二十

 にいちゃあん。にいちゃあん。

 泣き声が聞こえる。いつにも増して、大声で泣きじゃくる色葉と音葉の声。

 夢見が悪かったのかな、とぼんやり考えながら、重い瞼を開ける。眠っていた五感が目を覚ましていく。焦げ臭い匂いが鼻腔を霞めて、俺の意識を急速に覚醒させた。

 なんだ、この匂いは。

 母さんが魚を焦がしたにしては、毒々しくて気持ち悪い匂いだ。机の上の時計を見遣る。午後六時二十七分。姉貴がバイトに出かけて、恐らくそう時間は経っていない。

 俺は部屋のドアを勢いよく開けた。灰の籠った温い空気が視界を覆った。俺は激しく咳き込んだ。しぱしぱする眼を擦り、階下を見下ろして、ぞっとした。汗がぶわっと吹き出す。

 ――落ち着け。落ち着くんだ。

 墨のように真っ黒な煙が、一階の床を覆い隠している。妹達の声を頼りに、扉を探り当てて、引いた。

 涙と鼻水で汚れた顔が二つ、ぱっと振り返る。二人は泣きじゃくりながらも、口元に小さなハンカチをあてて肩を震わせていた。俺は口の端にそっと笑みを浮かべた。……いい子だ。

「にいちゃん、にいちゃん……」

 色葉が震える声で言って、腕を伸ばした。俺は小さく息を吸って、一息に吐き出した。

「お前達はそのまま、ハンカチ、口に当ててろよ。またすぐに迎えに来るから。動いちゃだめだ。わかった?」

「うん」

 色葉は言葉にならない声を上げ続ける音葉の背中を撫でながら頷いた。

 俺は咳き込みながら部屋に戻って、サブバッグの中から震える手で携帯電話を取り出した。机の上に投げていた、汗で湿ったタオルを空いた手でたぐり寄せ、口元に寄せる。一一九。鳴らしながら、もう一度部屋の外に出て、そっと階段を降りた。電話はすぐに繋がった。ノイズの混じる男の人の声に短く答えながら、俺は一階を見渡して、絶望した。

 床も、柱も、全て燃えている。煙のせいで見えないけれど、玄関も赤く光り輝いているように見えた。火の元は一つしか考えられない――台所だ。だとすれば裏口から逃げることも出来ない。

 ――だから、火の始末はきちんとしろって言ったのに……!

 姉を恨んだ。だけど、姉が煙草を吸ってしまったのは、きっと今朝の俺が原因なのだ。必死で強がっていただけの、弱い姉を傷つけてしまった。いってらっしゃい、とか、バイト頑張れよって、ちゃんと声を出して伝えればよかった。姉ちゃん。俺、あんたと喧嘩したかったわけじゃなかったんだよ。

 消防車って、一体どれくらいで到着するんだろう。

 口元をタオルで覆っていても、咳は止まらない。目の前が霞んでいく。火を避けるように、俺は後ずさった。階段の下三段は、既にめらめらと燃え始めてしまった。間に合わない。絶対に、間に合わない。

 俺は階段を駆け上った。妹達の部屋のドアを開けて、中に飛び込む。箪笥をがたがたと音を立てながら開け、二人の服を適当に引っ掴んだ。

「来い! 早く! 靴下脱いで持ってこい!」

 そのまま俺は、二階の洗面台に走った。蛇口を全開にして、妹達の服をびしゃびしゃに濡らす。妹達がとてとてと走ってくる。濡らしたばかりで重たい服を投げて寄越し、小さな手から靴下を引っ掴んだ。

「着ろ! 今着てる服の上に」

「おもいよ、にいちゃん」

 けほけほ、と小さな咳をしながら色葉がべそをかいた。音葉は鼻をぐすぐすと鳴らしながらも懸命に袖を通している。俺は小さな息を零すと共に笑って、小さな二足の靴下をびしょびしょに濡らし、妹達に履かせた。その間、俺の咳も止まらなかった。

「ハンカチ!」

 俺が叫ぶと、おろおろとしたように二人はハンカチを俺に差し出した。俺は首をぶんぶんと横に振って、自分の指を口元に持っていった。二人は慌てたようにハンカチで口元を覆った。俺はタオルをびしょびしょに濡らして、再び叫ぶ。

「目ぇ、瞑れ!」

 言われた通り、咳き込みながらも目をぎゅっと閉じた二人の頭上で、タオルを絞った。床がびしゃびしゃと濡れる。濡れ鼠のようになった二人の上で、もう一度ぐしょぐしょのタオルを絞った。そのタオルで、自分の靴下も拭いて濡らし、階段の下を見遣る。五段目。もう、時間がない。

 窓から外に出ることは出来ない。俺の家は、崖の上にある。だから、出られるとすれば、あの燃え盛る玄関だけ。

 俺は、再びべそをかき始めた音葉を抱き上げた。濡れたタオルを首に巻く。

「色、負ぶされ」

 色葉は大人しく俺の首に後ろから捕まった。

「ハンカチはちゃんと手に持っとけよ。しばらく兄ちゃんのタオルで口と鼻覆ってろ」

「うん」

 籠った声で色葉が返事をした。

「兄ちゃん……咳してる」

 音葉が不安げな声で言う。俺は喉が痛くて痛くて、もう返事している余裕は無かった。七段目、八段目……耳を澄ませても、まだサイレンの音は聞こえない。一体どんだけ時間かかってんだよ、ふざけんなよ。俺は泣きたい気持ちで、唇を噛んだ。再び咳き込んだせいで、歯ががりっと唇を噛み切った。鉄錆の味がする。

 そのまま、一思いに駆け下りた。足の裏が熱い。喉から声にならない悲鳴が出た。色葉がぎゅっと首を締めつけてくる。音葉も俺の肩にしがみついて、嗚咽を漏らしている。

 灰ばかりで、何も見えない。足の裏が痛い。焼けるように痛い。俺は地団駄を踏むように、一階の真っ赤な床の上で足踏みを繰り返した。そうしなければ、足が貼り付いて二度と動けなくなりそうだった。

 俺は息を止めて一思いに玄関に向かって駆けた。この辺……この辺に、段差があったはずだ。よろけるわけにはいかない。咳き込むせいで視界がぐらぐらとぶれた。煙の壁を睨みつけ、必死に目を凝らす。

 土間に足をつけたら、少しだけひんやりとしていた。その代わり、焼けただれた皮膚がべっとりと貼り付いて、足を上げると皮膚がべりべりと剥がれた。悲鳴が零れた。俺の声に怯えたように妹達がわっと泣き出した。木造りの玄関は、火だるまになっていた。

 足ががたがたと震えた。ようやく、玄関の外からサイレンの音が滲んできた。

 何かが崩れ落ちる大きな音が響いて、三人でびくりと肩を揺らした。恐る恐る振り返ると、二階が崩れていた。炎がぶわりと灰を巻き上げる。ぞっとした。あと少し、遅かったら……炎の中に叩き落とされていた。

 俺は色葉と音葉を床に下ろした。二人はぎゅっと俺の足にしがみついた。

「いいか、今から、げほ、ぐ、あ、兄ちゃんが、ぐ、ぐぶっ」

 咳が、止まらない。俺はジェスチャーで、引き戸を引く動作をした後、外に向かって指を指した。おろおろとしたように俺を見上げる二人。俺は、震える手を炎に向かって伸ばした。引き戸に触れる。熱い。熱い。熱い熱い熱い熱い――

「ああ……う、ああ……」

 悲鳴さえ、擦れる。俺の腕を見て泣き出した二人を睨みつけて、背中を押した。勢い余ったせいで、音葉が外に転がった。膝を擦りむいたことにわんわんと泣き喚く。……やっぱり、足も少し火傷したみたいだ。女の子だから、痕が残らないといいけど。色葉が駆け寄って、音葉の手を引いた。

「いい子だ」

 俺はすっかり乾いてしまったタオルを、焦げていく右腕に当てた。

「早く行け!」

 ひっ、と言う小さな悲鳴が、色葉の喉から漏れた。色葉はぼろぼろと泣きながら音葉の手を引いた。二人で、よたよたと石段を下りていく。

 それを見つめながら、俺は泣いた。

 足が痛い。もう、動かない。剥がさないと。早く、皮膚を剥がさないと。ほら、あと一歩なんだよ。あと一歩で、俺、外に出られるんだぜ。がんばれよ。痛いよ。痛い。

 俺は痛みと熱さに耐えきれずに、踞った。服に燃え移った火を消そうとタオルを振っても、火の勢いはちっとも弱まってくれない。苦しい。息が、苦しい。

 思い出したかのようにタオルを口に当てた。そのタオルにさえ火が燃え移って、左手を焦がしていく。俺はぼろぼろと泣きながら笑った。歯がガチガチと鳴っている。やだよ、助けて。早く。俺、死にたくない。姉ちゃんのせいで死にたくない。姉ちゃんが、泣いちゃうじゃないか。

 黒い灰が、振ってくる。

 気がついたら、下敷きになっていた。熱を帯びた黒こげの木の板に挟まれて、全身が焼け爛れる。ちりちりと、焦げ臭い匂いが鼻を馬鹿にしてしまう。喉は、完全に潰れてしまったみたいだ。片方の目はもう、開いてもくれない。ずきずきと疼くだけ。熱い。熱い。苦しい。重い。痛い。助けて。助けてください。

 アアアアアアアアアアアアアアアアアア。アアアアアアアアアアアアアアアアア。

 音は聞こえているのに、誰も助けてくれない。

 ――そうか、ここ、階段の上じゃん。

 俺は、声すら出ない喉を震わせて、笑った。

 車なんか、来られるわけ無いんだ。

 涙さえもう出て来ない。声が出ない程に潰れているくせに、喉は咳の音だけは忙しなく振り絞った。

 揺らめく視界で、半分だけの視界で、空を眺めた。

 真っ青な空だ。雲一つないなんて、なんて馬鹿馬鹿しいんだろう。ほら、真夏日みたいに、入道雲くらい作ってみせろよ。こんなに煙が有り余ってんだぜ。


 なんて、綺麗な青だろう。


「はは、ははは……」


 綺麗過ぎるだろ、こんなん。


 ねえ、原爆の日も、こんなに綺麗な青空だったの?


 梓。なあ、梓。


 視界がさ、赤いのに、青いんだ。お前すげえや。ほんとだ。空って、赤くて、青いんだ。俺の心を揺さぶる空の色は、赤くて、青い。


「ア、ズサ」


 口の端から空気が漏れる。


 やべえぞ。めっちゃ綺麗だ。なあ、やっぱ、絵で見た空よりずっと綺麗だぜ。お前、まだまだだな。もっと綺麗に空描かなきゃ。あの絵、燃えちまってよかったよ。もっとすげえ空描いてよ。ねえ、ほんと、すげえ綺麗。


 空を、小さな鳥の影が一つ、横切っていく。俺は緩やかに目を見開いた。耳鳴りのように、ショパンのノクターンの冒頭が聴こえていた。第一番。音に合わせるみたいに、睫毛が微かに震える。俺は瞼を閉じて、パチパチとリズムを取る火花の音に、耳を傾けた。


 ――タラララタラランランラン、ラン、ラララララーラ……


 ああ、梓。


 あの赤髪の少年は、焼けて不幸になんかなってないぞ。


 目をぱちりと見開いて、俺はくつくつと笑った。気づいてしまったら嬉しくてたまらなくて。面白くてたまらなくて。空は視界いっぱいに広がっている。


 赤の中の青って、本当に綺麗。こんな景色、見せてくれて、ありが、



















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赤髪の少年は空に笑う 星町憩 @orgelblue

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