第4話

朝のキッチンには、静かな生活音だけが流れていた。


 フライパンの上で、卵が小さく音を立てる。

 トースターの中で、パンがゆっくりと焼けていく。


 茜音が朝食を作っていると、背後から温もりが重なった。


 陸翔の腕が、そっと腰に回される。


「茜音、今日はすごく早く起きた?」


 耳元で囁かれる声に、茜音の肩がわずかに揺れた。


「……ちょっと、怖い夢を見ちゃったの」


「そんなに怖い夢なら、起こしてくれればよかったのに」


 背中越しに伝わる体温。

 力を込めるわけでもなく、ただ抱きしめるだけの腕。


 陸翔は、優しい。

 いつでも、変わらずに。


 けれど。


 その優しさが、もうすぐ裏切られることを知っているから、

 茜音は陸翔の顔を見ることができなかった。


 もし視線を合わせてしまったら、

 この温もりが、嘘ではないと信じてしまいそうで。


「ねえ……陸翔は、私にだけ優しいの?

 それとも、誰にでも優しいの?」


 一瞬の沈黙。


「……俺が優しいのは、茜音だけだって知ってるでしょ」


 陸翔は少し笑いながら、首元に顔を寄せた。


「会社では、誰もが俺の前では口を慎む。

 都合の悪い人間くらい、平然と切り捨てるやつだって思われてるよ」


 その声は、どこまでも穏やかなままだった。


「俺に食われたくないなら、近寄るなってさ。

 部下が勝手にそう言ってる」


 冗談めかしていたが、冗談に聞こえない言い方だった。


 ――私だけ。


 胸の奥がきゅっと締めつけられる。


 その“私だけへの優しさ”は、  明後日には、奈菜だけへの優しさになる。


 そしていつか。  私に向けられる、刃へと変わっていく。


「……もうすぐできるから、座って」


 これ以上、近くにいられるのが苦しくて、

 茜音はそう言って身を離した。


 テーブルに朝食を並べ、陸翔の向かいに座る。


 視線を下げ、なるべく顔を見ないようにする。

 見てしまえば、泣いてしまいそうだった。


「茜音。どうしたの?

 今日、本当に変だよ?」


「……夢のせいで、ちょっと目が腫れてるの。

 陸翔に見られたくないの」


「目が腫れてても、俺の茜音に変わりないんだから大丈夫だよ。

 気にしないから、顔あげて」


 ね、と優しく言う。


 その優しさが、痛い。


「……私が、見られたくないの」


 そう返すと、陸翔は何も言わずに手を伸ばし、

 茜音の頭をそっと撫でた。


 指先は、いつもと同じだった。


 ――お願い――


 ――これ以上、優しくしないで――


 ――また、あなたにすがってしまう――


「ほら陸翔。早く食べないと遅れちゃうわよ」


 茜音はそう言って、会話を切り上げるように立ち上がった。

 自分の食器を手に取り、流しへ運ぶ。


 しばらくして、陸翔の支度も整い、出社の時間が近づいた。


「あ、そうだ」


 ネクタイを整えながら、陸翔が何気なく言う。


「今日は取引先との会食があるから、帰りは遅くなるよ。

 夕飯はいらないし、先に寝てていいからね」


 会食。


 奈菜との出会い。


 茜音は、ぐっと唇を噛んだ。


「……ええ、分かったわ。

 あまり、お酒は飲みすぎないでね」


「大丈夫だよ」


 そう言って、陸翔は茜音を抱きしめ、軽くキスをした。


「じゃあ、行ってくるね」


 玄関のドアが閉まる音が、やけに大きく響く。


 それを確認した瞬間、  茜音の身体から、力が抜けた。


 壁にもたれながら、ゆっくりと床に座り込む。


 胸の奥が、ひどく重い。


「……とうとう、始まる」


 呟いた声は、誰にも届かない。


 今日という日が、  また運命を動かし始めることを、

 茜音だけが知っていた。

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