼女を見守ってくれたこの老師も、そしてまた電話の先にいるであろうあの艶やかな魔女の姐御にも、感謝の念が溢れ出て仕方がない。

 意外と短い電話で終わり、彼の老師は改めて腰を下ろした。

「早い方がいいだろうと思って、明日の午前中に時間をつくってもらうことにしたよ。同じ西乃市の中とはいえ、市街地からは距離もあるし、明日の早くに移動することになるだろう。折角だから、今晩はウチへ泊りなさい」

 なんなら、ナミも呼ぶかね? と先刻のようないたずらっ子のような目で、年若い弟子を見遣る。やや照れたような困ったような表情で一瞬固まった後、レイジは思い出した。そうだ、これは老師に告げておかないと。

「というか、後でナミがやってきます。拙者に、和語の教本をくれるとかなんとかで……道場に来ますよ、彼女」

「ああ、彼女も門下生だからな。どうだろう、ひとつ対戦してみるかね?」

「まさか……御冗談を」

 ああ。少しだけ、遠くから、彼女の無事を確かめられればそれでよかったのに。なんでこんなに、彼女は自分に関わってくるのだろう。どうしていつも、彼女は自分を放っておいてくれないのだろう。それを渇望するかのように喜ぶ自分と、それを強く拒否する自己が、彼の中でせめぎ合う。

「と、いう事で、道場で偶然会ったということにしておけば、まあ姐さんもそういらんツッコミはしてこないだろう。レイジ君。明日の会見は、くれぐれも慎重にな」

 それとそう、その衣類は少々みすぼらしいから、きちんとしたのを見繕っておこうか。そう続けて、老師は客人である彼を部屋に置いたまま離れようとする。「君の為の部屋を用意しないと」、と言いながら。

「師匠、拙者は先に道場へ向かいます」

「ああ、先に行っていてくれたまえ」

 その返事の声は遠くから聞こえてきた。

 彼も立ち上がると、やや草臥れた大きなバックパックをひょいと背負い、部屋を後にした。




――座標軸:風見ナミ


 長い髪をまとめ、道着に着替えて、ナミは自宅を後にした。物理的に鍵を閉めた後、門を呪文で施錠して、軽やかに坂を下る。

「道着だけだと寒いわね。流石、2月」

 その場にいるのは自分一人だというのに、大きく彼女は呟いた。いつもの独り言だ。


 けれどもそう言いながらも、彼女は2月が好きだ。

 それは、彼女が2月生まれだということもある。

 そしてその2月には、彼女に深く関わる、大切な法律……通称で言うところの「魔女生存権保障法」と「魔女文化保護法」、この2つの施行の記念の日も迎える。それも、彼女の誕生日である、2月の20日に。前者が8年前、そして後者が6年前。自分の誕生日である2月20日に、魔女の生存権を保障する法律と、魔女の文化を保護する法律が制定され、施行されたのだ。こんなに誇らしいことはない。

 それに、それらの法律の制定には彼女の人生が少しばかりの影響を与えた、という経緯もある……


 角を曲がる。そのまま休まず門まで一気に、軽い足取りで駆けて行く。

 住宅街の中にある道場の前を通る道に、車が来ることは滅多に無い。彼女の家の前の坂道を、逆に北へと上がればバス通りがあり、その大きな道であれば交通量は随分と増える。だが、この辺りであれば車も気にせず、安心して全力疾走が可能だ。だからいつも、彼女は走って門前までやってくる。

 数冊の絵本の入った布のバッグを胸へ抱え直すと、ナミはズンズンと門を抜け、いつもの習慣のまま道場の扉を開けた。

「失礼します!」

 既にいるかと思っていた師範の神矢氏は、まだ道場内にはいなかった。

 因みに月曜日の午後、その早い時間帯は、子どもたちを中心とする初心者に近い門下生たちの稽古の時間だ。そうしたことから、この日の道場は子ども率が高い。見知った顔、見知った子どもたちに声を掛けながら中に入るが、今日は本当に大人の門下生は見当たらない……ただ一人、妙にでかい一人の赤毛の存在を除いては。

 まさか道着で来るとは思ってもいなかったとでも言うかのように、一瞬目に驚きの表情を浮かべた青年は、しかしすぐに稽古をつけている子どもへと意識を集中させていた。相手はこの日いる子どもの中でも一番大柄な子どもで、彼女にとっては見覚えの無い顔だった。

「あの……レイジ……さん?」

 子どもとの組み稽古を終えるタイミングで声をかけるのとほぼ同時に、レイジは彼女の方へと静かにやってきた。

 それにしても、まさか道場の方にいるとは、彼女は思ってもみなかった。

「神矢のおじさまへのご挨拶は済んだの?」

「先程はありがとう。おかげさまで」

 拙者は、と言いかけて、コホン、と咳をすると、レイジは「ワタシは」と続ける。

「折角の道場だし、少しは体を動かしたいと思ってね。師匠に参加を願い出たのだよ」

「……その喋り方、相変わらず、時代劇みたいね」

 目線を周りに泳がせ道場の現状を視認しながら、微笑みを浮かべて、やってきたレイジに向き合う。来訪してすぐに道場で汗を流すタイプだと、彼女は思ってもいなかった。だが、それもまた彼らしいのだろうとも思い、納得して小さく頷く。そして笑顔と共に、彼女は手元の布袋を彼にかざした。

「丁度良かったわ。はい」

 と、彼へと向けてそれを差し出した。先程話題に上げた、「彼に相応しい和語の教本」になるような本だということは、布袋の外側からでも判るだろう。

 儀礼的に、けれども温かく微笑んで、彼は素直に受け取った。

「ありがとう。こんなに早く約束を果たしてくれるとは」

「ええ。いつまで西乃市に滞在するのか分からなかったから早く、と思って。で、神矢師匠はどちらに?」

「今、少し席を外されているだけだ。すぐお戻りになるだろう」

 完璧な敬語。ナミは思わず驚いて、

「敬語まで完璧! ……なのに、『拙者』なのね」

 そう呟いてしまう。

「それを言わないでくれ。癖になったものは、なかなか抜けないものなのだよ」

 彼女の言に、赤毛の男は困ったように眉を顰めた。そうこうしていると、あっという間に子どもたちが周りへと寄ってきた。

「ナミちゃん久しぶり! この人、知ってるの?」

「ねえ、ナミちゃん、この人大きいから、強くってさー、勝てないんだよー」

「ナミちゃんなら勝てる?」

 ナミとの顔なじみの子どもたちを中心に、ナミと子どもたち陣営VS赤銅色の外国人、という絵面で道場の中の構図が変わる。ナミと馴染みの無い子どもたちは多少距離を取っているものの、やはりどう見ても和人ではないレイジとの距離の方が更に離れている。気がつくと、目の前の男がなんともやり辛いとばかりに困ったような笑顔を浮かべていた。

「師匠がすぐ戻っていらっしゃると言うから、頼まれて、子どもたちの稽古をつけていただけなのだが」

「ねー、ナミちゃん、この人よりも強いー?」

 周囲で、子どもたちがどんどんと茶々を入れてくる。ナミの帯も黒なら、男の帯も同じ色である。いずれも実力者だという程度にしか、子どもたちには判らない。

そうしてわいわいと好き勝手に騒いでいた子どもたちの空気が、ふっと止まる。ナミも、またレイジも、それぞれ道場の入り口に意識を集中する。そこに、道場の主である神矢老人が、穏やかな空気を湛えたまま現れた。

 師弟の礼をとって挨拶を交わすと、神矢老人がナミに問いかけた。

「今日のこの時間帯はナミの稽古の日ではなかったと思うが……」

「師匠。今日は時間に余裕があったので、何かお手伝いできることがあればと思いまして」

 と来訪の目的を先に告げる。彼女は続けて、「あと、こちらの客人にお渡ししたいものもありましたし」と補足する。

 彼女の答えに成程とばかりに頷いた神矢老人はにこやかに笑うと、道場の小さな門下生たちに、

「皆、集まりたまえ」

 と良く通る一声をかけた。

 子どもも含め、全員が素早く老師範の前へと集まる。武道の道場だけに、子どもといえども皆、動きに無駄はない。

 偶然ではあるが、レイジが集団の一番先にいるかたちになった。その周囲に子どもたち。そして少し離れるようにして、ナミ。こうした位置関係からレイジを見ていると、ただでさえ大きな体が余計強調されて、更に大柄に見える。

「先ほどからし暫くレイジ君にみんなの相手をしてもらっていたが、」

 老人は軽く周囲を見渡すと、やや後ろに退いていたナミに目を合わせた。

 ウインク。

 神矢老人の年甲斐もない仕草に、ナミはピンとくる。あの老人がまた変な茶目っ気を出してきた、ということは。

「折角の海外からのお客様だ。ナミちゃん、手合わせを頼む」

 やっぱり。そう諦めの表情を浮かべたのは、少女の方。

 え? 一瞬にも満たない間だが意識が飛んだ表情を浮かべたのは、赤銅色の男の方だ。

 この日の道場で一番段位の高い帯を閉めていたのは確かに彼女である。更に言えば、他の殆どの門下生が、彼女よりも年下の子どもたちだ。それに実際……彼女は、強い。恐らくは、見た目が他者に与えているであろう印象よりも、ずっと。

 その意味からも、今、彼の相手になる人間と言えば師匠を除けば彼女だけだということは、彼女自身にも理解はできた。

「ナミも、それを覚悟で道着を着て来たのだろう?」

「違うわ、おじさま。ちょっと道場へと早く来ただけで……」

「うわーナミ姉ちゃん、やっぱり対戦するのー?」

「ねえ、ナミちゃん、勝ってー!」

「やったー、がんばれ、ナミちゃん!」

「でもナミちゃん、そのお兄ちゃんも強いよー!」

 子どもたちが口々に、勝手な応援を飛ばしてくれる。その中に、既にレイジのことを「おじさん」ではなく「お兄さん」と呼ぶ子が混じっている辺り、どうやら彼の指導がその辺りにもキチンと入っているようであることを、彼女は想像する。そんなに若づくりがしたいのか、この大男は。

「わかりました。師匠のおっしゃることでしたら」

 神矢老人からは、「少しでも魔力を感じれば四隅のセンサーが鳴るから」と、魔力の行使の禁止を改めて言われる。

「解っています、師匠。道場の中で魔力を使う魔力持ちがいたら、わたしだって許しませんよ」

 当然のことなので、彼女もそれを受け流す。

 拳道者としてはごく当たり前、常識以前のその意識を敢えて言語化したのは、目の前にこの赤毛の外国人がいるからだ。

 一方のレイジは、何も言わない。表情も、変えない。変化があったとすれば、先刻の、あの驚いた一瞬だけ。あとは、上手く己の表情を隠している。そしてこれは、既に勝負を始めている顔だ。ならば……こちらも、やるだけだ。彼女も表情を引き締める。

 彼女は意識を切り替える。魔女のそれではなく、たたかう人間のそれへと。内面の自分に蓋をして、ただ、自分の体を信じて、ひとつのたたかう道具として、己の意識を無にし、高めていく。

 それまでわいわいがやがやと好き勝手に応援をしていた子どもたちが、あっという間に道場の隅へと静かに移動する。神矢老人が中心に。そして、大柄な外国人のレイジと、平均的な女子中学生の身長を保つナミが、中央に残る。

 向き合って、礼を交わす。そして、それぞれ、型を取る。フッ、と両者の腰が沈む。

 試合、開始だ。


 右へ、左へ。レイジの動きは、早い。

「ハッ!」

 気合だろうか、それとも威嚇代わりだろうか。30センチ近くの体格差を持つ男が、彼よりもずっとに小さな少女に、声を飛ばす。

 早い。

 ナミは、男の敏捷さに驚き、その足さばきを避けながら、何とか勝機を見出そうと男の動きの先の先を読もうとする。

 拳が伸びてくる、肘を当て、同時に体の向きを変え、男の力を横に流す。それが一回、二回、三回、と続く。ずっと、防戦一方だ。

 強いな。内心、ナミはその技量に舌を巻く。レベルが違い過ぎる。正確な足さばき。体格を活かしたポジショニング。重量の無駄のない活用、そして、スピード。短い礼の間に感じ取った通り、明らかに彼女よりも格上だ。

 とはいっても、この序盤の動きを見る限り、魔力を使ってしまえば勝てる程度ではあるのだが……それは道場に於いてはできないこと、やってはいけない禁忌だ。先程、口にするまでもないことをわざわざことばにしたのは、外部へのアピールだけではなく、己が持っているであろう甘さへの釘刺しの意味もあったのだから。

「ハッ!」

 再び、男が威嚇のように声を出し、重さのある拳を強く早く、突き出してくる。やはり、彼女の想像以上に早い。ぎりぎりのラインで避けられたが、あれを少しでも喰らっていれば一本決まっていたことだろう。

 身軽さを活かして、ナミは大きく後ろに飛び退く。そして一気に距離を詰めようと進んできた相手を、左右に体を揺らしながら躱していく。

 先ほどの動きから見て、男は右利きで間違いない。そして、攻めるならば。

「ハッ!」

 とその瞬間、男からまた威嚇のような声があがった。踏み込んだ彼女の行動は全てお見通し、むしろ罠のようなものだった。何を思う間もなく、彼女は足を払われ、バランスを崩す。

「ハッ!」

 今度は、彼女が気合を入れた声を腹の底から上げる。何とか姿勢を持ち直し、再度、型を取り彼の襲撃を迎える。次は、どこへ。どう動く?

 体の声を聴く。

 体の声を聴く。

 体の声を聴く。

 上背を利用して高い位置から覆いかぶさってくる男の足元へ。滑り込むように小さく、彼女は足技を放った。

 しかし、それも読まれている。けれども、一瞬だが死角に入った。


 取った!


 体が、動く。


 気がつくと……彼の方が、反応が早かった、ようだ。

 彼女は、思い切り男の当て身を受けて、背中を床に打ちつけていた。そして彼の右手は喉へ、左手は腹部へ。すれすれの位置で寸止めされ、押さえ込まれていた。

「一本! それまで」

 老師が力強い声を上げて、男の勝利を告げる。

 三秒ほど間を置いて、男が、組みを外す。まだ背中が痛くて動けないナミが悔しそうに男を見上げていると、彼の手が彼女の右手へと伸びてくる。

「大したものだ。その年で、よくそこまで」

「レイジこそ……拳道以外にも、何か武道、やってるでしょ?」

 絶対にそうよ。少し怒ったような口ぶりで、彼女は彼のことを睨みつける。でないと、その動き、納得できない、とかなんとか。悔し紛れのことばが、彼女の口からついついポンと飛び出してくる。けれども、そんなふうに怒りながらも、彼女は「それはそれ、これはこれ」とばかりに差し出された彼の大きな手を取った。

「ありがとう」

 軽やかに立ち上がると、お互い正位置で礼をしながら、改めて試合終了の握手を交わす。

「確かに、武術はいろいろと……まあ、立場上いろいろとやってはきているが」

「それも、サムライ・フィルムがきっかけ?」

 ようやく、元のようないたずらっ子の表情を浮かべて、ナミが彼を見上げる。

「え?」

 ようやく、気の抜けた表情を浮かべて、レイジが少女を見下ろす。

「ああ。確かにそれもあるな」

 けれども、これだけのリーチがあったのに、君は結構長時間ワタシの攻撃を躱し続けたね。スピードもだが、スタミナもきちんとあって、いいことだ。伸びしろが大きそうだ。まだまだいい線まで行けるだろう、等々。彼は話を続ける。ワタシ、と言う前に、「拙者」と言いかけるところまで、先の会話の続きのままだ。

「そりゃあ頑張ってきたもの。だって」

 そこで、ナミは深呼吸をする。

 ことばを途中で切った彼女へ、不思議そうな、どこかもの問いたげな瞳で、彼が顔を向けてきた。

「魔女にとって、どんなかたちでも護身は身につけておくに越したことはないから」

 他の子どもたちに聞かれないよう小さな声で、しかし彼にはきちんと届くように、彼女はそう続けた。




(つづく)

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