第5話 死神は聖女のわがままに勝てない

 王都の追っ手を振り切り、隣国の国境に近い商業都市「リンド」に辿り着いた頃には、朝焼けが街の赤い屋根を鮮やかに染め上げていた。


 この街は運河が網の目のように走り、活気にあふれている。指名手配犯である二人にとって、人の多い雑踏はかえって身を隠すのに好都合だった。

「……おい、いつまで寝てる。着いたぞ」

 ジンの腕の中で、リアナがようやくパチパチと瞬きをした。


 宿場町での激闘から数時間、彼女はずっとジンの胸に顔を埋めたまま眠り続けていた。


​「あ……。すみません、ジン様。私、また……」

「気にするな。魔力の使いすぎだ。……それより、さっさと歩け。重くはないが、目立つ」

 ジンは無造作にリアナを地面に下ろした。

 リアナは名残惜しそうにジンの服の袖を一度だけぎゅっと握り、それから自分の足でしっかりと立った。


 その瞳には、昨夜までの絶望の影はなく、朝の光を反射してキラキラと輝いている。

「わあ……。綺麗な街ですね。私、神殿の外にこんなに素敵な場所があるなんて、知りませんでした」

「観光に来たわけじゃない。……まずは服だ。そのボロ布をどうにかしないと、一瞬で聖女だとバレる」

 リアナが纏っているのは、処刑場で着せられた囚人のような白い衣。泥と返り血で汚れ、ところどころ破れている。


 ジンは彼女の手を引き、路地裏にある古着屋へと飛び込んだ。

「一番丈夫で、目立たない服を。それと、こいつの顔を隠せる深めのフード付きの外套だ」


 ジンが金貨を放り投げると、恰幅のいい店主は目を丸くして、すぐに奥からいくつか服を持ってきた。

 数分後。

 試着室から出てきたリアナを見て、ジンはわずかに眉を寄せた。

 選ばれたのは、深緑色のチュニックに、動きやすい革のズボン。そして上から羽織る落ち着いた茶色のケープ。聖女の神々しさは消えたが、代わりに「少し育ちのいい町娘」といった風情になった。

 

「……どう、でしょうか。似合っていませんか?」


 不安そうに首を傾げるリアナ。


 ジンは、彼女の首元から覗く白い肌と、ズボンによって強調された足のラインを、無意識に一度だけ直視して——すぐに顔を逸らした。

「……普通だ。少なくとも、死に損ないの聖女には見えない。行くぞ、次は飯だ」

「あ……はい!」

 リアナは気づいていない。ジンの耳の付け根が、ほんの少しだけ赤くなっていたことに。

​ 運河沿いのテラス席があるカフェ。


 ジンは周囲に視線を走らせ、刺客がいないことを確認してから、テーブルに山盛りの料理を並べさせた。


 焼き立てのパンに、たっぷりの蜂蜜を添えたベリーのタルト。ハーブで煮込んだ鶏肉に、果実水。

「……ジン様、これ、全部食べていいのですか?」

「残すなよ。食わないと、次の戦いで足手まといになる」

 リアナはおそるおそるパンをちぎり、口に運んだ。


 その瞬間、彼女の表情がパッと華やぐ。

「美味しい……! こんなに甘くて、温かくて……」


 幸せそうに頬張るリアナ。彼女の口元に、蜂蜜が少しだけついた。

 ジンは無言で指を伸ばし、その蜂蜜を拭い取る。

「……っ」


 リアナの動きが止まる。ジンの指先が唇に触れた瞬間、心臓が跳ねるような音が聞こえた気がした。


 ジンは相変わらず不愛想な顔で、拭った指をナプキンで拭いた。

「汚いぞ。……ほら、これも食え。肉も食べないと血にならない」

「……ジン様は、食べないのですか?」

「俺はいい。暗殺者は、腹が膨れすぎると動きが鈍る」

​「嫌です」


​ リアナがはっきりと拒絶した。

 彼女はフォークで小さく切ったタルトを、ジンの口元へと差し出す。

「半分こ、しましょう? 一人で食べるよりも、二人で食べる方が……きっと美味しいですから。これは、私のお願いです」

 ジンの眉間に深い皺が寄る。

 暗殺者の矜持。警戒心。毒殺への懸念。

 それらすべてが、リアナの真っ直ぐな瞳の前に霧散していく。

「……一口だけだ」


 ジンは観念したように、差し出されたタルトを口に含んだ。


 暴力と死の中に生きてきた彼にとって、その甘さは毒よりも劇的に脳を揺さぶった。

「……甘すぎる」

「ふふ、そうですね。でも、とっても幸せな味です」


​ 平和な、昼下がりの一幕。

 だが、そんな時間は長くは続かない。

​ ふと、街の喧騒が不自然に遠のいた。


 ジンは反射的にリアナの腕を掴み、椅子から引き寄せる。

「……下がれ。リアナ」


 ジンの声が、日常のそれから「死神」のそれに切り替わる。

 テラス席の向かい側。雑踏の中から、一人の女が歩み寄ってきた。


 全身を白銀のプレートアーマーで固め、背中には十字の紋章が入った巨大な盾。


 王国の誇る「三聖騎士」の一人、不落の盾を持つ女騎士・クラリス。

「見つけたわ。死体泥棒と、堕ちた聖女様」


 クラリスの声には、バルカスのような卑劣さも、カイルのような傲慢さもなかった。あるのは、純粋な信念に基づいた「冷徹な殺意」だけだ。

「クラリス様……!」


 リアナの顔が強張る。かつて、神殿で自分の警護を勤めていた、唯一信頼していた騎士。


​「リアナ様、なぜその男と行くのですか。闇に染まったというのなら、私がこの盾であなたを砕き、その魂を神の元へ送って差し上げます。それが、私の愛です」

 クラリスが盾を地面に叩きつけると、衝撃波でテラスのテーブルが吹き飛んだ。

 ジンはリアナを背中に庇い、短剣を抜く。

「……愛ね。どいつもこいつも、独りよがりな言葉ばっかりだ」

 ジンはリアナの方を振り返らず、前だけを見据えて告げた。


「リアナ、デザートの続きは後だ。……その女の『愛』とやらを、俺が全部叩き折ってやる」

​「……はい! ジン様!」

 商業都市の穏やかな空気が、一瞬にして戦場の熱気へと塗り替えられていく。


 死神と聖女。二人の逃亡劇は、新たな強敵の出現によって、より激しく加速していくことになる。

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