第26話 別視点(スパイ):計算外の抵抗

街を見下ろす時計塔の陰に一人の男が潜んでいた。 目立たない灰色の服。その風貌はただの行商人にしか見えないが、鋭い眼光だけが彼が西側の工作員であることを物語っていた。


男の名はザイード。 彼の任務は、このバルガン領を内部から崩壊させることだ。 既に手は打ってある。領主の浪費による財政難、そして数日前に発生したクーデター騒ぎ。民心は離れ、食料流通は滞り、今頃は暴動が起きていてもおかしくないはずだった。


「……おかしい」


ザイードは眼下の市場を見下ろし、焦燥感を含んだ呟きを漏らした。


暴動など起きていなかった。 それどころか市場には整然と列が作られ、少ない物資が効率的に配給されている。 喧嘩が起きそうになれば、どこからともなく薄汚い子供たちが現れて仲裁に入り、壁の賢者様ならこう言うぜ、と謎の言葉を囁いて沈静化させていく。


「なんだ、あのガキどもは……? それに、この異様な統制はなんだ?」


ザイードが事前に入手した情報では、バルガン男爵は無能な浪費家、執事のマリウスは優秀だが融通の利かない堅物のはずだった。 だが、今のこの街の動きはそのどちらでもない。 まるで街全体が一つの巨大な意思によってコントロールされているようだ。


ザイードは懐から羊皮紙を取り出した。そこには彼が流したデマが記されている。水路に毒が撒かれた、食料庫は空だ、といった類のものだ。 しかし、それらのデマは半日と持たずに鎮火していた。 毒の噂は嘘だ、賢者様が検査法を教えてくれた。 食料はまだまだ持つ、賢者様が保存食のレシピを公開した。 街のあちこちで、そんな声が聞こえてくる。


「賢者……? そんな役職、バルガン家の組織図には存在しないはずだ」


ザイードの額に汗が滲む。 想定していた簡単な瓦解は起きない。むしろ圧力をかければかけるほど、この領地は奇妙な弾力を持って跳ね返してくる。 まるで、こちらの攻撃パターンを全て読み切り、最適解を即座に叩き返してくるような不気味さがあった。


「報告書とは違う。……ここには、なにかがいる?」


ザイードは望遠鏡を覗き込んだ。 街の中心、領主の館。その脇にそびえ立つ古びた塔。 政治の中枢である本館ではなく、なぜかその寂れた塔の周りに、頻繁にねずみや子供たちが出入りしているのが見えた。


「執事のマリウスが黒幕だと思っていたが……まさか」


ザイードの背筋に戦慄が走る。 自分が相手にしているのは、表舞台にいる執事ではない。もっと深く、暗い場所に幽閉されている何かなのだ。


「急がなければ」


彼は急ぎ足で時計塔の階段を降り始めた。 当初の予定だった内部崩壊工作は失敗だ。こうなれば西の本隊を呼び寄せる前に、別の手段に切り替えるしかない。


「おい、例の傭兵団に連絡を取れ! ターゲットを変更する!」


路地裏の闇に消えていく工作員。 その動きすらも、塔の上の少女にとっては盤上の駒の動きに過ぎないのかもしれない。だが、駒は時として盤そのものをひっくり返す暴力を孕んでいる。

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