第四話 「それは幻想なのです」

 練習を始める前に部員全員を道場に集めた三笠先生は、

「阿部さんから大体のお話は聞きました。それで、まずは私から皆さんに申し上げたいことがあります」

 と、穏やかな声で話を切り出した。

 部員の背筋が一斉に伸びる。先生は話を続けた。

「――よく自分達だけで『弓が武器である』点に気がつき、そこから目を逸らすことなく考え続けたものだと思います。特に桑山さん、よく気がつきましたね。素晴らしいことです」

 久し振りの全開褒め言葉である。理穂ちゃんの顔が真っ赤になった。

「さて、それでは和弓の武器としての性格を徐に語り始める訳ですが、その前にどなたか宮城県立武道館弓道場の観客席に、透明なアクリル板が貼られている理由を知っている方はいますか?」

 即座に全員が頭を捻る。

 そういえば確かに、県立武道館の観客席の前には透明なアクリル板が立っており、それが普通だと思っていた。

「誰もご存知ないようですね。それでは西條さん、竹駒神社の弓道場の観客席にアクリル板は設置されていましたか」

「ありませんでした」

 西條先輩は即座に答える。

「では、これまで県立武道館以外にアクリル板が設置されている弓道場を利用したことはありますか」

「……なかったように思います」

 今度は僅かに考えてから、西條先輩は回答した。

 一年生部員には話の展開が全く分からない。呆然としていると三笠先生は一年生の顔を見ながら、道場の外を右手で指し示した。

「ご覧の通り、仙台第一女子高等学校の弓道場には観客席すらありません。周囲は塀で囲まれ、安土の上に緑色の防矢ネットが設置されていますが、その他には特に遮るものがありません」

 私達は弓道場を見渡す。

 確かにその通りである。

「ではどうして県立武道館だけにアクリル板があるのか。その理由は――」

 三笠先生は少しだけ顔を曇らせる。

「――過去にあの弓道場で事故が発生したからに他なりません」


 *


 続いて、三笠先生が語った事故の概要は以下の通りとなる。

 先生も当事者ではないため、詳しいことは分からないと言っていた。


 その日、県立武道館では高校生を対象とした弓道大会が開催されていた。

 そして、その時、射場の大前に立っていたのは弓道を始めたばかりの一年生で、的前練習を始めたばかりだった。

 もちろん、大会に参加している訳だから日頃の練習は普通に行っているのだが、その日が初めての大会出場である。

 学校側も運営側も、そして部員たちも、毎年そんなことが繰り返されていたため、別に何とも思っていなかった。

 しかし、その大前は完全に舞い上がっていた。

 震えが止まらないまま会に入る。緊張のあまり右拳に力が籠り、弦が上手く放せない。右の拳を強引に離そうとした時、矢が左拳の上から離れてしまった。

 弓の狙いは「左拳の親指上、右頬、右拳の人差指」の三点がすべて矢と接している状態でないと、定まらない。

 左拳から零れた矢は、当然のことながら狙いがついていないから、どこに飛ぶのか誰にも分からない。

 それでも大抵は矢道の範囲内に収まるのだが、その時は不運にも矢の飛ぶ先に観客席があった。


 矢は、観客席で普通に試合を観戦していた、別な高校の生徒の頬を貫いたという。


 *


「弓道大会を観戦している時、観客席では誰も自分の目の前に矢が飛んでくる可能性を考えてはいません。流石に、的の前まで出ていったら話は別ですが、矢道の外は安全圏だと考えています。しかし、それは幻想なのです。射手が絶対にミスをしないという確証は誰にもありません。従って、矢が自分に向かって飛んでくる可能性はあるのです。しかし、それでも観客席は設置されているし、アクリル板はありません。室外にある弓道場の場合は、設置したくても風が吹いたら壊れてしまいますから、設置できないというのが正しいのですが、それでも観客席を閉鎖することはできます。それすらしないのは、一体どうしてなのでしょう」


 実はこの時点で、私の頭は少し混乱していた。

 三笠先生が話している内容は実に明快で、誤解のしようがない。確かにミスは常に起こり得る。

 でも、私とかおりちゃんは竹駒神社の弓道場で、確かに観客席に座った。その時は全く危険だとは思わなかった。そばに座っていた男子高校生の危険性について考えていたほどである。

 では、そのことが平和ボケした女子高校生の無謀な行為だったかというと、そんな気はしなかった。何故かはわからない。

 ただ、確かに自分のほうに矢が飛んでくるとは思っていなかった。それだけである。

「あの、先生」

 早苗ちゃんが右手を挙げた。

「何でしょう。藤波さん」

「今までのお話の筋は明快で、それに対する異論はないのですが、そのまま話を進めますと弓道場の周囲はすべて危険地帯になると思うのですが、違いますでしょうか」

 三笠先生は早苗ちゃんの質問を聞いて、にっこりと笑ってから言った。

「その通りですよ。的に向かって打っているはずが、何かの拍子にそこから逸れて、あらぬ方向に飛んで行かないとも限りません。実際にそのような事故も発生しています」

「となると、弓道は危険な武道、ということになりませんか」

「なりますね。いつ事故が発生するのか分からない危険な競技ですね」

 言葉の内容に反して、三笠先生は終始穏やかである。

 早苗ちゃんは頭を捻りながらも議論を継続した。

「もともと武器である。今も、弱体化しているかもしれないが、殺傷能力は残っているし、実際に事故が発生している。なのに、誰もその危険性を問題にしていない。そういうことになりますが」

「その通りです。そこからどのような解が導き出されますか?」

 先生の問いかけに全員が黙り込む。

 暫くして、一人が手を挙げた。

「あのー、先生ー」

 かおりちゃんだった。

「はい、なんでしょうか、浅沼さん」

「この話ですがー、弓のように明らかな武器だと分かりやすいのですがー、他の武道、例えば剣道もー、木刀を使ったら危険性に変わりはないのではないでしょうかー」

 かおりちゃんはゆっくりと論理を展開してゆく。

「それにー、柔道やー空手もー、やはり殺傷能力はあるわけでしてー、それだって誰がどう使うか分かりませんよねー、ということは武道は全部危険なのではないでしょうかー」

 話がどんどん大きくなってゆく。とうとう日本の武道が危険物扱いされてしまった。しかも、三笠先生は、

「その通りです」

 と、即座に肯定してしまう。着地点が全く見えない中、かおりちゃんが言った。

「ということはー、それを行使する人が殺傷という目的を放棄するしかないのではないでしょうかー」


 場が静まる。


 誰もが今、かおりちゃんが言ったことを考えていた。

「あの、かおりちゃん。それは、要するに、例えば私が『自分はこれを絶対に武器として使わないぞ』と考える、ってことだよね」

 加奈ちゃんが自分の身に置き換えて考える。かおりちゃんはにっこりと笑うと、

「そうだよー、私はこれを武器としては使いません、って宣言するんだよー」

「いや、それで問題は解決するのかな。相変らず、私達は的を狙って矢を飛ばす訳でしょう。頭の中で考えても、行為は続いているよね。それに勝負するよね」

 と、理穂ちゃんが疑問を差し挟む。

 それに対してかおりちゃんはこう言った。

「的は人じゃないよー、そして、弓道では的以外は狙わないんだよー」

 私は考えた。

 かおりちゃんの言っていることは詭弁ではないのか。

 和弓にはその威力があるのに、それを使わないという宣言だけでよいのか。

 ――その威力があるのに、使わないと言う宣言だけで良いのか。

 ――その威力はあるかもしれないが、他には決して使わないものがあるか。

 私の背筋が急に伸びた。


「そうか。つまり、弓道は的の中心に向かって矢を中てるためのものであって、それ以外のものではないんだ」


「そうだよー」

 かおりちゃんは柔らかく笑いながら、私の言葉を肯定した。

「弓道はー、的の真ん中に矢を中てるー、それだけのものなんだよー」

 理穂ちゃんと早苗ちゃんと加奈ちゃんは、まだ議論に漏れがないかどうか考えていた。

「えっと、和弓は確かに武器だけど、その目的には使わないから大丈夫、ということ?」

 加奈ちゃんが改めて要点を整理すると、かおりちゃんが補足した。

「そうだよー、包丁って人を傷つけることができる道具だけどー、普通は料理に使うものだよねー」

「すると、私達は武器を持って戦っている訳ではなくて、和弓という道具で矢を的に中てる修行をしているだけなんだね」

 理穂ちゃんが念を押すと、かおりちゃんはさらに補足した。

「そうだよー、だからねー、最終的にはー、何があっても絶対に的から外れないようになればいいんだよー」

 全員が息を呑む。

 かおりちゃんが言ったのはこういうことだ。

 和弓には確かに人を殺傷する能力がある。

 しかし、弓道はその能力を完全に放棄して、的のみを対象とした。

 それでも、確かに人は間違いを犯すから、事故の危険性はゼロではない。

 だから、弓道をする以上、修行によりミスを極限までなくさなければならない。

 そして、弓道の最終的な目標は、的に中ることではない。

 的以外には決して中らないようになることだ。

「それで本当にいいのかな。ただの精神論になっていないかな」

 早苗ちゃんが最後まで反証を試みる。

 彼女が依怙地なわけではない。後顧の憂いを無くしたいだけなのだ。

 そして、その問いかけには三笠先生が答えた。

「大丈夫です。もし、皆さんの議論が観念的な方向に傾斜した場合、恐らく最終的な結論は『中てるという執着心を捨てる』ことになっていたはずです。つまり、武器であることの完全否定ですね。それも一つの解ではありますが、それならば別に弓道をする必要はないように思います。あくまでも弓道には弓道の最終目標があり、それは極めて単純でシンプルなのです」

「あの、先生」

 理穂ちゃんが恥ずかしそうに手を挙げてから言った。

「なんだか、私が変なことを言ったために、他のみんなに無駄な手間をかけさせたように思うのですが」

「そうですか?」

 三笠先生は理穂ちゃんに向かって、笑いながら言った。

「皆さんの結論はとても健全でしたよ。それに、これで明解な目標が出来たではありませんか」

 全員が顔を見合わせた。

 その通りだった。今まで私達は、弓道を何のためにやっているのか分かっていなかった。

 私自身、高校で何か始めたいけれど、中学でもやっている部活動では競争が厳しいし、球技全般に才能がないことが分かっていたので、弓道を始めたに過ぎない。

 一緒に練習している仲間がとても良い人々だったので、そのまま居ついてしまったけれど、弓道でどうなりたいか、何をしたいのかは考えていなかった。

 それで「弓は武器である」という事実を突きつけられて動揺してしまったのだけれど、今日の話でやっと分かった。

 弓道は武道だけれど、それは誰かを攻撃するためのものではない。「的に中る」という事実を確実なものにするための修行であって、それ以外の何物でもなかった。

 しかも、的に中てるための技術は誰からも教えてもらえないもので、自分で身につけなければいけないことだと昨日の話で分かった。

 すると、目標は同じだけれどやり方は無数にある、ということになる。

 弓道は的中数を競う。しかし、そこで問われるのは自分が的に確実に中てられるようになっているかどうかであって、相手が中るから負けるわけではない。常に自分が未熟だから負けるのだ。

 しかも弓道では相手と直接対決しない。向かう先にあるのは的のみだ。

 ということは――


「あの、三笠先生」

 私は思わず口を開いて、先生に問いかけてしまった。

「なんでしょうか、阿部さん」

「弓道の究極の目標は、的に必ず中るようになることだと分かりました。しかし、一方で弓道は武道です。勝敗を決することもまた修行のうちだと思うのですが、その相手もまた、最終的には的に確実に中ることになります。いずれも目標を達成したとなると、優劣がつかないことになるのですが、それでも武道と呼べるのでしょうか」

 三笠先生は眉を心持ち上げてから笑った。少し驚いたのだろう。

「構いません。武道の最終的な到達点は『闘うことが無意味になる』ところですから」

 その言葉に西條先輩が戸惑いの声をあげる。

「先生、武道というのはどちらが強いのか極限まで争って雌雄を決するものだと考えていたのですが」

「違いますよ」

 三笠先生は全員の顔を見回して言った。

「武道は、勝つことを目標にしている訳ではありません。負けなくなることを目標にしているのです」

 そして、三笠先生は黒板に文字を書き始めた。

 全員が息を呑みながら見つめる中、先生が書いたのはたった二文字だった。


「木鶏」


 *


 木鶏(もっけい)という言葉の由来は、『荘子』に出てくる故事である。

 中国に、紀悄子という名の闘鶏用の鶏を育成する名人がいた。

 ある王が紀悄子に鶏を預け、十日経過した後で紀悄子に鶏の様子を訊ねた。

 すると、紀悄子は「闘争心があっていけません」と答える。

 更に十日経過して王が訊ねると、紀悄子は「他の鶏の声や姿を見ただけで興奮してしまいます」と答える。

 更に十日経過して王が訊ねると、紀悄子は「己の強さを誇示しています」と答える。

 更に十日経過して王が訊ねると、紀悄子は次のように言った。

「まあ、宜しいでしょう。他の鶏が鳴いても相手にしません。まるで木で作られた鶏のように泰然自若としています。他の鶏は姿を見ただけで逃げるでしょう」

 これを踏まえた有名な逸話がある。大横綱の双葉山は、昭和十四年に自身の連勝記録が六十九で止まった時、友人にこう伝えた。

「未だ木鶏におよばず」

 ちなみに双葉山の六十九連勝は、いまだ破られていない大記録である。


「つまり、武道における最高の姿は、何者にも動じることなく、勝敗すら意識せず、自然に相手が頭を垂れてしまうほどの境地なのです」

 そう言って、三笠先生は話を締めくくった。


 *


「はああ。まったく、未だ木鶏足り得ず、だよ」

 翌日のことである。さっそく加奈ちゃんは覚えたての言葉を引用した。

「私もまだまだだよね」

 昼休み時間。

 彼女の目の前にはお弁当がある。

 しかも、それは三段重ねの大層立派なものだった。

「欲望に負けてしまった。兄貴のが美味しそうだったもんで、私もつい同じものを頼んじゃった。これじゃダイエットなんて無理だよね。まったく、未だ木鶏足り得ず、だよ」

 加奈ちゃんは大きな溜息をつく。

 その姿を見て私は思った。

 ――加奈ちゃん、それは多分誤用だと思うよ。荘子に怒られるよ。

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