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ホラーの真髄とは

どうもこんにちは、名無之です。
今日はホラーの真髄とは何か、についてお話ししたいと思います。
けれども、僕はスティーブン・キングのようにホラーの巨匠というわけではありません。あくまであくまで名も無い作家の独り言と思って聞いてください。

これを書こうと思ったきっかけはとあるホラー小説を読んだことに始まります。その小説は界隈では結構評価されていたのですが、例の如く僕には合いませんでした。
ただ、僕の一般的に合わない小説のように蛇足説明や冗長な表現が多かったというわけではありませんでした。連作短編の形式になっているのですが、一つ一つはとても読み応えがあり、謎に引き込まれ、それでいて怖かったです。一時期、帰ってきた家にその怪異がいるんじゃ無いかと錯覚してしまったくらいのめり込んでいました。

では、なぜ合わなかったか。
それは「長編でありながら解決がなかったこと」です。
タイトルも伏せていますしネタバレも極力抑えて書きますが、この小説はある怪異についてのエピソードを連ねており、最終的には筆者もその怪異に苛まれていた。そして、その話を聞いてしまったあなた(読者)も時期に怪異に汚染される、というものでした。
もちろん、エピソード一つ一つは面白かったです。そこに間違いはありません。けれども、最後のオチとしては「あまりにも」弱すぎる気がしました。

これは個人的な意見ですが、ホラーは短編と長編で目指す方向が大きく異なります。
短編は巧みな描写力を使って人々が何かわからぬ存在に襲われる(もしくは類似した体験をする)ことで読者に「あれの正体はなんだったんだろう」と余韻を与え、読後感を充足させます。それは短編という短い時間で読める話だからこそできることです。
しかし、長編は違います。長編にもなると読者は最低でも数時間はその本に貴重な時間を費やさなければなりません。それなのに「なんの成果も得られませんでした」と調査兵団みたいなことを言われても、読者は「はぁ?なんなん?」と思ってしまうはずです。(僕だけでしょうか?)
だから、長編のホラーは何かしら成果を示すべきなんです。手っ取り早いのは「その怪異を倒すこと」。「IT」しかり「13日の金曜日(これはホラーというのか?)」しかり、どれも恐怖となる相手を最後に倒しています。
そうでなくとも命からがら逃げる、もしくは「最悪の結末」を用意するのもいいでしょう。少なくとも、読者を巻き込むのは誰もが思いつく陳腐なネタであり、上述以上の感情の起伏を生み出すことはありません。いわゆる「冷めるわ〜」ってやつですね。

かくいう僕もホラーの長編は「夜の合間に」と「六芒の儀式」の2つ出しています。
どちらも拙い文章ですが、読者に解決が提示され読後感の良いものになっています(なっているはずです)。特に「六芒」の方は我ながらいいオチだな、と思っているのでよければ読んでみてください(なぜか全然伸びないんですよね)。

と自作の宣伝も入れつつ。ホラーは長編と短編で書き方が違うよ、という話でした。
それではみなさん、また明日。

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