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私とは、一体全体誰のことでしょうか。

 私とは、一体全体誰のことでしょうか。
 たとえばよくある話で「記憶喪失」というものがありますが、あれにはまず周囲が私が誰なのかを教えてやって、断片的に持ち合わせているかもしれない記憶と結びつけようとします。
 ……が、私はあまりこういった類のことには詳しくないので、「記憶喪失」と言ったら当人の言語能力がある程度損なわれずに、記憶ばかりが失われてしまうものだと思い込んでいます。
 では、「記憶がさっぱりなくなって、思い出だとか、自分が誰なのかわからない」という状況に陥ったとして、そして、永久にそれが思い出せないものだとして、果たしてこの時「私」とは誰のことなのでしょうか。
 肉体は、確かに私でしょう。
 家族や友人なんかが私や、その周囲の人間と居るところを写真に収めていれば、それの証明はできます。また、この肉体も、そしてこの肉体を自由に動かし、考えることができるのが私であるひとつの証明でありましょう。
 ですが、私がこの肉体の「私」の所有者であることがわかったところで、本当にそれが私であることの完全な証明であるとは考えにくいものです。
 
 私は新作「I am……」の構想を練る段階で、ひとつ、頭を過った作品がありました。フランツ・カフカの『変身』です。
 ある朝目が覚めると主人公・ザムザはベッドの上で自分が一匹の毒虫になっていることに気が付きます。要は、中身は人間のまま、外見ばかりが毒虫になってしまったんですね。つまり、これにおいては、毒虫が確たる私であることを物語っています。それは最早「意思」の問題であり、身体がどうのこうのという問題で片付けられないのだから。……この作品は人間が社会的な動物であることを示唆しています。要は周囲の人間が「ニンゲンのザムザ」であると認識できるのは、確たる私の部分の一部と、あとは外見であり、いくらそれが家族であったとしても不気味がってしまうのは些か仕方のないところ。

 さて、『変身』では周囲が認めず、自分は認めています。
 新作「I am……」では、周囲が認め、自分は認めていません。
 たとえ私がこの体の主であったとしても、どこか信じられないのを、主人公は「過去十七年の記憶がないから」と言います。ですが、だとするならば、人間とは結局、他者や何かと触れ合ったことで構成されてゆく、「後天的な私」が確たる私であることの証明なのでしょう。
 ですから、チナツや家族が彼に過去十七年の思い出を滔々と告げることは、最早意味のないことであるとまで言えます(記憶が戻らないと仮定していますから)。

 そして、チナツはいったい彼になにを求めているのでしょうか。
 例えば、あなたならどうでしょうか。愛していた人の記憶が一切なくなったとして、それを取り戻そうと躍起になると同時に、恋人はどんどん新たなる人格を形成しております……それは大変にいじらしい、今までとは打って変わって違う人間……。人間がどのみち周囲との触れ合いや思い出によって形成されてゆくものならば、なにも過去など振り返らずに、新しく道を切り開いてゆけばいいだけなのです。
 
 しかし、そう割り切っていたら、偶然、記憶が戻ってしまった……そんなことが起きたら、嬉しいでしょうか。かつて自分の愛していた恋人に戻ってくれたのですから。ですが、それと同時に、芽生えかけていた人格の萌芽は摘み取られてしまうのです。
 過去のことだと割り切るか、それとも過去を待ち続け現実から目を背け理想を求め続けるか……これは結果に依存し過ぎてしまうのでなんとも言えませんが、なんとも、どういったものが幸福になるのかわかり兼ねるところであります。
 

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