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⑩淀川戦記~艶魔撃退編~

 問診室から出て再び待合席で待っていると、今度は診察室に呼ばれた。背の高いスラリとしたショートカットの三十前後、つまり見た目は若いが落ち着きがある看護師さんが入口の横で淀川の番号を読み上げた。この人は一の位まで途切れずに発した。

 その看護師さんは黒縁メガネの奥の目を光らせて尋ねてくる。
「510番さんですか。お名前をお願いします」
 ほう、なかなかデキルじゃないか。
「淀川です。淀川大です」
『ボンド、ジェームズ・ボンド』みたいに答えてみる。

 無視。

「中へどうぞ。先生が診察しますので」
 黒縁看護師さんはスタスタと歩いていった。追いかけるようにして診察室の中に入る。

 事務机の前に丸椅子。その向こうに、窓を背にして白衣姿の医師が座っている。ありきたりな病院お出迎えスタイルだ。

 そのお医者さんは、四十前半とみえる(つまり、淀川よりはずっと若いけど、若者の純真さの輝きがなく、少しくすみ気味である)小柄な女性だった。黒髪を顎のラインで奇麗に切りそろえた、色白の女医さんだ。

 女医さんは問診票に目を通しながら、白衣の襟元から、首に掛けた聴診器を回し取り、耳に掛ける。
「今日は少しお疲れだったのですかね」
「今日といいますか、一昨日、それを書いた時点で、そうでしたので……」
「今日のご体調はいかがですか?」
「まあ、特に問題はないかと」
「そうですか。この暑さですから、日によって体調が変化しますしね。念のため、胸の音だけ聞かせてくださいね」
「はい。よろしくお願いします」

 なんだ、結構まともなお医者さんじゃないか。会話も普通のテンポで噛み合うし。ちょっと安心した。

 脇の少し下で結ばれている検査着の紐を解こうとすると、女医さんが言う。
「そのまま上げてもらって大丈夫ですよ」
「あ……はい」
 
 淀川大はツンツルテン検査着の上着の裾を握り、いっきに鎖骨の上まで上げた。全く鍛えていない、とぼけた肉体が露わになる。

 女医さんは聴診器の先を差し出しながら言った。
「全部上げなくていいですよ。中に入れますので」
 黒縁看護師さんも淀川の横に移動し、付け加える。
「お胸の下あたりまででいいですよ」
「あ……はい」

 慣れた連携に戸惑いながら、考える。たぶん、女性の診察の際に検査着を全部上げて胸を見せなくても済むように、対応がマニュアル化されているのかもな。それを男性の淀川にも適用しているのか。くくく。間抜けめ。

 マスクの中で笑いを堪えながら鳩尾あたりまで検査着を下げて止めると、検査着と肌の隙間に女医さんの手が入ってきた。胸の前まで上がり聴診器の先端を当てる。

 近い。

 小柄な女医さんだけに、腕のリーチも短めなのだろう。聴診器をしっかり当てようとしてか、なんか、その女医さんの胴体と頭の位置が淀川の体とやたら至近距離にある。

 淀川大は少し身を反らして、目を閉じた。

 女医さんの声が聞こえる。
「は~い、吸ってええ~。吐いてええ~。大きくう~、大きく吸ってえ~……」

 おかしい。

 さっき普通にしゃべっていた女医さんとは別人かと思わざる得ないほど、やたらの艶のある声と口調だ。そう聞こえたのではなく、そうなのだ。アダルトエフェクト全開。またまたと読者諸氏は思われるかもしれないが、これは事実である。今回お伝えしたかった事第二位はこれだ。

 ふざけているのかと思い、閉じた目を開ける。女医さんは淀川の胸の前で顔を横に向け、目をつむり、真剣に聴診器の音を取っている。

 いや、耳に聴診器を入れているのだから、こっちに耳を近づけなくてもいいでしょ。

 淀川大は隣の看護師さんに顔を向けた。

 凛として立ったまま、黒縁メガネが光っている。

 かすれたような、それでいてしっとりしたような、艶やかな声がすぐ近くで聞こえる。もう完全にアダルトビデオの世界である。
「では、今度は息を止めましょうねえ。はい吸ってえ~、止めるう~。吐いてえ~……いいわあ……もう一度、吸いましょう。吸ってええ~、吐いてえ~……」

 限界だった。途中の「いいわあ」の二秒後くらいに吹いてしまった。

 検査着の中から手を抜いた女医さんが、耳から聴診器を外しながら言う。
「どうしました?」

 今度は普通の口調だ。この人、変だ。
「いえ。大丈夫です」
 淀川大は軽く咳払いをして、そう答えた。チラリと横の黒縁看護師さんを見てみる。

 顔を向こうに向けていた。看護師さんも笑いを堪えていたのか!

 何事もなかったように黙って椅子を回した女医さんは、問診票に手早く何かを書き込みながら言った。
「問題ないようですね。それでは、他の検査を続けましょうか」

 問題は……ある! 大有りだろうが!

 どんな診察だ!

 ていうか、その他の検査もしてないのに、今のこれは何の診察をしたんだ。
ああ、そうか。検査できるかどうかについての診察か。で、その検査の結果で診断するわけだな。つまり、診断のための検査のための診察か。その診断も精密検査が必要か否かの診断でしょ。その精密検査と専門医の診察で確定診断がされる。つまり、確定診断のための精密検査のための診断のための検査のための診察ですね。なんだ、この、親亀の上に子亀が載って、その上に象さんが載って、その上に地球が載っているんだぞみたいな話は!

 再び廊下に出て待合席のところに向かっている淀川のところに、さっきの黒縁看護師さんが駆けていた。
「あ、淀川さん。こちらをお持ちになって、五階の画像診断セクに行ってください。Cの3という窓口にこれを出して、順番をお待ちください」

 ファイルに挟まれた書類を受け取りながら、淀川大は黒縁看護師さんに訊いてみた。
「あの……さっきの先生は、いつもあんな感じですか?」

 黒縁看護師さんは手で口元を隠しながらクスリと笑ってから、破願したまま黙ってコクコクと頷いた。なんだ、笑うとカワイイじゃないか。

 それより、すぐに通じたということは、こういう事を尋ねられるのは一度や二度ではないのだろう。ということは、いつもこんな診察をしているのか。これは、あの女医さんの癖なのか……。

 黒縁看護師さんは少しだけ顔を前に出して小声で言う。
「すみませんでした。わざとじゃないと思いますので」
「はあ……思わず笑ってしまいました。こちらこそ失礼しました」
 丁寧に頭を下げて、淀川大はその場を後にした。

 この検診センタービルは、魑魅魍魎が蠢く伏魔殿か!

 九字の呪を唱えながら、淀川大はエレベーターホールへと歩いていった。

《つづく》

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