第001話 その弐/02月15日(月曜日)「ただいま」「おかえり」(つづき) 

――座標軸:風見ナミ


 彼女に、彼が何度も何度も「大丈夫」かと念押しをする。そんな彼に、何度も何度も「大丈夫だ」と、彼女は答えを返す。

 彼の過剰な心配に、彼女は少し呆れていた。だが、心配されることそのものは、決して悪くはない。不思議なものだと思いながら、彼女は笑顔で彼の心配を根気よく退け続けた。

 最後に道場から神矢老人が出てくると、出入口の鍵を閉めてから2人に向き直った。3人で道場を片づけている間に、今夜の夕食は一緒に神矢邸で、という話になったのだ。

「じゃあ、おじさま。わたしは一度家に戻って着替えてきますから」

 汗も流したいし、とは自分だけに言うことば。あの後、レイジと一緒になって子どもたちの稽古を付けてやっていると、いつの間にか夕刻になっていた。次の、彼女の本来の実力に沿った稽古の部でも、しっかりと汗を流した。実に2コマ分という稽古の時間を費やしていたのだが、文字通りあっという間だったと彼女は感じていた。

 神矢老人は何か出前でも取るらしい。彼の妻と息子は一緒に遠方に出ていて、今日はたまたま老人だけが在宅だという。男二人での話は盛り上がらないしつまらない、と老人が年甲斐もなく拗ねかけたので、ならば御一緒しましょうか、と申し出たのが彼女らしいお節介さ加減だ。そういうことでナミは、夕食もまたその外国人と一緒に過ごすことになった、というわけだ。

 シャワーは短く済ませても、魔女の命でもある髪はやはり洗うことにする。全体的に短時間で風呂を上がると、素早く、普段着の地味なジーンズと青灰色のセーターを身につけ、濃紺のウールのコートに袖を通して、彼女は足早に神矢の屋敷へと向かった。


 神矢邸の玄関を上がる。玄関にほど近い室内から、ほんのりといろいろな食べものの美味しそうな匂いが漂ってくる。

 ノックをし入って行くと、既に食事をする人間の数に見合わない量の皿がテーブルの上にひしめいていた。見たところ、殆どが店屋物のようである。

「おじさま、もう用意するものは無いですか? 簡単なものなら料理しますけど」

 一応、御馳走になる身として丁寧に声を掛けて、彼女は部屋の扉を閉める。量的には充分かもしれないが、海外からのお客様でもあることだし、何か手料理的な物があってもいいかと彼女は思ったのだ。元々、彼女は料理が嫌いな方ではない。というよりも、食べること自体も好きだし、その為の労は厭わない性格でもある。そしてその料理の基本を彼女に叩き込んでくれたのは、この老人の愛妻でもあった。

「こんばんは、ナミ」

 既に宴を始めていた二人が顔を向ける。先に挨拶の声を掛けたのは、レイジの方だ。

「いや、ナミちゃん、大丈夫だよ。座ってくれ。私たちはもう腹ペコでね。先に始めているよ」

 老人は既に手酌を進めている。対する海外からの客人は、コップにほんのちょっとのビールが残っているだけで、何度老人がすすめてもそこに液体を注ぐことをひたすらに拒んでいる様子だ。

 彼女の見る限り、片方は呑み助、片方は下戸というコンビではあるものの、場としては既に適度に出来上がっている状態である。老人の言う「腹ペコ」はきっと、食事よりもアルコールに対する欲求を意味していたのだろう。いつものことだ。

「おじさま。今日はおばさまと悟朗は『遠征』でしたっけ。戻りは明日?」

「ああ、全くもってこのタイミングでなあ。悟朗にもレイジ君を早くに引き会わせておきたいんだが」

 悟朗とは、老人の、年の離れた二人めの息子だ。歳はナミと同じ。同じ中学に通う15歳だ。そしてこの春からは、同じ高校へと進学の予定である。そして母親は、彼と一緒に「遠征」へと同行している。

「しかしまさか、師匠の御子息が、拳道ではなく剣道を選ぶとは」

「そう、そこなんだよ。レイジ君」

 しかし、彼の息子には拳道のセンスがなかったらしい。通いである門下生のナミが順当に拳道を身につけていくのと比べてそれを実感したらしい息子は、早くに、自分に合った道をと考えたようだ。そして体ひとつの武道よりも得物のある武道の方により適性を見出した、というわけだ。

 そんなわけで、彼の下の息子は、母親の同行という条件で学校からの許可を取り、学校を休んで剣道の地区大会へと参加している。

 快活に話し続ける老師の隣、青年の正面に位置する席に着くと、彼女はお茶を手に取り、更に箸と取り皿を手元に置いた。

「ご長男は確か、武道とは全く別の道を歩まれていたのですよね?」

 この場に不在の悟朗少年の兄、老人の一番上の息子は既に成人しており、家のあるこの中野町、西乃市を擁する雨音地方を離れている。それは、先の「戦争」とナミたちが呼ぶこの国最後の魔女狩りが終結する前のことだ。「戦争」が激化する前に、首都圏の親類へと緊急避難をした神矢家の家族の中でも、長男はそこの水が性に合ったのだという。そのまま進学、就職と、都会に残り、今に至っている。弟の悟朗とは頻繁にやりとりがあるようだが、ナミにとってはこの兄とはほぼ面識が無いに等しい。

 彼女がそうした事実をぼんやりと思い出していると、老人がニコニコと笑いながら料理をすすめてくる。

「ナミちゃん、ちゃんと食べているかね?」

「はい、おじさま。美味しいです」

 手酌でぐいぐいと和酒をあおる老人は、あれやこれやとナミの前へと料理の皿を持ってくる。

「ナミ、食べるかい?」

 今度は逆の方から、食べものが盛られた小皿が差し出された。皿の持ち手はレイジだ。

「ありがとう」

 皿に乗っていたのは、玉子に干瓢巻き、そして稲荷寿司。いずれもナミが小さな頃から好きな寿司ばかりだ。

「気が利くのね」

「なに、子どもの好きそうなものと言えば、そういうものだろう」

 まるで小さな子どもを見守るかのような表情で、控えめに笑う赤毛の男。なんとなく気に入らない気持ちも浮かんだが、好物ということで目を瞑り、ナミは素直に皿を取る。

「レイジは和食の中での好き嫌いはないの?」

「いやいや。和食を食べられることを楽しみにやってきた、というくらいあれこれと食べたかったのだよ、これが」

 今度は、自分自身の素直な欲望を肯定するかのような笑みを浮かべて、己の分の食べものを取り皿へとモリモリ乗せていく。箸使いは器用とまではいかなかったが、問題なく使える捌き方だ。当人が言うように好き嫌いも殆ど無いようで、あるものあるもの、次から次へと取り分けていく。寿司ネタも選り好みをしていないし、刺身も山葵も大丈夫なようだ。

 外国人だから和食に馴染みが無いに違いないと彼女は思い込んでいたが、8年ぶりの来和という話からもその和語の達者ぶりからも、和国文化全般への馴染みは結構深いようである。以前の滞在が結構長かったのかもしれない。

 そうはいっても、テーブルに乗る料理の量は人数に対してはかなり多めだ。

「でも、傷むものから先に食べちゃわないと。日持ちのするものは後でいいわ。あ、レイジは好きなものを食べて」

「いや、子どもはそんな心配をしないでもいいから。好きに食べなさい、ナミちゃん」

 と、神矢老人が声を掛けても。

「だってこんなにたくさんの料理、食べきれないもの、きっと。捨てちゃうのは勿体ないし、なら後のことを考えて……」

「残ったら、持っていってくれればいい。どうせ、風見の家の冷蔵庫には碌に物が入っていないだろうから」

 心配だという声色で、しかし深みのある笑顔で、老人はナミにそう告げた。

 それまで、ナミに食べものを勧めるか自分が食べることに集中するかのどちらかに熱意を傾けていたレイジが、神矢老人のそのことばに、箸を止めた。

 質問したそうな顔だけを向けた彼がことばを紡ぐ前に、彼女は先手を打っておく。

「わたし、一人暮らしなんです」

 一瞬、彼は自身のことばを止めて、彼女のことばを咀嚼した、そんな間を置くと、

「そうか」

 とだけ返してくる。神矢老人から追加の説明などは無かった。彼女が一人暮らしであることは既に2人の間では話題に上っていたのかもしれないと思い、彼女も説明は省くことにした。

「そんなわけで、神矢家に全面的にお世話になっているんです、わたし。身内じゃないけれども似たようなもの、ということで。助かっちゃってます」

 フム、と小さく呟いて頷くレイジに、ナミは淡々とことばを繋げる。

「魔力無しの子どもだったら親族やら何やら、まだ大人の保護下にいるかと思うけれども、わたしは魔女だし、家督を継ぐことを考えると、魔力的にも一人暮らしの方が好ましくて」

 だから彼女は神矢老人が保護者的に立ち回りつつもあくまで別棟で暮らしている、ということが目の前の青年にも伝わったのだろう。尤も、そういった魔女としての家族概念という部分にまで、この魔力無しの外国人の想像力が及んだかどうかは、彼女には判らなかったが。

「けれどもわたしみたいに、魔女コミュニティに寄り集まるよりも地域に単独で自立している魔女って、この国では珍しいでしょうね」

 と言い、ことばを区切って、レイジの渡してくれた干瓢巻きを口に入れ、咀嚼する。

「それよりも、神矢のおじさまのように、魔女、魔力持ちでもないのにここまで魔女に入れ込んで支援してくれる人間の方が、はるかに希少な存在でしょうけれども。ありがたいです」

 彼女はそう言って、優しい目をして老人を見る。その青い瞳の向かう先を目線で追って、レイジもまた微笑んだ。

「もちろん、近隣の魔女コミュニティともきちんといい関係を結んでいるわ。だって、まだこの国は魔女の人権が認められてから日が浅いし。ただ、一番近い魔女コミュニティでも物理的な距離があるから、仕方がないっていうか。この西乃市には、北乃市との境に近い北部にしか魔女コミュニティがないんですもの」

 そう言って、彼女はレイジに取り分けてもらった玉子を選ぶとモグモグと咀嚼する。

「あとはまあ、私がナミちゃんの家族と『戦前』から長く仲良くやっていた、ということが一番大きな理由だろうね」

 彼女のことばを引き継ぎながら、老人はナミの頭を平手で軽くポンと叩く。本当の祖父と孫のように二人が笑い合うのを見て、レイジはただ、静かに、嬉しそうな微笑みを返してくる。


 神矢家と風見の付き合いは、ナミの祖母、祖父の代へと遡るのだと、子どもの頃から機会があるごとに神矢老人は何度も話してくれていた。祖母たちが彼の仕事上のパートナーであったことも、更に言えば、その祖母が彼の片思いの初恋の人だったらしいことまで。尤も後者は、はっきりと明言されたわけではない。ただ、ナミにでも判る程、老人はその思い出を大切なものとして彼女へと語ってくれたのだ。

 それに事業的な付き合いだけを言えば、老人の両親の世代にまで遡る話でもある。隣人としての付き合いだけを言えば、もっとその前からずっと良好に続いていただろうと、老人はいつも言っている。穏やかに、微笑みながら。

 老人の個人史としても、曰く、これほど世話になった人はいないし、また魔力持ち、魔力無しという垣根を感じさせずに何十年にも亘る付き合いを続けてくれたのも嬉しいよ、とのことだった。大切なものを愛おしむように語る彼の声色からも、それが老人にとって深い意味と位置付けにあるということはナミも強く感じていた。

 だから、彼が孫のようにナミの面倒を見ることはそれだけ当たり前のことだったのだと、老人はいつも口にする。年の離れた下の息子である悟朗と同じ年だというのも、老人にとっては余計に彼女への愛着の要因となっているらしい。


「そりゃあ今もまだ、魔女たち魔力持ちたちのことを良く思っていない人間はこの国にも沢山いる。先の『戦争』だって、その勢力をどう塗り替えていくか、どう組み替えていくか、という面も大きかったわけだしな」

「おじさま。レイジさん、そこまでこの国の近代史・現代史に興味がおありかしら?」

 急に話題を振られたレイジが、箸を止めている。

「レイジさんは……」

「『レイジ』、だ」

 意志の籠った声で、訂正の要望が入る。

「あ、うん……レイジって、時代劇を和語学習のテキストに使っているのよね。その感覚からだと、和国の現代史にどこまで興味があるのか、ちょっと疑問に思えて」

 そう言い切ってから小さく、彼女は吹き出した。時代劇めいたことば遣い。それを思い出すと、どうしても彼女の中から笑いがこみ上げる。そんな彼女を少しばかり眉を歪めた表情で見遣ると、レイジは大きく深呼吸をしてから二人に対して滔々と語り始めた。

「いや、時代劇は素晴らしい文化です! それこそ和国における最大の……優秀な文化のひとつではないですか!」

 それまで穏やかに、酒とは無縁にひたすら皿を空にしていくことに最大の気を向けていたように見えていたレイジが、ここにきていきなり声を深く、大きく、訴えるように話を始めた。

 その場の空気の変化に、神矢老人もナミも、ピタリ、と箸を止める。

 この赤銅色の外国人が、やや拙い和語のイントネーションで滔々と語り始めたもの。それは……時代劇というひとつの和国文化への「愛」だった。

「師匠、先程少しばかり話題にしたように、『井戸黄門』はこの和国における最大のビック・エンターテインメントの一つとして様式美が成立していますよね。この作品が長年の人気を得ていたということは、その内容が和国民衆の支持を得ていたからに他なりません。各種の様式美もさることながら、作品を通して貫かれている、『悪を懲らしめ、弱きを助ける』という、人間社会に必要とされる隣人愛描写。そうした根本を押さえたテーマがしっかりと作劇面での筋として通っているからこそ、高い娯楽性を持ちながらもその普遍的な深いテーマが無理なく視聴者へと伝わってくるわけです。主人公たる黄門様の人物像が魅力的なのはもとより……」

 あの老人向けの娯楽作に、そんな大仰なテーマがあったっけ、とナミはぼんやりと目の前の大男を眺める。だが、その熱さと暑苦しさを湛えた口調は、とてもではないが彼女が横から口を挟めるような雰囲気ではない。

「ことに為政者たる黄門様が自らの足を用いて庶民の暮らしに分け入り、最下層から真実を追求していくというコンセプトを毎回きちんと踏襲して、そこから弱者をいかにサポートしていくかという道筋をつけて行くことを、丁寧なストーリーに落とし込んで……」

 ああ、きっとこの男の見ていた『井戸黄門』は、わたしの見ていたものとは別モノなんだわ。ナミは半分諦めて、自身の取り皿の上に残っていた稲荷寿司の最後の一口に箸をつける。

「この大ヒットがあってこそ、更に優秀な時代劇の名作が数々生まれてきたわけでしょう。和国文化の根底にある、勧善懲悪、善政の実施による在るべき社会像の描写、弱者の完全なる救済と不正の糾弾、名誉の回復と社会正義の貫通、という、古から脈々と受け継がれてきた美点を、娯楽というかたちで民衆に啓蒙していく。単純な娯楽という位置づけだけではなく、時代劇とは実に文化的にも素晴らしい存在ではありませんか。むしろそうした価値観を継承するため、啓蒙のための文化的財産として、現代社会にこそ必要とされるものでしょう。それこそ、世界的に」

 この外国人がこんなに和語が達者なのも時代劇のお陰なのだとしたら、それだけは凄い。褒めても褒め足りない程だ。そう思いながら、ナミはぼんやりと目の前の大男を眺める。

「加えて近年和国における最大のヒットとなった痛快な時代劇作品、『犬侍が行く!』シリーズは、さらにその美点を伸ばした上に、殺陣の技術的な素晴らしさ、時代考証の正確さ、娯楽性の掘り下げの深さ、美的な描写への力の入れ方、そして何より魅力的なキャラクター造形と、三拍子も四拍子も五拍子も兼ね備えた人気シリーズと化していますよね。更に『犬侍』シリーズにおいて忘れてはならないのが、タロサワへの完全なオマージュ。あのクオリティの高いタロサワ作品のカメラワークや台本構成へのリスペクトをこれでもかとばかりに盛り込んで、尚且つそれをこの21世紀に相応しい今風の味付けにアレンジしている。軽やかなだけではなく、深みもある。ただ、単純に面白いだけではありませんよ、あれは。故に、『井戸黄門』同様の長寿作品として成立しているのだと言えるでしょう。同様の美点をしっかりと受け継ぎつつ、更にそれを……」

 大分酒が回ってきたのか、生温くも諦めたような、緩い目つきで赤銅色の外国人を見つめ続ける初老の男。その隣で、口を挟むこともできぬまま、箸を動かすタイミングを失い、困った顔でナミは固まっていた。

 選挙演説のように堂々とした振る舞いで自説の「時代劇の文化的優位性」を語る赤い肌の男の言葉に、「どこからツッコミを入れたらいいの? わたし……」と彼女の眉が八の字に曲がる。そのことに気づいたらしいレイジが、さらに踏み込むかのように彼女へと目を向けた。どうやら話題を扱いあぐねて困っている彼女のことを、論破できそうだと読み誤っているらしい……というかなぜそこで論破を狙う?

 話は『犬侍』とタロサワの間を行き来したかと思うと、ナミの気がつかぬ間に対象物が代わっていたらしい。それまで滔々と『犬侍』への高度な褒めことばの射出と、タロサワへの尽きせぬ敬愛の情念をこれでもかと語っていた……ように思えた男は、いつしか話題をナミにチューニング、もしくは自動追尾のミサイルよろしく照準を合わせて、彼女を見据えながら次の話題へと更なる風呂敷を広げていた。

「ナミ。君だって『忠臣蔵』のあの高潔な忠誠心、仲間との相互扶助、それをストーリーテーリングの極みまでに高めた物語の展開を、きちんと読み、きちんと読み解けば、だ。きっとあの作品の良さが見えてくると思うのだが……それに相互扶助は、君たち魔女コミュニティでこそ、拙者どものような魔力無しの人間よりもはるかに大切にされている、心温まる、誇るべき文化形態の一つではないのかね?」

 あ、こいつ、素に戻るとやっぱり「拙者」に戻ってるし。ダメじゃん。いろいろと駄目出しを出したいところを彼女は指折り数え始めて、それがそろそろ両手の指の数では足りなくなってきたそのタイミングで……電話が、鳴った。



 誰の携帯だろう、と彼女が思っていると、半分程酔っぱらっている老人のものだったらしい。そういえば、あの音楽は、ナミの知らない、「戦争」の前に流行ったという有名なアニメソングだ。クラシカルという趣味では時代劇と大差がないが、今の和国社会の認知度としては、時代劇よりも馬鹿にされる度合いは若干低い。

「ああ、私ですが」

 しかし電話の対応の声からすると、ナミが見ていたほど、老人は酔ってはいなかったらしい。普段と同じように無駄の無い動きで立ち上がり、宴の席から少し距離を取ると、いつもと全く変わりの無い声で電話の対応をし始めた。それも……声色からすると、どうやらかなり深刻な内容の話のようだ。

「分かりました。すぐに向かいます」

 電話を切り、2人の来客へと向き直った老人の顔は、それまでの緩んだ顔から一転して、まったく普段のままの落ち着いた表情へと戻っていた。酔いで顔は赤くはあるが、目線はしっかりしている。

「ナミ、レイジ君……すまんが、急に出かけることになった」

「え?」

「は?」

 ナミとレイジ、客人2人。合わせて、声を上げる。重なる声を遮るかのように、老人は彼らに状況を冷静な表情で説明する。

「悟朗とリサが乗った車が、事故に巻き込まれたらしい。剣道の試合会場から宿泊先へと向かうワゴン車が高速の玉突き衝突に遭ったということだ。向こうは雪で、道路状態が良くなかったようだから」

 リサ、とは老人の妻、息子の悟朗の母親である女性の名前だ。ちなみに2人は結構歳の差のある夫婦でもあり、この2人の結婚はナミが平素から密かにこの老人に対して不思議に思うこと一覧の筆頭でもある……そのリサと、幼なじみの悟朗が、事故?

「今のは現地警察からだよ。事故自体は今から一時間程前で、その間リサからも悟朗からも連絡がないところを見ると、2人の状況があまり芳しくない可能性も考えられる」

「師匠……」

 動揺を見せて、レイジが立ち上がる。

「大丈夫だよ、レイジ君。ありがとう。それと、このままでは君との約束が反故になってしまう。それはよくないな……ちょっと待ちたまえ」

 まずは自分を落ち着かせる為だろう。老人は奥の台所へと行き、水を入れたコップを持ってきてそれを飲み干した。

「先ずは今晩のこと。それと、明日午前中の予定の話を纏めてしまおう」

「師匠、大丈夫です。ご子息とお連れ合いへのお気持ちを優先して……」

「レイジ君。今晩のことは、これで手配をしてくれ」

 そう言って徐に、神矢老人は懐から封筒を彼へと押し込むように強引に渡した。

「今から、明日の件について、先方に連絡を入れてみる。少しだけ待っていてくれたまえ」

 上手く明日までに帰れればそのままでもいいのだが……と言いながら、老人はコップの水と携帯電話を手に、二人から離れた。

「レイジさん……」

「レイジ、だ」

「あ、ごめん。レイジ。あなた、おじさまに泊めてもらうつもりだったのね?」

「ああ、誘われていた。これは……」

 と言いながら、レイジは先程老人から己の手の中に押し込まれた封筒を開けてみる。ナミが思った通り、入っていたのは和国紙幣だ。これで代わりの宿を取れということだろう。

「今晩についてはどうでもいいのだが、それよりも……」

「明日、おじさまとご一緒に、どなたかとお約束をしているのね?」

 彼の無言は、肯定の意だろう。ただ、レイジに関係のある事であるにもかかわらず、わざわざ席を外して話しをしに行ったところからすると、ナミには全く関係の無い、第三者の入らない方がいい件ということなのだろう。立ち入って聞かない方がいいに違いない。そう判断して、ナミは深刻な顔をして両手を膝の上で組んでいるレイジを眺める。彼はたまにチラリ、チラリと話中の神矢老人の方へと目を向けるが、ナミが彼を見ていることに気がつくと、すぐにその視線を止めて彼女に向き直る。

 リサも悟朗も心配だ。だが目の前の彼は、自身の恩師のそうした状況に加え、今晩のことや明日の予定等、トラブルが重なっている状態だ。来和したばかりのその晩に。慣れない異国での夜に。それは心配にもなろうというものだ。

 目が合ったので、何か会話をしなければ、と咄嗟に頭を切り替えて、ナミは真っすぐ彼の目を見て、無難な会話を選んで話しかける。

「お酒、あまり好きじゃないの?」

「ああ」

 座っていると、二人は、立っている時ほど身長差を意識することはない。それでも相手の方が高いことは高いのだが、立っているときと比べればまだ近い目線だ。そのことで、ナミはこれまでいかに彼との身長差が「鬱陶しかったか」を初めて意識した。

「何かお茶でも淹れましょうか」

 そう言ったのは彼女が温かい飲み物が欲しかったからでもあったのだが、彼のコップが空なのが気になっていたこともある。神矢老人にも、少しでも落ち着いてもらえるだろう。

 しかしそんな気軽なナミの一言に、レイジは声も出さず、意外なものを見たかのような表情で頭を上げていた。

「この家の厨房はよく使わせてもらっているから、わたしが立っても問題無いわ。何がいい? 食事の後だと、ほうじ茶みたいなノンカフェインのお茶がいいかしら?」

「……いや。君の飲みたいもので、いい」

「そうね。どんなお茶の葉があるかは、台所を確認してみないとわからないものね。でも、希望があったら言って。後になって『コーヒーが良かった』、なーんて言われたら癪だもの」

「君の、淹れたいもので、いい……君が淹れたいと思うものが、いい。ああ」

 そして笑顔で、

「君の選んだものならば、何だって美味しいに決まっている」

 そんなことばを、彼は口にした。


 そうしてナミが神矢家の台所にあった蕎麦茶を淹れて急須と三人分の湯のみと共に応接間に戻ってくると、既に神矢老人がレイジと話し込んでいた。

「おじさま、その後おばさまたちからは?」

「いや。こちらに連絡は無い」

 明日の予定を詰めたのだろう。老人とレイジがそれぞれ携帯電話を手に何かの情報を確認している。老人は、かなり深刻な表情だ。

「では、何かあればこちらへ」

「ええ、先方には拙者の番号を伝える分には問題はありません」

「そうだな。なるべく相手のご機嫌を損ねないように対応しないことにはな」

 ナミは、先程までついていなかったテレビから音が流れている事に気がついた。先に確認が終わったらしいレイジがチャンネルをあちこち変えているのだが、流石に遠方の交通事故の速報が流れることは無いようだ。それを、事故の程度も軽く死者も重傷者も出ていないからに違いない、と無理に良い方向へと解釈して、真顔の彼女は一人頷く。

 お茶を置きながら、老人からの話を待つ。そんなナミを、レイジは温かい目で見つめてきた。

「私は先に家を出る。ナミちゃんに鍵を預けていくけど、いいね? ナミちゃん、すまないが食べもの関係の後片づけと玄関の戸締りだけ頼まれてくれ。他は無視してくれていい。それとレイジ君、また明日の早い時間には必ず連絡を取り合おう。但し、その時間でも未だに病院の中にいた場合、携帯の電源は切っているから、その場合はこちらからの連絡を待つようにしてくれ。アチラから君へのダイレクトな電話の可能性は低いだろう。基本、私からだと思って間違い無い」

「はい、師匠。師匠もどうか、お気をつけて」

「ああ、心配ない。ただ、酒が入っているから、車で移動できないのがなあ」

 どうやら交通アクセスの時間を気にしているらしい。流石にナミは運転のできる歳ではない。また、ここにいるレイジがたとえ運転免許を持っていたとしても、着いたその日の外国でいきなり運転を頼むというのは無理だろう。それに、少しばかりであっても、彼もまた酒に口をつけてしまっている。

「おじさま。イリスウェヴ神のご加護を。二人の無事を祈っています。大丈夫です、二人はきっと無事です。イリスウェヴ神も、あの素敵なリサさんとあの悟朗をむざむざ地獄の刃にかけるはずがありません」

 少女は自身の属する魔女文化、そこに長く伝わる信仰に従ったことばを送り、努めて明るい顔で老人を送り出す。

「それと、レイジさんの接待は任せてください。きちんと責任を持って、おじさまたちが戻るまで、面倒を見ますから」

「ナミ。拙者はもう大人でござる。君にそこまで面倒をかける気はないよ」

 ……こいつ、この深刻な事態で、「拙者」どころか「ござる」までつけやがったよ……! 内心吹き出しそうになりながらも、怪我をしているかもしれない恩人の妻と幼なじみの顔を思い浮かべ、彼女は隣の外国人のことばを無視する。

「老師、くれぐれも道中、ご注意を」

「ああ、2人ともすまん。ナミちゃん、ありがとう。君の心を、リサと悟朗に伝えるよ、必ず。あと、鍵と火の元のこと、頼んだよ」

「はい」

「いってらっしゃい」

 鞄も何も持たず、コートと財布程度のものだけを身につけて、神矢老人は出て行った。



 部屋の中にテレビの音が空虚に響く。

「……心配かね?」

 隣に立ったレイジが、不安そうな顔を向けてナミを見下ろしている。彼が思っているのは、意外なことに、ナミの抱える不安への心配のようだった。彼女は己の表情を笑顔で律すると、レイジを真っすぐ見上げて「大丈夫」と小さく口にした。

「でも、テレビは消していいかしら」

「魔女は近代文明が嫌いなのかね?」

「まさか」

 この切り返しに、今度は本当の笑いを浮かべる。

 テレビを消し、2人は椅子へと戻る。時間としてはまだ半端に早いのだが、既に2人共腹は満ちている。それ以前に、今の事態を思うと食欲どころではない。

「で、レイジ。あなた、今晩はどうするの?」

「ポケットマネーで宿を取るよ。今ならまだバス便もあるだろうから、西乃市の駅前へ戻ってビジネスホテルが探せるだろう。あれば、格安ゲストハウスを探したいところなのだが。西乃市に適当な安宿があればいいが」

 と言って、ソファに再び腰をかけると、ナミの淹れたお茶を口に含む。既に冷めかけていたそれを、彼は嬉しそうに飲みながら、

「美味いな、これは。初めて飲む味かもしれん。何というお茶だね?」

 好奇心を隠すことなく、彼女へと目を真っ直ぐ向けてくる。

「蕎麦茶よ。知らないかしら。レイジの国では、蕎麦の実を煮出すというか、茶葉に見立てることってあるのかしら?」

「いや、無いな。そもそも蕎麦自体、栽培していないよ。和国に来て、初めて食べた食べものの一つだね」

「そっか……そうなんだ」

「でも美味いな、これは。本当に、美味しいよ」

 穏やかに微笑んで、ゆっくり、最後の一滴まで飲み干す。

「ねえ」

「何だね?」

「もしもよければだけど」

 と、そこでことばを一度切ってから、彼女は滑らかに次のことばを継いだ。

「ウチで今晩、一晩分、面倒みましょうか」

 両手で空の湯のみを支えていた男の動きが、固まった。

 時計の秒針のコチコチという音が静かに響く。20秒、いやそれ以上の間を置いて、「え?」という小さな声と共に、空の茶碗が床に音もなく落ちて転がった。絨毯は厚く、茶碗に被害は無いようだ。

「だってわたし、魔女だもの。たとえあなたが出来心で邪なことを考えて実行しようとしても、わたしよりも拳で勝っていても、わたしを出し抜くことはできないわよ」

 それに。と、ことばを切って、彼女はサイドテーブルの隅に置かれた先程の封筒に目を留める。

「あなた、おじさまのお金を置いて、自腹を切るつもりでしょ? そんな、急に一晩の大きな出費、大丈夫なの?」

 彼女は先の取り組みから、武道面における互いの実力の位置づけを大まかにではあるが掴んでいた。とはいえ、二人の体格には、随分と大きな差がある。何より、彼女は小さな女の子で、彼は成人男性だ。いきなりのこの種の申し出ができる根拠があるとすれば、彼女の踏んだ場数、地の利、そして何より自身の魔力への自信、もしくは過信が根拠となる。お人好しと言われてしまえばそれまでだが、何かマイナスの事象が起きた場合の対処も含めて、彼女は覚悟を決めて申し出ている。

 彼女の目の前の男は、そうした彼女の申し出に驚きを隠すこともせず、また返事をすることもできず、固まった体のまま、顔だけをナミに向けていた。

「まあ、一応というか念のためというか、双方の部屋に結界だけは張らせてもらうわよ。触ったら、呪いに三日ほど苦しめられるヤツ」

 少し強い目線で睨むように彼を見ると、ニヤリ、とその表情を笑みに変える。

「魔女殿とこうして会話をするというだけでも、拙者の経験からするととても稀なことなのだが……」

「拙者、じゃないでしょ」

 レイジの返答に、ナミは思わずクスリと笑った。

「ワ、ワタシは、だな」

「そうそう」

 ことばが止まったレイジは、暫く考えを巡らせているようだ。

「おじさまのお弟子さんのあなたのことだから、大丈夫だとは思うけれども。いくらなんでも和国滞在初日で、あなたの大切な師匠の顔に泥を塗るようなことはしないでしょう? もちろんその逆で、わたしに対しても、同じことが言えるけれどもね」

 そして今度はにっこりと笑って、彼女は彼に目線を合わせる。

 そこで。彼は小さく苦笑しながら、彼女の目線に笑顔で応える。

「……よければ、一宿。お願いしてもいいだろうか、ナミ」

 そして丁寧に、彼女に依頼のことばを向けてきた。

「ええ。袖すり合うも多生の縁、って言うし。これはこれでアリなんじゃない?」

 そうなるとこの食事、片付けちゃわないとねー。独り言のように言って、ナミは神矢家の台所へ行き、お盆を持ってきた。そして手早く、皿の状態を見て、どれをどうまとめて神矢家の冷蔵庫へと収納するか、あるいは自宅へ持って帰って対応するかを分類していく。

「レイジ、ごめん。タッパー借りてくるから。そうやって分けて置いて貰える?」

 傷みやすいものと日持ちのするもの、味の混ざると困るもの、汁の出るもの、その日のうちに処分するしかないものと、皿の上で大雑把に分けた段階で立ち上がると、彼女は一旦引っ込み、そして手に幾つものタッパーを抱えて戻ってくる。レイジはナミに言われるままに、それらを区別していく彼女に勝るとも劣らない手際の良さで、分けられた食べものをきれいに容器へとまとめていく。

 ナミが思っていたよりもずっと早くに収納が片付く。気がつくと、彼女の行動を先取りするかのように、ドアの向こう、神矢家の台所で皿洗いを始める音が彼女の耳に届く。すぐ隣の台所に全てを運び込みながら、レイジが慣れた仕草で淡々と皿洗いをしているのを見て、彼女はその場を彼に任せテーブルとその周りの片づけに戻った。

 部屋を完全に片づけてナミが台所に行くと、既に必要なものは洗い終わり、収納すべき食べ物は冷蔵庫に仕舞われ、ナミが風見の家に持ち帰るもの……その中には、明日の朝の食品候補も含まれている……が、どこから見つけたのか、紙袋にきちんと収められていた。その脇で、火のかけられたケトルを前にして、長身の男はナミの方へと体ごと向き直った。

「ナミ。さっきのお茶の葉は、一体どれだね?」

 片づけの最後にお茶を淹れようとしているらしい。その手際の良さに彼女は驚いたが、恐らくは普段もこうしたことは習慣にしているのだろうと、彼女は彼の身振りから結論づける。

「いいえ、レイジ。お茶ならウチで飲まない? 残念ながら蕎麦茶はないけれども、ジャスミンティーからコーヒーまでいろいろとあるから。その内のどれかは、あなたのお眼鏡に適うと思うわよ」

 手を伸ばして、ケトルの火を止める。ガスの元栓を確かめ、台所全体を軽く見渡し、簡単にだが、戸締りを確認していく。

「おじさまの話だと他の部屋は大丈夫だと思うけれども。あとは、さっきの部屋だけ見てから行きましょうか」

 彼女のことばに、彼は無言で頷くと、その後ろに続いた。

「ナミはよく、そうやっておもてなしすることが多いのかい?」

「さあ、人並みじゃないかしら。でも、人を呼ぶのは好きかもね」

 戸締りと荷物を確認し、玄関へと向かいながら、彼女はその先を継ぐ。

「流石に、あなたのこと、ほっとけないでしょ。どう見ても、お金に余裕があるとは思えないもの」

 そこで初めて、彼は自分の身なりを彼女がどう判断しているのかに意識を向けたらしい。やや恥ずかしそうな、しかしどこか憮然とした目の色で彼女を見つめ返している。

「まあ、さっきわたしが負けたでしょ。今日のお宿は、あの手合わせの賞品だと思ってよ。それに、魔力を通せば、たぶんあなたのこと負かせていたと思うし」

「確かに貧乏旅行ではあるが、そこまで金銭に不自由はしていない」

 だから大丈夫ではあるのだが、と声色に不本意だという色を滲ませて彼は続けるが、ナミはなぜか、譲れないとばかりに自分の判断を再度主張する。それは彼女の魔女としての自負と自尊心、そして同時に彼女のとんでもない独善に近いお節介の賜物でもある。ちなみにこの最後の動機については、魔女当人にその自覚はない。

「けれども、君の心遣いには、本当に感謝する」

 そう言って、大柄な男は彼女へと体を丁寧に折り、今一度頭を下げた。一方のナミは、気にしないで、と小さく返事を返し、彼の生真面目な態度を軽く受け流して、神矢邸の玄関の鍵を閉めた。




――座標軸:神矢レイジ


 揺るぎの無い、自信。今の彼には少女の魔力がどのくらいのものなのか、全く見当がつかない。しかし彼女もまた、彼の、拳道以外の実力がどんなものなのか、知っているわけではない。

 けれども。

 艶やかな黒髪の、青い瞳の少女。どうあがいても、この少女に向かう気持ちを、彼は抑えられずにいる。

 その好奇心を満たすことに疾しさを感じながら、彼は素直に彼女の後について、西乃市のこの町……中野町を、風見の家へと向かって歩き出した。

 角を左に曲がり、坂を上ると、やがて先程訪ねた小さな門が見えて来る。彼女の後ろに従って、その家の小さな門をくぐる。

 昼間にレイジが確認した通り、この家の門柱には家主を示す表札の類はない。小さな番地表記と、見落してしまいそうなポストが一つあるきりだ。これではここが「風見」の家であることなど、慣れ親しんだご近所か郵便の配達人くらいにしか分かるまい。そうでなければ、確実に神矢の分家か別宅、あるいはそれこそ物置的に使っている家屋と捉えることだろう。そう、彼は内心で思考を繋げる。

 少女は鍵を開けると、彼を入れる為だろう、玄関の扉を大きく開け放った。

「ただいま」

「おかえり」

「え?」

 ただいま、の声はナミ。それに応えた声は、彼女の後ろに立つレイジだ。

「なんで?」

「いや、『ただいま』に応えるべきことばは『おかえり』だろう、ナミ。ならば誰かが応えてやらねばならん」

「でも……」

 身振りだけでレイジを扉の中へと招き入れると、ナミは扉の鍵を施錠した。レイジが見たところ呪文の詠唱も無く、魔力を通しての施錠はこのタイミングではしないようだ。あるいは、現在の彼女ならば、施錠など呪文すら必要がないレベルの魔力行使なのかもしれない。

「家で待っている人が言うことばなのよ、『おかえり』とか『おかえりなさい』は」

「そうか……そうだったな、和語は」

 噛みしめるように。いや、自分に向けて呟くように。彼の返事の声は小さかった。

「あなたの母語では違うの?」

「いや、だいたい和語と同じだろう。それと、こういう時は何と言ったか……」

「『お邪魔します』よ」

「そう、それだ!」

 室内に入った途端、二人の会話はポンポンと淀みの無い掛け合いとなった。


 だが先ほどまで、帰り道の二人は無言だった。

 それは、やはり恩人の妻とその息子の様子が心配なのだろう、と彼がナミの様子を汲んでのこともあった。

 それにここ中野町は、「魔女コミュニティ」ではないただの住宅街だ。

 先程ナミも話題に出していたが、人類における魔力持ちの人口比から考えて、ここに暮らしているのは魔力無しの人間が大半の筈である。その町中で、魔女を公表している少女が夜遅くに外国人を家に招いたことが知られては、彼女の今後のご近所生活に支障が出るかもしれない……などと、彼は一人、頭の中であれこれと気を回してもいたのだが。しかし目の前の魔女殿は、そうした思慮をしている様子はまるで見られなかった。若さによる経験不足なのか。あるいは、そうした発想をあまり持ち合せていないのだろう。それが彼の結論だった。


 彼が招き入れてもらった家の中は、思った以上に小ぢんまりとしていた。だが、小さいことが利点なのか整理整頓が行き届いているようで、玄関周りとその周辺の廊下を見る限り暮らしやすそうな造りをしていた。

「レイジには悪いけど、今晩は一階の居間を使って。1階だけで、階段のある場所は使えない、ということね。それにここならトイレも近いからまとめて結界が張れるし。あとは、抜き打ち的に、幾つか勝手にトラップを張るから。これであなたはたとえ出来心でも、強盗にも強姦魔にも変身するのは不可能になるわよ」

 まあ、おじさまのお弟子さんだし、そんなこと無いと思うけど。そう言い残して、彼女は一人、2階へと上がって行った。

 言われた通り、彼は先ほど彼女が指先で軽く示した小さなドアを抜け、やはり小ぢんまりとした、けれども適度に片付いている部屋に入り、重く嵩張るバックパックを置いて灯りをつけた。リビング、という位置づけだろうが、そこからは台所も見える。

 その台所を見て、彼は神矢家から引き揚げた品々のことをすぐに思い出した。玄関に置いたままのそれらをこの家に収納すべく、彼は動き出す。この家の冷蔵庫に神矢家から持ってきたタッパーを詰め込んでいると、ナミが2階から戻ってきた。

「あら。ありがとう」

「いや、宿を借りる身だからな。少しは働いておかないと……」

「いいわよ、別に。お宿は、勝利の品だと割り切れば」

「しかし昼間の取り組みは、別に賭けをしていたわけではない」

「まあ、そうだけどね」

 そう言いながら、彼女は薬缶に水を入れ、火にかける。どうやら、先程の話の続きのように、お茶を淹れるつもりらしい。

「寝袋なら持っているが」

「じゃあ、好きな場所を取って。とは言っても今は冬だし、布団は持ってくるわ。寒いから、暖房も効かせておきましょう」

 でも、寝るには早いわね。そう、彼女は続ける。

「お風呂はどうするの?」

「いや。先程、ご馳走が並ぶ前に、師匠にお湯を使わせて貰った。問題無いよ」

 助かった、と彼は内心、胸を撫で下ろす。まさか、ナミの家にいきなり宿泊するというだけでも大きな問題と不安があるというのに、更に風呂やら何やら、とにかく面倒をかけてしまうのは、よくない。ああ、よくない。彼は一人、自分の胸の中にある気持ちを、整理整頓していく。

「疲れていない? お茶淹れるから、ちょっと待ってて」

「ああ、有り難い」

 リビング側へと戻り、これもまた小ぢんまりとしたソファに腰を下ろすと、彼はかなり強い疲労を自覚する。思わず、背もたれに体重を預ける。

 彼はこの日の行動を振り返る。随分と長いこと移動ばかりを繰り返し、挙句、ナミとの遭遇を経て稽古までつけるという、一日としてはかなりの強行軍だった。

 最後の睡眠はいつだったか。思い返すと飛行機の中で眠ったのが最後であることに、彼の思考は行きあたる。その最後の睡眠も、国際線の複数かつ複雑な乗り継ぎの関係で、最後のものは非常な短時間で終わっている。入国審査の緊張の大きさはもとより、そこを無事通過してからの、空港を出て延々と和国内を移動するその最中の緊張もあった。とてもではないが、睡眠は足りていない。

 先程の神矢邸で摂取したアルコールの量は大したものではないが、その少量のアルコールが呼び水となり、疲れに対して体が強く休養を求めていることを彼は感じていた。

 部屋の温かさに緊張を解きながら、ともあれ彼女とまだ会話ができるのであれば頭を使わないで済む軽い話題が好ましいと、彼は考える。

「ナミ、君が先ほど貸してくれた絵本なのだが……」

 そう言いながら、旅行カバンから彼女の預かり物である布袋を取り出して、自身の膝に乗せた。数冊の本をぱらぱらと取り出しながら、彼は厨房にいる少女に話を振る。

「実はまだ読んでいないのだが。見せて貰っていいかね」

「どうぞ。気に入ったらあげるし、旅の邪魔になるようだったら、置いて行って。好みなんて人それぞれだから」

 絵本。この国の絵本を手に取るのは、実に何年ぶりのことだろう。8年ぶり? 9年ぶり? いずれにせよ、そんな機会がまた訪れるとは思ってもみなかった……彼の胸の中に、チクリと鈍い痛みが走る。

「あ、でもコミックとか、そういう方がことばの学習には向いているかもしれないわね。でもでも、喋るのと聞き取るの、読むのと書くの、どの能力が一番必要なのかしら」

「まあ、喋ることに関してはそれほどの不自由は感じていないでござる」

 茶碗とポットの乗ったお盆を持ってこちらに向かっていたナミが、今の彼の返事にその場で固まった。思わず顔に浮かんだ疑問の表情を隠すこと無く、レイジは彼女を見上げる。

「うーんとね、今……語尾に『ござる』がついていたわよ」

「そ、そう……か……」

 『ござる』もダメだったか、と彼が自身に向けて呟いたのかどうか。小さい、声。

「もう大笑いは勘弁してほしいのだが、ナミ」

 懇願するような顔で彼女に告げると、続けてことばを継ごうとする。が、言いかけて彼はことばを出すのをやめた。なぜなら、彼女を見ると、彼女なりに一所懸命、笑いを堪えて真剣にお茶を淹れようとしれくれていたのだから。

「ジャスミンティー。飲んだことある? レイジの国だと、中国茶の流通は多いのかしら」

 湯飲みが並べられ、お茶が注がれる。温かい湯気の中に、ほのかに花の香りが漂い始める。それが、彼の気持ちをほんのりとした穏やかなものへと誘う。

「ワタシも国を出てから久しい。お茶のことなども、あまり覚えてはいない。今は、ただパスポートがそれだけだ、という感じだな。帰属意識もあまりない」

 この部分の話題はあまり好ましく無いことを、彼は理解していた。だから、自分の情報は、あくまでも不自然に思われない範囲で小出しに開示していく。ぽつり、ぽつり、と。

 ふと気が緩んで、自分が故郷を離れた歳のことを彼女に伝えそうになる。これはよくない。彼女に気づかれないよう、気を引き締める。表面上は、彼女の淹れてくれたお茶の香りに心を開いているかのように装いながら。

「なるほど、わかるわ。魔女、魔力持ちだって国家への帰属意識なんてまるで無いかもしれないわね。迫害なんてしょっちゅうだし、流転、流転で根なし草のメンタリティがどんどんと育つような暮らしぶりの人ばかりだし。ウチはまだ中野町に長いけれども。でも、その人にもよるけれども、仲間のいるコミュニティやイリスウェヴ教会への帰属意識の方が高いわよ、きっと」

 彼女の渡してくれた湯飲みをずっと手に持ったまま、彼は少女を温かい目で見つめる。本当はもう少しだけ、自分のことを語りたいし、彼女のことを聞きたい。そういう気持ちを瞳の中に隠すことが難しくなってきているのは、この茶葉の香りのせいだろうか。

「お茶をどうぞ。熱い内に」

「ありがとう。いただきます」

 丁寧に礼を言い、一口だけ、口をつける。

「……美味いな、これも」

「でしょう? いい方の茶葉で出してみたわ」

 自慢気に、少女は笑う。

「レイジには、魔女、魔力持ちのお友だちがいるんでしょ」

 少しだけ驚いて彼は顔を上げるが、答えは返さない。

「だって、わたしが魔女だって気づいても、ちっとも態度に変化が無いもの」

 微笑む彼女を見て、彼も笑顔を返す。

 その無言の笑顔が肯定の意だと、彼女にも通じたのだろう。彼も、また彼女もゆっくりと、それぞれの茶碗を持ち、お茶を口に含む。花の香りが快い穏やかな感情を招き、温かさが心を満たしていく。   

 そうやって、つい、気持ちが緩んでしまう。この少女の前にいると、どうしても。なぜ、というその理由を、彼は自覚している。

「ナミ」

「なに?」

「お願いがある」

 先を促すかのように、彼女が顔を上げて彼を見る。

「この本を、読んでくれないか。君が」

 彼もまた自分の茶碗を持ったまま、斜め向かい、九十度の角度を持って席を取ったナミに、体を向ける。

「君に、音読してほしい」

 昼間、彼女から貸し与えられた4冊の本が、彼の手の中にある。その中でも、一番薄くて一番色の鮮やかな1冊を、彼は引き出した。

 表紙の絵は、朝焼けだろうか、夕焼けだろうか。真ん中に、緑色の小さな猫と黒く立派な犬だか狼だかが、並んで、手を繋いでいる絵が見て取れる。

「なに、子どもへの読み聞かせの要領だよ。拙……ワタシはまだ、その、和語の漢字が殆ど読めないのでな」

 書くことなんか更に、と言い募りながら、彼女の前へ、ズイっ、と本を差し出す。彼女は慌てて茶碗をローテーブルに置くと、彼から差し出された絵本を受け取った。

「レイジ。ここで読むと、あなたからはせっかくの絵が見えないから……悪いけど、隣、いい?」

「ああ、大丈夫だ」

 無警戒な頭の悪い年頃の少女という見立てを拒んで、彼女がやや神経質気味に訊いてきたので、彼は他意の無い、努めて明るい表情で穏やかに返事を返した。

 ことばにできない思いが、彼の中から湧き上がる。それでも彼は冷静に、彼と少しばかり距離を置いて隣に座るナミと、二人の間に置かれた絵本に、目を落とす。

 表紙を見せて、彼女はその絵本のタイトルに書かれた文字から、読み始める。白くて綺麗な形の細い指を、不思議ながらも美しい文様を描く和語の文字の下に、ちょこんと添えながら。

「『いつか見た 青い空』。これは、「見る」っていう動詞ね。こっちは『青』。そして、『空』」

「でもナミ。この絵表紙は朝焼けか夕焼けかは判らないが、真っ赤じゃないか」

 多分、落日だろう。そう彼は勝手に想像を巡らせながら、表紙の文字と絵のちぐはぐさ加減をやんわりと指摘する。

「ううん。この表紙の絵とタイトルが違う、その理由はね、本をちゃんと最後まで読むと分かる仕掛けなのよ」

 それでね。

 彼女がそう言って表紙をめくり、中表紙を示す。中表紙には同じタイトル文字だけが同じ書体の黒いインクで印刷されていたので、彼女はさっさとそのページを飛ばす。

「それにしても、この国の文字は不思議だな。ひらがな、カタカナ、漢字。不思議な文様だ……綺麗だ」

「そうね。わたしもそう思うわ」

「和国の文字は、実に美しい」

 だから、上手く書けないのはちょっと悔しいなあ。彼は彼女にそう零した。

「けれどもきっと、どの国のことばも綺麗なのよ。それこそ、文字の無い国、文字の無い地域のことばであっても。ことばが……」

 彼女の青を湛えた瞳が彼を映して、朗らかに笑った。そして彼女は、本を読み始める。


「『父さん、ひさしぶり』」

 絵本の最初の行を、彼女が読み始める。彼女のゆっくりとした物言いに、彼は穏やかさと安心感に包まれていく。

「『狼が扉を開けると、そこに、みどり色の子猫がおりました。』」

 彼女は、表紙を読み上げてくれた時のような漢字の説明を省くことにしたらしい。音だけで彼が意味を理解できること、絵本の絵が情報を補助してくれることを理解してだろう。そのまま、温かな声色で先へと読み進める。

「『父さん? 誰だね、お前は。俺は、この森で一番強い、狼さまだ。猫が、どうして狼の子どもになれるというのやら。』」

 ……彼女の声が、遠くなっていく……


 ――ナミ、覚えているかい? 昔も君に、こうして本を読んで貰った……――


 彼の瞼はもう、絵本の絵も文字も映してはいない。ただ、彼が大事に守った少女の声だけが、彼の心を満たし、埋めていく。


 ――……アイタカッタ……――


 会えるとは思っていなかった。それでも……

 彼の心の中に、幸福な色の光が一つ、灯される。その小さな希望の灯りと引き換えに、彼は穏やかな眠りの中へと落ちて行った。




――座標軸:風見ナミ


 彼女は穏やかな声色で本を読み続けた。ゆっくりと。

 すると。

「……え?……」

 本の中、物語はまさにクライマックスだというのに、彼の呼吸はやたらと穏やかだ。そこで彼女は、左隣を見る。

 彼は目を閉じて、スースーと、それはそれは落ち着いた寝息を立てていた。

 お気に入りの絵本の中でも特にお気に入りの一冊であっただけに、音読しながら、彼女はついその世界に入りこんでいた。お陰で、彼がいつ眠ってしまっていたのかなど、彼女は全く気がつかなかった。

「わたしも相当だけど。この人も警戒心、ゼロよね……」

 わたしが泥棒にでもなったらどうするつもりかしら、この人。呆れるように、一人、彼女はことばを洩らす。

 しかし折角だからと、クライマックスからはただ一人、音読を止めて最後まで、彼女はそのまま読み進めた。もう何十回、いや何百回となく読み返したその結末は、いつも切なく、ほろ苦い思いを彼女にもたらす。

 ふう、と満足気に息を洩らして、彼女は絵本を閉じた。そして左を軽く見遣る。よく寝ているな、と彼を斜めの目線で観察する。

 余程、疲れていたのだろう。年若い彼女には経験が無いが、慣れない国にいるというだけでも、緊張はかなりのもののはずだ。そのくらいは、彼女でも想像がついた。

 温かい部屋に美味しいお茶で、彼の緊張が解けたらしい。西乃市の市街地へと追い返さず家へと招いたのは、悪くはなかったようだ。

 しかし、疲れたと言えば彼女も疲れてはいる。昨晩は地下室での薬草の整理整頓に時間がかかり、いつもよりも大分睡眠が少ない。ここ数日は魔力的にも気力的にも充実はしていたが、学校の始まった月曜日ということもある。加えて、2コマ分もの拳道の稽古への参加だ。そうしたあれこれの事情から、彼女にしてもこの日はいろいろとハードな一日でもあったのだ。

 まだ温かさの残るお茶を飲み、彼女も緊張をほぐすよう、一息をつく。

 そうして茶椀を両手で持ったまま、左を向いて、ややだらしない姿勢になりかかって眠っている大男を見るともなしに眺め続ける。

 初めて会った人間である。今日、この日。けれども、そんな男がこの家の空間の中に居るというのに、彼女の中には違和感が欠片も無い。それどころか、どこか安心する、穏やかな心情を抱いている自分を自覚する。わたしは、この人を、知らないというのに。

 穏やかな寝息が、心地いいとすら思える。

 ひょっとして父さんも、眠っているとこんな感じだったのだろうか。あるいは、お母さまだったら?

 不思議だ。何もかも新しいはずのこの男が、何もかも、懐かしい。

 目を閉じる。

 「何か、忘れてない、わたし?」

 そう、彼女は自身へと問い掛ける。

 勿論、答えなど、無いけれど。無い。けれど……

 ふと。人の体温が気持ち良さそうに思えて、彼女はその隣の距離を、もう少しだけ詰めてみる。

「親とかきょうだいとか。誰かに寄り添って眠るのって、こんな感じなのかしら?」

 小さな呟きを、洩らす。触れ合っているのは、彼の右腕と彼女の左腕、その少しの部分だけだというのに。温かい。

 少しだけ、目を閉じてみる。そして、彼の寝息に倣って、彼女もゆっくりと呼吸を整えていく。


――……兄ちゃん、きっと、つかれていたんだね……――


 それは、自分の声ではない。自分の声では無いというのに、けれども、それは自分の声だ。

 ああ、懐かしい。

 閉じた瞳を開けることができないまま、彼女はゆっくりと思考を巡らす。あの声は誰の声? そして、昼間に聞いた、あの声。

 あの声を、わたしは、知っていた……だから、あれは、違和感ではなくて、思い出せなかった、悔しさなんだ。


――兄ちゃん、おかえり――


 よかった。やっと、そう言ってあげられるんだ。

 彼女は小さく微笑んで、そのまま自らの意識を夢の中へと解放していった。




(つづく)

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