第2話 ウフィツィ美術館での事件
街を横断するアルノ川沿いにひっそりと佇む
イタリアでは珍しくないことだが、この憲兵署も何百年も昔に建てられた古い石造りの建物を引き継ぐ形で使用されているため、室内はどこも重厚な趣を備えている。ヴァレリオは禿げかけたテンペラ画の残るロッカールームで黒い制服に着替え、いつものように執務室へ向かおうとした。
ところが、部屋に足を踏み入れる前に、職務上のパートナーであるジョナタ・マルテッロに廊下へと押し戻されてしまった。
「おはよう、ジョナタ」
ヴァレリオは頭ひとつ分以上も下にあるジョナタの旋毛を見下ろしながら首を傾げた。
「なんだか騒がしいね。何かあった?」
ジョナタは三十歳前後、少なくともヴァレリオより少し年上なだけのはずだが、常に顔を顰めているせいで、既にベテランの風格を醸し出している。今朝のジョナタはいつも以上の顰め面をしていた。
「何かあったどころじゃない。よりにもよってオレたちの仕事だぜ、ヴァレリー」
「俺たちの? まさか、こんな朝っぱらから美術品泥棒が?」
言われてみれば、すれ違う同僚たちの視線が物言いたげだ。気の毒がられているようにすら見える。
ヴァレリオとジョナタはイタリア
密輸や密売は組織だって行われることが多いため、地味で緻密な捜査が常である。よって、こんな風に朝から呼び出されるとすれば、盗難の可能性が最も高いだろうとヴァレリオは考えたのだった。
しかし、ジョナタは暗い顔で首を振る。
「もっと悪いさ」
ジョナタはそれ以上の質問を許さず、ヴァレリオを憲兵署の外へ連れ出した。
ランニング中の一団が通り過ぎるのを待ち、ふたりはアルノ川沿いを右手に曲がった。アルノ川は今朝も豊富な水量を湛えており、朝靄の中にフィレンツェのランドマークであるヴェッキオ橋が見えていた。
「どこへ行くんだ?」
ヴァレリオはマントの前を掻き合わせながら訊ねた。カラビニエリの伝統的な制服は、冬は長いマントを羽織る決まりになっている。見た目には華やかで人気があるけれど、実際の機能性という面で言えば、袖があった方がいいとヴァレリオは常々考えていた。
ジョナタは唸るように口の中で答えた。
「ウフィツィ美術館」
「ウフィツィ?」
ヴァレリオが見上げると、ウフィツィ美術館はもうふたりのすぐ目の前にあった。ちょうど憲兵署の真後ろにあたる。
ウフィツィ美術館はコーニスと呼ばれる構造物によってはっきりと三層に区分された、白と緑のルネサンス様式の建物だ。一階の回廊部分を高く取り、アルノ川から北に向かって吹き抜けになっている。回廊の柱には偉人たちの彫像が飾られており、昼になれば観光客や彼らを目当てとする商人たちで賑わうけれど、今朝はまだひっそりとしていた。
ヴァレリオはスマートフォンを取り出し、時刻を確認した。
「八時四十分か。もう開館しているね?」
「ああ。今朝は八時からだった」
入場口には観光客の待機列ができていた。チケットを握って怪訝そうにしている者が多いのは、詳しい事情が説明されないまま待たされているからだろう。イタリアではそんなことは日常茶飯事なので、それについてスタッフに文句を言う者はまだ現れていないようだが、それも時間の問題である。
ふたりが傍を通り過ぎると、暇を持て余した観光客のカメラが一斉にこちらを向いた。カラビニエリの制服はとにかく目立つ。黒いジャケットに白いバンダリアをたすき掛けにし、下は赤い側章の入った黒いスラックス。加えてヴァレリオの二メートル近い長身と、正反対にずんぐり小柄なジョナタという凸凹コンビであるから、ふたりはいつでも人目を引いてしまう。
「ヴァレリー、帽子が曲がってるぞ」
「おっと」
さり気なく帽子を深く被り直し、観光客から顔を隠す。
ふたりが美術館の入り口に近づくと、スーツ姿の男性が待ち構えていた。彼は何も言わず、ふたりをカメラから守るように扉へと促した。
館内に入ってすぐ、ジョナタは身分証を提示した。
「カラビニエリ美術遺産保護部隊のジョナタ・マルテッロ専門捜査官です。同じく、こちらはヴァレリオ・ジッリ捜査官」
ジョナタに倣い、ヴァレリオも身分証を見せるが、スタッフはチラリと一瞥しただけだった。
「お待ちしておりました。早速ですが、どうぞこちらへ」
奥へと通される。手荷物検査場のスタッフたちが不安そうにふたりを見送った。
エレベーターで一階分上がり、案内されたのは十七世紀の絵画が並ぶ、ゾーンEの展示室だった。通常の順路では最後に訪れるエリアとなる。真っ赤に塗られた展示室の壁が絵画の陰影を強調し、その色彩を鮮やかに浮き上がらせていた。
E7、E6と展示室を通過したところで、ヴァレリオは低く囁いた。
「カラヴァッジョだ」
豊かな黒髪を蓄えた少年が、酒の神に扮して見る者を誘惑する。ミケランジェロ・メリージ、通称カラヴァッジョによる有名な作品〈バッカス〉が展示されていた。
少年は葡萄酒の入った杯を差し出しており、ふっくらと肉のついた頬を仄かに赤く染めている。見ているだけで心地よい酩酊感が伝わってくるようであり、その姿はどこか官能的ですらあった。
見惚れたまま歩みを続けたヴァレリオは、次の部屋に差し掛かった途端にギクリと身を縮めた。
視界に飛び込んできたのは、メデューサの生首。円形の盾の表に描かれたというそれは、神話の怪物が今まさに退治され、絶命する瞬間を切り取っていた。
メデューサは目を見開き、大きく口を開けて絶叫している。首の切断面からは血液が滴り落ち、縦横無尽に画面を這い回る蛇たちと強烈なコントラストを描いていた。同じくカラヴァッジョの作品だ。
「〈メデューサの首〉か……。見事な絵だとは思うけど、ひとりきりでは鑑賞したくない作品だね」
「ええ、まったく」
ヴァレリオの呟きに答えたのは、ジョナタではなく美術館のスタッフだった。
「しかし、これからお見せするものは、それ以上の代物ですよ」
彼は続くE2展示室の前で足を止め、ふたりを振り返っていた。
「ここが問題の展示室です。覚悟はよろしいでしょうか」
ジョナタが先に頷いてしまったので、何の覚悟かと問うことは憚られた。いや、あえて訊ねなくてもわかる。得体の知れない生臭さがここまで漂ってきていた。
足を踏み入れたその部屋は、これまでの展示室より少し広くなっていた。正面に窓が二つある。どちらも鎧戸が半分閉ざされており、室内は薄暗い。壁紙はこれまでと同じ赤。血のような赤色だ。
美術館のスタッフ、警備員、その他にも何人かの関係者が居合わせていたが、皆一様にそちらを見ることを拒むように、窓の方を向いていた。
「……あちらです」
スタッフが背後を指し示す。
先に振り返ったジョナタが細く息を吸い込んだ。ヴァレリオは彼の顔に確かな恐怖の色を見て、背筋がじっとりと汗ばむのを感じた。
振り返る。
まず目に入ったのは、グイド・レーニによる〈ゴリアテの首を持つダヴィデ〉。
ダヴィデの美しい横顔に見入る前に、彼がその手に掴んだ巨人の首に目が行ってしまう。ゴリアテの死顔は安らかともいえる表情で、投石による額の流血すら血生臭さを感じさせない。この絵には全体的に熱がなかった。冷ややかなダヴィデの眼差しと同じく、冷たい空気を湛えている。
だが、さらに首を回し続けると。
真後ろの壁には、その冷ややかさとあまりに対照的な絵があった。
一目で、激しい熱を感じた。
情熱を。憎悪を。燃え滾る感情が絵の中から迸っている。
黒い背景の中に浮かび上がるのは、凄惨な殺人現場の光景だ。そこにはふたりの女とひとりの男が描かれている。女はユディト、そしてその侍女。ユディトは侍女とふたり掛かりで男を押さえ付けている。彼女は剣を振り下ろし、男の首を斬り落とさんとしている。
「〈ホロフェルネスの首を斬るユディト〉……?」
ヴァレリオが囁くと、傍らでジョナタが頷いた。
「旧約聖書、『ユディト記』のエピソードをモチーフにした作品だな」
「確かこれは、ユディトという女性が敵の将軍を討ち取って町を救った、という物語だよね?」
「ああ、そうだ」
ホロフェルネスの首を斬るユディトという題材は、数あるキリスト教絵画の題材の中で最も凄惨なもののうちのひとつである。
町が敵の軍隊に包囲され、降伏を余儀なくされていたところ、ユディトが侍女と共に敵の陣営に赴いた。彼女は敵軍の司令官であるホロフェルネスを誘惑して酒を飲ませ、彼が泥酔している間にその首を斬って殺害する。この絵画は、まさしくその瞬間を描いた作品である。
「でもなんか……この絵、変じゃない?」
ヴァレリオは目の前の絵画に目を凝らした。
髭を蓄えた大柄な男性が、抵抗空しく断末魔の叫びを上げている。片手は侍女に押さえられ、もう片手は彼女を押し退けようと突き出されている。ユディトによって斬り付けられた首からは血液が幾筋も飛び散り、寝台を赤く染めている――……。
そんな光景が描かれているはずだった。
ところが、絵画を見た瞬間、強烈な違和感が見る者を襲った。
アルテミジア・ジェンティレスキによって描かれたホロフェルネスは、確かに黒い髭があったはずだ。豊かな黒髪と髭を蓄えた、屈強な男性のはずなのだ。
しかし、目の前の絵に描かれた男性には髭がない。それどころか、水色のワイシャツを着ている。
ヴァレリオは呆然とした。だが、何度目を擦ってみても、絵画の中で殺されているのは水色のワイシャツと紺のスーツを着た茶髪の男性だ。十七世紀の絵画には到底相応しくない、現代的な服装である。
「どういうことですか?」
ヴァレリオは困惑した。ジョナタは考え込むように口を押えたまま黙り込んでいる。蒼い顔をしているのは美術館の関係者だけだ。
「まさか、誰かが悪戯でこんな風に描き替えたんですか?」
誰も答えない。
ぽたり、と水の垂れる音がした。絵画から赤い液体が滴っていた。
「そうですよね。普通はそう思いますよね……。あなた方はガストーニ・パチーノを知りませんから」
ひとりの女性が進み出る。彼女は金の髪を耳に掛けると、自身のスマートフォンを操作して、ふたりの方へ差し出した。
「ご覧になってください。彼が、ガストーニ・パチーノです」
表示されていたのはなんてことはない記念写真だ。だが、ヴァレリオは息を呑む。
女性ふたりと親しげに肩を組む、中年の男性。肩まで伸ばした茶色い髪を緩く掻き上げている。それは紛れもなく、目の前の絵画に描かれている男性だった。
「ガストーニはこの美術館の主任学芸員です。今朝は出勤していませんでしたが、先ほどこのような姿で発見されました」
「ま、待ってください。このような姿でって……」
ヴァレリオは困惑した。あたかもこの絵画に描かれているのが、ガストーニ本人であるかのような言い方ではないか。
その疑問を察したのだろう。女性は絵画の前に歩み寄った。
「もっと近くでご覧になってください。見ればおわかりになると思います」
ジョナタが目で促す。ヴァレリオは恐る恐る絵画へと近づいた。
濃厚な血の臭いに混じり、ヴァレリオは微かな硫黄の臭いを嗅ぎ分けた。違和感と共に、本能が警鐘を鳴らす――「思い出せ。お前はこの感覚を知っているぞ」と。
絵画の中で、ユディトは右手で剣を、左手で男の頭髪を掴んでいる。彼女の指の間から、掴んだ髪の房が跳ねるように飛び出していた。それが現実に絵画の表面から飛び出していることに気が付いた時、ヴァレリオは驚愕で大きく身を引いた。
「そんなまさか……っ」
言葉にならない。
ヴァレリオは答えを求めて女性を振り返った。彼女は言った。
「ええ。信じられないことですが、どうやらガストーニは絵画の中に取り込まれてしまったようなのです」
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