第7話 循環の理(吐き出し、受け入れ) 

 共鳴の塔の麓、黒い泥の河が渦巻く「忘却の淵」で、ナギは絶体絶命の窮地に立たされていた。


 塔から溢れ出す濃密な不協和ディスコード奔流ほんりゅうが、彼女の盾を砕き、鎧の隙間からその肉体へと侵食していた。


「カイ……来るな! これは、これまでの霧とは違う……!」


 ナギの右腕が、肘のあたりから鈍い灰色の石へと変わり始めていた。剣を握る指先が震え、彼女の誇り高い瞳が絶望に翳る。不協和は彼女の体温を奪い、その「意志」を凍りつかせようとしていた。


 カイは駆け寄り、躊躇ためらうことなくナギの石化しつつある右手を両手で包み込んだ。


「馬鹿野郎、お前まで飲み込まれるぞ!」


「いいんだ。僕の手を……信じて」


 カイの掌に、ナギの苦痛と、死への恐怖がなだれ込んでくる。


 これまでの彼なら、その激痛に耐えかねて手を離していただろう。あるいは、その毒を「消し去ろう」と必死に抗っていたはずだ。


 だが、老師の詩が、今のカイの心には別の意味を持って響いていた。


「……受け入れて、吐き出し。吐き出し、受け入れ」


 循環の型:【呼吸こきゅう


 カイは目を閉じ、ナギの体内に渦巻く不協和な振動を、自分の掌を通して自らの内側へと引き受けた。


 黒い泥のようなエネルギーが、カイの腕を伝って全身を巡る。内臓を焼かれるような痛み。しかし、カイはそれを拒絶しなかった。


 この痛みは、ナギがこれまで戦ってきた歴史だ。


 この苦しみは、世界がこれまでに流してきた涙だ。


 それを「悪いもの」として排除するのではなく、一度自分というフィルターを通し、新しい呼吸へと変える。


「あ……あぁ……」


 カイの全身が銀色の光を放ち始めた。


 彼は吸い込んだ不協和を、自らの鼓動で浄化し、指先から透明な光の粒子として大気中へ解き放っていく。


 吸う息が絶望を、吐く息が希望を。


「受け入れて吐き出し……それを繰り返すことで、僕は育てられている」


 カイは気づいた。


 自分は孤独な救世主ではない。他者の痛みを受け入れることで、自分自身の感性が磨かれ、強くなっているのだ。世界を癒しているようでいて、実はこの世界との交流こそが、自分という生命を育んでいるのだと。


 ナギの腕から灰色の色が引いていく。


 石化が解け、柔らかな肌の温もりが戻ったとき、ナギは信じられないものを見るかのようにカイを見上げた。


「お前……私の痛みまで、自分のものにしたのか?」


「ううん。君の痛みが、僕を強くしてくれたんだ」


 カイは穏やかに微笑んだ。彼の指先からは、もはや火照りや震えは消えていた。


 不協和さえもが呼吸の一部となり、世界という巨大な調律の中に組み込まれていく。


 二人の絆は、もはや契約や義理ではない。


 互いの呼吸を共有する、分かちがたい生命の共鳴へと昇華していた。


 塔の最上階で待つ司祭ゼロ。その「沈黙」を打ち破るための、真の調律の準備が整った。

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