やり直すなら、慎重な人生で ―過労死社畜、女神に裏切られて美少女冒険者になる―
@UMABAKA
第1話 終電のない夜、その後で
終電が、いつ終わったのか分からない。
それが分からなくなった時点で、もう限界だったのだと思う。
オフィスの照明はすでに半分が落とされ、残っている蛍光灯が不規則に白い光を落としていた。照度の落ちた明かりの下で、キーボードを叩く指先は感覚が鈍く、肩から首にかけては熱を持ったまま固まっている。
画面には、赤字だらけの資料。
修正理由は書かれていない。
期限だけが、また短くなっている。
「……あと一件」
そう呟いた自分の声が、ひどく他人事のように聞こえた。
誰に向けた言葉でもない。確認のために発しただけの音だ。
三十六歳。
独身。
彼女いない歴=年齢。
いつからだろう。
仕事以外の人生設計を考える余裕が、完全になくなったのは。
終電に間に合わないのが当たり前になり、休日出勤を断る理由を考えることすら億劫になった。
気力を使うのは、仕事の中だけで十分だった。
――まあ、俺の人生なんて、こんなもんだろ。
そう思った瞬間、胸の奥がきつく締め付けられた。
「……っ」
息が吸えない。
肺が、空気の入れ方を忘れたみたいに動かない。
視界が暗くなり、床が遠ざかる。
キーボードに伸ばした指が空を切り、そのまま力が抜けた。
最後に見えたのは、消えかけた蛍光灯の白だった。
◆
次に意識を取り戻した時、そこには“白”しかなかった。
果てしなく、無機質な白。
床も壁も天井も区別がつかないのに、なぜか立っている感覚だけはある。
「……夢?」
声を出してみると、やけに澄んだ音が返ってきた。
喉の渇きも、身体の痛みも、あの重だるさもない。
不思議なくらい、身体が軽い。
「夢ではありませんよ」
背後から、柔らかな声がした。
振り向くと、白い空間の中に、いつの間にか一人の女性が立っていた。
近づく気配も、足音もなかった。
年齢は判断できない。
若くも見えるし、妙に落ち着いた雰囲気もある。
だが、何より目を引いたのは、その“余裕”だった。
「……誰ですか」
「女神、という呼び方が一番分かりやすいですかね」
軽く手を振りながら、そう言う。
「あなたは過労死しました」
「……ですよね」
否定する理由がなかった。
むしろ、ようやくか、という感想すら浮かぶ。
「三十六歳。ブラック企業勤務。慢性的な長時間労働。睡眠不足。栄養状態も最悪」
「やめてください。反論できないので」
女神は楽しそうに微笑んだ。
「それに、恋愛経験ほぼなし。人付き合いが苦手で、断れない性格」
「……そこまで把握されてると、逆に清々しいですね」
「可哀想だったので」
その一言が、妙に胸に刺さった。
怒るほどの気力もない。
ただ、苦笑いしか出なかった。
「そこで、提案です」
女神は一歩、こちらに近づく。
「別の世界で、人生をやり直してみませんか?」
剣と魔法。
地球の中世ヨーロッパ程度の文明水準。
努力すれば、それなりに報われる世界。
あまりにも“それっぽい”話だったが、不思議と胡散臭さよりも現実味を感じた。
現実で、俺はもう詰んでいる。
なら――。
「……条件次第ですね」
自分でも驚くほど、冷静な声が出た。
女神は、少しだけ目を丸くする。
「交渉する気ですか?」
「元社畜なので。契約条件を確認しないと不安で」
「ふふ、嫌いじゃありません」
◆
「まず確認したいんですが」
俺は指を一本立てた。
「死亡は、確定なんですよね」
「はい。それと元の世界に戻ることはできません」
そこは、想定どおりだ。
「次。転生先は安全ですか?」
「安全、という定義にもよりますが……命の保証はありません」
「ですよね」
変に期待しないほうがいい。
「転生特典は?」
「老いない身体と収納魔法それと転生者限定のスキルを授けます。ただし不死ではありませんので」
「……寿命なし、事故死あり」
「理解が早いですね」
「社畜はリスク管理だけは得意なんです」
女神は、くすりと笑った。
「身体能力は?」
「平均的な冒険者より高めです」
「高すぎませんか」
「多くの方は、そこを望まれますが」
「目立つの、嫌なんです」
正直な本音だった。
「……では、突出しない調整にしましょう」
その言葉で、少しだけ肩の力が抜けた。
「収納系の魔法は?」
「とても希少です」
「バレたら?」
「組織や国に目をつけられます」
「……じゃあ、人前では使わない前提で。初期容量も最低限で」
「欲張りませんね」
「欲張った結果が、前世です」
◆
「スキル関係は?」
「魔物の能力を、低確率で取り込める力を」
「確率は?」
「かなり低めです」
「そのままで」
即答だった。
「理由は?」
「期待すると、判断が鈍るので」
女神は、少しだけ真剣な顔になった。
「……慎重ですね」
「それで生き残りたいです」
◆
一通り条件を詰めてから、最後に一つだけ確認する。
「性別は?」
「……」
女神は、一瞬だけ視線を逸らした。
「男で、お願いします」
できるだけ丁寧に、しかしはっきりと告げる。
「さすがに、その……色々不都合なので」
女神は少し考え込む素振りを見せたあと、にっこりと微笑んだ。
「分かりました」
その笑顔を見た瞬間、なぜか背中に嫌な汗が流れた。
「では、転生準備に入ります」
「ちょっと待ってください。今の“間”は何ですか」
「気のせいですよ」
「本当に?」
「女神を疑うんですか?」
「いえ、確認です」
女神は何も言わず、手を伸ばした。
白い光が、視界を覆う。
「……まあ、多少の誤差はありますが」
その一言だけが、やけに耳に残った。
◆
意識が遠のく直前、俺は思った。
――ああ、これは絶対に何かやらかしてるな。
だが、その“何か”を確認する前に、世界は完全に白に染まった。
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