第9話 掲示板の端に貼られた依頼が、何度見ても頭から離れなかった理由
掲示板の端に貼られた依頼が、何度見ても頭から離れなかった理由
ギルドの扉を押し開けた瞬間、昨日までとは明確に違う感覚があった。身体の調子がいい、という単純な話ではない。視界が妙に澄んでいる。人の声がただの雑音として流れていかず、意味を持った情報として頭に残る。休んだことで、ようやく「考えられる状態」に戻っているのだと、はっきり自覚できた。
前世では、こんな感覚はほとんどなかった。休日を取っても、頭の中は常に仕事のことで埋まっていた。休んでいるつもりでも、判断力だけが削られていく。今思えば、あれは休息ではなく、単なる惰性だったのだろう。
掲示板の前に立ち、まずは少し離れた位置から全体を見る。討伐、護衛、採取、見回り。依頼の種類そのものは、ここ数日で見慣れてきた。だが今日は、条件と報酬の釣り合いが異様なほどはっきり見える。危険度が低いのに報酬が高すぎるもの、逆に割に合わないもの。前世で契約書や見積もりを何度も確認してきた癖が、ここで生きている。
二歩近づき、一枚ずつ依頼書を読む。紙の質、文字の大きさ、書き方の癖。急いで書かれたものか、慎重にまとめられたものか。そんな細部まで目が行く。そして、その流れの中で、視界の端に引っかかる一枚があった。
掲示板の右下。人があまり立たない位置。手を伸ばしにくい場所。そこに貼られた依頼書は、一見すると特別なことは何も書いていない。
――近郊村落周辺の異変調査。危険度:低。報酬:銀貨五枚。
銀貨五枚。その数字を見た瞬間、頭の中で自然と日本円換算が始まる。二万五千円前後。前世の感覚なら、日帰りの軽作業としては破格だ。だが、ここは命が直接やり取りされる世界だ。危険度が低い調査依頼なら、銀貨一枚、多くて二枚が相場になる。それが五枚。どう考えても釣り合わない。
近づいて全文を読む。だが、違和感は増すばかりだった。異変の内容が一切書かれていない。魔物なのか、人為的なものなのか、環境の変化なのか。そのどれかすら分からないまま、「危険度:低」と断言されている。判断材料が、意図的に削られているとしか思えなかった。
一度、掲示板から離れる。周囲の冒険者の反応を見るためだ。何人かがこの依頼書に視線を向けるが、誰も手を伸ばさない。鼻で笑う者、首を傾げて離れる者。受けない、という無言の合意がそこにある。
昼過ぎ、別の用事で街を一回りしてから、再びギルドに戻る。人が増え、掲示板の前は混み合っている。それでも、あの依頼書はまだ残っている。もう一度、読む。内容は変わらない。報酬は銀貨五枚。やはり高い。日本円感覚で考えれば、今日一日何もしなくても宿代と食費を余裕で賄える金額だ。それでも誰も取らない。
ここで、頭の中に仮定が浮かぶ。もし魔物が複数だったら。もし夜間行動が前提だったら。もし村人が何かを隠していたら。そのどれもが、「危険度:低」で済む話ではない。情報が書かれていないのは、書けない理由があるのではないか、という考えに行き着く。
夕方、依頼を一つ終えてから、もう一度ギルドに立ち寄る。自分でも驚くほど、あの依頼が気になっている。掲示板の前に立ち、三度目の確認をする。内容は相変わらずだが、周囲の空気が少し変わっている。「まだ残ってるな」「誰か行けばいいのに」「俺はやめとく」そんな声が、はっきりと耳に入る。依頼書そのものより、「誰も受けない」という事実の方が、強い情報になっていた。
手を伸ばしかけて、止める。銀貨五枚。二万五千円前後。確かに魅力的だ。だが、前世で学んだことがある。条件が良すぎる話には、必ず裏がある。あの時も、そうやって無理を重ねて、最後は壊れた。
「……今じゃない」
小さく呟き、手を引っ込める。受けない。だが、忘れない。村の名前、方角、期限。すべてを頭に刻み込む。覚えておくこと自体が、今の自分にできる最善だ。
受付で別の依頼を選ぶ。街道の簡易見回り。報酬は銀貨一枚半。日本円感覚なら七千円前後。安い。だが、条件は明確だ。何が起こるか、ある程度想像できる。それだけで、安心感が違う。
ギルドを出る時、最後にもう一度だけ掲示板を振り返る。あの依頼書は、まだ貼られている。誰かが受けるかもしれない。そして、その結果が、後で分かるかもしれない。その時、自分がどう動くか。それを決めるためにも、今日は危険に近づかない。
慎重であることは、逃げではない。情報を集め、比較し、覚えておくことだ。剣の重みを確かめながら、私はギルドを後にした。掲示板の端に貼られた、あの依頼の存在を、はっきりと頭に残したまま。
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