• に登録
  • 異世界ファンタジー
  • エッセイ・ノンフィクション

恒例の虫干しです

年末から年明けにかけて、非公開にしていた話を公開する「虫干し」を今年も行います。

だいたい1/5までのつもり。

色々あってお蔵入りさせたので、正直、読まれていいのか迷うのですが、頂いたコメントを見返したり、あれやこれやを思い出す機会になるので、年に一回くらいは振り返ろうと思います。

うぉおおおと伸びをするキャラクターたちの声が聞こえそうで、頭の中で目を覚ました賑やかな連中とたまの再会を果たすのもいいかな。


「小細工なモザイク」掌作品

「HEART BEAT NIGHT」異世界ファンタジー

「あーどうしよう」エッセー

「短編BOX」短編集


以上が期間限定公開になります。

ではでは。

19件のコメント

  • 油布様から感想くださいってご連絡を頂きました。(!!)

    作品を拝読させて頂きありがとうございました。
    しかし、星も応援コメントもしてないし、(応援ボタンは押してますし全編読了済みです)私自身が連載滞っていたり、あまり読まれないような話しか書いてません。

    いったい何を求められてるのか、淡白な書き込みからは何も読み取れず、困っております。

    自己主張をはっきりされるのは、曖昧なよりはいいですが、感想を聞きにいらっしゃったのか、釈明をしに来たのか、よくわかりません。そうですね。頭ではわかるんですけど、主張に心がついてかない、というところです。

    今回に限ったことではなく、そのため油布様の言葉を順序を替えて読ませて頂くことが多いです。

    以下、順序を替えています。

    以前に僕がコメントを消したのは、誤解されたままの内容を認める感じになることが嫌だっただけで、そういう意図じゃないと説明したかったのに、もう書かないで欲しいと望まれたからです。

    それ以上の意味はありません。

    『鬼狩り神三郎』をお読みいただきありがとうございました。 

    感想とかもいただけると嬉しいです。



    こんなふうに、油布様と私ではものの伝え方がだいぶ違います。
    言いたいことが二種類あることが明確でかつダイレクトに伝わるこちらの方を私はわかりやすい、と採用する質です。

    順序をいじったことで主語や斥力のかかる場所が変わり、読んだ時に注意を引く焦点の位置がずれていると思います。
    原文の「それ以上〜」は主張の正当性を無視できない感じがしましたが、こちらの方だとそれがかき消されます。(受け取り手次第ではあるのですが)

    もし印象操作を無意識に行えるスキルをお持ちだとするなら、油布様の描かれるお話は、作者の主観とシーンのヴィジュアルを重くみたものになると想像しました。


    先に断っておくと、私の感想は個人的なもので誰かと共有したいものではありません。私も含めよく答え合わせにいらっしゃる作者がおりますが、説明を求めるものでもありません。


    今のところ、お作品に対して感想がないというか、読んだという実感が乏しいです。

    読み込むほどの情報を与えられず、内容も情報量も作者に制限されて調整されているように感じました。
    設定も人物像も本編全体に「目的」というフラグが先に立っていて、事実よりもどう受け止め、見て感じるべきかが示されているため、話が自分のものにできない感覚があります。

    同じ理由で人物たちにもまた、入り込めない強張ったものを感じました。
    女性の描き方に自信があるほうではないと伺っていたので、こんなにたくさん出して、大丈夫なのかとポツネンと思っていましたが、最初のほうは皮を剥いだら皆、中身が男脳だと思いました。

    後半は違和感を覚えませんでした。

    鬼が人っぽいところが難しかったです。親子関係があり家があり人に近い、鬼からすれば人が鬼に近いのかもしれませんが、動物も虫も自分と違うから好きでオランウータンとか類人猿に似てるほうが動物ぽくなくて可愛さが時々ビミョーと思います。むしろ人間の女と区別のない情動を見せる女鬼たちに生理的な気味の悪さを感じました。・・・嫌悪感に近いかもしれません。


    油布様には油布様の「正義」がありそれがストーリー的にも、読み手に対して話を届ける前段階でも検閲のように貫かれているようでした。

    ここはリアルに書かない、ここに注目を集めてこうした効果を生む、意図的に加工され工夫されている部分にどうしても意識の一部が持って行かれ、物語よりそっちが気になり、感覚に慣れるまで時がかかりました。
    物語の方は時系列に沿って順当に進み、内容は厳しくても展開は平和で読者は読むだけという感じです。ただ場面の切り替えや強弱に、読んでる気持ちに反目するような、もう少し知りたいけどあっさり流したとか、省略されたり、ここをいきなりクローズアップ?など、読む心情に影響する部分のピントにバラつきがあり、一筋縄ではいかないものが隠されている気がして、ちょっと身構えていたのですが、でも、伏線(?)もほどなく回収されていました。
    (勘違いでした)

    「伝奇」の要素を使い、宿命を負った人間と彼らを取り巻く人々を描くため、設定や人物にその要素を与える一方で、話はあくまでストレートだと気づいたのが、7章終わったあたりです。


    読んでいて他に困ったなと思ったことは、作品紹介にある昭和49年という数字が作中にはなかったこと、主人公の影の薄さ、早い段階から4章までで主要人物のエピソードが読者に向けて明かされること、第二部も同じ展開ならちょっと辛い、ところです。

    カクヨムで私よりおそらく若い世代の方とお話しした中で、「昭和って不気味」とおっしゃってたのを、昭和という知らないから遠いようで、まだ多くの人の記憶にある目に見えない存在は、そう映るかも、と思いました。

    読み始めると人物の話し方には昭和臭がなく、現代感覚で読んでいいのかな、と思いましたが、小物類や景色と涼子くんの主人公に対する思考が昭和で、人ごとなのに結構はずかしいと思いました。

    時々、主人公がその場にいるはずが出番を削られてる、と思う箇所がありました。外見以外の個性がつかみにくいところも印象に残らない理由です。
    これは日竜の課題ですが、作者が一番に愛情を感じて書いている人物はこの中にいるのか、いないのか、と考えます。多分、その人物の考えをよりどころに私たちは物語を読むのですが、わりと衝撃的な告白があった直後、誰かの反応を見て安心したい時に、(誰もコメントしねえ!!)って思ったシーンがあったりしました。心細かったですね・・・私が。

    過去のエピソードが早い段階で語られ始めた時、人物たちに対して「はじめまして、まだあなたに興味持ってません」状態だったので、涼子くんを通して聴くというクッションもなくて、苦しいものがありました。
    本の中に出てくるという鬼の姿も、なかなか想像のハードルが高かったです。(実写のアメコミを思い浮かべてみても、作り物めいている。難しい)

    プロットは立てないほうだと聞いたように思います。
    過去のエピソードが入りながらも、あくまでまっすぐな一本道で、行って帰ってくるという道程です。
    構成は、依頼という勝利条件が発生し、難所を乗り越え成功してから、本当の敵と遭遇しことなきを得て、裏事情が少し明かされ、エピローグで幕。
    戦いは二部、三部に続く。
    突き抜けたものが読みたいわけでもなく、(突き抜けていてもいいんですが)単に展開がせまいと感じています。当然そうなるという流れで話が進み、そこで何が待つかはその場次第、緊張感が走るのですが、本編を引きで振り返った時に、「みんなが仲良くなった」そのためのあれやこれやだった、という結論に落ち着いてしまうのですね。

    しまう、と言うのはおかしいですが。

    第二部も蓋を開けたらそうなるのかな、と思うとちょっと困るなぁと思いました。

    「伝奇」ってそういうものだよ、と言われたらそれまでです。(伝奇の代表作がちょっとわかりません。京極さんや小野女史や栗本さん、菊池氏は含まれるのか・・この辺と座談会のまとめで「帝都〜」をギリギリ読んでいるくらいです。鬼滅は観てません)

    何かしら作者にはジャンルとしてイメージする「要素」や「枠」があり、それを実現するために、昭和の地味さを追求されているような気がしました。
    テイストという縛りがありながら、動線のよく見える物語を中だるみせずに書き切る根性はすごいと思います。

    7章以降は人物たちに集中でき、最後まで読みました。

    全体に、どこか予断を排するように演出された物語に私の居場所はありませんでしたが、油布様なりのバランス感覚で目指すものが実現されたことを願います。



    まずは完結おめでとうございます。
    公募の方も果敢に別ジャンルに挑戦されることも頑張ってください。

    今回は書き手としての意見でも、講評でもなく、読んだ感想を述べました。

    そこに区別はあるのか、と言えばそう明確ではありませんし、今回食うように読めなかったので、中途半端な感想にしかなっていないと、穴の空いたトタン屋根のようだと思います。

    まとまりを欠き、本来ならこうしたことを考えないで済む読書が理想ですが、結局、気にしていると思います。

    自覚している限りニッチで好みの非常にせまい読者なので、シビアな内容になっていたらすみません。


    あらためて、この感想は私のもので誰かと共有したいわけではありません。

    言葉にする以上は反応があり、言わなければ済んだものでも言葉にした責はあくまで私にあるものと致します。
  • 油布様

    下記の通りのご意見から色々と学ばせて頂きました。不足な人間ですが、これからも精進して参りたいと思います。

    何度も足を運ばせてしまったうえ、カクヨム参加当初から今までお付き合いを頂きありがとうございました。
    よいお年をお迎えください。



    油布 浩明
    2019年12月29日 21:32
     >いやいや、別に構わないですよ。

     >好きなことを言って、反論するなよりはずっとすっきりします。
     >応援のハンコを押したのをメッセージと感じたのが間違いであったとしても、それは常識としてやむを得ぬこととご理解ください。実は僕も困ってしまったのですよ。
     >釈明ではありません。そもそも何に対して釈明を必要だと思っていらっしゃるのでしょうか。一方的な主張と反論の封殺。それに釈明などあり得ません。対話を諦めた。それ以上でもそれ以下でもありません。

     >そのような状況の中、メッセージを受け取ったと感じたのが私の誤解です。

     >ひとつだけ、僕の作品にも評価をしていただいたようなのでアドバイスを。
     >日竜さんの小説もちらりと見ました。申し訳ない。同人誌レベルでもそれほど高いレベルではないと推察しました。アイディアやストーリー以前に、まずは情景描写、行動描写から勉強されるべきだと思います。

     >もっと、心に響く批判的な批評がいただければ嬉しかったです。批判にもレベルがあります。申し訳ありませんが、そういう人がいるという以上に参考にはできませんでした。

     >どうもありがとうございました。

     >意見の交換は重要ですが、このコメントについてこれ以上の反論は不要です。と書こうと思いましたが、それは僕にとって最も嫌う最低の行為なので、書きたければどうぞ。


    油布 浩明
    2019年12月29日 21:49
     >追伸です。申し訳ないですが、このコメント欄に訪問する予定はもうないので、反論があるなら私の近況報告にしてください。

     >個人的な感想をここに追記するのはもちろんご自由ですが、私は読みません。
  • あけましておめでとうございます!

    去年は大変お世話になりました!
    相変わらず日竜さんの頭の中をぱかっと割ってみたいという欲望は止まりません(笑)。

    まさかのツイッターを発見されたりと色々新鮮な事件が起こりましたが(笑)、今年もよろしくお願いします!
    日竜さんの小説やキャラとの対話(?)、小説を楽しみにしております!(ばけとり楽しみにしておりますよー!)
  • あけましておめでとうございます〜(へろへろ〜ん)

    読めてないから、近況の話にもなかなか加われないぜ、と和泉様にはお越し頂いてばかりですねぇ。
    まずは魔王の話を読みたいよ〜、「世界の〜」は100話達成おめでとう!なのですが後発の読者的にはハードルが! 読み始めたら止まれないことも含めてちょっと怯んでます。

    ふぉう、キャラトークいろいろ読まれてる!? 話題(ネタ)ありきの一発芸感覚なので、お恥ずかしい限りです。

    頭の中ですか? こんな風になってますよえいっ(カパーッ)
    思い浮かぶ映像をそのままアウトプットできないかと、学生の頃は思ったものですが、「ばけとり」でネーム切ってから文字にしてると、双方向に行き来するものではなく、それまで原作にもなると思っていた小説(文章)というものが、私の感じたり思い浮かんだりした画や話を形にする手段だけじゃないんだなーと思いました。
    平たくいうと文でしか表現できないものがある、私風の考えでは媒体を変換するとパワーアップする、です。
    頭でイメージしたものはアウトプットで、イメージを超え、さらに別のものに媒体が変わることでも、前のものを超えて行ける、今まで想像したものがその通りに表せないことに苦しみ、そこを目指して来ましたが、そうじゃないかも、と捉え方をスイッチできる感覚を発見したりしてます。

    あれ、これ、何の話しでしたっけね。

    去年は色々ありましたねえ、ロイヤルティとか変化も確実に。今年は今年で乗り越えていきたいです〜。

    「ばけとり」も楽しみにしているとのこと、恐縮です。

    ふつつかですが、今年もよろしくお願いいたします。
  • おかわりありませんか。
  • 少し怖いです、やはり。

    オブラートに包みまくっていれば、反応も違っていたのかと思うと。
    まるで回答の自由がないようで。

    以前、講評企画の時に自分のため、受け取り手の方のことも考え指針を書きましたが、話を言葉にして書いている時点で、みんなすごいことをしていると。

    創作をすることや作品に優劣はないと感じていることは、がんばって持っている信条ではなく、当たり前の感覚なので、どう自分の中で自然なことなのか説明しづらく、またいちいち前置きもしないので、何にでも勝敗や少なからず上や下の評価があると思うタイプの方からすると、ない感覚は存在しないから、「ある」方にくくられてしまうだろうなと思います。

    感想を書く際も同じ感覚を根底にして書いてますが、感想を求める相手を知らずに自身の判断基準で読めば、面白いことになってしまいますね。

    それがおもしろいと思うから、話を書いているし、感想への反応もまた感想で自由な意見だと思うのですが。

    けれど、感情的で制御されてない言葉は、本音に近いと思うからこそ、下に見る相手に感想を求めた心理や考えが、私を不安にさせます。

    去年の暮れからラクになれる解釈を考え続けていたんですが、見つからなくて。

    「地獄の楽しみ方」
    京極夏彦 講談社BOOK倶楽部
    「デジタルデトックスのすすめ」
    米田智彦 PHP研究所

    このあたりを読んでみて、デトックスしようと思いました。

    あまりカクヨムに顔を出せておらず、ご心配をおかけしていたら、すみません。

    変わったよーで、あまり変わってないです。

    日本全体が自粛モードでお花見も行けないような状況ですが、kinomiさまは二次元の言葉を夢のような三次元に咲かせてください。
    (↑あんまりうまくない)

    言葉は言葉だからこそ、モノではなくココロには効くのだと著者は言っていました。
    できるなら、善き方向へ。

    お声をありがとうございました。
  • 『私は一旦殻を作れたから、その殻の耐えられる水深で綺麗な言葉を並べているだけです。至上の読み手は機械でしょうか。人間(≠ヒト)でしょうか。』

    何の飾り気も捻りも気遣いもない10文字の一言が少々申し訳なくなっております。
    この上に書かれているやり取りは断片的にしか見えておりません、的外れになるかもしれませんが、それでも。

    まず、
    >創作をすることや作品に優劣はないと感じている
    ことは私も同じです。付け加えると、何かを生み出している時点で素晴らしいことだと思います。電車の中で小さな四角い画面を見ている人のほとんどが消費側です。そのまま終える人も多いのかもしれません。

     優劣はないと感じている。そう書きましたし、聞かれたらそう答えるのですが、ここに“世(外)に出す”という話が入ると私の目は少し泳ぎます。本音を建て前で隠し、プラットフォームの特性が邪魔をするからと言い訳をし、『いいね』を求める人と何ら変わらない状態です。ハートマークは嬉しいです。PV数が変わらないことをみて気を落とします。気を落とす理由は自分の物語にごめんなさいと思うからなのか、単に自分の、つまりは承認欲求が満たされないからなのか。後者の意味合いが間違いなく強いです。
     誰もが一度立ち止まりそうなその場所(考え)にいて、その時私が作った心の殻が、私のための作品であり、仮想箱で主人公を担ったその人です。こちらは自分語りになってしまうので今回は省きます。
     一度だけ公募に『仮想箱』を出した時、印刷してA4の束になった自分だけの物語の重さを感じながら、純水にもっと誰かにこれを読んで欲しいと思っていました。一方で、もしこれが有名になったならと考えていました。承認欲求を切り離すことはできないと思います。世に出すこと、ここに掲載すること、それぞれが意味合いを持って何かを捻じ曲げると思っています。

     私は「評価をしてください」と「読んでください」は少し意味合いが異なると思っています。
     上記の承認欲求を満たすため、特に何も考えずに発するのが「読んでください」で、言わば初期段階です。漠然と褒めて欲しい、アドバイスが欲しい、その程度しか考えていない状態での欲求です。
     対して「評価をしてください」は、『この作品を世の中に出して高い評価を得るために足りないものは何か教えてくれ』とか、『私の作品の目指す究極の姿があるとする。それと比べてどこが劣っているか、どこができているか教えてくれ』と、そんなニュアンスが強いと感じます。そしてこの時、書き手が求める至上の評者は人間ではありません。完璧な知見から絶対的な判断を行える機械だと思っています。優秀な読み手は表に出さない積み重ねをしてきたから、極めて人間的で地道な葛藤と消耗と足場の確立があったから、部分的にその機械の代わりを担えているだけです。前にも同じようなことを書いたかもしれません、だからこそ読み手様は私にとって雲の上の人であり、尊敬する人たちです。
     主語を省きますが、求められていたのは最上の機械だったのでしょうか。色味を持った読み手だったのでしょうか。どちらでもない存在するのかも分からない何かすごいものでしょうか。
     もし仮に機械を求めていたならば、あるいは特定の色の読み手の言葉しか見ようとしていないのなら、変換エラーになった言葉は多いはずです。フィルターに引っ掛けて濾し取られた言葉も多いはずです。それが別の読み手にとってたくさんの宝石箱だったとしても。

     まだ「チャット」が流行っていたところ、少し言葉のやり取りが過熱して、考えて考えて言葉を発していた時のことをたまに思い出します。何故か震えるのです。妙な寒気がして、心拍数が上がって。私たちは言葉を相手に伝える時にエネルギーを使います。対人なら、リアルタイムなら猶更。そうでなくともその人のためだけに選んだ言葉にはかけた時間だけの熱量が込めてあると私は思っています。その熱量を読めるように、一行の間に何時間かけたのか感じ取れるように、なるべきだと思っています。こちらは十人十色がどうのではありません。測りにくいとしてもちゃんと大小のある、頼りない人間が有限に持つエネルギーです。

     またも主語を省きます。一人とは限りません。どこまで見えてたのでしょうか。すれ違いは少しも無かったのでしょうか。

     私事に戻ります。そんなことを考えているうちに私は「評価をしてください」に寄ったやり取りから興味を失ってしまいました。一方で、「読んで欲しい」をもっと細分化して、自分が求める読み手のことを考えていました。恐らくこれは分かりやすい像で、自分が美しいと思える光景を美しいと言ってくれる読み手であり、特に私は自身の奥底に繋がるような部分や曖昧なぼかしを好むので、それをしっかりと読み解いてくれる読み手です。
    以前、自分の作品の自分では気付かなかったところが読み手には見えることがあると書いた記憶がありますが、(隅から隅まで世界を描き切る技量がなく、しかしそうしようとは考えないので、)これにも素敵な可能性をみています。“色味を持った読み手”とは概ねこのようなニュアンスで使いました。だからこそ同じ見え方も違う見え方もしますし、その先へと言葉は進み、結果、物語も厚みを増すのです。


    字下げをするだけの時間をいただきました、改めて、最初の『 』の中を今一度。
    お花のために(?)デトックスは私も必要かもしれません…。呼吸が続かないはずの時間も人それぞれです…ね。
    また浮かんで来た時には、どうか良い景色となっていますように。
  • kinomiさま

    私はもう私が自分に与えた言葉で進んでいるので、このノートで感想を書いた時よりは、違うんですね。

    そのように進むのなら、そうなさいと自分の背中を押すだけです。

    結論を出すより今回は考え続ける方がラクなんです。その負担で全身にジンマシンが出たのを今ちょっと思い出しましたが、真剣に考えるきっかけにはなりました。

    生来、無謀で信じやすく流されやすい質なので、自分を守る殻は作れそうにありません。人の深い感情に対して結び目ができてしまう方です。
    切り捨てる時はよく考えて、しかし忘れることはないです。

    私が自分の作る話を「他人」として扱うのも、そうして向き合うことの方が面白いからです。

    読者と作品の対話に、作者の存在はなくていいと考えるのもそのためです。



    「承認欲求」は本物でしょうか。

    無視されたり存在が否定されるような目には、ふつうに暮らしていて遭わないと思います。

    システムが数値化した数字には、体温がありません。軽い気持ちの承認も花束を抱えるほどの熱意もただ1pv、かもしれない。
    数値の可視化が、普段なら考えることもない自分の存在や尊厳を、そんなに簡単に脅かすなんてちょっとSFでございます。

    あまつさえ投稿サイトの片隅で読まれてないから、世間で相手にされるわけないと思ったりして、逆だからそれ逆! もっと自信持て!!

    とは言え、デジタルデトックスの効果で承認欲求が皆無なのもあまりオススメしません。

    正しい(?)承認欲求を適度な刺激として、原動力やハングリー精神に結びつけられるのが望ましいです。
    そのためにも、それぞれのスタイルに合わせたシステムが選べるような機能がほしいですね。
    システムを理解し人間味のある戦略で対応している方や、承認される以上に他人をリスペクトするマインドを持っている方が、こうした場所では強いです。


    誰かを思い何かに思われて書くことが、本来の姿なのかもしれません。


    私には話を通して誰かとつながるという景色は見えていないので、作品に与えられた評価や感想で印象が変容していくのは、不思議だな寂しいなと思いながら、作られたモノにとって大切な宿命だと思ってます。

    誰にも届かずにどんなものだったのか、何もわからずに終わった作品が沢山あります。

    書いて読める形にするところまでで、そこから先はその話の生き様です。
    作者の技量の優劣も含めて、作品が負うものです。

    宛先のある感想や講評、誰かへ贈った言葉は、より指向性が強く、その分相手に委ねる部分が大きいです。無反応も含め相手の反応がそのまま言葉に下された結論なんだと思います。

    選評のように作品に対する見解を、相手と公に向けて示す場合とは、性格が違います。


    作品が読み手のものになるのとは少し違い、個人の言葉はそれをのぞき込む人の顔になるのだと思います。

    言葉から称賛を素直に受け取れる人は称賛することを知っていて、感動する人は感動するポイントを見つけられる人で、相手の言葉が原因のようでも、自分の理解や情報量に左右されます。

    いつも人を褒める方から褒められることと、滅多に褒めることのない方から褒められるのと、まったく同じ気持ちで受け取れるでしょうか。

    きっともっと複雑だと思います。
    その言葉の背景をどこまで知ることができるのか、話に作者の背景が読むうえで不要でも、個人の言葉には響きと温度と表情が必要です。


    それを踏まえて、すれ違いとか行き違いとか、普通に起こるからかまわないのです。
    それからどうするか、の方が重要だし、すり合わせるより、たくさん意見を出して言葉を先に進めるしかないと思います。
    真面目なやりとりも雑談も「おもしろい」ことになってしまうと念頭に置いておきたいです。

    フラれてからが勝負というか、そこからの付き合いが大事ですが、投稿サイトの二次元の言葉には「削除」ボタンがあるので、人間性を保つこと自体がデジタルの世界ではむずかしいのかもしれないと、そんな考えも浮かびます。


    作品や言葉、どちらにしても発した私に説明責任があるような事態だと思ったらしますね。言い訳はしないし、後から取り消したくなるほど空気読めてないこと書いてても、返事がなくてシカトされても、人に送ったものはどんな沙汰も受けるつもりでおります。

    信念とかじゃなくて、そうしないと同じことをくり返してしまう、反省会みたいなもので、どこでどの発言が宙に浮いているか、とか、あの発言はっっ、とかメモもとってないのに記憶してます。(忘れたいのに)


    反省してもなかなか学ばなくて申し訳ないです。
    たぶん、私も「個」として認める私の話も傷ついて丈夫になるしかないんだと思います。










    kinomiさまの理想の読み手を考えるというのは、私にない発想でした。

    気にするポイントが評価やシステム的な数値より、ずっと素敵なことだと思います。

    述べてきたように、そのあたりを物理的に及ばないこととしてポイとあきらめていたので、新鮮でした。

    ヒートアップしたリアルタイムの書き込みが、動悸のはやるものになるのも、そこに真剣さがあるためだと思いました。

    相手がどれほどの熱量や時間を割いて生み出したものか、という実感を持つこと、汲みとることを意識してくださる理由も、kinomiさまの作品に見られる熱意に共通する感覚を持ちました。
     
    すべてのことには理由があるのかもしれませんが、全部を意識できているとは限らないでしょうね。
    熱量が必要な場面や言葉だったのかもしれないし、そうしたものがなくても最適なものを描ける方もいて、難しいのはバランスを書き手が取ることだと思います。


    最終的には受け取り手次第です。
    その言葉や話が豊かなものになるのは、話の対になる受信者によってです。その話を読んで物語のなかに入れなくて損をするのも作者ではなく私です。

    私は一円のプライドもないですが、たぶん、書き手の人にキミの話がよくわからないんだけど、どこをどう読むと楽しめるのか読み方を教えてほしいと言うと、読んで伝わらないと知り「もういいです」と傷つけてしまうでしょう。読者は楽しむためには自力でがんばらねばなりません。


    企画というプレッシャーもあり、「仮想箱」は何度も読んだと思います。それでも書けたのはほんの一握り得た感触で、言語化できない見えているけど把握できていない空間の広さを想います。
    別企画の評者の方の言語化した「仮想箱」や他作品の感想などは勉強になりました。
    kinomiさまからは感想や疑問に多くの回答を頂いたので、限界のある想像力でも全体像をつかむことができました。



    感想は多くのことを教えてくれますが、自分自身がまったく好きなように読むだけなので、私のイメージする読者像は「通りがかりの物語とかに興味のない人々」です。

    たぶんこれからも、すごい読み込んでくれる方も読み間違えられていても、フラットな読者像のなかに収めて考えてしまうんだろうなぁ、と思います。




  • 最近あちらにおいでにならないようなので心配しておりました。
    この度、めでたくブロックされました!
    散々突られ、無視を決め込んでいたら向こうからブロックって(笑
    私は何もしてねぇ~(大笑
    勝手に踊ってくれるのが滑稽でなりません。
  • えーきち様

    ご心配をおかけしました。(何度目かの修正)

    現在、デジタルユーレイです。ここにいるのかいないのかよくわかりません。

    いい感じに力の抜けた大人だから、えーきちさんは笑っていられるのです。

    滑稽ではないです。しそうだな、と思うだけで。

    あまり刺激しないようにするのが、まともな対応なんだろうと思います。

    見積もっても近況まで来る可能性は、前回も今回も二割だと想像したんですが、まるで私が呼んだみたいになってるんだよなー。(来訪がいきなり過ぎる)

    うまく避けなかった私は、滑稽ではなく深刻に感じています。

    でもね。「削除」機能と「ブロック」機能、これは理解しないといけない所なんですよ。

    「見えない」凶器にもなるこれ、いくらブロックされたとか削除されたと言っても証明できません。

    私とえーきちさんが記憶している流れ弾が、姿を変えて改めて書き込まれたことも、他の誰が知っているのかわからなければ、誰にも見えないのと同じことです。
    教えたいわけじゃないですよ。

    知らなくていいんです。無知なことはデジタルな交流の場では不利にも恥(ち)にもほとんどなりません。

    去る人が何かを残す場ではなく、発信する人と、それを選択して受信する人が主役と考えたら、彼らが認識する「今」とこれから向かう先がクリーンで健全で、活動が安全なことが優先します。

    知らない方がたぶん、都合がいいんです。全体的に。


    どーして、先方に用事のなさそうなえーきちさんがブロックに気づいたのか。調べてみましたが、ブロック通知は来ないのに、書き込めなくなるから、応援ボタンが消えたり、近況ノートの書き込み欄が消えたり、画面の仕様で確認できるようですね。

    言えるのは、誰かを守るために使う機能ではなく、少なくとも自分のためにしか使わない機能だということです。

    そして、それは必要なことなんですね。

    人の感情を守るため物理的に遮断したり、限定したり、強制的に選ぶしかないのが、大量の発信者と受信者が同時に存在する、開かれたデジタルな場での交流の限界だと感じます。

    持たされた機能に拒否権はなく、だから、これは権利ではなく、あくまで機能だと思いたいのですが。


    実際は、ただの機能に感想を抱くなという方が無理です。

    私にとってブロック機能は「檻」のイメージです。自分を守るための鉄格子が、自分のことも閉じ込め行動を制限させるものです。
    道具は使いようなので、人によっては相手にかける手錠だと考えるかもしれませんね。

    変えられるのは結局、認識する自分の心次第なのかもしれません。

    道具を使う意図は自由で、人を守る道具に傷つけられても、例えばそれが悪意ある行動だったとしても、何も残ってなければ、感情を口走った方が共有空間の精神衛生的に問題視されますね。

    いつでも人の心の方がすり潰されやすいです。

    変えられるのは自分だけという覚悟を持てるならまだいいけれど、ただそこにいることができなかったり辛い人は、どうしたらいいんでしょう。


    覚悟を持って諦めるより、相手に届く言葉を探していきたいです。どうせ話を書くために人に届く言葉を勉強しているなら同じことじゃないか、と思うんですが、通じなかったのを相手のせいにするのはちょっと違いますね。

    自分の言葉を一片も疑ってない言葉で絡まれるのは、しんどいですね。同情します。しますが、力にはなれないのです。私が私のページで起きたことに対処するように、えーきちさんが大丈夫そうなら私は見守るだけです。

    ブロックはお気の毒さまですが、もうどうでもいいことじゃありませんか。

    おそらく私もブロックされてると思いますよ。

    機能に勝手なイメージをつけない方がいいと思うのですが、何よ何よきぃ!ってフラれた気分がするのはなんでなんでしょうねぇ。


    ところで最後にちょっとひどいことを言います。









    この話は全部ウソです。





































    というのが、



    「削除」機能に対する私のイメージです。認識と言ってもいい。

    自分の言葉を消すことも、他人の言葉を消す行為も、書かれていた言葉がなかったことになると同時に、その言葉が「嘘」だと言われた気がするんです。

    自分の言葉をすっと取り下げる人は、人の言葉もそのように扱うのだろうと想像します。

    そんな風に感情の見えない機能が使われたり、人の言葉に対して感想を持つ時、それが黒いほど、認識し感じられる自分の腹黒さや烈しさに、もっといやな気分になるんです。
    感想に自分の顔が映っている、牙を剥いてるそれと話をつけるしかなくなります。

    削除したことで前に進める方もいれば、負い目になる方も多いので、必要があって使っても、お道具は諸刃の剣だなと思います。


    どうなっても仕方ないと思って、私も話と誰かへの言葉を届く努力はしつつ記していますが、書いたもののために怒れないのは、自分から生まれた途端それが「過去」か「他人」になってしまうからなんですかね。

    おもしろい話を書いてくれれば、変わり者でもかまわないんですけどね。



    何にしても、めでたいじゃなくて、そこはお疲れさまです。おつかれさまでした。
    (大笑い)に疲れというかいやんなっちゃってる感じがにじんで見えますよ。
    それでも腐ったり怒ったりしないのが、えーきちさんですね。
    優しい男です。(エロはさて置いて)


    オチくんはひそかに尊敬します。




  • コメントありがとうございます!

    >それでも腐ったり怒ったりしないのが、えーきちさんですね。
    優しい男です。

    いや、実はですね、彼は超えてはいけない一線を超えたため、私の怒りを買って運営に通報されたのでした。したのは私ですけど。
    まぁ、だからブロックなのかなぁと、思ったり思わなかったり。
    つまんねぇ作品とか言われるのも平気ですし、大抵のことなら怒ったりしないんですけどねぇ。
    大人げないのかなぁ……
  • >日竜生千様

    ――よく知りもしないどなたかと対立するような線を引いて、分かりやすい対比像を持ち出して、「自分の物語を読んでもらったから」と肩入れして味方の格好をしただけなのでしょう。その人を肯定するためのその言葉は、嘘偽りの無いとは言いません、ずるい含みの無い言葉ですか。だってあなたの言う「理想の読み手」は、“あなたにとって都合の良い読み手”と読み違えても一切矛盾が無いではありませんか。


    これに答えようと時間を要しておりました。

    物語に対する姿勢と、誰かに向けた言葉についての姿勢が私の中で混ざっていたように思います。
    私は当事者ではなく、「ひともんちゃく」の「ひ」の字も見ていないと思うので、後者については横槍を入れるべきではありませんでした。ヒートアップの“何故”を探らなければならない場合であったと思いますので余計に。
    物語に対する姿勢の方は、いただいた言葉を持ち帰って、一人で考えようと思います。ありがとうございました。お邪魔いたしました。
  • えーきち様

    休み休み考えたり、眠くなったり、おねだり企画に一本プレゼン書くくらい脱線したり、なので返事が整うのが遅くてすみません。

    物語のように前後関係が説明されていて、背景がわかるのと違い、SNSなどの言葉はそこが見えないので、返事を書くよりも、読む方に時間をかけるようになりました。

    デジタル界隈のやり取りに適した書き込み方は、一生身につかなそう。

    お返事をいただき、何があったのか調べるうちに、雲江斬太さんのコメント一覧に行きつきました。
    内容の主文は3/23の記録なので、えーきちさんから17日に聞いた内容とは関係ないのかもしれませんが、読むうちになんとなく、えーきちさんは自分のためじゃなく、誰かの被害を見て通報したんじゃないか、と考えました。


    すでに削除済ですが、18件のコメントはえげつなかったです。

    削除されたものを証拠として吊るしても、閲覧側が検証できないので、筆力に優れた方の言い分が正しそうに見えるだけ、にならざるを得ないようでした。

    互いを責めても、結局、それまでのコメントや評価の印象をすべて地に落としたのは当事者たちになります。
    私に記憶があるからそう感じるだけで、削除されなかった交流の形跡は未だ残っていて、それは経緯も人物も知らない閲覧者から見れば、何の問題もないことですね。

    だからこそ、削除されたものは不問に伏されなければならないんだと思います。
    あとで被害を訴えても基本的にはムダということですね。
    (悪質なものでない限り)


    カクヨムは通報者を明かさないと思いますが、ここで暴露して大丈夫なんでしょうか?

    通報者が伏せられるなら、特定されるとは思えませんねぇ。
    間接的な被害なら、通報者が複数いる可能性も出てきます。

    デジタル環境の様々な対人ツールのため、人間っぽくない表現や行動に拍車がかかるユーザーの多くは、自分の一部しか表出できていないのか、自分に対するイメージを固めているのか、考えると気が重いのですが、「人」として全体でここにいるように感じるえーきちさんは、すごいなぁとやはり思います。

    私は自然体でいようとしても、言葉にすると加工されてしまうなー。


    そんなえーきちさんを怒らせたということに、思わず遠くを見る目になりました。

    あれ以上(この時はえーきちさんトコの書込みがエスカレートしたと思ってた)、一線を越えたのかー。

    すでに越えていたのに。


    スルーすることもできたのに、然るべきところに報告したことを、大人げないと感じていらっしゃるのかもしれませんが、そんなことはないよ。

    えーきちさんにしろ、雲さんにしろ、私にしても、ここまで怒らせるには、何かしら同じことが変わらずに繰り返されてるのだと思います。(同列にお名前を挙げたことが不敬でしたらすみません)
    そして、やり取りのなかで思わぬ答えが返って来たり、予想と反応が違う時は、相手に対する理解に見落としがあるんだと思いますが、この時に心に負荷がかかって、慌てたり感情がエスカレートするのは、早計ですね。

    合わせられる方が相手に合わせるしか、関係を維持したいならそうするしかありませんが、その場合、自分だけがわかっていると思い負担になると、どこかで無理が出ます。
    そこで負担を解消するために「原因」をなくそうと、例えば相手の問題点を口にして「指摘」するのは、たぶん、本末転倒です。

    自分が見ていて我慢できないことを相手のせいにしているようでもあるし、他の可能性を考え続けることをやめているし、労る相手や関係を結果的に攻撃しているし。

    謙虚な方、遠慮深くて損するような方にはない「おごり」かもしれません。

    こうなればいいなと思ったものが、思考を重ねるうちに主観と感情でねじれて、結果、理想から遠ざかる行動に走るのか。

    言ってて自分の耳が痛いばかりですが。

    本当に人との関係や交流の場所の箱自体を、あるいは他の閲覧者のことを考えた場合に、相対している相手のことだけに視野を狭くするわけには、いかないと思います。

    よく考えれば考えるほど。

    人は変わりますが、変わらない生き物でもあるので、変わることを期待してみるのもいいですが、事態を前に進めるためにどこかで諦めて引くことも必要だとは思います。


    前回にコメントを消したことを、今回、先方は私の言い分が誤解のため、それを認めないために書き込みを削除したと仰っています。
    無言で削除されたものから、そのような意図を汲み取るのは不可能でした。
    しかし感想を促すために、今回、前回の削除について説明する必要があったようです。

    私が押した応援ボタンも、先方の削除と同じく意図は見えにくいものです。
    イメージ的には削除はマイナス、応援はプラスでしょうか。しかし、削除を反省と自戒のために使う人もいれば、応援ボタンを栞がわりにする人がいることが私には想像されます。

    先方は色んな可能性を排除して自分で選んで、こちらの意図を推し量ってやって来たのですね。

    私は相手の意図を無視して、空気も読まず、迎合もせず、応えてしまいました。
    えーきちさんが自分のことではお怒りにならず、運営に報告されたことは賢明だったと思います。


    気を落としたりはしていないと思いますが、しかもコロナでバタバタでお忙しいと思いますが、ご自身の人間力を信じて大丈夫です。
    フレー、フレー!(なんとなく応援団)
  • kinomiさま

    ちょっと変則的なお返事になります。

    長そうなので、目次作りました。(正気か)(6400文字)

    目次
    1・直近の(?)お返事を読んだ脳内
    2・補足
    3・12月29日〜2月末の回想
    4・考察
    5・創作についての返信
    (※後半3項目どこから読んでも、飛ばしても大丈夫です)

    ぎゅっと要約された心に、予測を立てて書いても脱線しそうなので、読んだままの反応を記します。
    平均的には失礼にあたる踏み込みもkinomiさまなら耐えうると判断しましたが、〝キーちゃん〟と呼ぶことなどなど先に謝ります、すみません。(無礼なとこは怒ってください)

    (反射に近い即答で感じたことを大まかに確認し、認識できてる範囲や理解不足やアラを探す指標でもあります。)

    ぬお!?
    私そんなこと言ったったー!?

    うーんと、いや、うーんとー。
    いや味方しようとしてくれたのは、純粋にありがたかったゼ!
    見越してはいないのよ。格好だけとは思ってないのよ。キーちゃんを知ってるから。それなりにだけど。
    嘘偽りあるのかよ!? 信じたよ!
    含みのない言葉はズルくないよ!?

    理想の読み手を考えるって素敵なことで、私にはない発想だって言ったじゃない。言ったじゃない、わたす!
    都合良い読み手って読み替えたら、違うものだよ!!


    いやー、こんなユーレイの言葉を噛み砕くのに貴重な人生の時間を使わせてしまってすんません。

    混ざってたのか、そっか、キーちゃんを巻き込んだり、苦い記憶を思い出させたりはしたくなかったです。愚痴っちゃダメだな自分て思います。
    Y氏については、ご本人がヒートアップした原因は当事者じゃなくてもだいたい予想がつくところではないかと思います。返って来た答えは予想を裏切らなくて怖いくらいです。
    ただ、いらっしゃるのは2割と踏んでところは違いまして、刺激に対しての反応が人が考えるよりはるかに強いとは思いました。

    物語に対する姿勢は、私とkinomiさまではまったく別だけど、根底でつながっている景色も存在すると感じています。
    この前は、相違点にフォーカスして述べました。

    伝えたいのは、他の景色と違っていても、kinomiさまはkinomiさまだけの景色を大切にして、周囲を内包しても惑わされずに探求してほしいということです。

    変わりたいなら変わってもいいけど、変わらなくてもいいんだよ、と思います。

    *2

    脳内、フランクすぎるわ。(低頭)
    説明不足でどこから補足していいかわからないくらい穴だらけですが、kinomiさまを反省させてしまったり、影響が及んだことを知り、何か今更、何ができるか考えました。

    的外れになるかもしれないと、危惧しながら頂いた多くの言葉は、一連のことが当事者ではない人の目にどう映るのか知る機会がなかったため、ありがたかったです。

    こうしたきっかけで体験談を教えていただき、交流や感想、評価についての負の側面を想像させてしまったことは、ありがたくも申し訳ないことです。

    すでに私が人を巻き込んでいたためですね。

    最初の書込みがあった時に、感想を言うべきか判断に迷って相談した綾束さま。

    感想への返礼を読んで、思わずツイッタで叫んだ時に同情して頂いたえーきちさま。

    いっちゃんさまにも。

    それに、私は考え過ぎて、何度も何度も自分の感覚を噛み締め考察を繰り返すうちに、自分の身に起きたことから別のところに問題点や疑問を持つようになっていました。

    それが、結果的にkinomiさまを遠ざけるような形になってしまったのは、私の事情にすぎません。

    すでに削除されていることについて話すと分が悪いような気もしますが(保身)、誰もが共有できる公開の空間で起きたことでもあります。

    >自分に与えた言葉で進んでいる

    そうなった背景についてお話しておこうと思います。

    *3

    (読まなくても問題ないです。過ぎたことなのでまるっと忘れていただいても構いません、くれぐれもご無理なさらないよう)

    以前にも来訪を受けていたので、また感情的になられサイアク削除されて一人相撲になることも、一方では想像に難くなく、結果そうなった時、私は前回より疲労を感じ冷めていたと思います。

    「恐ろしく論理的で傲慢な部分と、感情的で臆病な部分が並立していて、その微妙なバランスの上に立たないと小説が書けない人」というのは、まだ削除されていないご本人の談ですが、とても複雑で興味深い方で、独特な自意識ははたで見ていても厳しいものですが、その思考の圧は相対した人間にしかわからないところがあります。
    すべてが公開の空間でも、交流は基本的に一対一で、ページを持っていると逃げ場がありません。(そのためのブロック機能ですが)

    売り言葉を買う意味はなく、安全に応えられる範囲はどこか、現実的に可能な行動は何か、間違えられない緊張感から理性に感情はがっちりホールドされていました。

    ちょっとしたストレスがかかった時にふわっと無視すると後で体調に出るので(忘れているうえ無自覚なため原因を思い出すまで症状が続いて苦しい)、それから感情を黙らせた分、些細なことももらさず意識し始めたら、前回来訪を受けた元ネタ(遠藤さまの件)までさかのぼってしまい、ひたすら終わらない感情論が頭をめぐる日々でした。
    流石にひと月経つ頃に気力と体力が低下しても考えるのが止められず、自分では自分を救うことができないと感じて、デジタルデトックスや言葉に関する本を手に取り始めています。

    リアルの友人や知り合いに聞いてもらっても、自分に都合のいい言い訳をしても、ちっともラクにならず、心の動きに対しのんびりした理性が遅れているため、考えるほど「感情」は「原因」とは分離していきます。

    「何故」あんなことが起きたのか、真実は想像の域を出ません。デジタル上の交流には留意することが多く、個人はそこでリアルとは変質するのかもしれないし、逆にリアルよりも本質に近いのかもしれないし、今回のケースはどうだったのか、「何故」をそのままにして「仮定」し続けていく方が、解決しようと心を砕くより救いがあると考えました。

    「仕組み」(変わらないもの)が背景にある「原因」を感情で考えても仕方ないな、というところです。
    私にとって原因がわかったところで、起こったことに対する感情はなくならないということでした。

    でも「起きた過去(こと)は変えられない」という理由で、水に流したり、そこで断ち切ることはできます。
    しかしそのようにするつもりがなかったため、「感情」を「清算」できずに苦しんでいました。

    もし目の前に感情を清算しようとしている人がいたら、止めるんですけど。

    人のことはさておき。

    すでに誰かとの間に起きた問題ではなく、勝手に抱えたどす黒い感情を「どうやって(自分も含め)誰のせいにもせず傷つけずに済む道を探すか」だけを考え続けました。
     

    言葉の不完全さと選択性、デジタルデトックスに効果的な「瞑想」の概要(身体状態に意識して、することからあることに意識を切り替える)に加え、二月末に観た朗読劇の舞台で、どう思われてもいいのか、と勇気を感じたことがきっかけで、なぜ自分は書くのか? について「書きたいから」としていた解釈が変わり、「伝わらないことは何度でも言う」「書いたものは書いたもので贖う」そのように「道」が見つかりました。

    腹の底に収まった後も、ネットに依存気味だったことを振り返ってデトックスを続けていた折、kinomiさまから10文字をいただき、心境を述べるきっかけをもらいました。

    *4

    年末の対応について、物語を読んで感じた話に入れない感覚を、感想としてまとまらないなら、追求してみることにしたことも、距離を置くため引いたことも、あれでよかったと思っていますが、それ以降ずっと考え続けていました。

    聞いてくれる相手がいると思うだけで、感情を口にしていいような気になります。
    それをしないために考え続けたことを忘れていないのに、隙あらばその機会をうかがうのは、ストレスに対する自然な心の動きで、抵抗感もありません。むしろ棘のある言葉を吐くことで(自他を攻撃することで)精神のバランスは安定しますが、それができる心理状態に追い詰められていることも、内面の葛藤を抱えきれていない事実にも、目をつぶっているだけです。
    しゃべる相手がいなければ黙っていられるものが、年末の記憶で鮮やかに蘇ってくるのは、誰にも見られず真っ黒な思考に傷ひとつつかせていないからだと思いました。

    言葉と話は似ていて、形にして頭の外に出せば、人の目と時間に触れて、その時代の目でホントウの姿を与えられ、変化に耐えていくでしょう。
    外に出なければ生み出した人間の頭を覆って、いつまでも素晴らしく鮮やかなまま、成長することなく、同じ姿をとどめます。

    残念ながら私はネガティブなことを口にすると自分が傷つくタイプの人間ではなく、先方のような勧善懲悪派で、経験則でガチンコになる相手はウィークポイントが自分に似ていると学んでいます。
    (同じレベルでやり合うと子供の喧嘩みたいになるしね)

    リアルの感覚を基にした感情論は、プラットフォームが違うここでは成立しない理屈です。
    (状況や相手を見て発言が変わるところも、都合が悪いと発言を軽いものとして文責を果たさず逃げてしまうことも、誰にも了承を得ず一方的に削除することを「水に流す」とは言わないことも、悪気がないから悪質ではないことも、一度口にしたものは公私に関係なく取り消せないんじゃぎゃー、とか。)

    たとえ誰かが覚えていても、取り消す機能が保証されている限り、なかったことにできます。(そうしないとケレスミス以外で消す人を前述の通り先入観で見ることになってしまいます)

    思い出せば感情にのまれるのは簡単なので、年末の記憶は直視しないようにしました。

    私は無事ですと言う代わりに、kinomiさまの体験から感じた、なぜ物質的な作用のない言葉で無用に傷つかなければならないのかを、デトックスを経て「書くこと」の理由が少し実感を持つものに変化した視点で、考えました。
    それは意思疎通の手段が文字しかなく、8割が主観で補われる場所の怖さであり、人の心に浮かんだことも、デジタル上の特性によって引き起こされていないか、自分のものにする前に怒りも悲しさも希求も、実体より印象が肥大していないか、経験した一連の「原因」の焦点の一つだと思っていることでもあります。

    見る限り、作者が自身の話に対する感想に抗い評者を叩くという行為は、感覚的には意味不明ですが、作者と話と読者の距離感がリアルより近いと察します。

    アナログ上とデジタル上で人の感覚が変化しても、環境に適応する個人の性格や相性、向き不向きとして、振り返られることはないのだろうと思います。
    ネットを使い始めた頃、この世界は「黙読」に似ていると思いました。本を読む時、ダイレクトに受け取るため意識は開きガードは下がっていますが、そのクセが文字を追う行為に身についていて、距離を取れないと感じたためです。
    温度や実感のない人を感じにくい場所に、預けられないモノを預け過ぎてはいないか、迷います。

    kinomiさまが扱うSFはこうした機械的な仕組みや構造も描くはずですが、そこには心がどうしたわけか発生したり介在したりして、『図書館暮らし。』を思い出し、そうした素敵なことは起こり得ないのだろうかと考えてしまいます。(ポンコツ頭脳では無理ぽい)


    実際は意味のこんがらがった熱量のある言葉を向けられた時、私の思考は把握する理性とコノヤロウという感覚に分かれて展開していき、リアルとデジタルそれぞれの側に立ってしまったような思考を元の小さい心に収めるのに、これからも下を向かずに書いていける理由と実感を必要としました。

    自分だけが被害者にならないよう、自分だけが笑顔にならないよう、誰かを笑わせて行けたらいいですね。

    ネットから距離を置くまで、声質でごまかせない文字では、印象がはっきりし過ぎないよう決定的な言い方を本能的に避けてきましたが、下手くそでも、どう思われても、なるべく怖がらず言い切ろう、その代わり逃げずに考えて、よくわからないことは言わないことしによう、と今はしています。

    背景の見えにくいやり取りの場で真意を濁していくことも、事実よりイメージでものを言われることも、ホントのことから遠くてツライと思ったためですが、そのせいで、今までの私の雰囲気と違い、決定した書き方がkinomiさまを圧迫していなければいいな、と思います。

    *5

    まだこのページから外に出て行くことも、読んだ足跡(応援・コメント)を残すこともできない気がしているので、創作に関することはこちらに記します。

    「書き手が求める至上の評者」と「一人とは限りません」については想像力が追いつきませんでしたが、「求める読み手」というのはそれこそ至上の評者のことを指すのだろうと考えました。
    妥協のない自分を高める存在、書いても書いてもまだ先があるはずだと自分の物語を求めてくれる読者に応えようとすれば、まず進行方向を違えることはないですし、認められている長所を疑うことなく強化して、今以上に力を発揮する原動力になるものだろうと想像します。
    評価や数値の推移に生命線を託すよりは、健全で間違いのない方向性だと思いますね。

    都合の良い読み手を想定するほど、話に対して甘い姿勢はとっていらっしゃらないでしょう?


    一連のことを通して、私は言葉の受け取り方や人のデジタル化について考えましたが、自分にしか分からない感覚で終わるかもしれないし、ネット上の齟齬は人の相性や特性によるものとまとめられるかもしれないし、そのどちらかで受け取られるなら、述べる意見が影響のないものになるよう、前提として個人的な話の捉え方や特性を示しました。

    義務教育の頃、落書きのような絵でも人にあげたものがゴミ箱で発見された時に、自分が感じる衝撃と作品の痛みを分離しないとこの先やっていけないと感じてから、そうした距離感ですが齟齬も人の違いも面白がれるのはメリットかもしれないけれど、引き換えるように興味のない人に向けて話を書こうとする不毛さと、物語の共有が苦手でもあります。

    時間をかけて読解していただき、ご自身と比較させてしまったかもしれませんが、善し悪しではなく同じになるわけがないといえばなくて、ただ繋がるイメージもあって、私には「私の物語」があるのでそれ以外の「世界」は他人を預かるイメージです。
    私は自分で殻を破れないので、他人になってそこに行きます。その時は自分がちょっとじゃまです。
    と言えばわかりやすいかな幾分と思ったんですが、わかりにくかったらすみません。


    自作品との向き合い方は、即物的な面だけでも創作で稼ぎたいか、金銭とは無関係に創作する方が自由と考えるか、小説が好きだから小説家になるのかという、書く意味を自分のどこに置いてるかによって、人の作品を見つめる時も、自他を含む創作に関する視点に影響してくるので、述べました。

    作品と言葉は似ています。

    しかし意見は述べても聴かせるものではないと思っています。ここは交流の場で、創作論や創作エッセイとして立ち上げたものではないからです。
    (近況は交流の場というイメージを持っているのは「座談会」のせいですねー)


    えー、長くなりました。さくっと気負わずに読んでもらえていたらいいなーと思います。(無理だ)
    手紙みたいな返信までの間の開き方ですみません。
    コロナの影響は全国に渡って甚大ですが、仕事のない私はお家にこもってだらだらこれ書いてました。ほっほっほ。(あっという間に老けそう)

    以前教えていただいたAnnabelを聴いてます。

    数々のご無礼、本当にすみませんでした!
    kinomiさまもお大事にお過ごしください。それでは。

  • こんばんは~(*´▽`*)
    急に失礼いたします。お久しぶりです。なんだかいろいろと大変なことがおありだったようで……(><)

    そんな日竜様をお誘いしてもいいのかどうか、ちょっと迷ったりもしたのですが、「カクヨム・ぱーてぃ!」の第三回目を七月か八月に開催いたします!(≧▽≦)
    (お知らせが遅くなって申し訳ありません……(><))

    いつでも参加OKですので、もし覗いてもいいかな、と思われましたらいらしてくださいませ(*´▽`*)

    あ、変な義理とか感じなくても大丈夫ですので、日竜様の御心のままに、お好きなようになさってくださいね~(*´▽`*)
  • 綾束様

    無沙汰をしております。
    座談会開催されるんですね。
    コロナ禍の間、いつもと違う形で創作と向き合われた方も多かったのではないでしょうか。皆さまお話ししたいことが沢山ありそうです。

    お返事が遅くなりすみませんでした。
    お忙しい中、お声がけいただきありがとうございます。
    出られないのは少しさびしいです。(甘いなー自分)
    色々反省してデトックス中のため、カクヨムでの活動は引き続きどう行うのか目処が立っていません。

    座談会のまとめなど、方々で不義理をしていることは多く、順番に片付けていこうと思っているものの心苦しいばかりです。
    なのに焦っていないことが申し訳ないです。(面目ない)

    訥々とやっていきます。

    今年は梅雨が長いそうですがお身体お気をつけて、ご家族ともご健康にお過ごし下さい。

    お気遣いくださりありがとうございました。


    ひるい(手のり文鳥ならぬシロワニ(鮫のぬいぐるみ)を肩乗せしながら…)
  • こんにちは~(*´▽`*)
    お返事ありがとうございます、了解です(*´▽`*)

    私は体のデトックスをしたいです……(´-ω-`)
    もう薄着の季節だというのに……(><)
    いえ、私のぐちはどうでもよくて(笑)

    自分がしたくて、楽しい無理以外はしなくていい無理だと思うので、日竜さまのお心のままでよいんじゃないかと思います(*´▽`*)

    また日竜様のお気が向いたときにでも、遊びに来てくださいませ(*´▽`*)
    うちはいつでも大歓迎ですから!(≧▽≦)

    日竜様様もどうぞ、身体も心もいたわってくださいませ~(*´▽`*)
  • >日竜生千様

    やっとお返事を書くだけの余白が作れました。きちんと返していただいたのに随分と時間が空いてしまい…。
    (申し訳ありませんなのですが、そう書いてしまうと返事の返事を急かしてしまうような気がするのでそう書かないようにします。本題へ。いただいた目次ごとに分かれています。1・2はまとめています。)


    >1・直近の(?)お返事を読んだ脳内  への返信と
    >2・補足  への返信
    「よく知りもしないどなたかと対立するような線を引いて」
    これは私自身から出た(出した)言葉でした。確か何かの記事を流し読みして、『書き手が陥る状態の一つに、自分の作品をより深く理解してくれる読み手を過度に求めるというものがあり……』というような内容を見つけて、自分はどうかと考えようとしていました。(実際にはその記事はそのような内容ではなかったのかもしれません。行方不明になってしまいました。)

    よくある“頭の中の天使と悪魔”のような感じで、悪魔に語らせた言葉のはずなのですが、ちゃんと私を見抜いていたのはその悪魔の方だったように思います。私がここに最初に書いた言葉の中に、嘘偽りはありませんでしたが、ずるい含みがあったのだと思います。端的に言えば私が良い人に映るような仕掛けが、です。

    理想の読み手は汚れ穢れの無い考え方として存在すると信じています。
    都合のいい読み手の方は、多分、(その方の性格的に)作品の良くないところを書き手に言えないのではなく、書き手の作品をただただ褒めてだけくれる読み手のことです。偶然の感性の一致ではなく、物語の真に深い部分での読み手書き手の交錯もなく。こちらは存在するのかもしれませんが、求めてはいけないと思いますし、理想の読み手とは異なるものです。
    今読み返してみると最初にお渡ししたコメントの中で、私は“理想の読み手”という言葉を直接は使っていませんね。都合のいい読み手の意味合いが多少なりとも混ざっていたのだと思います。

    私のチャットの思い出は今では良い思い出なのでお構いなく…、物語に対する姿勢については後ほど。
    景色については、ありがとうございます。


    >3・12月29日~2月末の回想  への返信
    こちらについては、私は本当にほぼ何も把握していないです。私がある程度の応酬を目撃したと日竜様の誤解があると思ったので、先に伝えさせていただきます。

    その上で、ここまで掘り下げて、熱量を割いてしまう姿勢に頭が下がります。暗闇に足場を作るための言葉、その色味が全て黒寄りの寒色で、きちんと砕いて中身を取り出したからこそ鋭利で、全て自分(日竜様)を向いて尖っていて。それを敷き詰めた空間を下だけを見て裸足で歩くような景色でした。踏み固めれば、言葉を溶かし切れば道はできるかもしれません、足元を見たまま鋭利な欠片の上を進み続ければいつか道が現れるかもしれません。でも両足が血だらけになるような、そんな行為です。チャットは画面を閉じれば、名前を変えればリセットでした。このような場に立ち会ったら逃げたり安全靴を履く人が大半のはずです。私もよほどのことがない限りそうしてしまうでしょう。自らそのような場を造り上げるに至る人がはたしてどのくらいいるのか、分かりません。
    ただ、それが自分の姿勢や在り方を問う機会であったから、だから血だらけでも歩く必要があったのだとは思います。振り返って撮って見せていただいた写真から歩いた方のその時の精神までは読み取れませんが、どのような場であったのかは少し分かったつもりでいます。よほどのことであって、最後まで裸足で歩ききったのだと。

    ――何の飾り気も捻りも気遣いもない10文字の一言が少々申し訳なくなっております。

    もうちょっと申し訳なくなっております。


    >4・考察  への返信
    まず、人(≠ヒト)、言葉、デジタル/アナログに関して、私は日竜様ほど深く落とし込めていません。

    ここで私の近況ノートの「はいぱーりんく」を記載します。
    >まだこのページから外に出ていくことも
    とのことですので、余白ができてから読んでいただくのでも、もういつまでも読まないのでも構いません。ノートのページを切り離して一枚で渡せる仕組みですが、6mm罫線のB5一枚を手に取った時にどうしても床の木の模様も学習椅子の脚も目に入ります。

    まず私の『2020年3月30日 19:36』のコメントを書いた後に作ったノートです。
     https://kakuyomu.jp/users/kinomi/news/1177354054895044872

    この後で『2020年4月26日 0:57』の日竜様のコメントがあって、
    それを読む前にもう少し自分のノートを進めようと思ったのですがやっぱり気になってざっと読んでしまってから作ったノートです。
     https://kakuyomu.jp/users/kinomi/news/1177354054898269917

    キラキラした答えは出ていません。
    前者から一部を引用します。

    ――少なくとも今私が「物語を描く」という時には、世界ではなくあなたを描いている。あなたを通して見えた世界と言い換えてもいい、でも世界そのものではない。だから登場人物のいない世界にはほとんど熱量が込められないと思っている。そして、私と深い関わりのあるあなたを描いた物語への評価が、私自身への評価であると必要以上に感じてしまう。私は書き終えた物語を自分から切り離さない。切り離せない。

    この部分が

    >作者が自身の話に対する感想に抗い評者を叩くという行為は、感覚的には意味不明ですが、作者と話と読者の距離感がリアルより近いと察します。

    に対する今の私のひとつの物差しです。しかしこの物差しでも、評者を叩くという行為は有り得ません。

    たとえそれが感想であっても、直すべきところ、マイナスの指摘があるならば真摯に受け止めるべきですし、それを呑み込むだけの余裕が、度量がないならば他者に感想を求めるべきではないと思っています。作品を公開して評価やコメントを許可する設定にしている時点で、書き手としては依頼していない感想であっても受けることを許容した状態であると考えます。
    なるべく、自分のできる最大限客観的にいただいた指摘を見て、僅かでも正しいならば受け止めるべきです。私は感想をいただけるだけで嬉しく、作品が100点には到底及ばないことを分かっているので、この“客観的に”が少しやりやすくなっている可能性はあります。けれどもしそれが間違った指摘だと判断したのだとしても、そこで武装して相手のところへ向かうことはしません。その心境がイメージできずに言ってはいけないのかもしれませんが、正しいこととは絶対に思えません。“感想”なのか“批評”なのか言葉の定義・感覚が人によって違うのだと思いますが、それでも。

    デジタルの場が助長すること、このwebサイトの仕組みが助長することはもちろんあって、利用者の多くはそれが自分に与えている影響に気付かないはずです。デジタル文化で生まれた特有の事象など挙げればキリがないのでしょうが、“SNSの悪影響”などと括って掲げられるあれそれが自分に作用していないかと言われたら、きっと作用しています。今はただこれが創作の場において自分の何かを狂わせていないか、すでに狂わせているとすればどう元に戻せるかを考えるので精いっぱいで、まだ完璧な答えはありません。

    私が言葉のナイフを作ると、柄が無く、どちらも刃(諸刃)になっている妙な形のナイフになります。ただこれまで幸いなことに出番が殆どなかったように思います。ナイフを持つと自分の手も傷付くから嫌がったのではありません。単に運が良かったのだと思います。

    (私が良くそうするので)少しぼかした言葉の使い手は心地良く感じますが、芯のある曇りの無い言葉の使い手の前では背筋が伸びるので大丈夫です。それに、私が画面の向こうに作るイメージはその方のイメージであって、その人の扱う言葉だけがそれを占めるものでもないように思います。


    >5・創作についての返信  への返信
    都合の良い読み手だけを想定していないのは肯定いただいた通りなのですが、都合の良い読み手にその場しのぎのエネルギーを求めた部分があったことは悪魔さんの言う通り、1・2で記載した通りです。
    もう少し付け加えると、今の時点では私の理想の読み手は日竜様の「求める読み手」→至上の評者よりも“お手柔らか”です、ストイックになれないというよりもただ批判が怖いからで、その意味では“甘い”に違いありませんし、また都合のいい読み手の要素を部分的にでも含んでいるような気がします。

    ゴミに入れられてしまった絵のことを書いた日竜様のプロフィールの一幕を私は目にしています。衝撃的で、その場では理解だけして、吟味することを一旦後回しにしてテキストファイルに貼り付けて棚にしまっていました。今改めて恐る恐る読み返して、やはりまだ吟味しきれません。

     その場に同じくらいの年齢で居合わせて何が起きたのかを知ったらきっと怒っていた。最大級に怒っていた。
     でもそれは良い悪いではなく、正しい正しくないではなく、ただの1人の性格、感情で瞬間的にそうしてしまうはず。
     
    それをきっかけに生まれた日竜様の自分の作品との向き合い方を、私はどんな顔をして聞けばいいのか。私は幸運だったと言いかけて口を噤んで、慌てて考え直しました。

    >善し悪しではなく同じになるわけがないといえばなく

    当時の日竜様は、1階層深いところにいわば外的要因で否応なく進んだように思います。それが後戻りできる話なのか、後戻りなんて要らないのか、枝分かれしたようには思えるのですが、もしかしたら悲しんでいるのか、もうそんな次元の話ではないのか。
    ただ、私は先に述べた通り自分の作品と太くでも細くでも繋がったままです。飛び込みたいのなら、枝分かれしたいのならそうしてもいいよと選べる立場に安住しています。
    もし同じ状況に、居合わせていたのではなく私が当事者としてあっていたら、落書きを拾い上げて一生懸命に折り目を伸ばして、落ち込むだけ落ち込んで、そこで終わっていたのかもしれません。私が仮想箱の主人公と出会うのはもう少し後の事です。

    私にも他人を預かるイメージはできるのですが、その物語の誰かになって描いた場合に比べて世界に十分な解像度を与えられないと感じています。
    きっと本になるような作品を書ける書き手は、高次元にどちらもできるような人なのでしょうね。
    自分の目指すべきものと重なるかどうかはまだ、完全には分かりません。


    なんだか自主企画が魅力の無いものばかりになって、他の作者様との交流もしないのであれば、この場所を灰色に見ることができるようになったと思う今日この頃です。その中を、ただできるだけ評価というエネルギーに頼らないように、星もハートも見ないように、耳を澄まして、自分の底にある何かだけを目指して、速度は求めずに、沈んでいくことを目指しています。
    (私がこのサイトから離れるときはどうか一言でも挨拶をさせて下さいと思っていますので勝手に消えることはありません)

    ご無礼なんてとんでもなく、こういうものと向き合うべきなのだと思う言葉ばかりでした。
    また先が見えにくくなっていますが、日竜様もどうかご自愛ください。
  • kinomiさま

    ご連絡をいただいてから、だいたい一年が経ちました。
    おひさしぶりです。
    お元気でお過ごしでしょうか?

    返事と言うにはいささか遅く、今までの書簡のようなやり取りの文量も多いため、思い出すには記憶は遠い彼方かと思います。
    初見でも支障のないようさっくりお伝えし、返信に変えさせていただければ幸いです。


    大変遅くなりましたが、真摯なお返事をありがとうございました。
    繰り返し何度も読ませていただきました。
    つぶさで丁寧な考察には発見が多く、それを足場をしっかり持って自分の言葉として安心して伝えられるようになるまで、これだけの時間がかかってしまいました。

    本当にすみません。(特にお報せせずにひそりとここに記述するため、この返信に気づかなくて当然ですし、気づいた場合も書込みなどは不要ダヨ)


    私は、カクヨムを執筆ツールとして使いながら、今は自分のために気が向いた時に書きたいものを書いております。

    今年に入ってから、カクヨムでの目に見える活動は停止していますが、読書の方も細々と行っていて、kinomiさまの今年の「同音異話」なども人知れず読ませて頂きました。

    ただ、足跡を残すとそれを誰かに見られ、そこからこのページまで辿られるような気がして、人に認知される覚悟はできておりません。
    こうトラブルを起こさない人もいるのに、普通に書いたり読んだりしているつもりでも、私の場合、カドが立つのはなぜだろうと哀しくなってしまいます。

    かと言って、カクヨムを辞す明確な理由もないので、とても中途半端です。


    ここで話を公開する場合、確実に一人、私の書くものひいては同人について見下す人間がいると思うと、本当にふてくされてしまいます。おっくう。公開したくない。なんなら吐く。

    グチです。すみません。(一年ぶりの書簡がグチとか最低……)


    数ヶ月前、いただいたお返事に何回か返事を書いてみましたが、どれも考察の続きでまだまだ答えは遠いものでした。

    私の言葉にkinomiさまがまた考察を重ね、見解を示してくださったことで、私一人では行き止まりでしたが、特に印象深く、実はそうだったのか、と思ったことがあります。

    それは「両足が血だらけ」と「ゴミに入れられてしまった絵」のくだりでした。

    みんなそれくらい自分に厳しいものじゃないの、と思っていましたが、自傷行為に近いのはさすがにやり過ぎですね。未達成の怠け者なので、人一倍自分に甘いと思ってたのに、それとこれは別で、痛いことを痛いと気づかず無理してしまうことも、自分に対して罰を与えるようなネグレクトさがあることも、薄々わかってきました。(ちょっと手遅れの感がある)


    絵も。そっか、拾えばよかったのかと思いました。ショックが深すぎて怒ることも泣いてあげることもできず、息を止めてガン見してたように思います。絵を救い出し手にしてたら泣いてただろうなと思うんですけど、その時すでに売るものを書くとでも考えていたのかな、そんな覚悟でしたね。

    どちらも、kinomiさまの温かい優しさに助けられました。
    え、そんなにつらそうに見える? と一年前は驚きの方が上回っていたので、想像とは言え、鈍い私の分まで痛い思いをさせてしまってごめんなさい。

    また、いつものことながら深く丁寧な洞察に頭が下がります。

    近況ノートに書かれた断片的なメモたちも、ご紹介いただく前に目を通しておりました。
    改めて読み返させてもいただいております。

    求める読み手について、最近の経験からすこし考えを進めました。

    カクヨムに登録してから、アナログで書いていた頃とは違い、人の反応を可視・不可視を問わず気にせざるを得なくなっていた気がします。
    距離を置いていても根深い呪いで、今でもワークスペースを開くと確認することがあるくらいです。(必要ないとわかっていながら)

    自分のために何か書こうと決めた時も、最初に浮かんでくるのは人の反応でした。
    冒頭から会議のシーンはつまんないかなとか、やっぱりパッとしないかなとか。
    そうじゃない、読者は自分なんだと集中するのに苦戦、ようやく人の意見を排除してこの話をどう思うか検討してみると、この印象はもっさいでしょとか、ここは会議が見たいよなど、自分というよりは、やはり人の反応を推し量ってる。

    でも、前者と後者は違うとも思いました。

    こう思うかなは、あまり根拠がなくてどっかで聞いたり見たりした人の反応の記憶で、これはこう思われるだろうというのは、自身の経験も含めて出した推察で、自分の判断だと思うからです。

    両者を混同して区別がつかなくなっていたかもしれないと思い、それは怖いなとも思いました。

    誰かがくれる感想や評価も同じで、私が求める理想のものは(そんなものがあるなら)どの根拠に基づいたものだろう。
    少なくとも他の話と比べて、型にはめようと指導してくるのは、好きじゃないと思います。
    私が好きなのは、その人の感覚が根拠になってる感想ですね。

    何が印象に残ったか。
    意味のわからないところはなかったか、そんなくらいしかいつも聞けないなと思ってます。

    評価はしたい人が話に付けてくれればよくて、私が知る必要はないかなと思います。(あんたの話はこうでこんなだからこうだって、責任問われても困るんだ)
    ニーチェがね、それは人の作ったステージだって言ってたから。

    私は私の感覚だけの舞台で踊り狂わないと。

    そんなとりとめもない私信でした。



    kinomiさまがコンスタントに「同音異話」を書かれていて、うれしいです。
    手に取れるような質感の世界が、あっちでは縦横無尽に空を翔け、こっちでは不思議な世界で語られ、そっちでは定点観測のように告げられ、見たこともないような世界なのに親しみが寄り添っていました。

    また新しいお話も楽しみにしております。

    お返事ありがとうございました。


    ひるい拝
コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する