第三話 「何これ、滑るよぉ」

 翌日。

 夏休み第一日目の金曜日、いつもの登校時間より余裕のある午前九時に、弓道部員六名は汚れても構わない格好で弓道場に集まった。

 早苗ちゃんと私は、家から持ってきた中学校時代のジャスである。大事に保管しても記念になる訳ではないし、こんな時以外には使いようがない。家でも掃除の時に使っていた。

「定番だし、無難だよね」

 と、私と早苗ちゃんは顔を見合わせて笑った。

 西條先輩と理穂ちゃんも同じく中学校時代のジャスである。ただ、さすがと言うべきか用意周到な二人はエプロンを持参していた。

 しかしながら、西條先輩のそれは恐らくローラ・アシュレイと思われる、花柄満開かつ可愛らしさ全開の高級エプロンである。

 それに対して、理穂ちゃんはどうみてもシンプルな白の割烹着だった。それが頭に載せた三角巾との組み合わせで、どうしようもないほど理穂ちゃんによく似合っている。

 前後左右のどこから見ても、田植えの手伝いにきた若奥様だ。つくづく質実剛健な娘だと、全員が感心した。

 そして、加奈ちゃんとかおりちゃんは――スクール水着だった。

「確かに汚れても構わない格好という条件だったけど、汚れたらすぐ洗う気満々ということだよね?」

 割烹着の理穂ちゃんが、腰に手をあてて頭を左右に振りながら言った。

 夏休み中は、時間に限りがあるものの高校のプールが生徒に開放される。掃除が終わったら、そのままプールに飛び込んでしまおうという魂胆だろう。

 加奈ちゃんがアイデアの出し元で、かおりちゃんはそれに乗ったに違いない。

「掃除なんだから、肌を露出させていたら怪我をするよね」

 早苗ちゃんが冷たく言い放ち、悄然となった二人は大人しく高校のジャスに着替えた。


「さて、始めましょうか」

 シンプルな半袖のポロシャツとジーンズに身を包んだ三笠先生が宣言した。

 しかも、先生は暑いのに靴下まできっちり履いている。

「西條さんと桑山さんと藤波さんは、道場内の片付けをお願いしますね。まずは控室と道具保管庫の中のものを全部外に出して、要と不要の分類をお願いします。残りの人は安土だよ、私も手伝うから」

 炎天下の場外担当だと聞いた加奈ちゃんとかおりちゃんは、

「ええっ」

 と不満気な声を上げたが、私は非常に適切な判断だと感心した。

 部長の西條先輩が頭脳労働なのは当然として、理穂ちゃんと早苗ちゃんのタッグは不用品廃棄に絶大な力を発揮するだろう。基本的に、二人とも断捨離大好きだ。

 これが、加奈ちゃん、かおりちゃん、私の組み合わせになると、一つのものを捨ててもよいかどうか判断するだけで軽く十分はかかるだろう。

 何気なく任命したように見えて、三笠先生は各自の個性をもう十分に把握しているのだ。


 さて、安土の担当と言われても正直なにをするのかよく分からない。

 ――こんな砂の壁のどこに掃除が必要なのだろうか。

 そんなことを考えながら、私と加奈ちゃんとかおりちゃんが途方にくれて立っていると、三笠先生が校舎のほうからスコップを二本持ってきた。

 今回、安土の整備することになって初めて、看的所に確かにそれ用と思われるすっかり錆びたスコップが二本、置いてあったことを認識した。昔からそこにあったのだろうが意識していなかった。

 従って、使ったことはない。

 これで人数分の道具が揃った、と私達が思っていると、

「もうちょっと待っててね」

 と、三笠先生はまたどこかに行って、すぐに何かを手に持って帰ってきた。

 目の粗い大きなふるいはすぐに正体が分かったが、他の三つの物体の用途が分からない。

 それは、細長い一枚板に二本の材木が釘打ちされていて、さらにその二本の材木の間に一本の材木が固定された物体だった。

 縦に長い下駄を裏返して、広めの歯の間に材木を渡したような形状と言ったほうが分かりやすいだろうか。分かりにくくても、他に表現のしようがない。

「まずはいつもの通りに、安土に水を撒いてね」

 と三笠先生に言われたので、加奈ちゃんが率先してビニールホースを取った。

 かおりちゃんが蛇口を捻ると、加奈ちゃんはホースの先端を親指で抑えて潰す。そうすると水流が平たく広がって、広範囲にスプレーのように撒けるのだ。


 さて、暑い夏の水撒き。

 そして、撒き手は加奈ちゃん。

 二つの条件が揃ったので、当然、事件は起きるべくして起きた。


「うぉりゃあっ」

 不意に奇声を発した加奈ちゃんは、かおりちゃんに向かってホースを向けるやいなや、筒先の圧力を微妙に調整して圧力の強い細い一本の水流を放った。

 それがかおりちゃんの顔面を直撃する。

「ひっ」

 かおりちゃんは、あまりのことに固まってしまった。

 きっと飛び上がって逃げるに違いない、と思っていた加奈ちゃんは、意表を突かれてそのままどばどばっと水をかけ続ける。

 かおりちゃんの上半身はまたたく間にずぶぬれになってしまった。

「ひーん、ひどいよー、加奈ちゃーん!!」

 かおりちゃんが泣きながら抗議する。

「ごめん、ごめん、悪い、悪い」

 加奈ちゃんが必死になって謝る。

 なんだかお約束のような出来事を少し離れて観察しながら、私は思った。


 ――かおりちゃん、下着つけてない……


 水着を脱いで、そのまま夏用の体操着を着たのだろう。生地が厚いので気が付かなかったが、今は凄いことになっている。ここが女子高でよかった、と私はつくづく思った。


 *


 以下、理穂ちゃんから後日聞いた話の内容を元に、道場内清掃の進捗がどうなっていたかを同時並行で説明する。

 三人は控室から私物を持ち出すところで苦戦していた。なにしろ量が多い。積りに積もった私物が十数年分である。意味が分からないものも多い。

 卒業生の弓道具が出てくるのはデフォルトで、これは使えるものであればそのまま共有品として有り難く使わせて頂く。

 下ガケは一面にカビが生えていることが多く、勿体ないけれどそのままゴミ袋行きになったものが多かった。

 続いて、カビの生えた私服は標準レベルの発掘品。パッケージの古い化粧品や生理用品が出てくるのも、まあ標準の範囲内だろう。雑誌の類は、成人向けも含めて、やはりギリギリ標準だと思う。

 そこから先が上級者向けだ。

 紙袋に入っていた、誰がいつ買ったのか分からないパン。

 理穂ちゃんが袋の口を開けたなり、即座に閉じてゴミ袋に放り込んだという。よくもまあ道場内の空気が汚染されなかったものだと思う。それとも気が付かなかっただけだろうか。

 男子物の下着、しかもTシャツからトランクス、靴下二足のセットである。

 白いビニール袋に入っていた。これが女子高にある意味が分からない。早苗ちゃんが発見して、新聞紙の上で広げて検証してみたところ、おそらく新品だろうとのこと。使用済みだとさらに物議を醸しただろう。

 極めつけは黒いゴミ袋の中の、なんだか人の形に見えるもので、さわるとフワフワ柔らかい。

 西條先輩が発見して言葉を失う。さすがに先生を呼んで開封してみると――ただの熊の縫いぐるみだった。

 これも速攻でゴミ袋行きとなる。

 その他いろいろと見つかったが、使えるものや必要なものに限れば、十分の一にもならない。つまりは大きなゴミ箱状態であったことが判明した。

 ゴミ袋は既に十個を超えており、まだまだ増えそうな勢いである。

「使えるものはとりあえずダンボールにまとめて、次は東側の入口と弓具倉庫をやりましょうか」

「了解!」

 控室の広さに気をよくした理穂ちゃんは、最初の時よりもやる気満々である。

 早苗ちゃんはそれほど入れ込んではいないようだが、それでもなんだか楽しそうなのは、いつかネタとして使えそうな出来事が頻発しているからに違いない。

 結局、現部員の私物を除いて、控室の中には中ぐらいのダンボール一つ分の発掘品しか残らなかった。


 続いて、道場外の様子はどうかというと――こちらは肉体労働のパートに入っていた。

「じゃあ、安土の上から半分までをスコップで崩してもらえるかな」

「えっ、これを崩していいんですか」

「それが今日の作業の目的ですから」

 加奈ちゃんの目が輝く。

 彼女の性格からして、このように形が定まっているものを崩すのは大好きに違いない。

 どこのお砂場にもいるクラッシャーな子供だったであろう加奈ちゃんは、

「それじゃあ遠慮なく、とうりゃあー」

 と、やはり奇声をあげてスコップの先端を、安土の上から四分の一ぐらいのところに突き刺す。

 が、硬い音がしてスコップはさほど刺さらなかった。

「え――」

 予想外の抵抗に、加奈ちゃんの中の砂場破壊者サンドクラッシャーとしての血がたぎる。

「ならば、これではどうだ!」

 少し下から救い上げるような形でスコップを差し込むと、今度はいくらか砂が弾けたが、いまだ表層部分にすぎなかった。

「え――」

 加奈ちゃんは乱打するものの、相手の表面ががしがしと削れていくだけで、向こうの壁面が現われない。

「え――もう、ここで最終兵器投入。みよちゃん、ガツンとやっちゃって」

 なんだか女の子向きではない表現に、私は少しだけへこんだが、

「はいはい。それでは最終兵器いきまーす!」

 と、振り上げたスコップの先を、斜め上から砂に差し込んだ。

 重い音とともに、スコップの先が砂にめり込む。そして、今度は抜きづらくなってしまった。

「あちゃー、こりゃあ大変だあ」

 加奈ちゃんの声に、それまで一歩退いて黙って見ていた三笠先生が、笑いながら近づいてきた。

「これは随分と安土整備していなかったようね」

「安土整備――ですか」

「そう。安土をベストな状態にしておきたかったら、少なくとも半年に一回、できれば一か月に一回は整備したほうがいいの。北国だと凍るから冬場はできないけどね」

「でも、今まで普通に使えていましたよ」

「矢が跳ね返ったり、垂れ下がって矢じりが下についたり、斜めに刺さったりすることはありませんでしたか?」

「あ、結構あります。でも、あれは矢の勢いがないからでは?」

「どんなに弱い弓でも、道場から的までちゃんと飛ぶくらいの力はあるし、それぐらいの力があれば安土にもちゃんと刺さりますよ」

 三笠先生は、何故か安土を愛おしそうに見つめた。

「上の層は練習の前に竹箒をかけているでしょうし、的の周りは始終矢が刺さっているから比較的ましだろうけど、そこから外れたところはたまに崩さないと固くなるのよ」

 私達も安土を見つめた。

 確かに、あんなに下の層が硬かったら、なかなか刺さらない。上の層に刺さったように見えて、重さで垂れ下がることもあるだろう。

「もう少し水を撒いて上から徐々に崩していけば、何とかなるわよ」

 先生の言葉に、早速加奈ちゃんがホースを取る。

 即座にかおりちゃんは看的の向こう側に隠れた。


 *


 再び道場内の様子に移る。

 弓具の倉庫は射場の東側壁面にあり、主に「弓と矢とゆがけ」という基本弓具三品と、的紙その他の備品類が収納されていた。

 引き違いの戸で四つ分の広さがあるけれど、普段は北側の二つしか使われていない。

 現行部員は六名なので、『弓立ゆみたて』――弓を立て掛けるための台が一つと、矢立が一つ置いてあれば収納場所として十分である。

 なにしろ古い道場は開け閉めが面倒だったので、自然とそうなってしまったのだろう。そこで三人は、まずはいつも使っている側から整理を始めた。

 現行部員が使っている弓と矢とゆがけを北側に別置きする。

 未使用の的枠と的紙、箱に入った細かい備品の類も同様に移動する。

 裂け目の入った古い弓は再生不可能なので、切れた弦を使って一まとめにした。

 雑然と置かれていた、持ち主不明の羽が大部分欠けた矢や黴が生えたゆがけは、まとめて一時保管とした。

 これは比較的最近まで使われていた可能性があるからで、

「誰か最近の卒業生が、取りに来るかもしれないから」

 と、西條先輩が配慮したのだ。

 それが終わったところで、続いて南側の引き違い戸に取り掛かる。理穂ちゃんが、

「西條先輩は、この中を見たことありますか」

 と訊ねると、西條先輩は頭を捻った。

「そういえば、ないわね」

「じゃあ、中は相当酷いことになっているかも知れませんね」

 早苗ちゃんがぽつりとそう言うと、三人は黙り込んだ。先ほどの『ぬいぐるみ事件』がトラウマとなって尾を引いているのだ。

「――でも、このままという訳にもいかないから」

 と、西條先輩が左側の戸に手をかけた。

 どんな人外魔境が広がっているのだろう、と三人は惨状を覚悟する。

 意を決して西條先輩が戸を開けてみると、そこには――矢筒が十本ほど、整然と並んでいた。

「はあ――」

 三人が同時に息を吐く。

 矢筒というのは試合などで移動する際に、矢を持ち運ぶための丸い筒だ。並んでいたのは、価格の安いエンジや青のビニール製のものが多かったが、中に籐を編んで作られた本格的な矢筒が二つあった。

 続いて右側の戸を開けてみると、こちらには弓立に整然と袋に入った弓が並んでいた。矢筒と弓袋の汚れ具合やほこりっぽさから、かなり昔のものと思われる。

 にも拘らず、なぜかここだけが道場内で唯一静謐な空気を湛えていた。

「他のところが乱雑なのに、何故ここだけ片付いているんでしょうね」

 と、理穂ちゃんが当然の疑問を口にする。

「先輩からは何も聞かされていないけど、少なくとも最近開けたことがあるようね」

 と、西條先輩が断言した。

 二〇一一年三月以降、宮城県でちゃんと物が並んでいることは、イコール「東日本大震災の後に整理をした」ことを指しているのだ。

「とりあえず、いったん外に出しましょうか」

 三人はまず左側の矢筒を取り出すと、それを丁寧に北側の壁沿いに並べた。もともと整然と並べられていたものだと、雑然と置きにくい。

 続いて右側の弓に移る。引き違い戸を移動させて弓を持ち上げようとした早苗ちゃんの動きが、一瞬止まった。

「どうしたの、早苗ちゃん」

 理穂ちゃんが近づく。

「さっきはよく見なかったから気がつかなかったけれど、向こう側に何か書いた紙が貼ってあるの」

 確かに弓と弓の間から変色した紙らしきものが見えていた。それにはマジックと思われる黒い文字が書かれている。

「よく見えないね。弓をどかそう」

 理穂ちゃんと早苗ちゃんは、手渡しで弓を丁寧に移動させてゆく。次第に壁面の掲示が現われて、模造紙に大きな文字で大胆にこう書いてあるのが分かった。


『整理整頓しない者に的中の神は降臨せず!』


 迫力がある。というか、脅しか呪いに近い。

「これ――あまり見たくなかったんでしょうね」

 西條先輩がぽつりと言った。控室の惨状から目を逸らしたかった先輩たちが、ここだけでも整然と片づけて封印しようとした気持ちがよく分かる。それほど気合の入った文字だった。

 後に三笠先生から教わったことだが、最近の和弓は芯に竹と木材を重ねた素材が使われているものの、外側はグラスファイバーやカーボンが貼りあわされているため、あまり保管の際に気を使うことはない。

 矢にしても本体はジュラルミンやカーボンが殆どで、矢羽は七面鳥のものが使われている。

 しかし、昔からの和弓は竹と木で、矢は竹で出来ており湿気を大変に嫌う。そのため、保管する時にはそれなりの手間をかける必要があった。

 右側の倉庫にあった道具類は、三分の一ぐらいがその竹の弓と竹の矢だった。


 *


「うへー、終わったぁあ」

 加奈ちゃんが、現役女子高生とは思えない声を上げた。安土のほうはなんとか崩し終わって、かおりちゃんが水を撒いているところである。

「壁際のところは特に念入りに撒いてちょうだいね」

 三笠先生が涼しい顔で指示を出した。そういえば、作業中も先生は実に楽しそうだった。

「先生、疲れていないんですか」

 私が率直に聞いてみると、三笠先生は、

「昔から好きなんだよね、安土整備って」

 と、本当に楽しそうに笑いながら言った。

 現役女子高生三人は等しく、同じことを考えた。

 ――これのどこが楽しいの?


 さて、水が砂に十分に染み込んだところで次の作業に移る。

 よく考えれば当たり前のことだけれど、実はここまでは前哨戦にすぎなかった。

「では、また砂を元の形に近いところまで積み上げて頂戴ね」

「「「はー……いっ?」」」

 三笠先生がそう軽く言ったのにあわせて軽やかに返事をしようとした三人は、揃って事態の恐ろしさを認識し、途中で言葉に詰まった。

 ――これを元に戻す…だと?

 眼の前には、私と加奈ちゃんが調子に乗って崩しまくった残骸が、なだらかな高原状に広がっていた。

 というか、途中で気が付かない私たちも私たちだ。積み上げることが分かっていれば、もう少し手加減のしようもあったのに、もはや後の祭り、「アフター・ザ・カーニバル」だ。

 三笠先生は楽しそうに、残りの三人は苦役のように、黙々とシャベルを動かした。


 とはいえ、さほど広い道場でもないので、砂の積み上げも1時間とかからない。

 単調な積み上げ作業から解放されて砂山をみると、整備前よりも空気を含んでふかふかになっているような気がした。確かにこれなら深くまで刺さりそうだ。

「さて、ここで新兵器の登場です」

 三笠先生は最初に持ってきた正体不明の、下駄の歯に角材を打ち付けたような形状のやつを持ち出した。

「これは特に固有名詞がないけれど、こんな風に使います」

 先生は下駄の歯の間に渡された角材を握ると、そのまま砂山の斜面一番下にしゃがみ込んだ。

 次に、斜面の始まる少し手前に、謎の道具を砂山方向に若干傾けてあてがう。

 そして、背中を伸ばしながら斜面に沿って謎の道具を滑らせた。

 ――なるほど!

 三人はその道具の役割を理解した。

 ――砂山の角度を均等にならすための道具なんだ!

 さらに、先生は上まで伸びきった体勢から、斜面をその道具の平面部分で押し付けながら連続腕立て伏せ状態で、下まで戻ってきた。斜面を押し固めているのだ。

「こうやって、安土の表面を滑らかに整地します。でこぼこになっている部分には、砂が多めのところから少なめのところに砂を運ぶように、道具の角度を加減してね」

 要するに、デコレーションケーキの表面をならすのと同じ理屈だ。先生のやり方を手本として、私たちは同じようにやってみることにした。

「む、むぅ、むん――」

 再び、現役女子高生らしからぬ声を上げて、加奈ちゃんがぎくしゃくと斜面を階段状にしながら登ってゆく。声こそ出さなかったが私も同様で、これが意外に滑らかに持ち上げるのが難しい。

 さらに、上まで伸びた体を戻しながら斜面を押し固めるのが難しい。ともすると道具が傾いて安土の表面もでこぼこになってしまう。

 慣れないうちは三人とも四苦八苦だったが、しばらくするとなんとか概ね滑らかな状態まで均せるようになってきた。

 私は途中で腰を伸ばすために直立する。そしてふと、左隣で作業をしていたかおりちゃんのほうを眺めた。


 ちょうどかおりちゃんは、斜面を腕立て伏せ状態で降りてくるところで、

「んしょー、んしょー、んしょー」

 と、可愛らしい声をあげている彼女の身体は、

 リズミカルに上下に弾んでいるわけでありまして、

 しかも、未だ彼女は下着をつけていないわけであるからして、

 その、何と言いますか、

 あまりにも健康的な光景に、私としては素直に、

 ――う、うらやましい。

 と思ったのであります。


 ちなみに、気が付くと加奈ちゃんと三笠先生までが凝視していましたね。


 *


 道場内で不要品の分別と整理が終るのと道場外で安土の表面を箒でならし終わるのとはほぼ同時だったので、最後は全員で道場内の雑巾がけを行うことにした。

 まず、全員が横に並んで射場の北端の板五枚目のところまで拭く。それが終わったところで、南向きになって横一線に並ぶ。

 前方に的が見えた。

 西條先輩が掛け声をかける。

「せーのっ」

 掛け声と同時に、全員で射場を駆け抜け、射場の南端で同時に止まる。

 それだけのことが何だかとても楽しかった。

 同じことを繰り返して笑いあっているうちに――掃除はとうとう終わってしまった。

 終わってみると呆気ない。そして、拭き掃除まで終わった後の弓道場は、新築とは言えないけれど、とても清潔だった。

 埃っぽかった射場の床板は飴色に光っている。控室は全員で入っても『理穂ちゃんボックス』に怯える必要がないほど、広かった。

 安土はまだ黒々と水を含んでいて、遠目にもふかふかしているような気がした。

 先生がお金を出してくれたので、学校近くのコンビニからおにぎりやサンドイッチを買ってきた。お昼ご飯である。

 ただ、せっかくきれいにした道場を汚すのは勿体なかったので、矢道に倉庫から出てきたむしろを引いて、食べることにした。

 みんなよく食べた。

 そしてよく笑った。

 その日はとても暑かった。

 なのに、なんだかすっきりしていた。

 空は青くて、高かった。

 こうして夏休み初日は午後二時まで道場清掃に費やされ、その日は全員が疲れて帰宅した。

 結局、水着の出る幕はなかった。

 


「そうだよねえ、私もそうだったのよ」

 月曜日の朝八時。

 学校まで向かう道の途中でちょうど出会った加奈ちゃんは、左の二の腕を右の掌で叩きながらそう言った。

「もうすっかり治ったけどね」

「えへへ、私もそう」

 私も二の腕をぱんぱんと叩きながら言った。なんだか私のほうがよい音がするのは気のせいだろう。

 何の話かというと――筋肉痛である。私も加奈ちゃんも、土曜日を筋肉痛に悶えながら過ごしたのだ。

「あーあ、なんだかもったいなかったなあ」

「そう? 私は久しぶりにゆっくり休んだって感じがした」

「そういえば美代ちゃんの家って、自営だっけ」

「うん、そう。名取駅前の本屋さん」

 いつもならば休みの日は店番を言いつけられるのだが、筋肉痛であることを理由に免除されたので、珍しく私は何もせずに休日を過ごすことができた。

 積んであった未読の文庫本を片端から読破し、疲れたら眠るという至福の一日を過ごしたので、その日は絶好調だった。


 仙台第一女子高校は仙台駅の南東、徒歩にして十五分ほどの距離のところにある。

 自宅から学校まで自転車で通学する子は多かったが、仙台市は中心部から少しでも外れると坂道が多くなる上、遠方からだと途中の幹線道路の交通量が多いので危険だった。

 正門近くにバス停があるものの、バスのルートは仙台駅西口のバスターミナルから大きく迂回しているので、豪雨や豪雪の時でもなければ誰も通学には使わない。

 鉄道はJRが東西南北に、地下鉄が申し訳程度に南北に走っているだけなので、その経路から外れると途端に不便だった。

 そこで、仙台市外から通学する生徒は最寄りの駅まで自転車に乗り、そこから電車で仙台駅まで移動し、駅から徒歩で学校に向かうことになる。

 西條先輩とかおりちゃんは比較的近くからの自転車通学組で、私と加奈ちゃんは遠方からの電車通学組だった。

 そして、理穂ちゃんと早苗ちゃんはいつもならば遠方からのバス組である。しかし、理穂ちゃんは、

「――ぉっ先にぃぃ――」

 というドップラー効果を伴いながら、先ほど私たちの横を自転車で駆け抜けていった。確か、彼女の自宅は西側の山一つ向こう側だったような気がする。

 つくづく質実剛健な娘だ。


 私と加奈ちゃんは、話をしながら弓道場北側のガラス戸を開けた。

 私は加奈ちゃんよりも後から道場に入ろうとしていたので、彼女の向こう側にいた理穂ちゃんと早苗ちゃんの顔が見えた。

 理穂ちゃんと目があった途端に、彼女から何か注意しようというそぶりが見える。

 しかし、私のほうを見ていた加奈ちゃんはそれに気がつかず、

「でね、その後お兄ちゃんが言ったのよ――」

 という声を最後に、私の目の前から突然姿を消した。

「いったああいっ」

 下から叫び声が聞こえたので見てみると、加奈ちゃんは射場の床に寝転んでいた。


「何これ、滑るよぉ。誰がここまで丁寧に拭いたのよ」


 *


 <作者註>


 弓の弦を引く鹿皮の手袋「ゆがけ」についても、正しくは「弽」という字です。

 やはり各自の日本語環境に依存する文字のため、「ゆがけ」というひらがなにしました。

 弓道家の皆様は、誠に遺憾ながら各自の脳内で変換願います。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る