異世界ロスカット~トランプ砲の追証で死んだ派遣社員、異世界で経済の女王になる~

タピ山おか

第1話 二子玉川の底値で、私は死んだ


叩きつけるような雨が、安物のビニール傘を激しく打ち鳴らしていた。


台風19号の影響で、二子玉川の河川敷は地獄のような様相を呈している。濁流はうねり、堤防を飲み込まんとする勢いで増水していた。


「……終わった。全部、終わったんだわ」


カトリーヌ(当時はまだ、しがない非正規雇用の佐藤香織だった)は、防水機能だけが頼りのスマートフォンを、震える手で握りしめていた。


画面に表示されているのは、証券会社の取引アプリ。そこに並ぶ数字は、もはや現実味を感じさせないほどの鮮やかな『赤』一色だった。


信用取引。


それが彼女の人生を賭けた、最後の大勝負だった。


30代、手取り18万の派遣社員。

婚活市場では『30代』『非正規』というだけで検索条件から弾かれる日々。

起死回生を狙って手を出した株の世界で、彼女は『ある大統領』の発言という、予測不能な暴落に直面した。


数千万円のマイナス。


持たざる者が、背伸びをしてレバレッジをかけた結果がこれだ。

スマホの画面に非情な通知が届く。

『追証が発生しました。期日までに入金が確認できない場合、強制決済を行います』


「強制決済……私の人生、ロスカットされるんだ」


笑いが込み上げてきた。

風に煽られ、傘がひっくり返る。ずぶ濡れになった彼女は、暗闇の中で激しく波打つ多摩川の濁流を見つめた。


その時、足元の地盤が緩んだ。


「あ――」


悲鳴を上げる間もなかった。

浮遊感。そして、氷のように冷たい水が全身を包み込む。

荒れ狂う水流に揉まれながら、意識が急速に遠のいていく。


(……バカね、私。トランプの発言で底を打った今こそ、買いに向かうべきだったのに……。次に投資をするなら……次は、絶対に底値で買って、高値で売ってやるんだから……)


派遣社員兼投資家としてのあまりに業の深い未練を最期に、彼女の意識は深い闇へと沈んでいった……。



――どれくらいの時間が経っただろうか。



「……さま……。奥様、お目覚めですか?」


耳元で、鈴を転がすような心地よい声が聞こえる。


頬に触れるのは、カシミヤのように柔らかなシーツの感触。鼻をくすぐるのは、雨の匂いではなく、上品なアロマと焼きたてのパンの香り。

重い瞼を押し上げる。

視界に飛び込んできたのは、高さ数メートルはあるかという豪華な天蓋付きのベッド。

そして、繊細なレースがあしらわれたシルクの寝具だった。


「……え? 二子玉川は?」


自分の声に驚いた。


ひどく高く、鈴を振るような美しい響き。

目の前には、絵画から抜け出してきたような可愛らしいメイド服を着た少女が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。


「奥様、うなされていらっしゃいましたよ。お水をお持ちしましょうか?」


奥様?


カトリーヌは震える手で、枕元にあった銀の手鏡を手に取った。

そこに映っていたのは――。

透き通るような白い肌。

夜空を溶かし込んだような深い紺色の瞳。

そして、陽光を浴びた金糸のような、20代前半の瑞々しい美貌。


「…………嘘。嘘でしょ?」


鏡を落としそうになるほどの絶世の美女だ。

指先を確認する。ささくれだらけだった派遣社員の手ではなく、白魚のような滑らかな指。

部屋を見渡せば、巨大なシャンデリア、ルネサンス風の絵画、手入れの行き届いた広大な薔薇の庭園。


夢じゃない。


これは、いわゆる『異世界転生』というやつだ。

しかも、どう見ても金持ちの貴族。


「やった……勝った……!」


カトリーヌは思わずベッドの上で飛び上がってガッツポーズを決めた。

非正規雇用も、婚活も、借金も、全部濁流に流されたのだ。

ここには大きなお屋敷がある。尽くしてくれる使用人がいる。

働かなくてもいい、輝かしい未来が約束されている!


「これこそ、人生のV字回復! 底値からの爆上げじゃない!」


歓喜に震える彼女の元へ、コンコンと控えめな、しかしどこか冷ややかなノックの音が響いた。


「奥様、失礼いたします。執事のハンスでございます」


現れたのは、眼鏡の奥で鋭い瞳を光らせる銀髪の執事だった。

彼の腕には、不自然なほど分厚い束になった書類が抱えられていた。


「本日は月初めにございますれば、定例の『ご報告』に参りました」

そのハンスの事務的な口調を聞いた瞬間。


カトリーヌの脳内で、前世の『派遣社員兼投資家としての防衛本能』が、けたたましく警報を鳴らし始めた。


~続く~

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る