中編 白い息と、湯気の向こう側


​ 思い出の場所である公園の丘は、私の記憶の中にある景色とは少し違っていた。


​ あの時、ミケを必死で探した草むらは枯れ色に覆われ、秘密基地のように思えた木々の枝は葉を落とし、寒空に向かって骨のように突き出している。

​ 約束の時間より十分早く着いた私は、ベンチに座ってマフラーに顔を埋めた。


​「……寒い」


​ 思わず漏れた独り言が、白い塊になって風にさらわれていく。

 天気予報では「真冬並みの寒さ」と言っていたけれど、吹きっさらしの丘の上は想像以上だった。手袋をしていない指先が、じんじんと痛み始めている。


​ かじかんだ両手をこすり合わせながら、私は少しだけ不安になった。

​ 久しぶりのデートだから、二人の原点であるこの場所を選んだけれど、こんな寒い日に外で会うなんて失敗だったかな。

 おしゃれなカフェとか、暖かい図書館の方が良かったのかもしれない。

​ 後悔が頭をもたげ始めた時、坂の下から誰かが駆け上がってくる足音が聞こえた。


​「詩乃ちゃん!」


​ 息を切らせて現れたのは、奏太くんだった。

 ネイビーのダッフルコートの前を閉じて、首にはチェックのマフラー。けれど、その頬や鼻の頭は寒さで赤くなっている。


​「ごめん、待たせた?」


​ 私の隣に来て、奏太くんは申し訳なさそうに眉を下げた。

 時計を見ると、まだ約束の時間にはなっていない。彼も私と同じで、早く来てくれたんだ。


​「ううん、私も今着いたところ。……奏太くん、走ってきたの?」


​「うん。少しでも早く着けば、詩乃ちゃんを待たせずに済むかなって思って」


​ そう言って笑う奏太くんの吐く息は、私よりもずっと白くて勢いがある。

 ふと彼の手元を見ると、手袋をしていなかった。赤くなった手が、寒さに凍えているのが痛いほど伝わってくる。

​ 私が彼を待っていたように、彼も私を思って急いで来てくれた。

 その気持ちが嬉しくて、そして少し切ない。


​「寒いでしょ。ここ、風が強いから」


​「平気だよ。詩乃ちゃんの顔を見たら、寒いのなんて飛んでっちゃった」


​ 奏太くんは強がって見せたけれど、風が吹くたびに肩を少しすくめている。


​ 私はカバンを膝の上に置いた。

 今こそ、私の「準備」の出番だ。


​「奏太くん、これ」


​ 取り出したのは、タオルに包まれたステンレスの魔法瓶。

 私がそれを掲げると、奏太くんはきょとんとした顔をした。


​「水筒? 遠足みたいだね」


​「ふふ、そうかも。……カップ、出してあげるね」

​ 私は魔法瓶の蓋を回し開けた。


 キュッ、ポン。


 その瞬間、閉じ込められていた甘い香りが、冷たい冬の空気の中に解き放たれる。

​ 注ぎ口から紙コップへと、琥珀色の液体がとくとくと注がれる。

 立ち上る湯気が、私たちの顔の前で踊るように揺らめいた。


​「わあ……いい匂い」


​ 奏太くんの目が輝く。

 私は湯気の立つコップを、彼のかじかんだ両手にそっと手渡した。


​「どうぞ。おばあちゃん直伝のミルクティーだよ」


​「ありがとう。いただきます」


​ 奏太くんは両手でコップを包み込むように持ち、ふうふうと息を吹きかけてから、一口啜った。

​ とたん、彼の表情がほころぶ。


​「んん……っ、あったかい……」


​ その声は、心からの安堵に満ちていた。

 強張っていた肩の力が抜け、赤かった頬に、寒さとは違う血色が戻ってくる。


​「甘くて、すごく美味しい。……なんだか、生き返るなぁ」


​「良かった。冷めないように、タオルでぐるぐる巻きにしてきた甲斐があったよ」


​ 私も自分の分の紅茶を注ぎながら言うと、奏太くんは優しく目を細めて私を見た。


​「すごいね、まだ熱いくらいだ。……詩乃ちゃんが、一生懸命守ってきてくれたんだね」


​ その言葉に、私はドキリとした。


 ただ温度を保ってきただけなのに、まるで私の心の中を見透かされたような気がして。


​「……うん。せっかくの温かさが、逃げないようにしたかったから」


​ 私も一口、ミルクティーを飲む。

 蜂蜜の優しい甘さが喉を通り、胃の中に落ちていく。体の内側から、ぽっと灯りがともるような感覚。


​ 冷たい風が吹く冬の丘。


 けれど、二人の間にあるこの小さな空間だけは、湯気と甘い香りに守られて、不思議なくらい穏やかだった。


​ でも、ふと気づく。


 コップを持つために手袋を外した私の左手は、冷たい風に晒されて、すぐに感覚がなくなりそうだった。

​ 温かい飲み物だけでは、まだ足りないのかもしれない。


 私はコップを握りしめながら、隣に座る奏太くんの横顔を盗み見た。



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