28話 騒がしくも愛しい世界
病室の窓から桜の花弁が舞い降りる。花弁は微風に乗りながらひらひらと旋回し、やがてベッドの上へと着地した。窓の向こうでは何本も隣接した桜の木が花弁を散らし、空と地を儚くも美しく彩っていた。
「そっか。そろそろ桜の季節も終わりなのか……」
ベッドに落ちた花弁をつまみながら、御影はどこか他人事のようにぼんやりと呟いた。
そこは宝条学園内に併設している病棟内だった。異能戦が終わった直後、すぐさまこの病棟へと運ばれ、そのまま意識を失ったのだ。
出血多量による意識不明の重体。
ぶっちゃけ、死ぬ一歩手前のかなりやばい状態だったらしい。
――というのを、三日後の今朝になって看護師から聞かされたのだった。
すでにお昼過ぎではあるが、頭の中は以前として明瞭としない。そりゃ62時間も眠っていたわけで、そんな長々と寝ていた後に頭がはっきりするはずもないかと結論付けた。
「………………」
ぼんやりとした状態で、今朝やってみせたように自分の状態を確認する。
御影以外だれもいない病室。わざわざ個室を取ったのか、そもそもベッドが御影の使用している分しかない。異能戦等で負傷した者はこの病棟へと運ばれる使用になっているのだが、別に個室の方が多いわけではない。大部屋の方が多いくらいだし、なんならこの病棟で治療している人間――医療スタッフが優れているので、異界取締菅なども利用している場合が多い――もけっこうな数でいるくらいだ。してみると、どれだけ自分が危険な状態だったのかを思い知らされる気分だった。
その証拠の一つともいうべき点滴の管は、右腕に刺さったままで剥がれないようにとテープで止めてある。感覚的にはわからないが、こうしている間も御影に栄養を送ってくれているのだろう。
そして、その先。
虎助に『切断』してもらい、最終的には自らの意思で再度落とした、今はなき右手首が――
なんて空恐ろしいことはなく、右手首もちゃんと治療を受け、傷跡すらなく綺麗さっぱりくっ付いていた。
さすがは世界に名高い宝条学園。現代医学と異能を掛け合わせた最高峰の治療を生み出したことだけのことはある。
とは言え、さすがにすぐ回復するわけでもないらしく、右手はまだ思うように上手く動かせない。リハビリ次第で以前のように戻るとは言われているので、そこまで悲観はしていないが。それなりに苦労を強いられることになるだろうか、そこはまあ立案者として甘受すべきだろう。
「………………」
左手で桜の花弁を指で遊びながら、御影は数日前の熱戦を反芻する。
日向との苛烈な一戦――様々な犠牲を払いつつ、御影達は見事勝利をもぎ取った。
と言っても、実際に日向が負ける瞬間を確認したわけではない。勝利の瞬間を目に焼き付ける前に意識を失い、この病棟へと回収されてしまったのだ。
目が覚めた後、真っ先にそばにいた看護師に勝敗を訊ねたので結果だけ知ってはいるが、どこか現実味がない。この目で見届けたわけではないので、いまいち実感が湧いてこなかった。
「でも勝ったん、だよなあ……」
言葉に出すことで再確認する。あの学園最強に勝ったという事実を。
正直、未だに信じられない。夢か幻なんじゃないかと疑ってしまう。
けれどこの胸の中には、確かに日向を極限まで追い詰めた余韻がおぼろげながらも残っていて――
「ミーくぅん! コマンタレブー!」
余韻が一気に弾けた。
というか、突然開かれた病室の甲高い音に、一瞬意識が飛びかけた。
煩わしく眉をしかめながら、御影は主犯へと視線を移す。
「目ぇ覚めたって聞いて、お昼休み使って来たったで。はいこれ、お見舞いの唐辛子」
音の出処は美々奈であった。やかましく入ってきたかと思えば、言葉通りスーパー袋いっぱいの唐辛子を下げて。
あれは一体全体どういうつもりなのだろう。美々奈なりのブラックジョークなのだろうか? 笑える要素が一切ないのだが。
「入院患者に唐辛子って……。あ、俺は簡単な果物の付け合わせ持ってきたぜ」
次に入ってきたのは、みずみずしいフルーツセットを手にした虎助であった。
他にも手提げカバンを携えており、中には雑誌やゲームなどの娯楽品が顔を覗かせていた。入院で暇を持て余している御影のために用意してくれたのだろう。その心配りが素直に嬉しい。美々奈も少しは見習え。
「フネさんもトラも、わざわざ見舞いに来てくれてありがとう。それに――」
二人に次いで入室してきた少女に、御影は相好を崩して声をかける。
「それに――アインも……」
御影に名を呼ばれ、ひょっこりと顔を出したアインは、
「どうも……」
どこか決まりが悪そうに頷き、アインはゆっくりと病室に足を踏み入れた。
「すみません。私だけなにも用意ができなくて……」
いたく申し訳なさそうに頭を下げるアイン。妙に気落ちした様子だったのは、そのためだったのか。
「いや、気にしなくていいよ。気持ちだけでも十分嬉しいし」
「……そうですか」
御影の言葉を聞いて、アインはホッと表情を弛緩させた。そこまで気にかけるなんて、実に律儀な少女だ。
「むしろ、他の二人はよく準備できたよね。お昼休みが始まってそう間もないのにお見舞いの品を持ってこれるなんて」
「ああ、俺はちょっと自分の寮までひとっ走り行ってきただけなんだよ。この前B組に勝ったって知らせたら、祝いの果物をいっぱい送ってくれてさ。ひとりじゃ食いきれない量だったし、御影の見舞いにどうかなって思ってよ」
「ウチは前々から用意してたで~。入院中どう処理したらええか分からん唐辛子をずっと眺める生活とか、考えただけで笑えるやろ?」
「ありがとうトラ。貧血気味であまりご飯も進まないし、水っぽい物が食べたいって思ってたんだ」
「あれ、ウチ華麗にスルー?」
美々奈が寂しそうに口許へと指を当てて言う。なんでもかんでもボケに対応してくれると思ったら大間違いだ。
「とりあえず座りなよ。ずっと立ってるのもなんだし」
そこにパイプ椅子があるから、と病室の隅を指差して、御影は着席を勧める。
言われて、各々パイプ椅子を運び、御影の横に組み立てた。ちなみに前からアイン、虎助、美々奈といった順である。
「あらためて、今日は来てくれてありがとう。みんなまだ昼食だって取ってないんでしょ?」
「気にすんなって。俺もフネさんも早弁しておいたしな」
「私も少食なので、特に問題はありません」
御影の問いに、それぞれ椅子に座って虎助とアインが返答する。今朝目覚めたばかりなのだが、どうやらそのすぐ後には連絡が行っていたらしい。
「しかし心配したぞ。意識不明の重体って聞いた時は。そのままぽっくり逝っちまんじゃねぇかってな」
「せやせや。D組のみんなもずっとそわそわしてたで。ミーくんが死んでしもうたらどうしようって縁起でもない話ばかりで。ま、ウチとトラくんで一喝しといたけども」
「そっか。まあでも良かったよ。こうして意識が戻ってさ。あはは」
「良くありません」
笑う御影を糾弾するように、美々奈が語勢を強めて言う。
「全然良くなどありません。死にそうな目にあっておいて、どうしてそんな風に笑えるんですか」
「アイン……」
厳しい目付きで見つめるアインに、御影は笑みを押し込んで真剣に向き合う。
「あなたはもっと自分を大切にすべきです。こんな風になってまで……」
言いながら、アインは御影の右手を取って慰めるようにさすった。
「痛々しくて、正直見ていられません。御影は私達の気持ちなんて考えてくれてないんです。結果だけを重視して、自分の体を道具にしか思っていないんです。他の方には人一倍気をかけるのに……」
「けど、それで君を救えた」
悲しげに瞳を潤ませるアインに、御影ははっきりとした口調で告げる。
握られた手を、弱々しくも必死に握り返しながら。
「ああでもしなきゃ、アインはこの学園から追放されるところだった。付き合い自体は一ヶ月もないけれど、大切なD組の一員だと思ってる」
ひとつひとつの言葉に思いを込めながら、御影は濡れた瞳を直視する。
これも看護師に頼み込んで聞いた情報なのだが、アインは無事学園へと残れるようになったらしい。
元々アインの在留を賭けた勝負であったし、生徒会長である日向が負けたとなれば、訴えを退けるしかない。
というより、これもひとえにアインが『鬼』のトラウマを乗り越えて異能戦に勝利したという事実が、他の生徒達にも伝わってくれたからに他ならなかった。
まあその立役者の一人である日向が、
『彼女には完敗だよ。このまま宝条から追い出すには惜しい人材だ』
などと情感たっぷりに流布してくれたおかげでもあるのだが。
きっと日向は日向で、仮に敗北したら
上手く生徒達の不満意識を払拭しようとかねてから考えていたのだろう。
まったく、本当に最後まで喰えない人だと思う。
そんなアインのために尽力してくれた人達に感謝しつつ、御影は心中を吐露する。
「だから、もしまたアインが危ない目にあったら、僕は迷いなく助けるよ。今回みたいに、死ぬかもしれない状況になったとしてもね」
「御影……」
そうして、じっと見つめ合う二人。そこには完全に二人だけの世界ができあがっており、何者にも冒せない雰囲気が広がっていた。
「ゴホゴホ、ゲフン!」
「わっ」
「きゃっ」
不意に響いた虎助の咳払いに、御影とアインは慌てて距離を取った。
「二人だけの世界に入るのはいいけど、俺達のこと忘れられたら困るぞ」
「ご、ごめん。ついうっかり……」
「すみません……」
虎助にたしなめられ、御影とアインは揃って謝罪を口にする。
というより、美々奈に限っては謝る必要はなかったのではなかろうか。御影とアインのやり取りを見ながら、実にツヤツヤした笑顔でメモを取っていたぐらいだし。
「そ、それはそうと、学園の様子はどうなってるの?」
急に気まずくなって、御影は思わず話題を変えた。
「ああ、それから大変な騒ぎになってるぜ。あの学園最強が最弱のD組に負けたって話で持ちきりになってるからな!」
虎助が心持ち興奮した表情で学園内の様子を伝える。
まあ無理もない。ルール上D組側に分があったとは言え、だれにも打倒不可能と言われた日向を異能戦で降してみせたのだ。その衝撃たるや、相当なものだったことは想像に難くない。
「じゃあ、普通に歩いてるだけで注目の的だったんじゃない?」
「おう! みんな驚いた顔して道を譲ってくれるぜ。あんなに爽快な気分を味わったの、生まれて初めてかもしれん」
「噂を聞いて下級生の子らもよく様子見に来てるで。しばらくはずっとこんな調子やろなあ」
最高だと言わんばかりに破顔する虎助に、美々奈が補足を入れる。下級生もわざわざD組の教室に訪れるなんて、日向という存在がどれだけ周囲に影響を与えていたのかが窺い知れる。まあ、単純なD組の評価が低過ぎただけとも言えなくはないが。
「でもよお考えたなあ。だれやったけ? あの影薄い子に『異能封じ』を渡しておくなんて」
「無空さんね。確かに目立たない子ではあるけれど、だからこそ生徒会長の意識からも外れてくれるんじゃないかって期待してたんだよ。無空さんの異能が今回に限っては有効に働いてくれたってのもあるけれど」
「でもびっくりしたんちゃうん? まさかトドメに近い役割をやらされるなんて夢にも思わんかったやろし」
「うん。すごく驚いてたよ。むしろ驚き過ぎて『わ、わわわわたしなんかで本当にいいんですかぁ!?』って腰を抜かしてたぐらいに」
頼んだ当初は一抹の不安は拭えなかったけれど、結果的に彼女はよくやってくれた。というより御影に名前と異能まで覚えてもらっていたことがよほど嬉しかったらしく、
『か、感激ですぅ! わたしみたいな道端の雑草同然の存在を覚えてくれていたなんてぇ!』
と、なぜか好印象を抱かれるまでだった。
まあおかげで説得もさほど苦労せずに済んだし、こちらとしては逆にありがたかったくらいなのだが。むしろ今までどれけ不遇な扱いを受けてきたのだろうと思うと、憐れみを感じずにはいられなかった。
「でもまさかここまでミカの策が嵌るなんてなあ。生徒会長が俺達に油断してくれてたっておかげもあるけど、妙に嵌り過ぎじゃあなかったか?」
「そうですね。日向さんとは前々から知り合いだったみたいですが、具体的にどういった関係なのか、すごく気になるところです」
「思い返してみれば、会長さんの行動読め過ぎな感じやなかった? やっぱ深い間柄やったん?」
「あー。いや、それは……」
三者三様の問いかけに、御影は言葉尻を濁しつつどうにか追求を避けようとしたその瞬間――
スパァァァァンっ!!
という鼓膜が痺れそうなほどの開放音に、病室にいただれもが拍子を衝かれたように肩を跳ね上げた。
おそるおそる、根元である病室のドアを見やる。
果たして、そこには――
城峰日向が、剣呑な空気を放ちながら佇んでいた。
「生徒、会長……?」
間の抜けた顔で、突然現れた闖入者の名をおぼろげに呼ぶ。
が、日向はそんな御影に意を介さず、これといって挨拶もずんずんとベッドの前まで歩む。
その険しい顔付きに、だれもが困惑の色を浮かべた。
なぜ生徒会長がここに。昼休み中ではあるが、役職柄なにかと忙しい身の上のはず。
そんな彼女がわざわざ病室に足を運んだのか。
ひょっとして、負けた腹いせに恨み節でも吐きに来たのだろうか。
――なんて、みんなは考えていることだろう。
御影以外の三人は。
日向はここに訪れた理由なんてひとつしか思いつかない。
御影だからこそ、ひとつしか思いつかない。
それは――――
「みっちゃあああああああんっ!」
と。
日向はじわりと目尻に涙を溜めて。
思わず見惚れるような綺麗なフォームで、御影にダイブした。
「ぐへぇ!?」
「みっちゃんみっちゃんみっちゃん! 私めちゃくちゃ心配したんだよっ! みっちゃんが死ぬかもしれないって聞いてずっと気が気でなかったんだからぁ!」
カエルが潰れたような悲鳴が上げて悶絶する御影に構わず、日向は御影の胸に顔をこすり付けてまくし立てる。
「んもう! なんであんな無茶するの! みっちゃんって昔からそう! 目的のためなら危険な真似だって平気でしちゃうんだからぁ! バカバカバカぁ!」
「せ、生徒会長……。ひとまず落ち着いてください。あと、みんなの目が痛いので僕からも下りてくれると助かるんですが……」
「生徒会長じゃなくてひぃちゃん! 敬語もダメ! あとみっちゃんからも下りない! 分かった!?」
「わ、分かったよ。ひぃちゃん……」
語気を荒げて矢継ぎ早に言う日向に、御影は不承不承といった態で頷く。
一方、御影と日向以外の人間はどうしているかというと。
ハニワと化していた。
完全に魂が抜けている様子だった。
ああ、空虚な視線が痛い……。
「でも良かったよぉ。みっちゃんがちゃんと生きててぇ。もしあのまま死んじゃってたら、私、私ぃ~っ」
「そんなに泣かないでひぃちゃん。ああほら、涙と鼻水でぐしょぐしょじゃん。ついでに僕の胸も濡れちゃってるし。はいティッシュ。これでチーンして」
「うぅ、チーン」
「あ、あのー。ミーくんは会長さんと一体どういった関係なん?」
どちらが患者なのかわからないほど甲斐甲斐しく日向の世話をする御影に、おずおずと美々奈が挙手して問いただす。
「あー、うん。今までずっと黙っていたんだけど、ひぃちゃん――生徒会長とは幼馴染みなんだよ」
『幼馴染み……』
三人――アインに虎助、美々奈が異口同音に呟く。表情から読み取るに「道理で……」といった具合か。
まあ昔馴染みでもない限り、日向の心理をあそこまで理解するのは不可能だろう。だからこそ、御影の手首を切り落としての鮮血作戦も抜群の効果を発揮してくれたわけなのだが。
みんなもそれが分かってか、いやに納得した風だった。先ほどまでのやり取りを見て納得せざるをえなかったというのもあるのだろうが、こちらとしても根掘り葉掘り余計なことを訊かれずに済んで安堵した。中には話したくない思い出なんかもあるし。
「ちょっと違うよみっちゃん」
とここで、人知れず胸を撫でおろす御影をよそに、日向がとんでもない爆弾を投下することとなる。
「幼馴染みじゃなくて、
『許嫁ぇぇ!?』
どうしよう。一層事態がややこしい方向に流れてしまった。
「御影、その歳ですでに約束されている方が?」
「やるなあミカ。俺も彼女くらいなら作ったことあるけど、さすがに許嫁まで作るという発想まではなかったぞ」
「スクープやあ! 大スクープやでこれはぁ!」
にわかに盛り上がりを見せる病室で、御影はひとり頭を抱えて黙り込んだ。どうしてこうも厄介な問題が増えるのだ。
「違う。違うんだよみんな。許嫁って言っても小さいにやったおままごとの延長みたいなもので……」
「ひどいみっちゃん! ちゃんと約束したじゃない! 大人になったら結婚しようねって!」
「いやしたけど、確かにしたけど……」
「ふぇぇぇぇんっ。みっちゃんに婚約破棄されたぁ。私のことなんて嫌いだったんだあ~」
「ちょ、泣かないってば。違うって。ちゃんと好きだってば。ひぃちゃんのこと大好きだよ」
「ほんと?」
「本当」
「ほんとにほんと?」
「本当に本当だってば」
「えへへ。みっちゃん大好き~」
今泣いたカラスがもう笑った。
その向日葵みたいな明るい笑顔に、御影もつられたように笑みを返す。
まったく、ひぃちゃんは。
ここまで明け透けな好意を寄せられたら、嫌いになんてなるはずがないのに。
「いててっ」
とそこで、不意に頬をつねられた。
「……? なにアイン?」
「……別に」
つーん、とそっぽを向くアイン。なにか機嫌を損ねるような真似でもしただろうか。
「いきなりなにをするアイン・ソードフェルト。私の大事な旦那様なんだぞ」
言って、日向がその豊かな双丘を御影の顔面に押し付けてきた。いつの間にやら許嫁から旦那様へと昇格してしまっている。
「つーか生徒会長、御影と俺らとで接し方が違くないか?」
「仕方がなかろう。御影が人前では恥ずかしいから、なるべく毅然としていてくれって頼むのだから」
もはや敬語を使うのもバカらしいと思ったのか、タメ口で訊ねる虎助に、日向は以前のような凛然とした態度で疑問に答える。
「でも今日ぐらいは甘えてもいいよね? だってみっちゃんのことすごく心配してたんだもん。私もうみっちゃんからずっと離れない~」
「ひ、ひぃちゃん苦しい。呼吸ができないって……」
豊満な胸を押し付けられ、御影が苦悶の表情を浮かべながらしゃにむに日向の腕をタップする。途中で「とんだバカップルやな」という声が聞こえた気がしたが、弁明している余裕などなかった。
「つーこと、なんだ。ミカがやたら異能戦にこだわってたのも、ぶっちゃけ生徒会長のせいだったりするのか?」
ようやっと日向から解放され、どうにか一息ついた頃、ふと漏らされた虎助の正鵠を射た問いに、御影は思わずたじろいだ。
が、もう隠し立てしたところで仕方がないだろう。すでに日向との関係は明かされてしまっている。変に誤解されるよりは、正直に話した方がいいだろう。
「そうだよ。昔ゲートに巻き込まれて異世界を漂流していた時、たまたま居合わせた今の生徒会長に助けられてね。その時に言われた『君は弱い』って言われたセリフがずっとトラウマになってて、それでいつかひぃちゃんを倒して、一人前の男として認めてもらえるようにってずっと頑張ってたんだよ」
そう。
すべては日向に認めてもらうために、進学先まで合わせて宝条学園へと入学したのだ。
日向に言われた『弱さ』を克服するために。
しかしまさか異能の素質がないと分かり、門前払いをくらいかけた時は愕然としてしまったが、情けないことにそこでも日向の世話になってしまい、今日まで至っている。
だがここで得られたものは、どれもかけがいのない――決して一言では言い表せられないものばかりだった。
D組という史上最弱と言われるクラスに入れられてしまって。
クラスメイト達ともいざこざがあったりして。
それでも足掻いて、もがいて、死に物狂いで自分なりの戦い方を模索して。
そうして紆余曲折あって、D組をまとめるようになって。
自分にも、だれにも負けない強さがあるのだと分かって――。
こうして、今の自分がいる。
日向を倒せたのも、言うまでなく御影ひとりだけの力などではない。
アインや虎助、美々奈といった苦楽を共にした仲間達がいたからこそ、日向に勝てたのだ。
昔は日向に言われた『弱さ』に捕らわれて妄執に憑かれていたけれど。
今なら、声を大にして言える。
単純な力関係ではない、確かな強さを持って。
自分はもう、弱くはないのだと――。
「だからまあ、今回の件でようやく憑き物が落ちたっていうか、遅くはなったけどこれでスタートラインに立てたって感じなのかな」
観念したという風に語る御影に、みんな神妙そうな顔で耳を傾ける。
「……みっちゃん、ひょっとしてずっとあの時のことを気にしてたの?」
「そりゃ、まあ」
日向が異世界に旅立って尋常ならざる力を得たと知った時も大概焦ったものだが、やはり一番ショックだったのは日向に言われた『弱い』の一言だろう。
だってそれは、御影にしてみれば――
「男として好きな人に弱いだなんて言われたら、なにもしないわけにはいかないよね」
これが御影の行動原理だった。
好きな人を守れるだけの力が欲しい。
男ならば、当然の願いだ。
「ごめんねぇ~! ごめんねみっちゃあああん!」
ガバッと力強く抱きしめられ、御影は再び呼吸困難に陥った。
「みっちゃんがそんなに気にしてたなんて知らなかったのぉ~! みっちゃんのことを悪く言うつもりなんて全然なかったのぉ~! ほんとにほんとだよ~っ」
「うんうん。分かってる、分かってるからひとまず離れてひぃちゃん。でないと背骨が! 背骨がぁ~!」
みしみしと背骨が軋むような音を耳で拾いながら、御影は苦鳴を上げる。そんなはずないと思うが、これって日向の異能である『人壊』を使っているのではなかろうか。そうでなくとも怪力過ぎる。
「ごめんねみっちゃん。でももう心配しないで! これからは私がいっぱい頑張るからね!」
「げほげほっ。ど、どういう意味?」
日向のホールドから解放されて、咳き込みながらも御影は訊ねる。
「私、今度からみっちゃんと一緒に住むことに決めたから! これでもうなにも心配する必要はないよね!」
おかしい。なにか御影が意図する方向とは真逆に爆走するような発言が聞こえた気が。
「ええええええええ!? ミーくん、生徒会長と一緒に住むん!?」
「あー、そういやミカって実家暮らしだったなあ。それなら、一緒に住めなくもないのか」
「……………………」
日向の爆弾発言に、三者三様の反応を見せるかけがいのない仲間達。
なぜだろう。自分で言っててかけがいの仲間達という言葉にうすら寒いものを感じる。
というか、アインが怖い。めちゃくちゃ怖い。北極のような凍てつくような視線がかなり怖い。
一体、なにがそんなに気に喰わないというのだろう。
いや、それよりも先に日向の真意を探らねば。
「なに言ってるのひぃちゃん? 一緒に住むってなんでさ?」
「だってみっちゃん、私に弱いって言われたのはイヤだったんでしょ?
だったら私が一緒に住んで、みっちゃんが強くなれるように毎日訓練すればいいんだよ!
それにこれからはずっとみっちゃんと一緒にいられるし、いざって時は私が守れるし、一石二鳥どころか三鳥だよみっちゃん!」
なるほど。そうきたか……。
「でもほら、ひぃちゃんにはこの間勝てたわけだしさ……」
「それはD組としてでしょ? みっちゃん個人が強いわけじゃあないでしょ?」
「そうかもしれないけど、やっぱ若い男女がひとつ屋根の下なんて世間的にまずいよ……」
「許嫁なんだからなにも問題ないよ。だいいち、みっちゃんって放っておいたら色々と危なかっしいんだもん。ちゃんと私が見ておかないと!」
「けどさ、ひぃちゃんって寮生活のはずでしょ? 引っ越しの準備だって大変だし、それに母さんにはなんて説明すればいいの? 母子家庭だから母さんだけ説得すればいいわけだけど、絶対反対されるって。母さんが厳しい人だってのは、ひぃちゃんも知ってるでしょ」
「引っ越しぐらいどうにでもできるから大丈夫。あと、おばさまのことはみっちゃんの方でどうにかしてよ。一度だけ私の言うことをなんでも聞いてくれるって約束してくれたじゃない」
「あー……」
言った。確かに言った。日向に三つだけ異能戦を有利に進めるための条件を叶える代償として、そんなことも口走ってしまった。
しかしまさか、ここでその権利を行使するとは。日向がちゃんと条件を呑んでくれただけに、約束を反故にするわけにはいかない。
――こりゃあ、母さんと全面戦争になっちゃうなあ。
「……分かった。難しいとは思うけど、どうにかしてみるよ…………」
「やったあ! みっちゃん大好き~っ」
「ウヒョー! これはおもろい流れになってきたでぇ!」
「その歳で彼女を実家に住ませるとか、マジでやるなあミカ」
「………………不潔です」
いつ看護師に叱られるとも分からないざわついた病室の中で、御影は心底困った顔でひとり苦笑する。
これはある意味日向を倒す時よりも、ずっと一筋縄ではいかない事態になりそうだ、と――、
Dの下克上 戯 一樹 @1603
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