第24話 冷徹な採点と許された抜け道
朝日が、鉄格子と金網で切り取られた四角い影を、部屋の床に落としていた。 エリストールは、インクで汚れた指先を拭うこともなく、机に突っ伏していた。 徹夜だった。 彼女の目の前には、マリウスから渡された膨大な書類の山——領内の備蓄食料リスト、西の国軍の進軍ルート予測、そして暗号化されたスパイからの報告書——が、整理され、書き込みがなされた状態で積まれている。
ガチャリ。
正確な時間に、鉄扉が開いた。 マリウスが入室する。 彼はエリストールの憔悴した顔色には目もくれず、真っ先に机上の書類へと歩み寄った。
「……ほう」
マリウスは数枚の書類を手に取り、眼鏡の位置を直しながら目を通した。 沈黙が続く。 エリストールは心臓が早鐘を打つのを感じていた。 もし、彼の基準を満たしていなければ、ガエルたちが危ない。
「食料配分は、腐敗率を計算に入れて一割減で算出。……西の進軍ルートは、過去の天候データから『湿地帯を避ける』と予測、ですか」
マリウスは書類をテーブルに戻し、エリストールを見下ろした。 その表情は相変わらず能面のようだったが、声のトーンがわずかに変わっていた。
「合格です。……私の部下や、城の文官たちが三日かけても出せなかった答えを、一晩で導き出すとは」
エリストールは大きく安堵の息を吐いた。
「では、約束通り……」
「ええ。貴女の価値は証明されました。当面の間、貴女を廃棄することは合理的ではないと判断します」
マリウスは懐から懐中時計を取り出した。
「さて、労働には対価が必要です。何か望みはありますか? ……もっとも、塔からの解放以外でですが」
エリストールは、乾いた唇を舐めた。 言うなら今しかない。
「……窓の横の壁。あそこの修繕を、しないでほしいの」
「修繕?」
マリウスはわざとらしく首を傾げ、壁際へと歩いた。 そして、エリストールが昨夜、小麦粉と煤で必死にカモフラージュした偽の目地の前で立ち止まった。
「これのことですか?」
彼は細い指先で、漆喰をトン、と軽く突いた。 ボロリと塊が崩れ落ち、子供の拳ほどの穴が露わになる。 穴の奥からは、ひんやりとした外気が流れ込んだ。
「あ……」
エリストールは言葉を失った。 彼は知っていたのだ。 昨日の工事の時点で、あるいはもっと前から。
「お嬢様。この屋敷の管理者が、外壁の穴一つ把握していないとお思いですか? ……昨日は、貴女がどう動くか見るために、あえて無視したのです」
マリウスはハンカチで指を拭きながら、冷ややかに告げた。 完全に、彼の掌の上だったのだ。 エリストールは屈辱と恐怖で拳を握りしめた。
「……塞ぐの?」
「いいえ。それが貴女の望みなのでしょう?」
マリウスは踵を返し、意外な言葉を口にした。
「孤独は思考を鈍らせます。優秀な賢者には、適切な冷却とガス抜きが必要です。……ペットのねずみと戯れるくらいの自由は認めましょう」
「え……?」
「ただし」
マリウスの声が低くなり、部屋の空気が凍りついた。
「この穴を通して脱走や私への反逆を企てた形跡が見えた瞬間、ねずみごと穴をコンクリートで埋めます。……よろしいですね?」
エリストールはコクコクと頷いた。 選択肢などない。 それでも、スレートの通り道——ガエルたちとの絆——が、マリウス公認の下で守られたことは、不幸中の幸いだった。
「それと、もう一つ命令があります」
マリウスは部屋を出る間際に、振り返った。
「今後も、その穴を通じて街の人々の相談に乗り続けなさい」
「……どういうこと?」
「旦那様の浪費と戦争の気配で、領民の不安は頂点に達しています。治安が悪化すれば、私の管理コストが増える。……貴女が顔の見えない賢者として民の悩みを解決し、ガス抜きをしてくれるなら、私にとっても好都合なのです」
マリウスは口元に薄い笑みを浮かべた。
「せいぜい、その才覚を民のために使いなさい。私が指示を出すまでは」
鉄扉が重い音を立てて閉ざされた。 エリストールはその場にへたり込んだ。 助かった。 だが、それはマリウスの道具として生かされることが決まった瞬間でもあった。
壁の穴から、心配そうなスレートが顔を出した。 エリストールは震える手で、小さな相棒の頭を撫でた。
「……聞いた、スレート? 私たち、許されたわ」
許された。 けれど、もう以前のような秘密の冒険ではない。 これからは、あの冷徹な執事の監視下で、それでも人々のために知恵を絞り続けなければならない。
「でも、負けないわ。……いつか必ず、たくらみを破ってみせる」
エリストールは、机上のペンを強く握りしめた。 こうして、塔の中に幽閉された令嬢と、彼女の手足となるねずみ、そして街の運び屋たちによる、長く静かな潜伏生活が始まったのである。
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