アウトブレイク 惨劇の町

モドキ

元凶

 アメリカ上空一万メートル。旅客機は、雲海の上を、何事もないかのように飛行していた。

 機内照明は落とされ、天井には柔らかな間接灯だけが残されている。長距離フライト特有の、現実から切り離された時間。乗客たちは映画に見入り、眠り、あるいは目を閉じて次の到着地を思い描いていた。


 後方左側、通路側の座席に座る男も、その一人だった。

 四十代後半。整えられた髪に高そうな眼鏡、ガリガリの体。そんな男がレバーかも鶏肉かも分からない機内食を貪っている。


 男は咀嚼もそこそこに、肉片を口へ運び続けていた。噛むというより、押し込んでいると言った方が近い。喉仏が不自然に上下し、時折、息を詰まらせたように肩が跳ねる。


 携帯のカメラを向けていた近くの座席の若い男は、男と目が合うと、すぐに携帯をしまった。


 男は若者を見つめたが、直ぐに食事に戻る。


 最後の肉の塊。男が犬のようにトレイに食らいつくと、機内食の残骸と紙コップが床へと滑り落ちた。乾いた音と、鈍い衝撃。カーペットに濃い染みが広がる。


 通路を進んでいた客室乗務員が、すぐに気づいて足を止めた。


 彼女は慣れた動作でしゃがみ込み、紙コップへと手を伸ばした。


「大丈夫ですか? こちら、今――」


 間接灯に照らされた、白い皮膚。制服の襟元から覗く、わずかな素肌。


 男の喉が、異様な音を立てて鳴った。


 そして次の瞬間、男は身を乗り出した。


「――っ!」


 男の顎が開き、歯がむき出しになった。彼はそのまま客室乗務員の首に噛みついた。


 肉が裂ける、湿った音。


「きゃあああっ!!」


 悲鳴が、機内を切り裂いた。

 客室乗務員の身体が大きく跳ね、男に突き飛ばされる形で倒れ込む。首元から血が噴き出し、男の口元と眼鏡を赤く染めた。


 男は、離れなかった。


 歯を食い込ませ、肉を引きちぎる。


「な、何だよ!」

「やめろ!」

「誰か引き離せ!」


 周囲の乗客が立ち上がり、悲鳴と怒号が一斉に飛び交う。

 後方の座席から、子どもの泣き声が上がった。

 

 中年の乗客が男の肩を掴み、引き剥がそうとする。


「放せ! 何してるんだ!」


 その瞬間、男は振り向いた。口元から血を垂らし、唇と歯を赤黒く染めたまま。眼鏡の奥の瞳は、焦点を失い、ただ獲物を見る獣のそれになっていた。


「……ぁ……」


 低く、濁った唸り声。

 次の瞬間、男は掴んできた乗客に噛みつこうと飛びかかった。


 乗客の叫び声。機内は一気に地獄へと変わった。

 人々は悲鳴を上げ、押し合い、逃げ場を求めて前方へと殺到する。


 トイレの為にコックピットから出ていた副操縦士は戻る寸前で混乱に巻き込まれ、恐怖で怯えきった乗客達をコックピットに通してしまう。




──コックピットボイスレコーダー──


機長:出ていけ! コックピットに入るな! 規則違反だ! ジェームス! 彼らをつまみ出せ!


乗客(女):お願い! 押さないで!


副操縦士:皆さん、出てください! 


機長:ジェームス! 何をしている、ドアを閉めろ!


副操縦士:だ、だめです……後ろが……!


(ドア越しに、複数の悲鳴と怒鳴り声。何かが倒れる音)


乗客(男):来る! 来るぞ後ろから!


機長:全員、出ていけ! 今すぐ――


(遠くで起きる悲鳴)


副操縦士:何が起きてるんだ……!


機長:閉めろと言っている! 誰もいれるな!


乗客(男):助けてくれ! 後ろに……後ろにいる!


機長:クソっ……──メーデー、メーデー、メーデー! こちら422便、機内でセキュリティー上のトラブル発生。最寄りの空港への緊急着陸を要請する。


管制:422便、了解。トラブルの詳細は──


機長:さっさとつまみ出せ!!


副操縦士:無理です!! なだれ込んで──


(悲鳴と足音、揉み合う声)


管制:……422便、ウィーゼル空港への緊急着陸を許可します。警察、消防が待機中です。どうぞ。


機長:ジェームス!! ジェームス!


管制:422便? 422便応答してください。



(しばらくして警報音が断続的に鳴る)


警告音:Pull Up! Pull Up!


乗客(男):頑張れ! 引っ張れ! 奴等は任せろ!


乗客(男):間に合わない、クソ! (聞き取り不能) ──ああー!


(衝撃音 録音終了)








 その日、山脈の麓は穏やかだった。

 広がる草原に、簡素なレジャーシートが敷かれ、紙袋からはサンドイッチの匂いが漂っている。遠足気分でやってきた親子は、都会では見られないほど澄んだ空を仰ぎ、雲の流れを指さして笑っていた。


「見て、あれ、飛行機だよ」


 娘が言い、紙コップを持ったまま空を指した。

 銀色の機体が空を横切っていく。いつもなら、それで終わる光景だった。


 だが――。

 機体は、真っ直ぐではなかった。

 わずかに、しかし確実にふらついている。左右に揺れ、高度を落としていく。


「……パパ?」


 娘の声が、不安を含んで小さくなる。

 次の瞬間、山に反響するほどの低い轟音が空を震わせた。


 父親は立ち上がり、無意識に娘を背中へ引き寄せた。


「おい……おかしいぞ……」


 飛行機は、急激に高度を落としていた。


 一瞬、立て直したかと思ったが、飛行機はそのまま山中に墜落した。

 雷鳴のような爆音。黒煙が、山の向こうから立ち上る。


 親子はその煙を見つめていた。

 何が起きたのか、理解できないまま。


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