第1話 硝子の円舞曲と黒い霧
この海辺の修道院の窓からは、今日もあの頃と同じ、鉛色の海が見えます。
インクの染みた指でペンを置くと、耳の奥にふと、懐かしい衣擦れの音が蘇るのです。 重たいベルベットが床を擦る音。コルセットがきしむ音。そして、むせ返るような薔薇と麝香(ムスク)の香り。
あれは、夢のように美しく、そして残酷な季節でした。
私が仕えていた「アウレリア帝国」の帝都アウレリアは、かつて世界で最も豪奢な都と謳われていました。
張り巡らされた水路には黄金のゴンドラが行き交い、街中が一年中、大公家の紋章である「深紅の薔薇」で埋め尽くされていました。
港には、大勢の者が異国の珍品を船から引き揚げ、市場では色とりどりのスパイスと、どこか頽廃的な香油の匂いが混ざり合っています。
石畳の道を行き交う人々は、みな最先端の絹を纏い、繁栄の恩恵に酔い痴れていました。
ですが、ふとした瞬間に風が止まると、そこには不気味なほどの「赤」が居座っていることに気づかされます。
建物の屋根を染める深紅の瓦、貴族たちの馬車に刻まれた血のように鮮やかな紋章。
そして何より、この国の心臓部である魔導エンジンから吐き出される、熱を帯びた紅い蒸気。
それは、この繁栄が平穏な積み重ねではなく、他国を蹂躙し、海を血で染めて奪い取った「略奪の香しき果実」であることを、無言のうちに突きつけているようでした。
けれど、没落伯爵家の娘にすぎなかった私には、その赤い色は、熟れすぎた果実が腐る寸前のような、どこか不吉な色に見えてなりませんでした。
私には、見えていたのです。 煌びやかな夜会で踊る貴婦人たちの背中に、笑い合う騎士たちの肩に、薄墨を流したような「黒い霧」が絡みついているのが。
それは死の予兆。滅びの刻印。
私の「糸繰りの魔眼」は、生まれつき、見たくもない運命の影を映し出してしまうのでした。
けれど、あの方――テオドラ王妃様の周りだけは、別でした。 あの方には、死の影さえ寄り付かないほどの、凍てつくような静寂があったのです。
「セシリア、もっときつく締めてちょうだい」
王宮の奥深く、天蓋付きの寝室で、テオドラ様は鏡越しに私を見つめておっしゃいました。
私は躊躇いながら、王妃様のコルセットの紐を握りしめます。
カーテンを閉め切った寝室には、深海を思わせる冷ややかな静寂と、古い香油の匂いが淀んでいました。
わずかに漏れる陽光が、宙を舞う塵を黄金の鱗のように輝かせています。
私の中で、絹の紐がじりじりと音を立てて食い込み、摩擦熱が肌を焼きます。
王妃様の肌に触れることは叶わなくても、この紐一本を隔てて、私は彼女の「生」の輪郭をなぞっている。
そんな、侍女としては許されない、けれど抗いがたい共犯意識が胸を焦がしました。
「これ以上は、お体に障ります。ただでさえ、今日はお顔色が……」
「いいの。息ができないくらいで、ちょうどいいわ」
テオドラ様の声は、氷の鈴のように涼やかで、けれど拒絶のできない響きを含んでいました。
私は意を決し、ぐっと紐を引き絞りました。
細い腰がさらに締め上げられ、華奢な肋骨が悲鳴を上げるのが、紐を通して指先に伝わってきます。
私は知っていました。
テオドラ様がこうしてご自身を拘束するのは、美しさのためなどではないことを。
生まれつき体温を持たないテオドラ様は、こうして肉体を強く締め付け、重たい宝石やドレスの重みを感じていなければ、魂がふわりと肉体から抜け出し、どこか遠くへ消えてしまいそうになるのです。
だから彼女は、自らを「ヴァーミリオン帝国の王妃」という絢爛な鳥籠に、必死に縫い止めていらっしゃるのでした。
「……ありがとう、セシリア」
着替えを終えたテオドラ様が、ふと漏らすように息を吐き、私の手にご自分の手を重ねました。
ひやり、としました。
真夏だというのに、陶器のように白くなめらかなその肌は、井戸の水のように冷たいのです。
その冷たさは、まるで万年雪の下で凍りついたまま、永遠に時を止めた硝子細工のようでした。
血が通っていないのではありません。
あまりにも強大で純粋な魔力に当てられ、人としての温もりを代償に捧げてしまった果ての、神聖なまでの冷酷。
宮中の女官たちは、この冷たさを「あやかしの血」だと噂し、遠巻きにしていました。
けれど私は、その冷たさがたまらなく切なく、愛おしかった。
誰よりも高貴で、誰よりも孤独な手。
私はとっさに、その冷たい手を両手で包み込みました。
指先から伝わる私の熱は、広大な氷河に落とした一滴の雫のように、あまりにも頼りなく、無力に思えました。
それでも、せめてこの瞬間だけは、彼女が「化け物」ではなく、ただ一人の凍えている女性であることを証明したかった。
侍女にあるまじき振る舞いだと知りながら、私の微かな体温を伝えたかったのです。
「私は、ここにおります。テオドラ様」
テオドラ様は少し驚いたように目を見開き、それから、深海の色をした瞳を細めました。
それは、宮廷の誰も見たことのない、少女のような儚い微笑みでした。
「ええ、知っているわ。この広い城で、私の『冷たさ』から逃げ出さなかったのは、あなただけよ」
その時でした。 窓の外から、重々しい鐘の音が響いてきました。 今夜は、父君バルバロッサ大公が主催する「仮面舞踏会」が開かれます。それは、帝国の栄華を世界に見せつけるための、狂おしいほどに豪華な宴。
腹の底まで震わせるようなその音は、帝国の勝利を祝う凱歌であると同時に、滅びへと向かう砂時計がひっくり返された合図のようにも聞こえました。
黄金の刺繍が施された重厚な重みのドレスを纏い、首元で真珠が冷たく鳴るたびに、王妃様の瞳からは「感情」という名の光が、一滴ずつ零れ落ちていく。
私が見たのは、立ち上がる彼女の影が、まるで血を吸ったように黒ずみ、長く、歪に伸びていく光景でした。
それはこの煌びやかな夜が、決してただの宴では終わらないことを告げる不吉な予兆でした。
テオドラ様はふっと表情を消し、再び「氷の聖女」の仮面を被りました。
深紅のベルベットのドレスを翻し、真珠の首飾りを鳴らして立ち上がります。
その背中には、黒い霧こそ見えませんでしたが、代わりに無数の、銀色の鎖のようなものが絡みついているのが見えました。
それは、逃れられない「血の契約」。
「行きましょう、セシリア。今夜もまた、美しく笑わなくてはね」
私は王妃様の後ろ姿に深く頭を下げ、その裾を持ち上げました。
この夜、私が運命の男――銀の仮面の彼に出会うことになるなど、まだ知る由もなく。
運命は、まだ何も知らぬ私を、この深紅の庭へと導きました。
赤き血が大地を濡らし、帝国の栄華が灰に帰すまで、残された時間はあとわずか。
けれど、あのお方の冷たい指先に触れた瞬間、私は悟ったのです。
この孤独を肯定することこそが、私の生涯の呪いであり、唯一の救いとなるのだと。
薔薇の香りが漂うこの庭園で、私たちは滅びへと続く第一歩を、静かに踏み出したのです。
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