第四話 「内側に、きゅっと」

「拭いただけでここまで滑るようになるわけがないよ。注意しようと思ったんだけど、遅かったわね」

 理穂ちゃんがそろそろと歩いてきた。

「どうやらワックスがかかっているようなんだ」

 そう言われて、私は入口にしゃがむ。そして射場の床をゆっくりと西から東にかけて眺めてみた。

 確かに、なにやら得体のしれない光沢がある。金曜日の飴色に、さらに磨きがかかっているのが分かった。

「美代ちゃんも気をつけて」

 そう理穂ちゃんに警告されて、私はおっかなびっくり道場内に足を踏み入れた。

 さすがに加奈ちゃんのような失態は起こさなかったが、靴下を履いたままだと足元が覚束ないほど滑りやすい。特に入口がひどかったが、これは理穂ちゃんと早苗ちゃんと加奈ちゃんが滑った後だからだろう。

「一体誰が、どうして、何のためにこんなことをしたのかしら」

 早苗ちゃんが長官モードで言った。目が輝いている。

「ただのいたずらじゃないの? 宮城第一高校のバカが夜中に忍び込んだとか」

 生まれたての小鹿のような加奈ちゃんがツッコミを入れた。ちなみに宮城第一高校とは、近くにある天敵の男子高校のことである。

「今はまだ謎だけれど、これには何か深い理由があるはず。ふっふっふ」

 そのまま、早苗ちゃんは低い笑い声とともに、小刻みに足を滑らせながら控室のほうに去っていった。

「私は最初に来たからなんとなく慣れてきたけど、早苗ちゃんもまだ駄目だね」

「えー、理穂ちゃん慣れたの?」

「もちろん、普段通りにはいかないけどさ。まあ、歩くぐらいならば」

 と言って、理穂ちゃんは神棚のほうに向かって歩いていった。いつもの安定感はなかったが、いつもの加奈ちゃんぐらいの不安定さではある。

 その時、また道場のガラス戸が開いた。

「おはよー、みんなー」

 この瞬間、私と理穂ちゃんと加奈ちゃんの脳裡には同じ映像が流れていたはずだと思う。


 かおりちゃんが道場に右足を踏み入れると同時に、

 その右足が床の上を流れ、

 彼女の身体が床に倒れこんで、

 胸がその振動でぼよよよーん、と――実際にはならなかった。


 かおりちゃんはごく普通に、何事もなく弓道場に入ると、

「あれー、みんなどうしたのー?」

 と、不思議そうな顔をしただけである。

 私と理穂ちゃんと加奈ちゃん、そして控室から顔を出した早苗ちゃんの考えを、理穂ちゃんが代表した。

「どうして普通に歩ける?」

「えー、別に変ったことしてないよー」

 かおりちゃんはにこにこと笑いながら、控室のほうに向かって歩いた。何も足さない、何も引かない、いつものかおりちゃんの動きだった。全員がそれを目で追った。

 続いて、

「おはよう、皆さん早いわね」

 という声とともに、西條先輩が入ってきた。

 こちらは『かおりちゃんショック』で全くノーマークだったので、全員が次の展開を予想する間もない。

 衆人環視の中、西條先輩は道場内に左足から入って――やはり普段通りに歩いた。

 が、さすがに二年生だけのことはある。床が異様に滑りやすくなっていることには気が付いたらしい。

「変な感触ですね」

 と言いながら、西條先輩は床を足の裏で摺って、感触を確かめた。

「随分と滑らかになっているようですが。誰かワックスをかけたのですか」

「それがよく分からないんです。一番初めに来たのは私ですが、ガラス戸を開けて入ろうとした時に、床にこんなものが置いてありました」

 理穂ちゃんはそういうと、控室から書道の半紙と思われる薄手の紙を持ってきた。

 その紙には『塗り立て注意』という文字が、墨痕淋漓ぼっこんりんりしたためられている。

 なお、理穂ちゃんがこの文字を見たのは、彼女がものの見事に転んだ後のことである。続いてやってきた早苗ちゃんも、理穂ちゃんが注意する間もなく見事に転んだ。

 悔しがった早苗ちゃんは、そのまま注意書きを控室に隠し、次の犠牲者を虎視眈々と待ち受けていたという。実に早苗ちゃんらしい腹黒さだ。

 西條先輩は手渡された半紙をまじまじと見つめて、言った。

「あれ、どこかで見たような字だけれど。一年生で書道をやっている人、いる?」

「いえ、誰もやっていないと思いますが――」

 理穂ちゃんが全員の顔を見回した。

「あの――」

 私はおずおずと手を挙げる。

「小学校高学年から中学生にかけて、家の近くのお寺で開かれていた書道教室に通ってました」

「あら、じゃあ美代子さんが犯人?」

 西條先輩はあくまでもお淑やかに、そう宣言した。あまりの緊張感のなさに、冤罪を蒙ったはずの私も力が抜けていたが、

「いえいえ、そんな立派な文字は書けないです」

 と、一応否定する。

「じゃあ、誰がこれを書いて置いていったのかしら」

 西條先輩は右手の人差し指を顎に添え、右肘に左掌をあてがう。正しい『お嬢様思案中』のポーズだ。

 西條先輩がこの仕草をするととても似合うのに、同じことを早苗ちゃんがするとどうしても『長官悪巧み中』か『秘密結社首領、世界征服を企む』という感じになる。

 ――育ちの違いかな。

 と考えたところで、私はあることを閃いた。


 *


 その時は西條先輩が話を途中で切り上げた。

 練習開始の時間が迫っていたからだ。大急ぎで弓具の準備をする。

 まずは、倉庫から弓を出して弦を張る。和弓は、弦の上の輪を弓の上端につけたままで保管する。だから張る時には、弓の下端に弦の輪を嵌め込むだけだ。

 そのために道場の柱には、下から二メートルぐらいのところに中央が窪んだ板が貼り付けてあって、そこに弓の上端を押し当てるのだ。

「なんだかやりにくいね」

 加奈ちゃんが滑る足元を気にしながら弓を張る。私も同じで、いつもならば思いきり体重をかけているが、そうすると滑って具合が悪い。

 足に力を入れないようにして、手の力で弓を張ろうとするものだから、なんだか弦がはめにくかった。弓の下端を持ち上げるようにして、なんとか引っ掛ける。

 理穂ちゃんと早苗ちゃんも同様に苦戦していたが、やはり西條先輩とかおりちゃんは普段通りに手早く弦をかけ終わっていた。

 続いて矢の準備。これは単に倉庫の中の矢立から出して、射場の矢立に移すだけなので支障はない。

 最後にゆがけを倉庫から出して、弓を立て掛けて置く台の下に置いた。射場の床にゆがけを直接置いてはいけないと三年生によく言われたが、その理由を聞いてみても言った当人が分かっていなかった。

 ただそう先輩から教えられた、という。


 準備を終えると、控室に入る。掃除が完了した後の控室は広く、全員が一度に着替えることも可能だった。

 着替えを終えた西條先輩とかおりちゃんが出ていくのと入れ替わりで私が入った時、中には理穂ちゃんと早苗ちゃん、加奈ちゃんがいた。

 早苗ちゃんが大急ぎで控室の扉を閉めて、小声でいう。

「ねえ、気が付いた?」

 全員が同じことを考えていたらしい。同時に頷いた。

「どうして西條先輩とかおりちゃんは普段通りなんだろうね」

 Tシャツに腕を通しながら、理穂ちゃんが首を傾げる。

「かおりちゃんなんか、率先してコケるのがお約束なのに」

 加奈ちゃんが制汗剤を振りまきながら続く。

「あ、私、さっき気がついたんだけど」


 私が口を挟んだ途端に、全員の真剣な視線が集まった。


「あ、あ、その――」

「美代ちゃん、早く言いなさい」

 理穂ちゃんの視線が怖い。私はあわてて言葉を続けた。

「その、部員の中で転んだのは、理穂ちゃんと早苗ちゃん、加奈ちゃんだよね。私は加奈ちゃんを見ていたから別として、別に普段と変わりないのは西條先輩とかおりちゃんだった」

「そうね」

 と、理穂ちゃんが相槌を打つ。

「で、西條先輩は言わずと知れた筋金入りのお嬢様。私、詳しくは知らないんだけど、確かかおりちゃんもお嬢様方面のはずだよね」

「そうだよ。結構大きな呉服屋さん」

 これには早苗ちゃんが即座に答えた。さすが長官である。

「つまりは、普段からの足運び。育ちの違いではないかと思うんだけど」

「「「うーん」」」

 他の三人が一斉に呻く。確かに残りの四人はどちらかといえばどたどたと歩くタイプだ。

「試しにお嬢様風、内股気味の歩幅短めにして、しゃなりしゃなりと足を動かしてみますか」

 一番似合わなさそうな理穂ちゃんが言った。

 四人は控室を出ると、頭の中で「しゃなりしゃなり」と唱えながら歩いてみた。が、さすがに付け焼刃、滑って足がもつれる。その様子を見ていたかおりちゃんが言った。

「どうしたのーみんなー。急にタコ踊り始めてー」

 四人は非公式な身分制度の存在を痛感した。

 

 午前九時の部活開始時間直前に、道場の正式な玄関から三笠先生が入ってきた。

「おはよう」

「おはようございます」

 全員が挨拶しつつ、先生のほうを注視する。先生は白のポロシャツにベージュのスラックスだった。かっちりしたスーツ姿も似合っていたが、ラフな軽装もバランスが良い。

 三笠先生はスタンダードな茶色のローファーを脱ぐと、白い靴下で無造作に道場に踏み込み――さすがに普通に歩き始めた。

 全員が溜息をつく。

「今日は皆さんの普段の練習風景を見せて頂きますね」

 三笠先生はにこやかに笑うと、射場東側に正座をした。普段と違う存在に、部員全員にちょっとした緊張感が走る。

 西條先輩が部長として、状況開始の第一声を発した。

「では、始めましょう」

 神棚に向かって西條先輩が一人前に出て正座し、その後ろに五人が一列に正座した。

「礼」

 西條先輩の合図とともに、全員が二回礼をして、柏手を二回打ち、最後に一礼した。それが終わると西條先輩は一年生のほうに向きなおって宣言した。

「それでは本日の練習を始めます。よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

 向かい合って、正座で一礼。

 さて、練習の開始だ。


 *


 <作者註>


 以下、弓道部の練習風景の描写がしばらく続きます。

 弓道を知らない方向けに、動作をできるかぎり分かりやすく具体的に表現しますので、経験者の方には辛いかもしれません。その場合は軽く読み流すか、

「ええっ?」

 という信じがたい部分だけを探してお読み下さい。

「そんな間違い探しみたいなところあったっけ?」

 と思った貴方は、結構重症です。


 なお、以下では次の弓道用語を使用します。

 弓を射ることを『行射ぎょうしゃ』と呼ぶ。

 矢の、的に刺さる側の先端部分を『やじり』と呼ぶ。

 矢と弦をつなげる部分を『はずあるいは矢筈やはず』と呼ぶ。

 弓の上部分を『うらはず』、下部分を『もとはず』と呼ぶ。この「はず」は正しくは「弭」ですが、環境依存文字のためひらがな表記します。

 弓道家の皆さまは、義憤に打ち震えつつ自主変換をお願いします。


 *


 仙台第一女子高校の弓道場はスタンダードな『五人立ごにんだち』――五つの的が立てられる広さだから、部員が少ないとはいえ六人全員が一斉に射場から行射することはできない。

 そのため、全員が揃っている時の練習は次のような流れになる。

 まず、全員で巻藁練習を三十分行う。

 その後、三人ずつに分けて交互に的前練習を行う。的前で行射を行なっていない時は巻藁練習をしているので、道場内にいるのは常に射手の三名だけになる。

 行射は「立射、立射、立射、座射、座射」の順番で行なうので、合計「十六射」となる。この的前練習がだいたい一時間かかる。

 最後は「射込み」とよばれる自由練習となる。これは的の位置を固定せずに好きな場所で行射するもので、立射形式で一本ずつの反復練習だ。これがやはり一時間ぐらいかかる。

 その他に生じる細かい時間も合わせて、午前九時から正午にかけての三時間が練習時間になる。


 巻藁練習の時、三笠先生は私たちの前方でにこやかに黙って立っていた。

 北国とはいえ真夏の炎天下なので、さすがに三笠先生は麦藁帽子を準備していた。網目模様の下の視線は、にこやかではあるが微かに光っている。

「なんかやりにくいよね」

 加奈ちゃんが私の耳元で呟く。

 巻藁は外に三つ設置されており、それを今日は『精神的な強さ』順に使っていた。

 つまり、西條先輩と理穂ちゃんが一番先生に近いところ、早苗ちゃんとかおりちゃんが真ん中、私と加奈ちゃんが一番離れたところ、である。

「先生、今日は見ているだけって言っていたから、あまり気にしないほうがいいよ」

 と言って、私は巻藁の正面から五歩ほど離れた位置に立った。足の位置を定める。

 右手には巻藁矢の真ん中から少し先端よりの部分、左手には弓の握り皮の部分を持ち、両拳を腰の上につけて肘を自然に後ろに流して構えを作る。

 一礼して一歩進み、右周りに身体を回して肩幅より少し広めに足を開く。歩幅にして四歩先の、両肩を結んだ線の延長線上に巻藁がくるようにする。

 これを弓道では『足踏あしぶみ』および『胴造どうづくり』という。

 弓を顔の前まで持ち上げ、弦の向こう側から巻藁矢が弦と十字になるように回して重ねる。

 巻藁矢は一メートルほどの長さがあるので、真ん中寄りを持っていても一度に筈の位置まで回すことはできない。

 そのため、弓を持つ左手の人差し指と中指で巻藁矢を挟み込み、弦と筈が重なるところまで右手で的のほうに送り出す動作をする。

 筈には細長い溝がついている。「ドングリの先端を長方形に切り欠いたところ」を想像すれば分かりやすいかもしれない。顔の前で、弦にその溝を差し込む。

 落ちないようにするために、弦のほうにも麻の繊維を巻きつけて太くしてあり、そこに筈をはめこむ。ただ、巻藁矢は部の共用のもので、今日私が使っているやつは自分の矢よりも溝が狭いらしい。

 弦に差し込むのに少々苦労したが、なんとかはまった。両手で矢を保ちながら、弓の本はずを左足の膝上につけると、そのまま右手につけたゆがけで弦を挟み込む。

 ここまでが弓道の『弓構ゆがまえ』。

 そして、頭を巻藁のほうに向けた。弓を射る準備ができたことになる。手順は巻藁でも的前でも大して違わない。

 両肘を軽く曲げて息を吐きながら両腕を上げる。

 弓道の『打起うちおこし』という動作だ。

 地面と腕の角度が四十五度ぐらいのところで一旦停止し、息を吐く。再び息を吸いながら左腕を前方の巻藁方向に真っ直ぐに伸ばす。

 右腕はそれに従って肘を曲げていき、概ね地面と平行になったところで停止させる。

 この状態を『大三だいさん』と呼ぶ。

 息を吐きながら弦を引いてゆくところは『け』と呼ばれる。

 矢が目の高さまで降りてくると、弦を引く際の弓の抵抗力が強くなった。そこから先がいつも苦労する。なんとか口の位置まで矢を下げてくると、そこで息は吐いたままで五秒ほど静止する。

 これは弓道では重要なポイントとなる『かい』という動作だ。

 左掌が引く力で押し込まれそうになるので、力を加える。左手の親指が曲がってしまい、とても「卵を握るような」感じにはならない。

 間違いなく握りつぶしているだろうが、そうしないと引く力とのバランスが維持できないのだ。

 危うい均衡を保ちながらじっと耐え、最終的に右手を開く。

 これを『はなれ』という。

 右腕を真っ直ぐ後方に伸ばすと同時に、左掌を弓の振動を抑え込むように握る。弦は上腕右側のところで留まり、左側には回りこまない。

 それでも矢は巻藁に向かって飛び、刺さった。さすがに大きいので狙わなくても外れることはない。

 そのまま大の字を三秒ほど保つと、息を吸いながら両腕を下げて、腰のところまで戻す。

 弓道の『弓倒ゆだおし』という動作だ。


 そして――反省する。


 なんだかすっきりしない。

 やり方が間違っているという自覚はある。しかし、他にどうしたらよいのか見当もつかない。とりあえず、巻藁に歩み寄って片手で巻藁矢を抜き取ると、加奈ちゃんに順番を変わるために横にどけた。

「やっぱり回らないね」

 加奈ちゃんは矢をつけずに弓だけを引き、左手を捻りながら弦を離した。左手の中で弓は少し下に落ちながらも、くるりと回る。器用なものだ。私にはとてもそんなに軽やかに回せない。

「まだ目のところで重くなるの?」

「うん。変わらない」

「美代ちゃん、力あるのにね。弓も私のと同じなのに、どうしてだろうね」

 私と加奈ちゃんの弓は学校の備品で、同じ時期に一緒に購入したいわば双子のような弓だ。

 どこにも違いはない。しかし、加奈ちゃんは目のところで急に重くなったりしないし、そのまま普通に引いてくるだけだという。

 試しに弓を変えてもらったことがあるが、やはり私が引くと目のところから急に重くなったし、加奈ちゃんはそんなことはなかった。

 ―-やはり自分には才能がないのだろうか?

 他の一年生は、誰もそんなことは言っていない。思わず溜息が漏れる。


 巻藁での練習を終えて、的前の練習に移行する。

 三笠先生は神棚下に移動して、パイプ椅子に座る。そして、やはり少し光る目で練習を見つめた。私は西條先輩と早苗ちゃんと一緒に、先に的前練習に入り、安土に五つ並んだ的のうち、中の三つを使った。

 さて、射場には二つの重要ポイントがある。

 最初に射手全員が横に並んで行射の準備をする『本座ほんざ』。

 そして実際に行射を行なう『射位しゃい』だ。

 おのおの小さな板が射場の西側に立てられている。私たちはそれを目印に、弓と四本の矢を持って本座に並ぶ。改めて立ってみると、やはり足元が覚束ない。

「入ります」

 西條先輩の掛け声とともに、射場の射位の位置まで三歩で進む。そこで身体を右に回して肩幅より広めに開くと、早苗ちゃんと私は少しだけ足が滑って縺れ、上体が傾く。

 四本の矢を足元に置くと、その中から一本だけ取って、矢を弦に嵌め込んだ。

 案の定、少し緩い。さっきの巻藁矢が良くなかったのだろう。弦に巻きつけた麻の糸を上と下から押して、隙間を詰める。それでなんとかはめることができた。

 使い込んだ弦はこういう時に助かる。麻が解れて少しだけ浮き、調整が可能になるのだ。巻きつけた直後だとこうはいかない。

 西條先輩が会に入る。

 彼女は性格が影響しているのか会が長くて、十五秒ぐらいかかってから離れる。その時に若干両腕が下がるのを気にしていて、すぐに真っ直ぐ水平に伸ばす癖がある。擬音で表現すると「ぴょこん」だ。

 一方、早苗ちゃんは会から離れまでが速い。口元まで下げてくると、そこで一呼吸間があるかないかで離れる。これも性格によるものだろうか、思い切りがよい。

 ただ、それが影響しているのか、離れた時に的の方向に上体が傾く癖がある。しかも今日は足元が不安定だから、少しだけ左足が的の方向にずれる。それを早苗ちゃんはなんとか踏ん張って耐えた。

 私の番である。

 巻藁の時と同じように行射を行なう。安土は水をたっぷりと吸い込んでいるようで黒々としており、的ははっきりと見えていた。巻藁と違うのは距離が離れているということと、的が小さいということだ。

 他の条件は一緒と言えば一緒なのだけれど、的前では巻藁のように気軽には離せない。「飛ばす」という意識が強くなるせいだろうか。会が七秒まで間延びする。

 左手の抑えが利かなくなる寸前で、思い切りをつけて「えいや」と離す。

 矢ははるか的の後方に飛び――私は足が滑って射場に尻餅をついた。

「ちょっと難易度が高かったようね」

 三笠先生が苦笑しながら私が立ち上がるのを手助けしてくれた。

 西條先輩や早苗ちゃんはもちろん、外にいた理穂ちゃんや加奈ちゃん、かおりちゃんまでが大きな物音に驚いて、心配そうにこちらを見ていた。

「怪我はなかった?」

「はい――なんともないようです」

 実は少しだけお尻が痛かったのだが、まあ、これは怪我のうちには入るまい。

「本当は、黙って見ているだけにしたかったんだけれども、仕方がないわね」

 三笠先生は独特の言い回しで話をしながら、全員の顔を眺めた。

「説明しましょう」


 全員を射場に集めると、三笠先生は神棚の下に立って話を始めた。

「射場にワックスを塗ったのは私です」

 なんとなくそう考えていた部員は頷いた。

「これには訳がいろいろとあるわけですが、今日はそこには触れずにポイントのみ説明します。まずは全員、胴造りをしてみて」

 私たちはおのおの射場で足を広げて立った。

「では次に、足の裏で射場の床を押すように力をかけてみてください」

 途端にあちこちから「きゃ」とか「うぉわっ」という奇声があがった。全員が足を滑らせて体勢を崩したからだ。先ほどまでまったく問題がなかった西條先輩やかおりちゃんまでが腰砕けになっていた。

「この通り、今の射場は外側に向かって押す力がかかると滑るようになっています。では、どうすれば普通に立っていることができるのか。皆さん、分かりますね」

 と言いながら、三笠先生は私達に背中を向けて両足を開いた。

「内側に、きゅっと――これが今日のポイントです」

 先生のベージュのスラックスの皺が、言葉と共に内側に向かってすっと消えた。

 全員が息を飲む。

 ただ、これは別にコツを理解して驚いた訳ではない。この瞬間、全員が同じことを考えていたと思う。

 ――先生、年の割にお尻の形が綺麗!

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