第26話 世界が気付き始めた日



ダンジョン検証配信が終了してから、わずか三十分後。 世界は、物理的な音を立てることなく──だが、これまでの歴史が積み上げてきた前提を音を立てて崩壊させながら、壊れ始めていた。


配信のアーカイブは、サーバーがダウンする間もなく、ミラーサイトや各国の公式プラットフォームを通じて瞬時に全世界へ流通した。 同時翻訳付きの公式版。軍事研究者向けのフレーム単位解析版。魔力波形を数値化したオーバーレイ版。そして、SNSで爆発的に拡散される数秒の切り抜き動画。 媒体や言語は違えど、世界中の知性が、そして野次馬たちが再生を止めた「箇所」は、驚くほど一致していた。


それは、天城ヒナタが、ただ一歩「前に出た」瞬間だ。


【・ここ、0.25倍速で見て】

【・敵の初動、明らかにヒナタの踏み込みに合わせて『待って』ないか?】

【・AIの挙動が、殺意から『接待』に切り替わってる】

【・偶然とかバグで片付けるの、もう無理だろこれ】


映像を止め、戻し、再生する。世界中のモニターで、同じ作業が繰り返される。 ヒナタが足を止めると、魔物のリスポーン(湧き)が、まるで彼の思考を待つように、ほんの一拍だけ遅延する。 ヒナタが歩き出すと、死角に設置されていたはずの罠の発動が、まるで彼を傷つけることを恐れるかのように、コンマ数秒の不自然なラグを発生させる。


そしてヒナタが殴ると、敵は「想定される最大耐久値」など無視し、彼が振るった力の分だけ、過不足なく、ぴったりと消滅する。


【・強すぎるとか、そういう次元じゃない】

【・“ちょうどいい”んだよ。すべてが。】

【・ダンジョン側が、ヒナタに合わせて世界を再構築してる?】


誰かがネットの深淵で、ポツリと書き込んだ。


【・逆じゃね?】


その一言が、世界中の思考を同時にひっくり返した。 ダンジョンが彼に合わせているのではない。彼が歩くから、そこが「正しいダンジョン」として定義されるのだ。


一方、その頃。 世界を概念レベルで揺るがしている張本人は、官邸近くのコンビニにある冷凍ケースの前にいた。


「……どれにしよ。期間限定のやつか、安定のバニラか」


ヒナタの表情は、先ほどのボス戦よりも遥かに真剣だった。 彼にとって、バニラ、抹茶、チョコ、そして期間限定の新作は、すべて世界の存続に匹敵するほど等しく重要らしい。


「……ヒナタさん。世界、本気で荒れてます」


背後で、ミコトが震える手でスマホを差し出す。画面には、見たこともない勢いで流れるトレンドワードが並んでいた。


#ダンジョン設計者説

#歩くバランス調整神

#本人無自覚が一番怖い

#世界NPC説


「これ、見てください。さっきの配信の切り抜きが、もう一億再生を超えてます。『ダンジョンが空気を読む瞬間』ってタイトルで。……みんな、気づいちゃったんですよ。あなたが何者なのか」


ヒナタは、冷凍ケースに手を伸ばしながら、生返事で答える。


「チョコミント、あるかな。最近、無性に食べたかったんだよね」

「ありますけど! チョコミン党は今はいいんです!」


山岸が、もはや隠しきれない怒りと胃痛で声を荒らげた。


「今、この瞬間も、ホワイトハウスやクレムリン、北京の司令部で、あなたの歩き方一つが分析されてるんですよ!


『天城ヒナタの機嫌を損ねれば、物理法則が変わるのではないか』という恐怖が、世界を支配し始めてるんです!」


ヒナタは、本気で何を騒いでいるのか分からないという顔で、首を傾げた。


「でもさ。配信、普通だったよ? ちゃんと魔物もいたし、アイテムも落ちたし。何

が不満なの?」


その“普通”が、すでに人類の想定しうる特異点を数万光年先まで追い越していることに、本人だけが気づいていない。あるいは、気づかないふりを楽しんでいるのか。


世界各国の研究機関では、同じ映像が、一分の隙もなく、黙々と解析され続けていた。


「見てくれ。彼がエリアに足を踏み入れた瞬間、環境パラメータの揺らぎがゼロ収束している」


マサチューセッツ工科大学の物理学者が、モニターを指差す。


「通常、ダンジョン内は不確定性原理が支配する混沌とした空間だ。だが、彼がそこに存在すると、物理定数が『彼にとって最も都合の良い値』に固定される。これは、観測者が現象を決定するというレベルを超えている」


「敵AIの挙動も異常だ」


別の研究者が続く。


「これは、敵が弱体化しているのではない。敵のアルゴリズムが、彼との対峙を『戦闘』ではなく『儀式』として処理し直している。……まるで、神の御前で踊る巫女のように」


仮説が立ち、数式が並び、そしてそのすべてが「天城ヒナタ」という名のブラックホールに吸い込まれて否定される。 アメリカの学会で、ついに最高権威の一人が、震える唇で答えを口にした。


「……ダンジョンは、彼を。この世界そのものの『主(オーナー)』として認識している」


会場が、墓場のような静まり返った。 それは、誰もが薄々感じながらも、決して言葉にしたくなかった最悪の正解だった。 もしそうであるなら、人類がこれまで積み上げてきた「攻略」の歴史も、血を流して得た「教訓」も、すべては彼が飽きるまでの「お遊び」に過ぎないことになる。


SNSは、もっと率直で残酷だった。


【・俺たちがやってたダンジョン攻略って、実はヒナタ様のデバッグ作業のお手伝いだったんじゃね?】

【・人間側がNPCだった件について】

【・もう物理学とかいらないだろ。ヒナタに何味のアイス献上するか考えたほうが生産的】

【・本人だけ通常運転なのが、逆に世界を破壊してる感ある】


官邸内、山岸の事務室には、もはや電話の呼び出し音が鳴り止むことはなかった。

「説明を求めたい」「非公式会談の設定を」「彼の立場を正式に定義せよ」──。 各国からの悲鳴に近い連絡が雪崩れ込み、山岸は机に額を擦り付けるようにして絶望していた。


「……説明なんて、できるわけがない。本人に、その自覚が欠片もないんだから……」


管理できない。交渉も、抑止も、もはや意味を持たない。 なぜなら、相手は悪意を持って世界を支配しているのではなく、ただ「チョコミントアイスが美味しい」という理由だけで、世界の理を書き換えかねない存在だからだ。


その夜。 ヒナタのスマホに、一件の通知が届いた。 総理大臣からの、短い、だが切実なメッセージだった。


『世界が、君に気付き始めている。隠し通せる段階は、もう終わった』


ヒナタは、ソファに転がってチョコミントアイスを頬張りながら、片手で既読をつけた。 「ふーん」 鼻歌を歌いながら、彼は続けて指を動かした。


『明日もダンジョン行く? 暇だし、新階層の調整、もう少しやりたいんだよね』


返信が返ってくるまで、三分かかった。 その三分間で、世界中のサーバーは彼の「明日も行く」という一言を予測し、株価は乱高下し、宗教団体は祈りの準備を始めた。その三分で、世界の「明日」の定義が、また一つ書き換えられた。


ようやく届いた総理の返信は、一言だけだった。


『……お供します。胃薬を三倍にして。』


アイスの棒をゴミ箱にポイと捨てながら、ヒナタは窓の外の夜景を眺めた。 東京の街は、いつも通り明るい。だが、その街を作っている無数の人々が、今、自分の一挙手一投足に怯え、期待し、狂乱している。


「まあ。騒ぐときは、騒ぐよね。人間だもん」


英雄でもない。支配者でもない。ましてや、救世主になるつもりもない。 ただの──元神。 その圧倒的な「無関心」こそが、人類にとって最大の恐怖であり、同時に唯一の救いであることに、まだ誰も気づいていない。


ヒナタは、満足げに伸びをした。


「明日は、もう少し敵を派手にするかな。その方が、配信の映えもいいでしょ?」


世界が、また一段、彼の「娯楽」に合わせて傾斜していく。 天城ヒナタは今日も、気楽に、そして残酷なほど無邪気に、世界の前を歩いていた。


人類の明日は、彼の「気分」の向こう側にある。

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