19話 アインの過去



 私が初めて異世界という存在に触れたのは、ちょうど十四歳になろうかという時期でした。

 その頃の私はまだ海外育ちで、両親と共にごくごく普通の生活を送っていました。唯一他所とは違う点があったとすれば、異能反対運動に加担していたことぐらいでしょうか。

 そういった活動は世界中どこでも存在していると思いますが、私の両親もとある思想団体に加入していてまして、異能力は人類に過ぎた力なのだと声に大にして訴えていました。

 私のいた国ではゲートの発生率が極めて低く、異形による侵攻もほとんど無かったので、きっと日本のような最も被害の多い国を対岸の火事ぐらいにしか思っていなかったのでしょうね。日本側から見たらさぞや目の上のたんこぶだったことでしょう。

 そんな環境にいたせいか、私自身も異能に対して否定的な立場でした。何度か両親と一緒にデモ隊に参加したこともあるぐらいです。

 けれど心のどこかで憧れを抱いていたのでしょうね。昔から正義感の強い性格だったので、日本などで異界取締菅の人達が活躍している映像が家や街中で流れていた際も、興味のない風を装いつつ、ずっと意識していました。

 そんな心境が一変したのは、とある災害に巻き込まれからでした。



 はい。異世界の迷い子ロストチャイルド――とある日にゲートに巻き込まれ、異世界へと渡った際、私の価値観はガラリと変わりました。



 厳密に言うと異世界に渡って、とある村人に保護されてからになるのですが、ひとまず話を進めましょう。

 先ほども話しましたが、突然異世界へと渡って途方に暮れていた私に、たまたま通りかかった付近の村人に声をかけてくださった方がいて、案内されるがままに村へと訪れました。

 幸いにも言語は通じたので――こういった事例は他にも多々あるので別段珍しいことでもないのでしょうが――ひとまず意思の疎通ができると分かって、労働を条件にしばらく村に置いて頂けることになりました。今にしてみれば、とてもラッキーなことだったと思います。見ず知らずの得体の知れない人間を条件付きとはいえ、村に滞在させてくれたのですから。

 村自体は小規模なもので、人口も百人にも満たない程度でした。

 それでも村は活気に満ちていて、いつも笑顔で溢れていました。日本で言うヤヨイ時代――でしたでしょうか。文明は私達の世界に比べるとつたないものではありましたが、これといった問題もなく平和に暮らしている印象でした。

 が、それはあくまで表面上でしかないとのちに知ることとなります。

 その村では近年よく異形――牛に似た魔物が出没するらしく、何度も被害を受けていたことを知りました。死傷者すら出ていたことも。

 村を手放す道もあったはずなのに、彼らは頑なに故郷から離れようとはしませんでした。

 なんでも村には『鬼神様』と呼ばれるご神体――巨大な岩石があるらしく、その守り神を見捨てるわけにはいかないと言うのです。信仰心の強い村だったのでしょうね――どれだけ魔物に襲われようとも、『鬼神様』を守るのが自分達の宿命だと常日頃から口にしていました。

 一応護衛といいますか、戦士のような人はいたにはいたのですが、なにぶん小さな村なので数が足りず、女性も戦闘要員として駆り出されるぐらいでした。



 ええ。高坂さんの言う通りです。私が村に迎えられたのは、戦闘員として補充したかったからなんです。



 愕然としました。戦うすべなんてなにも知らない私に突然魔物の相手をしろと言われても、正直言って困惑しかありませんでした。

 ですが、私に選択肢はありませんでした。



 戦えないと言うのなら、今すぐ村から出ていけと言われたのです。



 無論村から追い出されたら、もうどこにも行く当てなどありません。知り合いもいなければお金もない――まして異世界で生き抜く知識すらない私に、大自然の中をひとりで生きていくことなど到底不可能でした。

 私は選ぶしかなかったのです。武器を手にとって魔物と戦う過酷な道を……。

 日々を魔物が出没しないことを祈りながら、時間は流れていきました。

 そうして祈りも虚しく、私は魔物と対峙することになります。

 その日はいつものように、農作業の手伝いをしているところでした。

 突然村の外れから悲鳴のようなものが聞こえたと思ったら、急にみんなの様子が変貌したのです。

 農作業は一時中断となり、ある人は避難誘導を。ある人は武器を手にとって騒ぎの中心に向かっていきました。



 そうです。魔物が出没してしまったのです。



 約束通り、私もクワを握らされて魔物の討伐へと駆り出されました。恐怖に震えながら魔物の元へと向かったのを今でも鮮明に覚えています。

 魔物は三匹ほどいまして、話に聞いていた通りの姿をしていました。牛に近い獅子といった姿形でしたが、黒々しい毛皮や太く尖った角。肉なんてたやすく断ちそうな鋭い牙が生えていて、一層腰が引けてしまいました。想像していたよりずっと大きかったのも、尻込みする要因の一つだったと思います。

 私が駆けつけた時には、すでに何人か負傷していて、劣勢を強いていられていました。それも屈強そうな男性が何人もです。とてもじゃありませんが、私なんかが太刀打ちできるような相手ではありませんでした。

 そうして弱腰でいたところを狙われたのでしょう。急に魔物の一匹が私目掛けて突っ込んできたのです。

 私はすぐさま逃げようとしました。ですが足が竦んでしまい、思うように身動きが取れませんでした。

 私はがむしゃらにクワを振り回した。それぐらいしか、魔物の突進を避ける方法がなかったのです。周りの方もすぐに駆けつけようとしてくれていましたが、魔物の方が断然早いくらいでした。

 そうして、魔物がすぐ目の前へと迫った瞬間――



 魔物は、体を傾ませてあらぬ方向へと飛ばされたのです。



 唖然としつつ状況をよく観察すると、どうやら無作為に振っていたクワが魔物の体を貫き、そのまま力の限り吹っ飛ばしたようでした。

 その魔物は、それっきり動こうとはしませんでした。体から大量の赤黒い血を流して、明らかに絶命していました。



 はい。この時私は、肉体強化系の異能力を得たのだと知りました。



 いつの間にこのような異能を身に付けたかは分かりません。異世界に訪れたと同時に得たのか、はたまた村に滞在している内に得たのかは判然としませんが、村の方々は鬼神様のご加護であると、私の異能に『鬼』と名付けました。

 それから私は、村の守護神として崇められるようになりました。

 面映くて仕方がありませんでしたが、悪い気はしませんでした。異能に対してあれだけ悪感情を抱いていた私が、異能のとりこになってしまっていたのです。

 私はおごっていたのでしょう。強大な敵を難なく当滅できることに浮かれ、村中から天上人のごとく崇拝されることに調子付いていたのです。

 そしてその栄華は、数ヶ月後にあっけなく終わりを迎えることとなります。



 『鬼』の噂を聞いたさる大国が、私を捕らえようと大挙して侵略しに来たのです。



 後で聞かされた話ではあるんですが、その大国は私を脅威と捉えたらしく、いつか侵攻される前に滅ぼそうと考えていたようです。

 言うまでもありませんが、私にそんな気は毛頭ありませんでした。村の人達に崇められながら、時に魔物退治という役目を果たしつつ静かに暮らせればいいと――いつからか元の世界に帰りたいという気も薄れて、そう思っていました。

 ですが、私のそんな願いは泥に塗れるように、進軍してきた大国にあっけなく蹂躙されました。

 もちろん、私も戦いました。けれどどうしても同じ人間を殺すことができず、昏倒させるか戦えない程度の手傷を負わせるぐらいしかできませんでした。

 そういった甘さが裏目に出てしまったのでしょう。村人は次々に惨殺され、いつしか人質まで捕らえるまで陥っていました。

 それまでどうにか血煙や死臭にまみれながら――涙を流して吐き気を催しながらどうにか生き延びていたのですが、投降しないと人質を全員殺すと敵兵に叫ばれて、そうして本当に首元へと刃を振り下ろそうとしていたのを目にしてしまって――



 ――次の瞬間、私の視界は突如闇に閉ざされました。



 ◇◆◇◆



「気が付いた時には、村人敵兵問わず、全ての人間を手にかけた後でした……」



 と。

 ガタガタと震える肩を抱いて、アインは声を絞り出すように言葉を発した。

 いつしか空は微かに星を散らせ、夕陽が沈みかけようとしていた。

 どこからか香ばしい香りが漂う。おそらく女子寮にいるだれかが夕飯の準備をしているのだろう。

 階下から女子達の姦しい声が届く。時間が時間なので、ほとんどの入居者が帰ってきているのだろう――御影が女子寮に訪れた時より一際賑やかな喧騒が耳朶を打った。

 が、そんな快活な雰囲気と相背反するように、アインの周りを包む空気は、ともすれば今にも張り裂けそうなほど危うい均衡の中にいた。

 真実、アインはくずおれそうなほどの精神的負荷に耐えながら、必死になって言葉を紡いでいるのだろう。見ているだけで胸を締めつけられる思いだった。

 それでも、御影は。

 酷なことをさせていると分かっていても、中断するわけにはいかなかった。



 アインを救うには、彼女の心の闇を全て聞き届ける必要があったから――。



「それが、初めての暴走だったの?」

 顔を伏せているせいで表情が窺えないでいるアインに、御影は気遣うような優しい語勢で問いかける。

「…………はい。記憶はありませんでしたが、全身は自分のものでない大量の血に濡れて、手には人の肉を抉ったかのような感触がこびり付いていました。覚えはないのに、人を殺めた時の感触が鮮明に残っていたんです」

 アインが肩から手を離し、目元へと近づける。

 垂れる前髪から覗けるその瞳はとても虚ろで、されど恐ろしいものを見るかのように、目を極限まで剥いていた。

「今でも離れないんです。指先から手首まで、肉を穿つ感覚が。粘つく血の感触が。自分がどれだけ罪深いことを犯してしまったのか……」

「なんの慰めにも弁明にもならないけれど、君に非はないよ。不幸な事故だったんだ」

 目の前で発狂してしまいそうなほど不穏な雰囲気を醸し出すアインに、御影は細心の注意を――衝動に任せるまま屋上から飛びおりないよう注視しながら、言葉を被せる。

 アインはそんな警戒したように気を払う御影を見て空虚な笑みを覗かせつつ、

「日向さんと同じようなことを言うんですね……」

「生徒会長と……?」

「ええ。壊滅した農村で死んだように佇んでいた私に、たまたま異世界遠征に来ていた日向さんに助け出された後になりますが」

 日向の名前を出した途端、鎮静効果でもあったのかいくらか平静を取り戻したように焦点の定まった視線で御影に向き直った。

「精神的に限りなく摩耗していた私に、日向さんは優しく頭を抱き寄せて話を聞いてくれました。決して無理に問い詰めるでなく、時間をかけて静かに耳を傾けてくれた彼女に、いつしか私は心を許して胸襟を晒していました。

 そうして私の話を聞き終えて、日向さんは穏やかな口調でこう言ってくれたんです」



 君は何も悪くない。結果としては最悪だったかもしれないが、君は君の信念を貫いて戦った。敵に媚びず、村のために心血を注いだ。そこは何者にも非難される云われのない絶対正義だ。それだけは私が認めよう。

 ただ二つほど難点を上げるなら、予想できない不運が重なってしまったこと、それから――



 ――――君が弱かったせいだ。



「その言葉に、私は初めて自分の愚かさに気付きました。自分は強いのだと勘違いして、この力があればどんなものからでもみんなを守れると過信して、突然与えられた異能を神様からの授けものだと信じて疑わず、いつしか自分は村の人達を導くために異世界へと飛ばされたのだと自惚れて…………そういった自分の矮小さに、私は心から恥じたのです」

 反芻するように瞼を閉じて、アインが慚愧ざんきの念を述べる。

 その姿は自身に対する悔恨に満ちていて、本心から語っているであろうことは疑うべくもなかった。

「じゃあそれから生徒会長と交流が?」

「はい。こちらの世界へと戻ってからはずっととある施設に収容されていたのですが、十五歳になったある日に、日向さんから宝条学園に来ないかと誘われまして……」

 それで日本語を勉強して、宝条学園へと海外留学を果たしたのか。

 たった一年ほどでこれほど日本語を話せるようになったのもすごいが、仮にも危険人物であるアインを海外に留学させるだけの権力を持つ宝条学園にも驚きを隠せない。いや、どうせ日向が裏で関わっているのだろうけど。

「施設って、やっぱり異能関係の?」

「その通りです。もっとも母国では異能の研究が他国より遅れていたので、日本から専門チームに来て頂いて、私の異能を調べてもらったのですが」

「暴走した原因も判明したの?」

 時間はかかりましたが、と首肯するアイン。

「どうやら極度のストレスがかかると暴走するようでした。初めはちゃんとリミッターがあったようなのですが、一度決壊したことで暴走しやすい状態になってしまっていて、しばらくは異能を抑える投薬治療が続きました」

「そこで異能を消そうという動きはなかったの?」

「異形による被害は少ないんですが、同時に異能力も少ない国でしたので、貴重なサンプルとして扱われていたんです。特に私は人口的にではなく異世界から異能を得た特殊な例でしたので、一層丁重にされている感じでした」

 ただ国民の何割かは、私に対して良くない感情を抱いていたようですが。

 言って、アインは寂しそうに目元をかげらせた。その中に親類や近しい人がいたのかもしれない。

 日本のように異形による被害が多い国だとそうではないが、被害が少ない国だと反異能力団体が活発的だったりする。おそらくアインもそういった団体から害意(施設の中にいたはずなので直接ではなく関節的に知ったのだろうが)を向けられていたのだろう。自国民に厳しい目で見られてどれだけ心細かったことか、想像するだけで反発団体に憤懣やるかたない思いを抱く。

 ただ唯一救いだったのは、アインを異形に対抗するための貴重な人材だと国が見てくれたことだろう。向こうにしてみれば単なる研究材料としか見なしていなかったかもしれないが。



 ――つまり異能戦の時も、クラスメイトが目の前まで吹き飛ばされたことが原因で暴走したということか。



 クラスメイト達――特に『念動』で吹き飛ばされたという当事者からの証言を聞いて推論を立ててはいたが、どうやらある程度当たりだったらしい。

「投薬治療って、まだ続いているの?」

「精神的に落ち着かない場合などは、たまに。ですが異能を発動している時にしか暴走しないので、日常生活に支障はありません」

「日常生活には、か……」

 逆に言えば、また異能戦をやった際、なにがきっかけで暴走するか分からないということにもなる。。前回みたいに仮想フィールドにいた状態で暴走したまま帰還した場合、一体だれが止めてくれるというのだろう。考えただけで背筋が寒くなってきた。




 ――いや多分なんらかの対応策はしてあったんだろうけど、相変わらずとんでもない真似をしでかすなあ。



 脳裏で不敵に笑む日向を浮かべつつ、御影は人知れず嘆息をつく。

 邪推でしかないが、アインが普段からクールを装っているのも、少しでも心を波立てまいと努めているせいなのかもしれない。微笑ましくもあるが、同じくらい末恐ろしい。やはり安易に使うべきではないだろう。

 だが、今回の相手は学園最強と名高い生徒会長。やはり危険であるとは言え、アインの異能は重要だ。ここで手を引くわけにはいかない。

「ソードフェルトさんの事情は分かったよ。転校に前向きというか、ここに居づらい心境もね。それでも僕は君に残ってもらいたいんだ」

「………………」

 至って真摯に語りかける御影に、アインは逃げるように目線を逸らして閉口する。

「こういう言い方をすると打算的だと思われかねないけど、D組のしょぼい異能力だけだと心もとない。だからこそ少しでも戦力が必要なんだ。もちろん無理に異能を使ってもらうことになるかもしれないけれど――暴走というリスクを承知した上で、君に協力を頼みたい」

「ですが、私は――」

 最後まで言い切らず、アインは口を真一文字につぐむ。

「どうしても無理かな……?」

「………………怖いんです」

 御影の問いに、アインは少し間を空けてから、重々しく呟いた。

「怖いんです。また異能が暴走したらと思うと、だれかを傷つけてしまうかもしれないと思うと、怖くて怖くて仕方がないんです……っ」



 だってこの力は、人を不幸にしかしないものだから――――。



 肺腑から全ての負を吐き出すように、アインは胸中を吐露する。

 ずっとせめぎ合っていたのだろう。もう一度宝条学園に戻りたいという気持ちと、また『鬼』の力が暴走したらという恐れとで。

 が。

 D組に戻りたいという気概が窺えただけでも十分だ。

「そんなことないよ。異能なんて包丁と同じでさ、使い方次第で便利な道具にもなるし、人を傷つける凶器にもなる。要はその人の心がけ次第だと思うんだ」

「でも、そんなのは理屈です。こんな危険な異能、もっと早くに無くなれば良かったんですっ!」

 苦悶の表情で、アインが悲痛に叫ぶ。

 そうして、息を切らしたように肩を上下させるアインを見て御影は、

「わかった」

 と静かに口を開いた。

「だったら証明してあげる。君の異能が人を不幸にさせるだけじゃあないってことを」

「……? なにを――」

 言っているんですか、とまでは聞かなかった。

 ――否、聞けなかった。



 アインが疑問を投げる前に、御影が背中から屋上に落ちたのだ。



 体が猛烈な勢いで地面へと落下していく。

 耳元に強風が触れ、鼓膜が悲鳴を上げる。赤と黒の中間色で染まる空が視界に映り、どんどん離れているはずなのに、不思議と距離を感じないなあと淡く輝く星々を眺めながら、そんなずれた考えが頭を過ぎった。

 時間にしてまだ一分も経っていない。けれど体感だけはもう何十分と過ぎているように思えた。

 女子寮は六階建て。その屋上から飛びおりようものなら、確実に死はまぬがれない。

 気付けば、御影の体はちょうど二階の位置まで迫っていて――



「――高坂さんっ!!!!」




 御影はコンクリートでできた地面の上を、服が汚れるのも厭わず仰向けに寝そべっていた。

 体のどこにも外傷はない。ただ腕を強引に引っ張られた時の痛みが肩まで走っていたが、この分だと骨折の心配はなさそうだ。

「な、にを――」

 不意に、掠れた声が耳に届いた。

 肝を抜かれたような面持ちで、御影は声の主へと視線を向ける。



「なにを考えているんですかっ! いきなり屋上から落ちるだなんて、正気ですかあなたはっ!!」



 肩で息をしながら力なく四つん這いになっているアインに、

「あはは。ごめん……」

 と御影は苦々しい笑みを浮かべた。

「なにをヘラヘラと笑っているんですかっ! ギリギリで助けられたから良かったものの、もう少しで死ぬところだったんですよ! 頭に虫でも沸いているんですか! バカですか鈍感なんですか狂人なんですかっ!!」

 アインが眉を怒らせながら矢継ぎ早にまくしたてる。そのすごい剣幕に、御影は笑みを引きつらせた。



 そうなのだ。アインの言葉にもあった通り、地面へと衝突する寸前、『鬼』の力を発動して御影を抱き上げたのだ。



 我ながら、とんでもない無茶をやらかしたなと思う。今でも落下した時の恐怖が全身に伝い、まともに体を起こせないくらいだ。手足が震えてまるで言うことを聞いてくれない。

 それでも口だけは元気なようで、

「……アインさんって、怒るとけっこう怖いんだね。クールな印象しかなかったから、正直めちゃくちゃびっくりした」

「怒って当然でしょう! どれだけ鈍感なんですか!」

「でも、本当に良かったよ」

「良くありません! 一体どこが良いと言うんですか! もっと反省なさい!」

 いやそうじゃなくて、と注釈しつつ、御影はアインを見つめてこう言った。



「ちゃんと暴走させずに異能を使えたみたいでさ」



 御影の言葉に、アインは今気づいたように「あ……」と小さく声を漏らした。

「私、どうして……」

「推測でしかないけど、強いストレスで暴走すると言っても、気の持ちよう次第で変わってくるんじゃないかな」

 先ほど、無我夢中で御影を助けようとした時のように。

「じゃあ、あの時屋上からわざと落ちたのも……」

「うん。まあ当てずっぽうでしかないけれど、きっとそうじゃないかってね」

 きっかけがあったわけではない。根拠もあったわけではない。本当に単なる勘でアインに賭けてみたのだ。

 無謀にも、自分の命を賭けてまで。

「なんて無茶を……」

「僕もそう思う。でも……」

「でも?」



「でも、君なら絶対に助けてくれるって信じてた」



 一点の曇りもない瞳を向ける御影に、アインは心底驚嘆したように目を見開いて、か細く呼気を零した。

「どうしてそこまでして……」

「どうしてって、仲間を信じるのに理由なんているの?」

 こともなげに言う御影に、アインは唖然として固まった。

「仲間? 私が……?」

「うん。僕だけじゃない。きっとトラやフネさん――他のみんなもそう思ってるはずだよ」

 実を言えば、ここ最近までずっとスパイかなにかじゃないと疑っていたが、そういった猜疑心はアインと話している内に完全に払拭された。

 これだけ他人を思いやれる少女が、だれかを陥れようとするはずがない。でなければ、B組戦の時だって活発に御影らを翻弄していたはずだ。だからこそアインに待機を命じて、最後までどう動くか探っていたわけでもあるが。

 それでも、結局はアインに最後の一撃を託した。

 怪しい人物だと分かっていても、これから先の戦いを考えたら、どうしてもアインの力が必要になってくると考えたから。

 そもそも御影みたいな非力な人間は、結局のところだれかの力を借りるしか戦うすべを知らない。

 ひとりではなにもできない御影は、だれかを信じる以外に――仲間との信頼関係を築く以外に方法がなかったのだ。

 周りから策士とか戦略家とか呼ばれてはいるが、D組のみんなが御影を信じてくれたからこそ、ここまで来れたのだ。

 だれかに信じてもらうには、まず自分から信用しないとなにも始まらない。

 だから御影は、まず信用することにしたのだ。



 このだれよりも優しくて儚い――アインという名の少女を。



「私は、あなたを頭が切れる人だと思っていましたが……」

 数十秒ほど静寂が続いた後、アインはやにわに口を開いてこう告げた。

「訂正します。あなたは単なるおバカさんです」

「そうかもね」

「かもねじゃなくて、そうなんですよ」

 ふふ、と可笑しそうに口許を綻ばせるアイン。

 初めてみるその可憐な表情に、御影は急に顔が熱くなるのを感じた。

「……? どうかされました?」

「ああいや、なんでもない」

 かぶりを振り、雑念を払う。いけない。危うく変な感情を抱くところだった。

「でも結局、私は皆さんと一緒に戦えないと思います」

「ん? 『戦いたくない』とかじゃなくて?」

「はい。だって先ほど異能を使ってしまいましたから」

 気落ちしたように目を伏せて、アインは沈んだ声音で呟く。

「おそらく今頃、異能の発動を確認した学園内の治安組織が、私を捕らえようと動いているはずですから」

「それなら大丈夫だよ」

 実にあっけらかんとした調子で言う御影。本当にどうとも思っていないような軽い口調だった。

「大丈夫って、どうして……」

「生徒会長と取り引きしていたんだ。これから僕のクラスメイトが異能を使うかもしれないから見逃してくれってさ」

 それは一昨日、日向に異能戦を申し込んだ際、なんでも一つだけ願いを叶えるという交換条件の元、三つだけ要求した内の一つだった。

 上層部に顔の利く日向のことだ。これくらいどうとでも揉み消せてしまうだろう。

 また彼女自身、御影が異能を悪用するはずがないと確信を抱いてくれていたみたいで、日向のみならば要求を通すのも容易であった。

 問題はその他の生徒会メンバーの方だった。日向だけならともかく、他の生徒会メンバーも居合わせていたので、彼らの理解を得る必要もあったのだ。

 中でも猛批判してきたのは、一番厳格そうな副会長だった。

 まあそこは日向の強引さと、彼女に対する心酔でどうにかことなきを得たのだが、今でも完全には納得してはいないだろう。正直、危ない橋だったと心から思う。

「そういったわけでさ、今頃生徒会長が動いてくれていると思うよ。ここに来る前に電話もしておいたし」

「……前言撤回します」

 飄々とのたまう御影に、アインは心底呆れたように眉尻を下げて言った。

「あなたはやっぱり腹黒です」

「よく言われるよ……」

 それこそ、耳にタコができるほどに。

 苦笑する御影につられるように、アインも再度微笑を浮かべる。手のかかる弟を叱る姉のような、どこか温かみを感じる笑みだった。

「高坂さん。私なんかが本当に皆さんのところに戻ってよろしいんですか?」

「当たり前だよ。むしろみんな喜ぶよ。ずっと心配していたし」

 それに、と御影はそこまで言って体を起こし、アインを正面に見据えた。

「御影でいいよ。僕もアインって呼びたいしさ」

 御影の言葉にキョトンとするアイン。そしてすぐクスリと笑声を零し、

「なんだか友達みたいですね」

「なに言ってんのさ。みたいじゃなくて友達でしょ。

 握手を求めて片手を出した御影に、アインは照れるように数秒ほど視線を彷徨せつつ、はにかみながらしっかりと握り返した。



「――はい。


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