十九

 湖の畔の土手。俺が自転車から転がり落ちたその斜面に、二人で座って、空を見上げる。

 八月よりは涼しくなった風が、頬を、首筋を、撫でていく。梓の髪が、数珠の紐房のようにぱらぱらと巻き上がって、揺れた。梓は、花の種が入ったビニール袋を、今もぎゅっと握りしめている。

「また、笑ってる」

 梓の穏やかな声に、俺は振り返った。梓は立てた膝に口元を隠すようにして、笑った。

「絵哉って、空見ると笑うよね」

「前も言ってたっけ。自分ではよくわからないんだよな」

「わからなくていいんだよ。なんか、笑ってるみたいに見えて、僕が好きなだけなんだと思う」

 梓は膝に顔を埋めた。

「君の目には青い空が映っているのかな、君は空を綺麗だって素直に思える人なんだろうなって思ったら、羨ましくてさ。だからあの絵は、目を青で塗ったんだ。絵の中の絵哉の目が、空そのものになればいいと思った」

 梓は、震える声でそう言った。肩が小さく震えていた。俺は梓が落ち着くまで、黙っていた。

「もう……燃えたんだね」

「そうだよ」

 俺も、掠れた声で応えた。梓は顔を上げて、穏やかに揺れる湖面を見つめた。

「あの絵は、結構真剣に描いたんだよ。ねえ、覚えてる? 僕、前に言ったよね。僕はさ、写実画描いてると、描いてるものの命を削り取ってる心地がするんだ。でもね、多分僕は、途中から……どんどん僕のどろどろの心に踏み込んでくる君が怖くてさ、でも離れていくのも怖くて、本気で、君を切り取ってしまおうと思ったんだ。花を根こそぎ摘み取るみたいに、草を引き千切るみたいに、君を根こそぎ摘み取ってしまいたくなった」

「もしかして、夏の草むしりのことを言ってる?」

 俺は笑った。夏の暑さに汗をだくだくと流しながら、梓に小言を言って、道端の雑草を摘んだ日。指で四角を作って俺を見ていた梓の笑い顔が、脳裏に浮かぶ。

 鮮やかな、笑顔。梓は俺が空に笑うと言うけれど、梓だって俺に笑ってるんだ。その笑顔が、好きだよ。

「ああ、うん。そうかもしれない」

「なんだそれ」

「夏休みの間中、ずっと目の前が暗くて、どろどろしてたんだ。だから、これといったきっかけをよく覚えてない。でも、君をスケッチした時はね、それ以上踏み込んじゃいけないと思ってたんだよ。だからあのモノクロのスケッチを見ながら、想像で絵を描くつもりだった。色を乗せるつもりだった。なのに、なんでかな、絵哉の眩しい笑い顔見てたらさ、目の前が真緑になって、君を家に呼んでた。君を見ながら描きたいと思った」

「真緑、ねえ」

「あ、なんか馬鹿にしてるだろ。ほんとに目の前が緑っぽくなったんだよ」

「それ、ただの草色じゃね? お前、草むしりの間ずっと草をガン見してたじゃん」

 俺は笑った。梓も笑った。

「君ってほんとそういうのばっかだね」

「ありのままを言ってるだけだっつの」

「へへ」

 梓は前髪を摘まんで、いじる。

「俺が空なら、梓だって空に笑ってるよ」

 俺は、苦しさを吐き出すように言った。

 梓は目を瞬いて、視線を伏せて笑った。

「絵哉はどこにも行かないよね」

「行かねえよ、多分。あと、お前のお母さんも簡単にいなくなったりしない。多分な。お前の絵が破れたり燃えたりしたくらいで、人がころころ死んでたまるかってんだよ」

「はは……絵哉は僕の心を読むのが上手いね」

 梓は力なく笑った。

「絵が燃えたって聞いた時、僕の中の絵哉が神様に引き剥がされた気がした。僕がやってたことと同じだよね。僕、こんなに歪むくらいなら、絵なんてやめたほうがいいんじゃないかな。こんな、」

 梓は喉を詰まらせた。

「こんな、絵がぼろぼろになる度、胸がかき乱されてたんじゃ、どうしようもないよ」

「芸術家ってみんなそんなもんだろ。芥川龍之介とか太宰治だって、あとゴッホさんだって自殺してんじゃん。それだけ紙一重ってことだよ」

 俺は草を握り締めた。

「でも、僕は狂ってるんだよ。絵哉は気味悪いとか思わないの」

「狂ってるなんて、本人が決めることで、他人がどうこう言うことじゃねえ」

 俺は、草をぶちりと引き千切った。

「まともの定義なんて知らねえけど、お前が自分を狂ってるって思うならそうなんだろうよ。なら、俺はお前にとっての【まとも】で居続けてやるよ。【まとも】な俺がずっとお前の側にいたら、少しは楽だろ。絶対、裏切らないよ。誓ってやる」

 俺は、梓の目を真っ直ぐに見つめた。梓の瞳は揺れた。俺は乾いた唇を開く。

「大体、俺だって似たりよったりだよ。お前は教室勝手に飛び出して出てって勝手に来なくなったからさあ、知らないだろうけどさあ。俺、ここで転んで、露草根こそぎ摘み取って、お前のバケツにばら撒いたんだぞ。気が違ってんだろ。お前がそれを見てくれなかったことにムカついて、手洗い場に水ごとぶちまけたりしてさあ」

 梓は目を見開いた。

「え……何のためにそれやったの」

「わかんねえ。ただ、なんとなくさ、小学生の時の自由研究思い出したんだよ。露草を水に漬けると青い絵の具みたいになるじゃん。だから、それをお前に見て欲しかったんだと思う」

「はは……もったいないことした。その色で目を塗ってやればよかった」

 梓はくしゃくしゃの顔で、蹲るように笑った。

「そうだね、気違いみたいに花も買ってきたりしてさ、君も十分まともじゃないよね。僕のせいだと思うけど――」

「せい、とかじゃねえよ、むしろおかげだよ」

 俺は吐き捨てるように言った。

「お前と同じ、世界線に立ちたかったんだ。別に、嫌じゃねえよ」

 梓は頬をかいて目を伏せた。

「何、その言い回し。またゲームの何か?」

「そう」

「ははっ、あー、もう、ほんとになあ。それにそれ伝わんないよ。知ってるだろ? うちゲームは一つも買ってもらえてないの。親の方針で」

 梓は大口を開けて、空を仰いだ。

「あーあ……ほんと、僕と同じとこまで墜ちてきてどうすんの。君は普通の家庭の子供だろ」

「お前んちよりは貧乏だよ」

「ピアノも習えないしって?」

「そう」

「はは……僕はゲームとか漫画は買ってもらえないし、おあいこみたいなもんじゃん。そういうの、ないものねだりって言うんだよ。知らない?」

「……別に、嫌じゃねえもん」

 俺も、空を見つめた。「また笑ってる」と、梓が呟いた。

「ねえ、僕さ、今は君と話しててすごく楽だし、こうして笑っていられるよ。でもさ、心の中のこのどす黒い何かは、それでも少しも消えちゃいないわけ。ねえ、僕は、いつか君にもぶつけるかもしれないよ」

「もう、ぶつけやがったじゃんか」

「あんなの、欠片にもならない」

「いいよ」

 俺は立ち上がって、梓の手からビニール袋を奪った。花の種が入った袋を一つ、梓に投げて寄越す。自分の手にも、もう一つ抱えて、空のビニール袋を見つめた。ややあって、俺はそれを放り投げた。風でくしゃくしゃと音をたてながら、飛ばされていく。

「……ゴミはゴミ箱に、って習ったろ」

 梓の小言は無視して、俺は笑った。

「種、植えようぜ。これ、夏には枯れんだろ?」

「だから……どこに」

「この辺?」

「えー、勝手にいいのかな……大体、スコップも持ってきてないけど」

「いいじゃん、ばら撒いとけば」

 俺はそう言って、袋をバリッと引き裂いた。斜面にばらばらと小さな種が溢れていく。

「ちょ……、何やってんの……ああ、もう、なってないなあ。間隔狭すぎ。適当すぎ。そんなんで楽に花が咲くとか思わないでよ?」

「いいじゃん、咲けばもうけもん、ってとこだろ」

 ばらばらと種を撒き散らかす俺を、梓は苦笑しながら眺めていた。すぐに、袋の中には一つの種も無くなってしまった。俺は梓の隣に戻って、腰を下ろした。

「梓は? 蒔かねえの?」

「僕は……花壇にちゃんと植える」

 梓は、種の袋をぎゅっと握りしめて、苦笑した。

「ねえ、なんで勿忘草なの」

 梓がぽつりと呟く。俺はそっと土を撫でた。

「夏には枯れんだろ」

「それ、さっきも言ってたね。それが、何?」

「この花は、俺達だ」

「え?」

 梓の戸惑うような眼差しを受け流すように、俺は眼下に広がる湖を見つめた。

「夏になる度、殺そうぜ。死んでしまおうぜ。それでまた、秋を迎えるんだ。俺にとっての夏は、この夏だけで十分だよ。大人達は俺達に何か言ってくるかもしれないな。でもさ、その度にやり過ごして、毎年やり過ごして、頑張ろうぜ。で、夏になる度思い出すんだ。俺達だって、子供なりに、傷ついてたんだって。この勿忘草は、その誓いだ」

 立ち上がって梓を見下ろす。梓の頬に、影ができた。

「僕でも思いつかないような、変なこと……たまに言うよね、絵哉って」

 梓は、儚く笑った。俺は口の端に笑みを浮かべた。

「お前の友達には十分だろ?」

「うん」

 梓は、瞼を閉じた。

 蝶の翅みたいに微かに揺れる、梓の長い睫毛を見つめながら、俺は笑った。

「仮にお前が月の裏側に行っちゃって、暗闇で這いずり回って、道を踏み外して、みんなから後ろ指指されてもさ、必ず追いかけるよ。お前が道に迷ったら、俺が探しに行ってやる。それでもし一緒に迷っても、笑ってようぜ。……幸せに、なってやろうぜ」

「ははっ」

 梓は、弾けるように笑い出した。俺は、心臓がばくばくと煩く鼓動する音に、耳を澄ましていた。こんなこと言うのはきっと、後にも先にも今日だけだ。きっともう、二度と言ってやるもんか。

 だって、もう、こんなの、恥ずかしいや。

「はは……く、はは……いいよ」

 梓は、一頻り笑って、目を擦った。

「一緒に、道に迷おう」

 俺は唇を噛んで、俯いた。苦しかった。梓は、いつもの調子が戻ってきたみたいで、いたずらっぽく笑って俺の顔を覗き込んだ。

「ね、高校生になったら、二人でバイトしようよ。それでお金貯めてさ、卒業したら旅行に行こう。僕さ、ルーマニアとか、モルドバ行ってみたいんだよね。絵哉も一緒に行こうよ。あ、それとも大学行きたいかな?」

「……っ、は? モルドバ? どこだよそれ」

 唾を飲み込んだせいで、反応が遅くなる。

「ルーマニアの隣の国」

「隣って言われてもな……そもそもルーマニアの位置も怪しいんだけど」

「ああ、絵哉、地理苦手だったね」

 梓はくすくすと笑った。

「あの辺にはね、壁画がすごく綺麗な、世界遺産登録されてる修道院とか教会がいくつもあるんだ。それを見てみたい。この目に焼き付けたいんだ。前に言ったろ? 僕ね、宗教画ってすごく好きなんだ。僕もああいう絵が描けるようになりたい。いつまでも残るような、燃えても簡単に消えないような、壁画を」

「そっか」

 俺は頷いた。

「一緒に見に行こう。それまでなら、僕はどれだけでも笑うよ。頑張って、生きる」

「はは、大袈裟だな」

 梓につられて、俺も笑った。

「いいよ。行こうぜ。それで、行ったあとは今度はお前が壁画を描いてみろよ。楽しみにしてるから」

 梓の笑顔が、空色に染まった。



 梓を送り届けて、家路につく。

 心臓は、未だに鳴り止まなかった。顔が熱い。体が軋んで、口元からは、我慢していても笑みが溢れていく。

 九月の陽射しが目に痛い。頭は重いし、心は痛くてたまらなかった。恥ずかしい。恥ずかしいけれど、嫌じゃない。視界を遮っていた霧が、急に晴れたみたいだった。家に続く石段を見上げる。家に帰るのは億劫だったけど、今なら少しは素直になれそうな気もする。

 それでも、苔生した石段を踏みしめているうちに、足取りは重たくなっていった。上りきって息を整える。俺は玄関の前で、もう一度、願をかけるみたいにすう、と息を吸って、吐いた。プランターに咲く花の香りが、肺を巡る。

「……ただいま」

 ドアを開けると、少しだけ煙臭いような気がした。どきりとして、脱いだ靴を並べることも忘れて、廊下を歩く。

「あ」

 二人分の声が、小さく重なる。

 彩乃が、台所で煙草を吸っていた。

「……窓くらい開けろよ。それか換気扇」

 二十歳になったばかりの自分の姉が、男みたいに煙草の煙を吹かしている――その姿に、少しだけショックを受けた。

「ごめん……」

 彩乃はもう一度白い煙を吐き出して、ゆるゆると窓を開けた。俺も、換気扇の紐を引いた。

「あたし、今からバイトだから」

 部屋に戻ろうとした俺の背中に、彩乃が声をかけてきた。俺は首を傾ける。

「知ってるけど?」

「うん」

 彩乃はシンクに灰を落とした。俺は眉を潜めた。

「あのさあ、そういうの外でやってくんない? 食べ物扱う台所に灰落としてんじゃねえよ」

「あー……はいはい、すみませんね。慣れてないんだわ。これ吸うの、今日で二回目くらいだし」

 彩乃は気のない返事をした。

「煙草吸う大学生女子って、どうかと思うけど」

「そうねー。まあ、色々がんばりますよ。可愛く見られたくて気取ってたのは、たしかにあたしも同じだったわ」

 彩乃は煙を吐き出して、ちら、とテーブルに視線を移した。

「ああ、CD、やっぱりお母さんが店に戻しに行ったよ。もうすぐ帰って来るんじゃない」

「だろうと思った」

 俺は、咳き込みながら言った。

「あんたも難儀ね」

 彩乃は水道の水を流して、煙草の火を消した。そうしてまた、箱から一本取り出す。シンクに灰が溜まっている。一体どれだけ吸う気なんだろう。

「……火の始末はきちんとしろよ」

 俺は再び歩き出した。聞こえるか聞こえないかくらいのか細い声で、彩乃がぽつりと呟く。

「あたしはバイト行くけど……今日も色葉と音葉のこと、その、頼んだよ」

 珍しく、そんなことを言った。俺は振り返らなかった。妹達の部屋のドアを開けると、二人して腹を出してすやすやと寝入っている。服を整えてやって、ブランケットをそっと被せた。部屋に戻って、汗まみれになった開襟シャツを脱ぎ捨てる。そのまま俺もうとうととして、椅子の上でうたた寝をしていた。彩乃が出ていったのか、ドアの鍵が閉まる音が聞こえたけれど、眠たくて、起きられなかった。

 いってらっしゃい、姉ちゃん。

 そう、夢の中で呟いて。



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