金木犀のかおり

よもぎ

00.プロローグ

放課後の美術室。窓からは、夕暮れ時の赤い光が鋭く差し込んでいた。


清水春香(しみず はるか)は、数人の男子生徒に囲まれていた。


彼らは高くそびえる壁のように立ち、並々ならぬ威圧感いあつかんを放っている。


まるで警察の取り調べだ。彼らは一方的に、春香を問い詰め始めた。


最初は、好きな異性のタイプや髪型、部活のことなど、他愛もない質問だった。


なぜそんなことを聞かれるのか分からなかったが、矢継やつぎ早に投げかけられる言葉に、春香は辿々たどたどしく答えていた。


しかし、質問の内容は次第しだいにある人物のことへと変わっていく。


そして、彼らは本来の目的である「問い」を春香にぶつけた。


春香は思わず口をつぐんだ。


彼らの意図をはかりかねたのもあるが、何より自分自身の気持ちにどう答えを出せばいいのか、分からなかったのだ。


戸惑とまどいと緊張きんちょうで、背中に冷たい汗が吹き出す。


「清水は、自分の気持ちに正直に答えればいいんだよ」


目の前の男子が、どこか焦りをはらんだ視線を向けてくる。


「先輩のこと、好きなのか。もし告白されたら、付き合うのか。どうなんの?」


春香は生唾なまつばをゴクリと飲み込んだ。


質問の対象である『先輩』の姿を思い浮かべる。


脳裏のうりをよぎるのは、あの優しい笑み。


自分に向けられた温かな眼差し。


太陽みたいだ、と感じていた人。


「わ、私は……」


言葉が続かない。


目尻めじりに熱いものがまっていく。


体は終始しゅうしこわばり、手足がしびれるようだった。


問われたところで、自分でも自分の気持ちが分からない。


激しくなる鼓動こどうのせいで、呼吸さえ苦しくなった。


先輩のことは嫌いではない。むしろ、良い人だと思っている。


他の男子に対するものとは違う感情を抱いている自覚もあった。


けれど、この感情をどう表現すればいいのかが分からない。


この胸の奥にある「くすぐったい感情」は、彼らの言う『好き』と同じ意味なのだろうか。


大多数の生徒は、淡々たんたんと続く日々に刺激や変化を求めている。


けれど、春香にはそんなものは必要なかった。


彼女の望みは、ただ一つ。


特別なことはなくていい。


仲の良い友達とのたわいもない会話、大好きな絵に向き合える部活の時間。


そんな「ありふれた日常」が続くこと。それだけで良かったのだ。


それだけを願っていたのに、今この状況は、彼女のささやかな日常を壊そうとしていた。


春香は必死に言葉をしぼり出そうと、思考をフル回転させる。


「先輩は、清水が『いい』って言ってるんだ」


更に混乱が深まる。 『いい』ってどういうこと? 私の何が『いい』の?


「そう思ってくれてる先輩に対して、どう思ってるか言えばいいだけなんだよ?」


優しく問いかけているようでいて、その実、逃げ場をふさぐような圧があった。


問い詰めてくる少年以外の男子たちは、この状況を面白がるようにニヤニヤと笑っている。


(どう答えれば、正解なんだろう)


(同級生たちは、なんて言えば納得してくれるの?)


(……なんで私が、こんな目にわなきゃいけないの?)


次々と疑問がき上がってくる。


しびれを切らしたのか、一人の男子が春香の肩をガシッと掴んだ。


「清水だって同じ気持ちだろ? 先輩のこと、好きなんだろ!」


「やめて!」


春香の叫びが、教室中に響き渡った。


「私の気持ちを勝手に決めつけないで! 先輩がどうとか、そんなのどうでもいい! 迷惑なだけ!」


先ほどまでの喧騒けんそうが嘘のように、教室が静まり返る。


その静寂せいじゃくの中で、ガタッという無機質な音が響いた。


男子たちの顔から、一気に血の気が引いていく。


「悠真(ゆうま)……先輩……」


その一言に、春香は息をんだ。 震える体で、彼らの視線の先を追う。


教室の後方、入り口の前に一人の少年が立っていた。


河野悠真(こうの ゆうま)。 今、男子たちが繰り広げていた問いの中心にいた人物。


悠真は肩を上下させ、ひどく息を切らしていた。


「先輩! お、俺たちは先輩のことを思って……」


男子たちが慌てて弁明べんめいしようとする。


悠真は荒れた呼吸を整え、ゆっくりと春香たちに歩み寄った。


「……お前ら、これから部活だろ。早く行け」


「で、でも……」


「行けって言ってるんだ!」


悠真の怒声どせいに、男子たちは逃げ出すように美術室を後にした。


あまりの剣幕けんまくに、春香はひざの力が抜け、ふらりと倒れそうになる。


「清水さん!」


「っ!」


悠真がとっさに支えようと手を伸ばしたが、春香は反射的にその手を振り払っ

てしまった。


「あ、ごめんなさ……い……」


「……迷惑、だったよね」


悠真がうつむきながら、かすれた声で言った。


「え……」


「俺、清水さんに迷惑がられてるなんて、知らなくて……」


「ち、ちが……」


「……もう、こんなことはないから。あいつらにも、ちゃんと言っておくから」


「先輩、話を……」


悠真が顔を上げた。


その表情を見た瞬間、春香は何も言えなくなった。


泣き出しそうなほど、ひどく傷ついた顔をしていた。


「ごめん」


一言だけ残して、悠真は立ち去った。


廊下を駆けていく足音が、どんどん遠ざかっていく。


春香は崩れるように床に座り込んだ。


傷つけてしまった。


あんなに大切にしてくれた人を、あんな言葉で傷つけてしまった。


悠真のあの表情が、頭から離れない。


もう二度と、自分に向けられるあの優しい笑顔を見ることはないのだ。


遠ざかる背中を思い、心の中で「ごめんなさい」と繰り返す。


とめどなくあふれる涙が頬を伝い、床に点々と、黒いシミを作っていった。

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